兄が来た
その馬車が来たのは、昼前のことだった。
南西街道から入ってくる馬車は珍しくない。ここ数週間で商人も職人も面談希望者も増えていた。だがシオが設計小屋に飛び込んできたのは、その馬車が普通の馬車ではなかったからだ。
「ガルド様、来客です」シオが息を切らして言った。「お客さまが——その、クロスウェル家の紋章が」
ガルドは羽ペンを止めた。
「紋章か」
「はい。馬車の側面に。楯に斧の意匠です」
ガルドは机の上の計算書を伏せた。クロスウェル家の馬車がヴァルダ・ノヴァに来る理由は、一つしかない。
(兄か次男か。次男は騎士団から抜けられない。となると)
「迎えに行く」ガルドは立ち上がった。「マルカには連絡したか」
「していません」
「するな。俺が先に行く」
入口の門の前に、馬車が止まっていた。
御者が荷台から降りて馬の世話をしている。馬車の扉がちょうど開いて、男が一人、地面に降り立った。
背は高い。ガルドと似た輪郭だが、体格の作り方が違う。鍛えた筋肉ではなく、室内で磨かれた立ち姿だ。外套は上質な仕立て、靴は旅用だが新品に近い。髪はガルドより明るい焦げ茶で、きちんと整えてある。
ヴェルン・クロスウェル。クロスウェル家の長男。二十九歳。王都の宮内府書記局に在籍し、三十歳を前に係長職についたと父の手紙で読んだ。
男はヴァルダ・ノヴァの入口を見上げてから、こちらに気がついた。ぱっと笑顔になった。
「ガルド! ガルドだな」
「ヴェルン兄さん」ガルドは言った。「なんで来た」
「弟の活躍を見に来た」ヴェルンが両腕を広げた。「聞いたぞ、王都まで噂が届いてる。沼地に要塞が生えた、って。見に来ないわけにいかないだろう」
ガルドはヴェルンの後ろの馬車を見た。供は御者と護衛が一名。荷物は少ない。
「一人で来たのか」
「護衛を一人連れてきた。お前の顔を見に来ただけだから、大げさにしたくなかった」
(大げさにしたくない、とは言うが)
宮内府書記局の係長が、私的な訪問で辺境まで一人で来ることはまずない。何かある。だが今は言わない。そういう男だ。
「入れ」ガルドは言った。「案内する」
シオが入口のところで待っていた。ヴェルンがシオを見て、すぐに笑顔を向けた。
「君がシオ君か。弟からよく聞いてる——と言いたいところだが、ガルドは手紙をあまり書かない男でね」
「クロスウェル様の兄上でいらっしゃいますか」シオが少し緊張した顔で言った。「ガルド様から聞いたことがあります」
「なんと言っていた?」
「優秀だと」
「それは本当か」ヴェルンがガルドを見た。「お前がそんなことを」
「言った覚えはない」ガルドは言った。「シオ、案内の手伝いをしろ」
「はい」
シオは手帳を持ってきていた。すでに段取りを考えている。ガルドは少し安心した。
ヴェルンが一番最初に止まったのは、外壁の前だった。
南側の壁は高さ四間半。石積みの継ぎ目は等間隔で、角には補強の石組みが入っている。壁の根本には排水の溝が掘られ、先月整備した石畳が壁に沿って敷かれていた。
「これを……お前が作ったのか」
「職人と作った」
「いや、そういうことを言ってるんじゃない」ヴェルンが壁を触った。「石の積み方が、普通じゃない。王都の城壁の職人に見せても、こんなふうには積まない」
「王都の職人は違う組み方をする」ガルドは言った。「それは王都の地盤に合った工法だ。ここは地盤が違うから積み方も変えた」
「地盤に合わせて積み方を変えるのか」
「当たり前だ」
ヴェルンが振り返った。ガルドの顔を見た。
「お前、楽しそうだな」
「楽しくはない。まだ終わっていない」
「終わっていないと言いながら、これを作ったのか」ヴェルンが壁から手を離して、全体を眺めた。「……すごいな、本当に」
その声は、社交用の称賛とは少し違う音だった。ガルドは何も言わなかった。
水路区画を通り、宿舎の前を抜けて、設計小屋の手前まで来たところで、コルダが工具を持って出てきた。
ヴェルンを見て、コルダの目が一瞬細くなった。
「親方、こちらはガルド様の兄上でいらっしゃいます」シオが紹介した。「ヴェルン・クロスウェル様です」
「コルダだ」コルダが短く言った。「石工をやっている」
「ヴェルンです。弟がお世話になっています」
「世話はしていない」コルダが言った。「一緒に仕事をしているだけだ」
「……そうか」ヴェルンが少し笑った。「辺境の職人は率直だな」
「王都は違うのか」
「王都では挨拶に三分かかる。内容はほとんどない」
コルダが短く鼻から息を出した。笑ったわけではないが、不機嫌でもない。
「石積みを見たか」コルダはガルドに聞いた。
「これから外壁の北区間を見せる」
「北区間は今日打設したばかりだ。乾き切っていない」コルダは言って、ヴェルンを見た。「触るな」
「分かった」ヴェルンが素直に頷いた。「触らない」
コルダが行った後、ヴェルンがガルドに顔を向けた。
「面白い人物だな」
「腕がいい」ガルドは言った。「それだけだ」
設計小屋の前のベンチに腰を落ち着けたのは、午後に入ってからだった。
シオが水と硬パンを持ってきて、少し離れたところに控えている。ヴェルンは旅の埃を払って、ようやく人心地がついた顔をした。
「正直に言う」ヴェルンが言った。「驚いた。噂に聞いていたより、ずっと大きい」
「まだ半分以下だ」
「半分以下?」ヴェルンが眉を上げた。「これが?」
「第二期の設計が始まったところだ。水道の幹線、住居区画、あとは道路の整備が残っている」
「水道まで作るのか」
「人が百人単位で住むなら要る」ガルドは言った。「水道のない場所に住居を建てるのは無駄だ」
ヴェルンが少し考える顔をした。
「お前は昔から、一人でそういうことをやる人間だったな」
「何がだ」
「誰も頼まれていないことを、先にやる。周りが追いつく前に終わっている。父上が困っていたのを覚えているか」
(覚えている)
家の納屋の屋根が腐りかけていたとき、ガルドは十二歳で一人で補修した。直し方が正しすぎて、父は何も言えなかった。
「あれは腐りかけていた」ガルドは言った。「放っておけばもっと費用がかかる」
「そうだ。お前は正しかった」ヴェルンが言った。「でも父上は三日間黙って部屋にいた。わかるか」
「わからない」
「そりゃそうだ」ヴェルンが笑った。今度は社交の笑いだ。「お前は昔から、正しいことをしているのに空気が読めない」
「読んでどうする」
「上手く立ち回れる」ヴェルンは言って、少し真顔になった。「ガルド、一つ聞いていいか」
「聞け」
「ここが終わったら、次はどうする」
ガルドは少し間を置いた。
「まだ終わっていない」
「終わったらの話だ」
「終わる前に話すことじゃない」
ヴェルンが笑った。今度は苦笑いに近い。
「お前らしいな。じゃあ言い方を変える」ヴェルンが身を乗り出した。「王都に来る気はないか」
ガルドは答えずに、正面のヴァルダ・ノヴァを見た。
設計小屋の前からは南壁と西側の住居区画が見える。先月完成した住居が六棟、今建設中のものが三棟。その向こうに水路が通っていて、排水の溝が掘られている。まだ空白が多い。
「王都で何がある」
「宮内府計画局に、南西部の開発案件がいくつか来ている。そのうちの一つが——」ヴェルンが声のトーンを落とした。「ヴァルダ・ノヴァを軍事拠点として整備する案件だ。それを設計できる人間が局内にいない」
(そういうことか)
以前来たヴェルネ・カルス主席書記官の話と繋がった。あれは現地調査だったのかもしれない。
「俺を王都に呼んで、計画局の仕事をさせるつもりか」
「仕事として、と言いたいところだが」ヴェルンが正直な顔をした。「半分はそうだ。ガルドの力を上手く使える場所に置きたいという話が、局内で出ている。名指しだ」
「もう半分は」
「兄として来た」ヴェルンが言った。「本当に」
ガルドはヴェルンの顔を見た。政治の言葉を上手く使う男だが、今は顔がまっすぐだった。嘘をついているとは思わない。嘘と本音が混ざっているのだ。そういう男だと知っている。
「断る」ガルドは言った。
「理由を聞いていいか」
「ここがまだ終わっていない」
「——」ヴェルンが黙った。
「水道の幹線が通っていない。住居が揃っていない。設計書に書いた全部が、まだ地面の上に存在していない」ガルドは言った。「終わっていないものを置いて王都には行けない」
「……それを終わらせたら来るか」
「終わらせたら考える」
ヴェルンが長い息を吐いた。
「お前は昔から交渉が下手だな」
「交渉をするつもりはない」
「だから下手だと言うんだ」ヴェルンがベンチから立ち上がった。「分かった。今日のところはそれで受け取る。ただし——」
「何だ」
「一晩泊めてくれ。馬が疲れた」
ガルドは少し間を置いた。
「マルカに宿を手配させる」
「ありがとう」ヴェルンが笑った。「さすが弟だ。泊まっていいとは言わないのか」
「そう言うと家みたいになる」
「——だからお前は話が上手くないんだ」
夕方、シオが今日の記録を持ってきた。
ガルドが設計書を確認していると、シオが少し間を置いてから口を開いた。
「兄上、素敵な方ですね」
「そうか」
「ガルド様とは全然違う感じがしましたが」
「違う」ガルドは言った。「昔からそうだ」
「王都のお仕事のお誘いだったんですか」シオが少し遠慮がちに聞いた。
「そうだ」
「ガルド様は断りましたか」
「断った」
シオが何か書き込んで、閉じた。
「ここがまだ終わっていないから、ですか」
「そうだ」
シオが小さく頷いた。
「分かりました」
その答え方が、今日で一番短かった。ガルドは机に向き直った。
(兄として来た、か)
ヴェルンの言葉を反芻した。半分は本当だろう。半分は計画局の仕事だろう。その境目を本人もおそらく分かっていない。分かっていないのに正直だ。それがヴェルン・クロスウェルという男だ。
ガルドは設計書に書き直しの線を引いた。
(まだ終わっていない)
水道の幹線が通るまで、この設計書は完成しない。
あとがき
兄ヴェルンを「政治の言葉を使うが嘘はつかない人間」として書きました。コルダとの短い会話で兄の人柄を短く見せる場面が今話の隠れた核です。「泊まっていいとは言わないのか」「そう言うと家みたいになる」——ガルドの照れ隠しのない不器用さが少し見える一話でした。




