ここがまだ終わってない
翌朝、ヴェルンは早く起きていた。
ガルドが設計小屋に入ると、ヴェルンはすでにベンチに腰かけて、ヴァルダ・ノヴァの南西側を眺めていた。外套の埃は払われ、旅の疲れが顔から取れている。昨夜よく眠ったのだろう。
「早いな」ガルドは言った。
「王都でも朝は早い」ヴェルンが振り向いた。「お前の方が遅い。もう七つ(ななつ)をとっくに回っているぞ」
「設計書に手を入れていた」
「朝から」
「図面は夜に引いて、朝に確認する」ガルドは設計小屋の扉を押し開けた。「飯はマルカに頼んだか」
「宿の女将さんが出してくれた。気の利く人だな」ヴェルンが立ち上がった。「ガルド、少し歩かないか。昨日は案内してもらったが、ゆっくり見たい場所がある」
水路区画の東端まで来たとき、コルダが石材の検品をしていた。
昨日届いた切り石が三十枚。水道幹線の側壁用だ。コルダは一枚一枚を手で叩いて音を確かめている。
「親方」ガルドが声をかけた。「その石はどうだ」
「七枚、返す」コルダが短く言った。「切り口が甘い。採石場が変わったか」
「先週から南の採石場に切り替えた」
「それが原因だ。あそこの石は硬さにむらがある。選別に時間がかかる」コルダはヴェルンをちらりと見た。「昨日の人か」
「もう一日いる」ガルドは言った。「今日の午後には出る予定だ」
「そうか」コルダは石の検品に戻った。
ヴェルンがその背中を眺めながら、小声でガルドに言った。「あの方はいつも寡黙なのか」
「仕事中はそうだ」
「仕事中じゃないときは」
「もっと寡黙だ」
ヴェルンが笑った。「……なるほど」
コルダが顔を上げないままで言った。「聞こえている」
「失礼しました」ヴェルンが素直に頭を下げた。
コルダが短く鼻から息を出した。怒ってはいない。
水路の北端まで歩いたところで、ヴェルンが立ち止まった。
水路はここから西に折れて、将来の水道幹線ルートに繋がる予定だ。今は掘削の準備として地面に目印の杭が並んでいる。そこから先は空地で、まだ何もない。
「これが水道になるのか」
「幹線の第一区間だ」ガルドは言った。「ここから南に九十間、そこから東に折れて住居区画の中を通す」
「どれくらいかかる」
「順調なら半年。石材の調達が遅れれば一年近くなる」
「一年」ヴェルンが空地を眺めた。「お前はその一年を、ここで過ごすつもりか」
「当たり前だ」
「昨日の話の続きをしていいか」
ガルドは答えずに杭の列を確認した。三番目の杭が少し傾いている。後でシオに直させる必要がある。
「ガルド」
「聞いている」
「昨日は、終わっていないから行けないと言った」ヴェルンが言った。「俺はそれを持ち帰って、局内に報告しないといけない。その前に一つだけ聞かせてくれ」
「何だ」
「本当に終わるか」ヴェルンは静かに言った。「お前は昔から、終わりを決めずに始める人間だった。納屋の屋根もそうだった。直し始めたら梁まで直して、そのうち柱も直して、三か月かかったな」
(そうだ)
あの納屋は結局、元の構造の七割を作り直した。
「ここは違う」ガルドは言った。「設計書がある。設計書に書いたものが地面の上に全部揃ったとき、終わる」
「設計書を書き直さないと言い切れるか」
ガルドは少し間を置いた。
「言い切れない」
「そうか」ヴェルンが笑った。笑い方が昨日と少し違う。政治の笑いじゃない。兄の顔だ。「正直だな、お前は」
「嘘をつく意味がない」
「そうやって生きているから、ここまでできるんだろうな」ヴェルンは空地に目を戻した。「……俺が局内で何と言えば通るか分かるか」
「知らない」
「『現地の設計が未完了。完了時に再打診予定』と書けばいい」ヴェルンは言った。「局長は気が長い。二年でも三年でも待てる人間だ。ただし——」
「ただし」
「完了したら必ず知らせてくれ。手紙一本でいい。シオ君に書いてもらってもいい」ヴェルンがガルドを見た。「お前は手紙が下手だからな」
「下手とは言っていない」
「書かないの間違いか」
「書く内容がなかった」
「今はあるだろう」ヴェルンが水路の杭の列に目をやった。「これだけのものが動いているんだから」
設計小屋に戻ると、シオが今日の仕事の段取り表を持って待っていた。
「ガルド様、水道第一区間の掘削開始は明後日で確定ですか」シオが手帳を開いた。「石材屋から確認が来ています」
「切り石の返品分を先に処理しろ。コルダが七枚を返す。交換品が届くまで掘削は待つ」
「分かりました」シオが書き込んだ。「あと、昨日の来訪記録についてですが——」
シオがちらりとヴェルンを見て、少し口ごもった。
「書け」ガルドは言った。「ヴェルン・クロスウェル。王都宮内府書記局係長。兄。来訪目的は視察および私的訪問。滞在一泊。本日午後出立予定」
「はい」シオが素直に書いた。「王都からのお誘いについては」
「断った事実を書け。詳細はいい」
「分かりました」
ヴェルンがシオに声をかけた。「シオ君、君はガルドの弟子なのか」
「助手と書記をしています」シオが言った。「弟子というより——一緒に仕事をしている感じです」
「コルダ親方と同じことを言うな」
「あの方のように腕はありませんが」シオが少し照れた顔をした。「でも、記録だけは負けていないつもりです」
「記録か」ヴェルンが興味深そうに言った。「ガルドの仕事の記録か」
「全部です。EP一から全部取ってあります」
「見せてもらえるか」
「ガルド様」シオがガルドを見た。
「好きにしろ」ガルドは設計書に目を戻した。「ただし外には持ち出すな」
「はい」
シオが記録帳を持ってきて、ヴェルンに渡した。ヴェルンがページをめくり始める。しばらく無言だった。
「……これを全部、お前が作ったのか」ヴェルンがページを追いながら言った。「最初の、EP一から——杭を打った記録から」
「記録だけでしたら私です」シオが言った。「仕事はガルド様が考えて、職人の方たちがやって、私は記録だけしています」
「記録だけ、と言うが」ヴェルンは手を止めた。「これがなければ、誰がここの設計を引き継げる」
シオが少し黙った。
「引き継がせるつもりはないです」シオは言った。「ガルド様がいる間は」
ヴェルンがガルドを見た。ガルドは設計書から目を上げなかった。
出立の時間は午後の四つ(よつ)と決まっていた。
馬車が門の前に回ってきたとき、コルダが石材の検品を終えて戻ってくるところだった。ちょうど鉢合わせになった。
「帰るのか」コルダが言った。
「今日中に南西街道を半分は進みたい。明日中に王都まで戻りたい」ヴェルンが答えた。「お世話になりました」
「世話はしていない」
「昨日もそう言っていたな」ヴェルンが笑った。「では、また機会があれば」
「来なくていい」コルダは言った。「ガルドの邪魔になる」
「それは手厳しい」
「邪魔だと言っているわけじゃない」コルダが少し間を置いた。「ガルドがあれこれ余計なことを考えるようになる。それが邪魔だ」
ヴェルンがコルダを見た。
「あれこれ余計なこと」
「兄弟が来れば、懐かしいことや家のことや、そういうものを思い出す。今はそういうものを考える時間を作ってやりたくない」コルダは言った。「水道が通るまでは」
ヴェルンがそれを聞いて、何も言わなかった。
ガルドも何も言わなかった。コルダが言うことが正しいとも違うとも、判断できなかった。ただ——そういうふうに心配されているということが、少し意外だった。
(コルダ親方がそういうことを言うのか)
「では、水道が通ったら来ます」ヴェルンが静かに言った。「その時は邪魔ではなくなるか」
「それは知らない」コルダが言って、工具を持ち直して戻っていった。
馬車の扉の前で、ヴェルンがガルドと向かい合った。
シオが少し離れたところに控えている。御者が手綱を確認している。風が沼地の方からゆっくりと流れてきた。湿った草の匂いがした。
「手紙を出せ」ヴェルンが言った。「水道が通ったら。設計書が全部地面に揃ったら」
「分かった」
「シオ君に書いてもらえ。お前が書いても三行で終わる」
「六行は書く」
「足りない」ヴェルンが笑った。「内訳を書け。何を作ったか。何人が来ているか。次は何を作るか」
「それは報告書じゃないか」
「兄への手紙というのはそういうものだ」ヴェルンが言った。「正確な情報と、お前の言葉があれば俺は動ける」
「動くとはどういうことだ」
「王都でお前を待っている話がある。その話がお前を必要としている間、俺は繋ぎ止める。それが今できることだ」ヴェルンは顔を正面に向けた。「お前がここをやり切るまで、王都の方は俺が持っていてやる」
ガルドは少し間を置いた。
(そういうことが言えるのか、この男は)
ヴェルンは政治の言葉を使う。外交的な動き方をする。だが今言ったことは計算ではない。そういうものが混ざっているのがヴェルン・クロスウェルだと分かっていたが、こういう形で出てくるとは思わなかった。
「……ありがとう」ガルドは言った。
「珍しいな」ヴェルンが驚いた顔をした。「お前が礼を言うのは」
「言う必要があるときは言う」
「覚えておく」ヴェルンが扉を開けた。「シオ君、ガルドの面倒を頼む」
「面倒をみているつもりはないのですが」シオが言った。
「じゃあ記録を頼む」
「それは得意です」シオが少し微笑んだ。「お気をつけて、ヴェルン様」
馬車が南西街道に入って、角を曲がって見えなくなった。
シオが手帳に何か書いた。ガルドは設計小屋に戻ろうとして、止まった。
「シオ」
「はい」
「水道幹線の第一区間、着工予定を改めて確認しろ。石材の交換が間に合うなら来週に入れる」
「分かりました」シオがペンを走らせた。「コルダ親方にも確認しますか」
「そうしろ」
シオが小走りで行った。
ガルドは空地の方を見た。杭の列が朝日の中に並んでいる。三番目が傾いている。後で自分で直す。
(俺はここがまだ終わってない)
水道の幹線が通っていない。住居が揃っていない。設計書に書いた全部がまだ地面の上にない。それが終わるまで、ここを離れるわけにはいかない。それだけのことだ。
ヴェルンが「持っていてやる」と言った。その言葉がまだ残っている。兄がそういうことをする人間だとは知らなかった。知らなかったというより、考えていなかった。
(考えていなかった、か)
ガルドは設計小屋に入った。
机の上の設計書を広げた。水道幹線の第一区間、掘削深度と側壁の仕様。石材の選別基準をコルダに出し直す必要がある。着工前にやっておくべきことが七つある。
鉛筆を持った。
まだ終わっていない。だから、続ける。
あとがき
EP48でガルドの断りは一度出たが、今回はその翌日——「断った後の朝」を描くことにした。ヴェルンが「水道が通ったら来る」と言い、コルダが「その時は邪魔ではなくなるかもしれない」と言わないまま去る。別れ際の「持っていてやる」という兄の言葉は、計算と本音の混ざった男らしいヴェルンの姿そのものを書けたと思う。ガルドの「ありがとう」が一言だけ出たことが、今話のいちばんの核。




