ミダス王の憂い(その1)
次の日、あかねは授業が終わるや否や駆け足で学校を後にした。今日はさすがに、陸上部はお休みせざるを得ない。日々の積み重ねが大会でのよい記録となるのは分かっているのだが、あいにくと守役の仕事もまた日々の積み重ねが肝心である。ジェーニョファミリーの行く末が決まる場面に、何としてでも居合わせなくてはいけない。
「相変わらず、お前は無駄に体力だけはあるんだよな」
中学校の校門から続く緩やかな下り坂を途中で脇道に折れ、おしゃれな石段を駆け下りるところで、あかねはノリトと合流する。ノリトの方は先にここに着き、あかねが来るのを待っていた。
「私の取り柄ってそれくらいだし?」
走る足を止めることなく、あかねはノリトの脇を通り過ぎる。
「探せばほかにもあるんじゃないのか?」
いつものことといった感じで、ノリトはあかねの後を追う。あかねの方がマラソン選手のようなフォームでありながら、どことなくバタバタとした動きなのに対し、ノリトの走り方は何となくヘビを思わせる滑らかな動き方だ。そもそも足音がほとんどしない。
「じゃあ、私のいいところ、言ってみて? 最低十個くらい?」
「――悪いが、マラソンしながらぺらぺら喋っていられるほど俺は器用じゃなくてね」
振り返って笑うあかねを、ノリトは軽くあしらう。最低十個とは大きく出たものだ。それくらい、あかねならば自分でひねり出せそうなものだが、やはりノリトの口から誉め言葉を聞きたいのだろう。
鬼灯町の商店街を横断しつつ、あかねとノリトがたどり着いたのは、異界においてジェーニョファミリーの本拠地である、イタリアンレストラン・デルフィーノだった。通りに面する敷地にオープンカフェのように設置された椅子とテーブルには、すでに先客がいる。輪切りのレモンが入ったミネラルウォーターを飲んでいるハグロだ。
「おまたせしました、ハグロさんっ」
「いいのよ。化外は人間よりも時間にうるさくないから」
ハグロは立ち上がると、あかねとノリトに椅子を勧める。彼女の言葉からすると、かなり前からここに座っていたようだが、テーブルの上には何も載っていない。今の彼女は化外の側にいるため、人目につかない。ならばミネラルウォーターは持参したのだろう。
勧められるがまま、あかねはハグロと向かい合わせになる形で椅子に腰を下ろす。やや遅れて、ノリトもまた同様に椅子に座った。それを見届けてから、ハグロは軽く右手の指を鳴らす。その音と同時に、周囲の光景が一変した。三人が座る椅子とテーブルを中心に、辺りの風景が潮の引いていく時のように塗り替えられていく。
見慣れた鬼灯町における人間の営みは消し去られ、代わってあかねの目に写るのは幻想的な和風建築物と、道を行く化外たちだ。ハクメンの座す御山のお膝元だけあって、異界の鬼灯町は現実のそれよりもさらに活気に溢れ、騒々しくも楽しげである。道を行くのはネコ、イヌ、ウサギ、それにヘビやカラスの化外たちだ。
着物をまとった胴体の上に、人ではなく獣や鳥の頭がついている。まれに人間の姿も見受けられるのだが、あかねがよく目を凝らすと人とは異なる部位があった。額に象牙質の角があったり、後ろから獣の尾が生えていたりする。いずれも人間の姿に化けている化外だ。ここに人間は、三枝あかねただ一人しかいない。
「わざわざ来てくれてありがとう。忙しいのに私たちの方を優先してくれて嬉しいわ、守役さん」
いつの間にか白亜の立派な建物に変わったレストラン・デルフィーノを背に、ハグロはテーブルの上に載っていた皿を、あかねの方に差し出した。色とりどりのチョコレートが盛られている。
「お一つどうかしら」
「はい。喜んでいただきます」
遠慮など何一つなく、あかねはざっと見てから一番きれいで一番大きそうなチョコレートを選び、口に放り込む。
「あなたは?」
「いえ、遠慮しておきます」
それに対し、ノリトは手をつけない。目付の仕事をノリトは生真面目に果たしている。口を動かしていたあかねの顔が、突然驚きに染まる。
「うわっ! 何これ!? 味がいろいろに変わってる!? イチゴジャム? バナナ? ブルーベリー? 何これ何これっ!?」
あかねの口の中で、チョコレートにコーティングされていた中身が次々と味を変化させているのだ。フルーツという点では共通だが、現実ではあり得ない速度と種類で味覚がめまぐるしく移り変わっていく。
「ふふっ。面白いでしょ? 異界で化外の力を使うならば、こういう不思議なスイーツだって作れちゃうのよ」
すっかり魅了された様子のあかねに、ハグロはチョコレートの種明かしをする。人の手によらず、幻想によって作り出されたものは、この異界の鬼灯町の町並みのように、物理法則をたやすく凌駕する。
「ハグロさん、あまり守役を餌付けしないで下さいよ。ただでさえ、こいつは俺たちのいる方に近寄りすぎる傾向があるんですから」
一応ノリトはハグロに釘を刺す。あかねが化外の側に引きずり込まれないようにするのは、ほかでもないハクメンの望みだ。ヘビの化外であるノリトがそれに従うのは、理の当然である。
「餌付けって嫌な言い方だなあ。私はネコじゃないよ」
「そんなことは周知の事実だ。だけどな、その無遠慮にがっつく様子は何だ? 何も知らないネコが見たら、同族と勘違いすること請け合いだぞ」
「甘いものは運動の後に食べれば体にいいんだってば。別にいいじゃない。つまらないノリト君」
ノリトの皮肉にあかねは口でこそ反論しているが、その顔は笑っている。これが彼なりのコミュニケーションの一環であることなど、あかねはよく知っていた。
「仲がいいのね、二人とも」
「もちろん。友だちですから」
「守役と目付っていう間柄であることは忘れるなよ」
ハグロの言葉にうなずくあかねに、ノリトは念を押す。
――その後もチョコレートを口に放り込んでは、キャラメルやアーモンド、ピーナッツの香りがするなどと言って感激しているあかねを脇に置いて、ノリトはハグロの方を見る。つくづく、底の知れない化外である。ノリトの知るところでは、キツネは保守的で堅物であると同時に、妙に冷酷なところを持ち合わせている。
他の化外――例えばネコやタヌキなど――に比べれば、その性はヘビと似通っている。特に酷薄で得体が知れないところはそっくりだ。しかし、ヘビは絶対に群れない。決して迎合することなく、ヘビは常に自分の道だけを行く。封建主義を思わせる社会を形成し、そこから一歩も出ない二昔前の日本のサラリーマンのようなキツネとは異なる。
「なあに、どうしたの。そんなにキツネが珍しいかしら」
視線に気づいたのか、ハグロが小さく笑う。異性の目を釘付けにするのみならず、自然と言いなりにさせてしまいそうな妖しい微笑だ。かつて傾国とか傾城などと呼ばれた女性は、こんな笑みを時の権力者に向けたのだろう。
「ええ。鬼灯町にはあまりキツネはいませんので」
「ここは大社の縄張りだからね。私だって、鬼灯町に来るのは初めてよ」
努めて無感情にノリトは答える。しかし、興味をそそられたのか、なおもハグロは顔をこちらに近づける。かすかに香る香水の匂いが鼻孔をくすぐる。強い芳香を嫌うノリトだが、不思議と嫌悪感はわき上がってこない。
「ねえ君。何か言いたそうな顔をしているわよ」
「……そうでしょうか」
「ええ。私に質問したいことがいっぱいある、って目や仕草が訴えているわ。別にいいわよ、何でも聞いても。あ、でも、あんまりプライベートなことは遠慮させてね」
開けっぴろげなようでいて、のらりくらりとかわされている。
雲をつかむような、という表現はこんな相手に対して使うのだろう。実際、ノリトはハグロに聞きたいことがある。しかし、それは個人的な関心からではない。目付として、守役を守るためだ。見ての通りあかねはのほほんとしていて、今もチョコレート一つ一つにいちいち感激している最中だ。これではまったく役に立たない。
「では、少しだけ」
「どうぞどうぞ。二人が来るまでもう少し時間がありそうだからね」
ハグロは深く椅子に腰掛けると、優雅に足を組む。その曲線美にまったく目を向けず、ノリトはいつも通りの三白眼でハグロの顔をじっと見る。直視されるとまじないがかけられると噂されるヘビの視線を浴びても、ハグロの態度に動揺は欠片も見られない。
「いったい、どういうつもりなんですか?」
「どういう、って?」
「ジェーニョファミリーのボス二人です。あんなゲスが、本当にものの役に立つと思っているんですか?」
ノリトの口調は丁寧ではあるものの、内容はイバラのように棘で飾り立てられている。
「役に立つか立たないか、で決めるなんて面白くないわ。要は、楽しめるか楽しめないか、よ」
「ずいぶんと、享楽的な理由なんですね」
「そうよ。人生は楽しむもの。生きるからには、精一杯自分と他人を楽しませてこそ、この世に生を享受した意味があるというものじゃない? 愛が必要なのよ、愛が。私にも、君にも、君の隣の女の子にも」
揶揄するような物言いだが、ノリトは動じない。
「愛とは、漠然とした物言いですね」
「ある詩人は愛についてこう言ったわよ。『いのちをかけて生きること』って。素晴らしい例えだわ。生きる意味についてみんな悩んだり苦しんだりするけれども、その答えの一つが愛だと思うわけ。口にすると、途端に陳腐になっちゃうけどね。とても、その詩人のような、本質を一言で言い表すことなんて不可能だわ。無粋な発言、ごめんなさい」
「いえ。よくは分からないですが、権力に固執しすぎていると化外の間では噂されるキツネの化外、それも高家の息女の物言いとしては、ずいぶんと奔放ですね」
「昨日も言ったでしょ。私は本家じゃ腫れ物扱いなのよ。まあ、いろいろあってね」
ハグロは大きく息をつくと、空を見上げる。
「そもそも、本当にあなたはあのゲスどもを必要としているんですか? 一人だけでも欲しいなんて言っていますが、双子を引き離してもまた元に戻るだけだと思いますが?」
ノリトは昨日感じた疑問を口にする。ハグロは折衷案として、双子の一人をファミリーに帰し、一人を廓に連れて行くと言っていた。ノリトから見れば、彼女の執着は異常だ。
「ああ、あれね――――」
昨日の双子のうろたえぶりを思い出したのか、ハグロは肩を振るわせて笑う。
「ノリト君。囚人のジレンマ、って知っている?」
「ある程度なら」
ノリトは軽くうなずく。
「それをちょっとやってみたかったのよ。理論で知っているより、実地で試した方がためになるでしょ?」
共謀して罪を犯した囚人が二人いる。この二人に、自白させるための取引が持ちかけられた。二人とも黙秘したら二年の懲役。一人が自白したらその場で釈放。自白しなかった方は懲役十年。そして二人とも自白したら懲役五年となる。この場合、互いに協力して懲役二年が一番得をする。しかし、個人の得を追求すると懲役五年となる。
自分の利益を第一にしたつもりが、結果的にむしろ損をしてしまうというジレンマである。非常に簡単に説明すると、このような話だ。
「ならば、二人とも自分をあなたに差し出したのならば、その場で許してやるつもりだったんですか?」
「さあ? それは自分でも決めてないわ」
「結末を想定していない以上、囚人のジレンマとは言いがたい話ですが」
ハグロは表面上囚人のジレンマめいた状況を作り出しただけで、結果まで踏襲するつもりはないようだ。単に、難しい選択を双子に突きつけて、二人がどのような答えをひねり出してくるのかに興味があるだけらしい。ジェーニョ兄弟をクズと断じて疑わないノリトだが、少しだけ彼らに同情したくなった。確かに、二人はハグロの実験動物である。
「ねえ、囚人のジレンマってなあに? 面白いの?」
話についていけなかったらしいあかねが、横からノリトに聞いてくる。
「下らん話だ。自分だけ得をしようと猿知恵を働かせて、結局損をする馬鹿な奴の話だよ。お前なら一生やらないだろうな」
確かに、あかねならば二年が一番短くていいやなどと思って、迷うことなく黙秘するだろう。
「興味本位であのゲスたちを振り回して、わざわざファミリーまで乗っ取って、そのくせ二人を完全に手中に収める気もない。とても、葛葉一族の一人が鬼灯町にわざわざ来て行う所業とは思えないのですが」
再びノリトは、ジェーニョ兄弟からハグロ自身へと話題を移す。彼女の気まぐれさは、ノリトには理解の埒外である。
気まぐれという点では、隣にいるあかねも同類である。さぞかし、この二人は気が合うことだろう。だが、あかねの気まぐれさといい加減さは、まだかわいいものである。所詮実行力という点では、中学二年生程度のパワーである。しかしハグロは異なる。その才知と実力をふんだんに使って気まぐれを行使するため、周囲にかなりの迷惑が及ぶのだ。
実際、鬼灯町のネコたちのパワーバランスは滅茶苦茶になっている。突然現れた新興のジェーニョファミリーの対策に苦慮していたところを、さらにハグロが引っかき回したのである。そのボスたちはハグロに気に入られようとしてファミリーを大きくしたが、今はハグロにファミリーを乗っ取られた上に、むしろ彼女と縁を切りたがっている始末だ。
「あなたは才色兼備なのですから、もう少しまともかと思っていましたが。なぜ他のキツネのように、地に足をつけないのです?」
さらにノリトはずけずけとものを言う。ノリトからすると、ハグロは恵まれた才能と美貌を、壊滅的な方向にばかり使っている。およそ、彼女のすることに建設的なものはないのだ。
「――ふふっ。真面目な意見ね。いいことよ。あなたと一緒ならば、守役さんもさぞかし安心できるでしょうね」
ノリトの無思慮とも言える発言を受けても、ハグロは怒ったり不機嫌になる様子はない。けれども、かすかに彼女の顔に影が差す。不可思議な、どうにも理解しがたい、奇妙な苦悩をたたえた影が。
※ハグロが引用しているのは、谷川俊太郎の詩「あい」の一節です。




