ミダス王の憂い(その2)
「私はね――――欲しいと思ったものを、全部壊してしまうのよ」
ハグロの唇が動くと、そんな言葉が紡がれる。
「壊す?」
「そう、破壊。手にしたものすべて、手に入れたものすべて、触れたものすべて、望んだものすべて、そして欲しがったものすべて、私の手の中で壊れてしまうの」
ハグロはそっと手を伸ばし、まるで指にはめられた指輪でも見るかのような眼差しを自分の手に向ける。
「だから、今回もまた同じ。陽気な二人と、陽気なファミリー。私の生まれ育った陰気で堅苦しくて時代錯誤の廓と違った、血の通った面白おかしいファミリー。――――少しは、楽しめると思ったんだけどね。でも、やっぱり同じ。全部壊しちゃう」
その苦悩は、ノリトには理解不能以外の何ものでもなかった。恐らく、隣のあかねもそうだろう。手にしたものすべてを壊してしまう、傾城の化外。それがハグロの正体だ。有り余る才能と能力と美貌。そのエネルギーは、否応なしに彼女が抱きかかえたものを破壊してしまうのだろう。
「…………ええっと、なんだっけ?」
いきなり隣のあかねが、ノリトにそう尋ねる。
「は?」
「ほら、あれ。あれなんだっけ。思い出せないんだよね~」
「アホ。俺はお前じゃない。『あれ』って言われて分かるかバカが」
「知ってるってば! あ~もうなんだっけかな~。えーとえーとえーと…………」
何やらあかねが、頭から湯気が出そうな勢いでうんうん唸っている。打てば響くようなハグロとは大違いだ。
「何かしら? ヒントを出してみて?」
七転八倒するあかねを見かねたのか、ハグロが助け船を出す。
「えーとですね、どこかの昔の王様の話なんですよ。なんか神様に頼んで、触ったものを全部金に変えちゃう力を手に入れたって…………」
「ミダス王」
あかねのヒントを受けて、ハグロは即答する。
「そうでしたっけ?」
正解なのだが、いかんせんあかねは記憶力がない。肝心のあかねの方が首を傾げている始末だ。
「ええ、多分そうよ。酒の神であるディオニュソスから、すべてのものを黄金に変える力を授かりつつも、やがてそれを忌んだ王の話ね。有名なギリシャ神話よ」
ハグロの言う通りである。ミダス王は神から、触れたものすべてを黄金に変える力を授かった。最初は狂喜乱舞したミダスだが、いかんせん食物や水さえも黄金に変わってしまうのだ。うっかり触れてしまった愛する娘さえ、その場で黄金に変わってしまったという話もある。幸い紆余曲折を経て、彼はその力を失うことができている。
「ハグロさんって、そのミダスっていう王様みたいだなって思ったんですよ」
あかねはとりあえずハグロの案を受け入れ、言葉を続ける。
「触ったものが全部金になっても、食べることも飲むこともできなかったら困るでしょ? ハグロさんも、そんな感じに見えるんです」
「どの辺りが?」
「…………なんとなく」
あかねの話は、肝心の部分がお粗末である。
「なんとなくじゃ、正答か誤答か分からないわ」
「○か×かで判断しないで下さい。ただ単に私が思っただけなんですから」
あかねの反論に、ハグロは目を見開いてうなずいた。
「そうだったわね。型にはまらないものが好きな私なのに、二者択一で判断するなんて愚かだったわ。あなたの言う通りよ」
果たしてあかねが、なぜハグロをミダス王になぞらえたのか、その本当のところは分からないままだ。何しろ、あかねは感じたままをそのまま口にしているため、本人ですらその理由が不明のままなのだ。きっと、正しい答えというものは存在しないのだろう。しかし、第三者が推測することくらいはできる。
あらゆるものを黄金へと錬成する異能。それ自体は、何も考えなければ素晴らしいものだ。これさえあれば、一生食っていくのに困らない。黄金が金銭的価値を失うときは、恐らく人類史の最後の一ページが書かれるときだろう。それが人類の滅亡の時なのか、昇華の時なのかはともかくとして。
だが、ミダス王に与えられたのは素晴らしい日々ではなく、拷問にも等しい日々だった。何しろ彼は、食べることも飲むこともできないのだ。パンも肉も果物もワインも、口に触れたと同時に黄金となる。それは破壊と同義だ。ミダス王の異能とは、対象を黄金化という形で破壊する能力と言っても過言ではない。
ハグロもまた、ミダス王と似ている。彼女の才覚と容姿それ自体は、男女の別なくうらやまれても当然のものだ。物怖じしない性格と、高度な法術を自由自在に使いこなす知性に、モデル顔負けの外見が加わっているのだ。男性からすると、逆に完璧すぎるように見えて近寄りがたく感じるかもしれない。
だが、彼女もまた、黄金の如き破壊の性質を持ち合わせている。あかねとノリトが目にしたのは、その一端に過ぎない。彼女はジェーニョファミリーに客分として招かれ、ジェーニョ兄弟の寵愛を一身に受け、そしてファミリーと双子の将来の展望を粉々に破壊し尽くした。
双子はきっと、これからもハグロをトロフィー代わりに愛でつつ、自分たちのファミリーを拡大させていく腹積もりだったのだろう。あに図らんや、大事なファミリーはハグロたちキツネに乗っ取られ、双子は廓にさらわれた上に、キツネ流の教育をみっちりと悲鳴を上げるまで叩き込まれた。今やハグロとは、一刻も早く縁を切りたい間柄である。
そのすべてを、ハグロは嫌がらせや意地悪、悪意から行ったのではない。ミダス王の異能が神からの賜物だったのと同じように、彼女はそれを純然たる好意と愛情の発露として行っているのだ。心から楽しみながら、それでいて相手を破壊してしまうその生き様は、あかねのモグラのようなへなちょこの目に、ミダス王の伝説と重なって見えたのだろう。
「私はね、こう見えて幼い頃体がすごく弱かったのよ」
何か感じ入るところがあったのか、ハグロの言葉は過去に飛ぶ。
「全然信じられませんよ。本当ですか?」
「ええ。産まれたときから、ずっといろいろな医者にかかったわ。そして、みんな口を揃えてこう言ったの。『この子は成人するまで生きられないでしょう』と」
あかねはチョコレートを口に運ぶのをやめ、ハグロの顔を穴が空くほどじっと見ている。この産まれたときから多分棺桶に放り込まれるときまで健康優良児には、ハグロの過去の境遇は理解の及ばないものだろう。
「お医者様は、ご自分の蓄えた知識と経験からおっしゃったでしょうけれども、あいにくと、それは十悪の一つ、悪口と言っても過言じゃないわ」
ハグロはいつになく険しい顔で、そう断言する。
「人も化外も、他者の言葉に強く影響を受ける存在よ。プラシーボ効果って知ってるでしょ? ただのビタミン剤でも『よく効く風邪薬だよ』って言われて飲めば、本当に効いたりするものよ。それと同じよ。最初から成人できる可能性を断つなんて、決して誉められたものじゃないわ」
「でも、ハグロさんは今…………」
「ええ、そうよ。お婆様も、お母様も、おば様も、みんなそれを信じてしまったかもしれない。だから、せめて未練を残さないようにと、精一杯好きなことを好きなだけさせてもらったわ。それは本当に感謝している。でも、私は信じなかった。成人まで生きられないなんてこと、私は絶対に信じなかったの」
静かな自負と誇りを込めて、ハグロは言葉を発する。
「おあいにく様。今の私は健康そのものよ。もう成人もしている。だから私は私の望むように生きるし、望むように他の人を生かしたい。可能性が眠っているのならば、それを起こしてあげたい。もっと大きな存在に、成長させたい。だからそんなものが好き。そんな人が好き。本当に大好きなのよ」
一族郎党から将来を絶望視させられても、なおかつ生に食いつき、死の運命に抗った。それがハグロの行動の根幹だ。そして同時に、それこそがハグロの破壊なのだろう。彼女の愛情は、愛された相手に強制的に変化を強いる。進化と言ってもいい。自分がかつてできたように、「この程度が限界」と思っている存在の限界を突破させようとする。
その可能性が見出されたものを、彼女は「欲しい」と思うのだろう。だが、ハグロが言う通り、彼女は欲しいと思ったものを必ず壊してしまう。彼女のような恵まれた才能を大抵の存在は持ち合わせておらず、彼女によって促進されられた変化に耐えることはできずに壊れてしまう。それこそが、ハグロの有するミダス王と同じ黄金の破壊である。
「あなたの望むことを、あなたが欲する相手もまた同様に望んでいるとは限らないと思いますが」
熱っぽく語ったハグロに対して、やはりノリトはいつものように、冷や水のような意見を口にする。結局、ハグロの好意はありがた迷惑でもあるのだ。事実ジェーニョ兄弟は、ハグロの好意を涙を流して泣き叫び、土下座するほどありがたがっていた。
「まあ、それは何となく分かるけどね。どうして私の愛を受け取ってくれないの、なんて言って駄々をこねることはさすがにできないわよね」
「ええ。そういう駄々を一般に何と言うかご存じですか?」
「さあ?」
「“ストーカー”、と言うんですよ」
にべもなくノリトは言う。黄金だの破壊だの言っているが、最終的に愛情の暴走はストーカー行為でしかない。
「ノリト君言い過ぎだよ」
すかさずあかねがハグロを擁護する。
「お前、守役のくせにトラブルメーカーの肩を持ってどうするんだよ」
「それとこれとは別。調子に乗らないの」
「お前は俺の保護者かよ……」
たしなめるようなあかねの口調に、ノリトは絶句する。いったいどうして、あかねがここまでお姉さんぶるのかノリトには思い当たる節がない。
「いいのいいの。さすがにストーカーにはなりたくないし。目付さんは、私が犯罪者にならないように気を遣ってくれているのよ」
何でもポジティブに受け取るハグロは、ノリトの皮肉をそのように解釈する。事実、ノリトの言わんとしていることはその通りだ。ハグロがストーカーにでもなったら、ハクメンくらいでないと収拾がつかないかもしれない。
「だから守役さんに目付さん、もう少し、私の無聊の慰みを見過ごしてくれたら嬉しいわ」
「見過ごすって、何をですか?」
あかねはきょとんとしている。
「あの双子の処遇よ。私としては、ちょっとファミリーの発展を後押しして、ついでに楽しそうな二人とちょっと遊びたかっただけなんだけど、いろいろと事が大きくなっちゃったみたいね」
ハグロはややばつの悪そうな顔をしている。といっても、きっと彼女にとってこれは日常茶飯事だ。日本でもアメリカでも、ハグロはこうやってあちこちの組織やサークルや団体に顔を出し、そこを善意から引っかき回してきたのだろう。魔性の女とは、彼女のような存在を言うのだ。
「大丈夫よ。別に本気になって二人を引き離したり、ファミリーを乗っ取って改造したりなんかしないわ。ただ、二人がどんな風な結論を出して、どんな風に対処するのか、それが知りたいのよ」
ハグロの興味はそこに行き着く。囚人のジレンマもどきの、双子のうち片方だけを廓に連れて行くという話。その答えだけは、是非とも知りたいものらしい。
「――――なんて話していたら、どうやら時間のようね」
ハグロが何かに気づいたのか、顔を二人から建物の方に向ける。つられて、ノリトとあかねもそちらの方を見た。どうやら、いつの間にか待ち合わせの時間になっていたようだ。ドアが開くと、そこに取り付けられた呼び鈴がかすかに音を立てる。
常ならば来客を迎えて、呼び鈴は軽やかに鳴るはずだ。しかし今、その音はさしずめ弔鐘である。レストランが一瞬で納骨堂に、設置されたテーブルと椅子が一瞬で墓碑と十字架に変わりそうなその音と共に、中から二人の人影が姿を現した。げっそりと頬がこけているジェーニョ兄弟だ。
その後ろから、何匹ものネコが付き従っている。ファミリーの構成員たちだ。ネコたちは二本足で立ったり四本足で歩いたり、それぞれ思い思いの格好でボスの後ろ姿を追いかける。どの顔も心配そうだ。あの底抜けに明るいボスが、ここまで思い詰めているのだ。ファミリーの行く末に暗いものを感じても、不思議ではない。
「よく来てくれたわね。さあ、守役も目付もわざわざ一緒に同席してくれたわ。それで、あなたたちの答えはどんなものかしら」
よく通る声で、ハグロは二人に呼びかける。幽鬼のような二人の顔が上がり、ハグロをじっと見る。凄みさえ感じる陰鬱さが徐々に晴れていくが、その下にある表情は虚無だ。もはやストレスのあまり、表情さえ失ったらしい。
「……まあ、待ってくれ」
「……そこで見ていてくれよ」
空っぽの声でそう言うと、二人はおもむろに向かい合う。ゆっくりと二人はそれぞれ右手を振りかぶり、身構える。何をするのか、とノリトがいぶかしく思うと同時に、二人は叫んだ。
「じゃんけん!」
「ぽんっ!」
突き出されたその両手は、どちらもチョキだった。あいこである。




