お前は正しいことをしてる
水道が通って三日目の朝だった。
ガルドは設計小屋の机に向かい、住居区画の区割り草稿を広げていた。水くみ口の流量は安定している。昨日の確認で漏水ゼロを再確認した。今日からは次の段取りに入る。
「ガルド様」シオが入ってきた。「クロスウェル家の馬の支度が整っているそうです。ヴェルン様が出立前にご挨拶をと」
「分かった」ガルドは鉛筆を置いた。「ここに来るのか、それとも南門か」
「南門の前に馬を出してあると言っていました」
「行く」
南門の前は朝の光が地面に斜めに差していた。
ヴェルンは馬の横に立っていた。旅装束だ。王都向けの外套と、荷鞍に括りつけた荷物。護衛の男は少し離れたところで轡を持っている。
ガルドが来ると、ヴェルンが振り返った。
「よく来た」ヴェルンは言った。「見送りに来てくれると思っていなかった」
「シオが伝えに来た」
「シオ殿が気を利かせてくれたんだな」ヴェルンが笑った。「ありがたい」
シオが少し頭を下げた。「いえ、ガルド様が——」
「俺が来るって言った」ガルドは言った。「それだけだ」
シオが黙った。ヴェルンが弟の顔をちらりと見た。
「水道が通ったのを見た」ヴェルンは言った。「昨日、もう一度水くみ口の前を通ってみた。人が並んでいたな」
「昨日は七人だった」
「七人」
「最初の日より減っている。珍しくなくなったということだ」
「そうか」ヴェルンは少し間を置いた。「珍しくなくなる、か。それがいいことなんだな」
「当たり前になれば機能している証拠だ」ガルドは言った。「建造物は日常になって初めて使えているということになる」
ヴェルンが頷いた。反論しない。このあたりは兄の得意なところだとガルドは思った。相手の言い方を素直に受け取る。
南の方角から荷馬車の音がした。市場への朝の搬入だ。
「王都に戻ったら、局長に報告する」ヴェルンは言った。「水道完成。現地施工は継続中。設計師は引き続き現地に留まる必要がある。それだけ報告する」
「前に聞いた」
「言い直しだ。——局長は待てると言っていた。俺もそう言った。だが一つだけ聞いておきたい」
「何だ」
「お前は、ここで何年かかると思っている」
ガルドは南の方向を見た。荷馬車が市場の角を曲がった。
「設計書に書いたものが全部地面に揃うまでだ。年数は言えない」
「言えないか」
「地盤の状態が変わることもある。素材の調達が遅れることもある。古代の遺構の調査結果が設計を変えることもある。今は分からない」
「正直だな」
「嘘を言う理由がない」
ヴェルンが少し笑った。「お前はいつもそうだ」
馬が首を動かした。出立の時間が近い。
ヴェルンが外套の前を留め直した。
「ガルド」
「何だ」
「一つだけ言っていいか」
「言え」
ヴェルンはガルドをまっすぐ見た。兄の目だ。計算でも行政の言葉でもない、それだけの目だとガルドは分かった。
「お前は正しいことをしてる」
ガルドは何も言えなかった。
反論も、肯定も、出てこなかった。
(認めてほしかったわけじゃない)
そう思った。本当にそう思った。王都の招致も、家の期待も、そういうものをどうこうしたいわけじゃない。ただ、設計書に書いたものを地面に揃えたい。それだけだ。それだけでやってきた。
だから認めてほしかったわけじゃない。
それでも——何かが、少し、解けた。
どこかで固まっていたものが、解けた。
「——」ガルドは少し間を置いた。「それだけか」
「それだけだ」ヴェルンが言った。「他に言うことはない」
「そうか」
「そうだ」
ヴェルンが馬に乗った。護衛の男も鞍に上がった。轡が引かれた。
「シオ殿」ヴェルンが馬上から言った。「弟の記録をよく頼む。あいつは書かないから」
「はい」シオが真剣な顔で言った。「全部書いています」
「それが一番頼りになる」ヴェルンは笑った。「ガルド、水道ができたら来る。次は区画ができたら来るか」
「来なくていい」ガルドは言った。「終わったら連絡する」
「それでいい」
ヴェルンが馬を向けた。南西街道の方向だ。護衛が後ろにつく。
馬の蹄の音が石畳を打った。一定の間隔で、遠ざかっていく。
ガルドは門の前に立ったまま、馬の後ろ姿を見ていた。
南西街道に入って、ヴェルンの外套が遠くなる。護衛と並んで歩く馬の足取りが整っている。道に慣れた馬だ。王都までの道を何度も歩いたのだろう。
(あいつも仕事でここに来た)
計画局の打診があって、局長の意向があって、その上でここまで来た。半分は公務、半分は兄として——本人がそう言っていた。どちらが先だったかは分からない。どちらでもいいとも思う。
外套が街道の曲がり角で見えなくなった。
馬の音が消えた。
「ガルド様」
シオの声だった。
「何だ」
「戻りますか」
「戻る」ガルドは言った。「草稿の続きがある」
設計小屋に戻ると、机の上の区割り草稿がそのままだ。鉛筆も置いたままだ。
ガルドは椅子に座った。草稿を引き寄せた。
水道幹線の位置を基準に、住居区画の区割りを入れる最初の作業だ。北の水くみ場を中心に東西に広がる区画。道路の動線。排水の方向。先に決めておかないと後からやり直しになる。
「シオ」ガルドは言った。「区画の東側、地盤の確認はいつできる」
「コルダ親方に確認してから来週の初めにはできると思います」シオが手帳を出した。「今日中に話を通しておきますか」
「頼む」
「分かりました」シオがペンを走らせた。少し間を置いてから、顔を上げた。「ガルド様」
「何だ」
「ヴェルン様が——お前は正しいことをしてると、おっしゃっていましたね」
「聞いていたか」
「はい」シオが素直に言った。「聞こえました」
ガルドは草稿から目を上げなかった。
「それで」
「嬉しくなかったですか」
ガルドは少し間を置いた。
「認めてほしかったわけじゃない」ガルドは言った。
「でも」シオが続けた。「嬉しくなかったわけでもないですよね」
ガルドは答えなかった。
草稿の上に線を引いた。区画の境界線だ。東側の排水路と平行に走らせる。
(そうだな)
嬉しかったかと言えば——言葉にしにくい。嬉しいとは少し違う。ただ、軽くなった。それだけだ。どこかで持っていたものが、少し軽くなった。
「記録するな」ガルドは言った。
「はい」シオが笑った。「しません」
正午を過ぎた頃、ガルドは区割りの草稿から目を離して設計書を開いた。
住居区画の設計——工区三つに分けて順番に建てる方針は決まっている。第一工区の境界線が今日引けた。水道の取り出し口の位置も決めた。
(順番通りに進んでいる)
水道が通った。区画が決まる。区画が決まれば住居に入れる。住居に入れれば人が増える。人が増えれば次の設計が必要になる。
全部、繋がっている。
「ガルド様」シオが戸口から言った。「コルダ親方が来週の火曜から地盤調査できると」
「火曜か」ガルドは言った。「月曜に杭の場所を決めておく。今日中に下準備の計算をする」
「月曜は採石場の確認が入っています」
「午前で終わる。午後に計算する」
「分かりました」シオが書き込んだ。「他にありますか」
「今日はそれだけだ」
夕方、ガルドは一人で水くみ口の前を通った。
今日は四人が並んでいた。桶を持った女が二人。子供が一人。老人が一人。水くみ口から細く水が出ている。止まらずに出ている。
三日前から変わっていない。変わらないことが正しい状態だ。
(悪くない)
ガルドはそう思いながら通り過ぎた。
設計小屋に戻った。机の上の草稿がある。月曜の杭打ち位置の計算が残っている。採石場の確認項目も整理しておく必要がある。
椅子に座った。鉛筆を取った。
ヴェルンの言葉が、一度だけ頭の中に出てきた。
「お前は正しいことをしてる」
それだけだ。
それだけのことだ。
ガルドは草稿に線を引いた。仕事が続いている。明日も続く。それでいい。
あとがき
ヴェルンがただ一言言って去る——それだけの回です。ガルドが「認めてほしかったわけじゃない」と思いながら、それでも何かが解けた、という内側の動きを台詞と地の文で交互に積み上げました。シオが帰りがけに「嬉しくなかったわけでもないですよね」と突いて、ガルドが答えない——そこで終わらせずに、夕方の水くみ口の前と設計書への帰還で締めたのは、職人の話は仕事に戻って閉じるべきだという判断です。




