No.20「蝶妖Ⅰ」
それは今より少し、昔の話。
人間の男との間に子を宿した、ある女の妖がいた。
『ね~ね~北王~』
木々の緑が鮮やかな色をつけ、雲間に青い空が広がる平和な光景。
指先に蝶々を止まらせて腰を降ろす若き日の北王に、左側にだけ蝶のような美しい翅と触覚を持ち、肩に幾何学模様の刻まれた女の妖が、にっこりと微笑みながら話しかけた。
妖の声は人間とは少し違って、普通の人間には少し不気味な響きを含んでいるが、楽しそうに話す姿はとても無邪気で可愛らしい。
それが、蟲人の妖である辛の母だった。
『人間って名前をつけるのでしょ? そこで! 私この子の名前決めたの……!』
北王は頬杖をついて、呆れ半分、愛しさ半分といった様子で彼女の話に耳を傾けた。
『辛!』
思いがけない命名に、思わず北王は口を挟まずにはいられなくなってしまった。
「何でそれ? 辛いって書くんですけど!?」
『え~だって何か響きが可愛いし。此処、玖の国の能力者集団に昔居たんでしょ? 十干だっけ? あれと同じ名前の~そんな人たちに肖ろうかなって!』
止められそうになった妖は、身振り手振りを交えて一生懸命説得を試みた。
『それに幸せって字に似てる!』
「一本足りませんが」
『じゃあ……幸せになる為の最後の一本を自分で見つけて幸せになりなさいっていう……呪いを込める……!』
どうしてもこの名前に拘りたいらしく、彼女は即興でこじつけを考えだした。それは願いのようでもあり、生まれてくる子への枷のようでもあった。
「呪いって……まあ名前は呪いみたいなもんだが……ってか本当にいるんですか? それ……」
北王が改めて妖の腹あたりを眺めて言った。まだ腹は大きくなってもおらず、外見からはよく分からなかった。
『うーん、妙に人っぽい感じはあるし……周りの妖も何かを感じて私を避けてるから、いるんじゃないの?』
そう言って妖は、愛おしそうに自分の平らな腹を撫でた。
「そうか……そうか……パパって呼ばれるようになるのか……」
北王はしばらく考えた後、この世の終わりのような暗い顔でため息をついた。
「それは絶対に嫌だ」
『え?』
思いがけない反応に驚くも、パパと呼ばれなければいいの? と、妖は小首を傾げて考えた。家族の呼び名ってどんなものがあったっけ。そして自分と対になる、右側に翅を持つ妖の片割れ――妹との会話を思い浮かべた。
『あねさま! 何故! あのような人間の子を! もう……! あねさまなんて知らない!』
つい最近の会話だ。あの子は肩に少し届くくらいの髪を揺らし、涙目で一生懸命訴えていた。
『……私の片割れがあねさまって呼んでくるし……父さま母さま呼びにさせましょ?』
「そういう問題じゃない」
声を張り上げる北王をよそに、妖は長く豊かな青色の髪を風に靡かせて微笑んだ。
『いいじゃない。絶対可愛いって!』
◇
北王は後に、その妖とのことをこう振り返る。
あいつは人間を操って食べる妖で、あいつの能力の効かなかったオレに興味が湧いたらしい、と。
子どもができて嬉しそうにしていたのだったが、それからしばらくして妖はその顔から笑みが消え、力を失ったように木にもたれて座りこむようになった。
命を育むはずの体が、日に日に衰弱していく。
「おい、どうした?」
北王が心配して妖の顔を覗きこむと、妖はか細い声で答えた。
『……流石に限界かも……』
今までに見たことのないほどやつれた妖は、苦しそうに言った。
『……何も食べてないの……食べられない……“拒まれる”……』
その意味を、北王はすぐに理解した。
「人間以外の物は食べられないのか?」
『さあ……』
蟲人は人を惑わし人を食う妖。しかし今お腹にいる子どもには、北王の人間の血が混じっている。
母体の本能と、胎児の性質が拒絶反応を起こしているのか。
「少し待ってろ! 何か探してくる!」
北王は妖をその場に残し、慌てて食べられそうなものを探しに走った。
妖は木の幹に体重を預け北王の帰りを待ったが、しばらくすると北王とは違う者の気配を感じ取った。
人間が近づいている。ここを離れないと。
妖は重たい身をなんとか起こし、ふらつく体で歩き出した。
◇
右肩に翅を持つ、辛の母の片割れ――妹の妖は、自らの言動を悔いていた。
ああ……あねさま、何故人の子を……。でも、だからって私もあねさまを避けてしまった……。あねさまのところに行って謝ろう。
『あねさま……』
あねさまならきっといつものような優しい顔で許してくれる。そう信じて小走りで片割れのもとへ向かった。
しばらく行くと、見慣れた美しい青髪が揺れる、片割れの後ろ姿が見えた。
『あねさま!』
その姿が見えるだけで嬉しくて声が弾む。しかしなぜだか片割れは呼んでも振り向きもしてくれない。
おかしい、と思った直後。
突然、それは目の前で起こった。
片割れの首から、噴水のように大量の血が吹き出したかと思えば、首から上の頭部と左腕がごとりと落ち、その場に大の字に倒れた。
『あねさま……?』
急な出来事に頭が回らず、現実を飲み込めずにいると、草むらから複数の男の声が聞こえた。
「おい! まだ妖がいるじゃねーか! 加護は外すなよ、操られるぞ!」
人間。
驚き、妖は走って逃げだした。背後から人間が追ってくる怒号が聞こえたが、目にもくれず懸命に駆けた。
「待て!」
おのれ人間め。よくもあねさまを。
その瞳に、人間への昏い憎悪を焼き付けて。
◇
物言わぬ亡骸となった妖の腹。
そこに宿っていた命は、そのとき異変を感じ取っていた。
なに? つめたい。どうして。どうしたの。なんで。
身に纏う母の体液が、羊水が、急速に冷えていく。
いつもなら聞こえる心臓の音も、楽し気な声も聞こえない。
守られていたはずの揺り籠が、死の棺へと変わる。
真っ暗な世界が急に恐ろしくなり、片手を伸ばした。
いやだ。まだ。でたい。そとにでたい。いやだ、いやだ。
死にたくない。
本能が、そう叫んでいる。生きるために。ここから出るために。
胎児は、自らの血に眠る力を無意識に発現させた。
◇
妖の元に戻ってきた北王は、凄惨な現場を見て呆然と立ち尽くした。
地面に広がる赤と、変わり果てた愛する者の姿。
一緒に居るべきだった。
何も食べられず弱り切っていた妖を置いて行ってはいけなかった。
後悔が胸を引き裂く。
血まみれで頭部もなくなった妖のそばに膝まづくと、妖の遺体に不思議なことが起こった。
まだそんなに大きくなかった妖の腹が不自然に膨らみはじめ、何かが内側から暴れるように蠢いたかと思うと、今度は勢いよく腹が裂け、中から血が噴き出した。
中から鋭利な、先の尖った金属のようなものが飛び出し、それが妖の腹を内側から食い破るように裂いたのだと分かった。
そしてあとに続くように、ぬるりとした幼子の小さな手が姿を現した。
「……お前は」
驚きながらも、北王はその血まみれの小さな手をきゅっと包むように握った。
『北王くん──……何故人型の妖、蟲人っていると思う?』
かつて、北王の昔馴染みで此の国と同じ名前を冠する“玖”という名前の男に言われたことがある。
『人と交わる為だよ』
母の骸を苗床にして、その子は生まれた。
「……辛」
北王は妖が残したその赤ん坊の名を、震える声で呟いた。
するとその半妖の子は、泣きもせず、確かめるように小さな声で呟いた。
「と、う、さ、ま?」




