仕事が残ってる
マルカが戻ってきたのは、昼をとっくに過ぎた頃だった。
門が開いた音がして、ガルドは水路の終端から振り返った。外壁の南門を通って、人が入ってくる。一人だ。
マルカだった。
歩き方が変だった。いつもの足運びじゃない。右脚を少し引きずっている。左腕の布の巻き方も、今朝より厚くなっていた。追加で巻き直したのだと分かった。
ガルドは水路から離れた。
マルカと中庭で鉢合わせた。マルカがガルドを見た。何か言おうとして——止めた。
「……終わったか」マルカが言った。
「終わった」ガルドは答えた。
それだけだった。
マルカが石段のそばにある低い縁に、ゆっくりと腰を下ろした。右脚を伸ばした。顔が少し白い。沼地の昼の光に当たっても、昨日の顔より血の気が薄く見えた。
ガルドは何も言わなかった。
縁の端に座った。マルカの横、一歩分の距離。
しばらく、二人とも黙っていた。
中庭に風が入ってくる。水の匂いがする沼地の風だ。石壁に当たって、向きが変わって、中庭をゆっくり回る。
「脚は」ガルドは言った。
「石を踏み外した。骨はいっていない」
「確認したのか」
「ヴァルダの薬師が触って言った。折れていない、と」
「それなら信用していい」
「知ってる」マルカが言った。「歩けるから問題ない」
問題ない、という言い方だった。ガルドは右脚の方を一度見て、それ以上は言わなかった。問題ないというなら、そうなのだろう。マルカが自分の体について嘘をつく理由はない。
「北端の水路は」マルカが言った。
「今も水が満ちている。石の状態を今日中に全区間確認する」
「コルダは」
「今朝から回っている。十区間ずつ目視している」
マルカが小さく頷いた。縁に手を置いて、体を支えている。
「三十一人、全員戻った」マルカは言った。
「聞いた」
「ヴァルツが——来なかったおかげだ。設計が良かった」
「段取り通りだった」
「設計師の言葉だな」マルカが言った。苦笑いに近い顔をしていた。
シオが走ってきた。手帳を持っている。いつも通りだった。
「マルカさん、お帰りなさい——あの、怪我は」
「歩ける」
「右脚を——」
「歩ける、と言った」
シオが口をつぐんだ。それから、手帳を開いた。
「記録を——マルカさんの帰還時刻と、全員帰還の確認を入れてもいいですか」
「好きにしろ」
シオが書いた。書きながら、マルカの脚の方を一度見て、また手帳に目を落とした。何か言いたいのを我慢している顔だった。
「シオ」ガルドは言った。
「はい」
「薬師に水を持ってきてもらえ。マルカの分」
シオが手帳を閉じた。「分かりました」
走っていった。
マルカがガルドを横目で見た。「俺が頼んでいないぞ」
「頼まなくていい」
「お前が頼むことでもない」
「シオの仕事だ」
マルカが短く笑った。声に力が戻っていた。
「計算師は上手い言い方をする」
「計算した結果だ」
水が来た。薬師の娘が木椀に水を持ってきた。シオが横で受け取って、マルカに渡した。マルカが一口飲んで、また一口飲んだ。
「……うまい」
「沼地の水です。井戸から汲んでいます」シオが言った。「普通の水ですが」
「今は普通の水がうまい」
シオが何か書こうとして、ガルドに止められた。止めていないが、ガルドが少し視線を向けた。シオが手帳を閉じた。
正しい判断だ。
南の方角から、馬の音が来たのは、それから一刻ほどしてからだった。
一頭ではない。複数だ。蹄の音が揃っている。整然と動いている音だ。
門番が声を上げた。
「旗が——王都の旗です!」
シオが手帳を取り出した。「来ました」
「何が来た」ガルドは言った。
「支援部隊です。王都から要請した援軍——来るのに時間がかかると言っていた」
マルカが縁から立ち上がろうとした。右脚をかばいながら、ゆっくりと立った。
「来たか」マルカが言った。「遅い」
「遅い」ガルドも言った。
南門が開いた。
馬に乗った一団が入ってきた。先頭に旗手がいる。緑地に金の縦線——王都から派遣される援軍の旗だ。その後ろに騎馬が続く。二十騎、三十騎、まだ続いている。
先頭の男が馬を止めた。鎧が新しい。傷一つない。旅装だが泥はついていない。街道を来た装備だ、沼地を歩いていない。
男が中庭を見渡した。
静かな中庭だ。石壁がある。水路がある。門が開いている。戦の匂いはない。煙もない。声もない。
男の顔が、少し固まった。
「……ここが、ヴァルダ沼地の要塞か」
「そうです」シオが前に出た。「ガルド様の設計した要塞です」
「戦は——戦はどこだ。ゼルカ軍は」
「撤退しました」
男が馬の上で止まった。「撤退?」
「昨日の朝に全軍が北北西に移動を始めて、今朝には稜線の向こうに消えました。記録はこちらにあります」シオが手帳を持ち上げた。
男が周囲を見た。石壁を見た。中庭を見た。普通の昼間の中庭だ。走っている人もいない。叫んでいる人もいない。
「……もう終わってる」
「終わっています」シオが言った。
男がコルダの方に目をやった。コルダは城壁の下で石の確認をしていた。鎚を持って、石の表面を叩いている。
「あれは——」
「石工です。城壁の補修を確認しています」シオが言った。
「……補修?」
「戦闘中に傷んだ箇所の確認です。今日から補修に入ります」
男がもう一度、中庭を見た。それから、馬から降りた。
男の名前はカドウ、という。王都の近衛騎士団から選ばれた援軍の隊長だった。三十代の半ば、顔は整っていて声は太い。援軍の指揮を任されるだけの人間だということは見れば分かった。
マルカの前に来て、名乗った。
「マルカ殿——自警団の代理団長とお聞きしています。援軍、遅れましたこと……申し訳ない」
「遅い」マルカが言った。
カドウが頷いた。「……はい」
「来る前に終わった」
「……はい」
マルカが右脚をかばいながら、ガルドの方を見た。「こっちが設計師だ。要塞を作ったのもこいつだし、ゼルカを引かせたのもこいつだ」
カドウがガルドを見た。
ガルドは特に何も言わなかった。
「ガルド・クロスウェル。土魔法師で設計師だ」シオが補足した。「北端水路防衛ラインの緊急施工三日間で、ゼルカの本軍を引かせました。詳しい記録はこちらにあります」
カドウが手帳を見た。それから、城壁を見た。北の方向を見た。沼地の方向を見た。
「……三日で」
「三日間で緊急設計・施工を完了させました。精度の問題は——」シオが言いかけた。
「それ以上は書かなくていい」ガルドが言った。
「あ——はい」
カドウが改めてガルドを見た。
「援軍が不要でしたか」
「不要だったかどうかは知らない」ガルドは言った。「来なかった場合の計算はしていない。来る前に終わった、それだけだ」
カドウが少し間を置いた。「——何か、我々にできることはありますか」
「補修の手伝いをしてもらえるなら使う」ガルドは言った。「石材の運搬と足場の保持ならすぐに覚えられる。手が多い方が早く終わる」
「……補修、ですか」
「城壁に傷みが出ている。戦闘中に負荷をかけた箇所は今日から確認して、明日から補修する。手伝うなら教える」
カドウが隣の副官と顔を見合わせた。王都の近衛騎士団が石の運搬をする、という展開を想定していなかった顔だった。
「……分かりました」カドウは言った。「お役に立てるよう、努めます」
コルダが戻ってきた。石の鎚を腰に差して、手帳——シオから借りた予備の手帳だ——を持っている。
「外壁東面、三区間で石のずれを確認した。二区間目のずれが大きい。据え直しが必要だ」
「今日中にできるか」ガルドは言った。
「明日の朝までに。今日の昼から始めれば夜で終わる」
「人手がある。援軍が来た」
コルダが援軍の一団を見た。新しい鎧を着た男たちが中庭に並んでいる。泥が一切ついていない。
「……石の運び方を知っているか」
「教えれば覚える」ガルドは言った。
「教える時間が惜しい」
「シオが教える。シオは覚えている」
シオが手を上げた。「私、教えます。最初は二人くらいから」
コルダが短く頷いた。「分かった。一番体格のいい奴を二人よこせ」
カドウが後ろを振り返った。副官に目で合図した。副官が援軍の中から二人を選んで前に出した。どちらも大柄だ。
コルダが二人を一瞥した。「悪くない」
それだけ言って、東の外壁に向かって歩いた。二人がついていった。シオが走って追いついた。
ガルドは城壁に向かって歩き始めた。
内側の通路から外壁の上に出る。石段を上がった。北の方向を見た。沼地が広がっている。丘陵の稜線がある。旗はない。霞んでいる。
城壁の上を歩いた。
傷みはすぐに分かった。外壁の頂面、石と石の継ぎ目が開いている箇所がある。三日間の戦闘で、城壁の外側から何かが当たったのだろう。攻城機ではない——石を投げた跡だ。それほど大きい欠けではない。ただ、継ぎ目が緩んでいる。冬の霜が入れば、そこから崩れる。
(今のうちに直す)
指で継ぎ目を押した。動く。
もう一箇所。ここも動く。
「ガルド様」
シオの声が下から聞こえた。石段の下を見ると、シオが手帳を持って立っていた。コルダの方の説明を援軍に任せて戻ってきたらしい。
「何だ」
「城壁の確認ですか」
「そうだ。上に来い」
シオが石段を上がってきた。ガルドの横に立った。
「手帳を開け。今から言う箇所を記録しろ」
「はい」
「北面——継ぎ目の緩み、三箇所。ここと、二間先と、その次の石の下」
シオが書いた。
「優先度は」
「今日のうちに確認する。補修は東面が終わってから——明後日になる」
「分かりました」
ガルドは北面を端まで歩いた。シオがついてきた。石の状態を見ながら歩く。継ぎ目を手で押す。問題のある箇所をシオに声で伝える。シオが書く。
風が来る。北の方からだ。沼地の匂いがする。
「ガルド様」シオが歩きながら言った。
「何だ」
「マルカさん——さっき、縁に座ったままでした。立ちにくそうで」
「脚が痛い」
「分かってるんですか」
「見れば分かる」
「声をかけた方がいいですか」
「マルカが必要なら言う。言わなければほっておけ」
シオが少し考えた顔をした。「……でも」
「シオ」
「はい」
「マルカは三十一人を連れて戻った。脚は骨が折れていない。薬師が確認した。それが今の事実だ」
「はい」
「十分だ」
シオが頷いた。手帳に何かを書いた。確認事項の続きだ。ガルドはその横を歩いた。
東面の修復が始まったのは、昼過ぎだった。
コルダが援軍の二人に石の扱いを教えていた。声は低い。言葉は少ない。「そこを持て」「角に合わせろ」「押すな、乗せろ」——必要なことだけ言っている。
二人が素直に従っていた。体格があって、言われたことを正確にやる人間だ。コルダの目利きは正しかった。
ガルドは東面の内壁に立って、コルダの作業を見ていた。
「ガルド様」シオが隣に来た。「補修の記録、どこまで入れますか」
「全箇所。日付と施工者と確認者を入れろ」
「ガルド様が確認者ですか」
「そうだ」
「コルダさんは——」
「コルダは施工者だ。確認は俺がする」
「はい」シオが書いた。「あの——今日で何箇所終わりますか」
「コルダが明日の朝までに終わると言った。三箇所だ」
「じゃあ、今夜中に三箇所——」
「そうだ」
シオが少し手帳をめくった。「北面の確認は、今日ガルド様が回りましたが——あと東面と西面と南面が残っています。全部でどれくらい」
「今日中に南面と西面を回る。補修の優先順位を決める」
「今日もですか」
「仕事が残ってる」
シオが手帳を止めた。顔を上げた。
「——はい」
笑っていた。少し、疲れた笑いだったが、本物の笑いだった。
「一緒に回ります」シオが言った。「記録は私がします」
「分かっている」
ガルドは石段を下りた。西面に向かった。シオがついてくる。足音が聞こえる。
城壁は傷んでいる。補修が要る。確認して、手順を組んで、石材を調べて、人手を動かす。
全部、仕事だ。
夕方になった頃、マルカが城壁の石段の下に来た。
右脚をかばいながら、石段の下に立っていた。ガルドが西面の確認から戻ったところで、目が合った。
「……何を見ている」マルカが言った。
「何を見ていたんだ」
「城壁を」マルカは言った。「お前が回っているのが見えた」
「確認が終わった」
「全部か」
「今日分は。残りは明日だ」
マルカが城壁を見上げた。石壁がある。夕方の光が当たっている。三日前より傷んでいるが、立っている。崩れていない。
「……大きいな」マルカが言った。「この要塞」
「まだ途中だ」
「途中? 使えているだろう」
「設計の六割だ。残りを作る」
マルカが少し驚いた顔をした。「まだ作るのか」
「仕事が残ってる」
マルカが黙った。城壁を見ている。長い間、見ていた。
「お前に言うのも何だが」マルカがゆっくり言った。「——助かった」
ガルドは答えなかった。
「三日間で水路を作った。ゼルカを引かせた。俺たちが戦えたのは、お前の設計があったからだ」
「段取りが合っていた」
「そういう言い方をするな」マルカが言った。
「事実だ」
「事実でも」
マルカが石段の縁に手を置いた。体を支えている。
「俺がありがとうと言ったら、お前はどう答えるつもりだ」
ガルドは少し考えた。
「補修の手順を組んだら声をかける。東面から順番にやる。人手があるなら押さえておいてくれ」
マルカが口を開けた。それから、閉じた。
「……お前らしい」
「そういう意味だ」
「何の意味だ」
「礼は補修が終わってから聞く。まだ仕事が残ってるから」
マルカが笑った。力のある笑いだった。右脚が痛そうだったが、笑い声は本物だった。
「計算師には勝てないな」
「勝負じゃない」
「知ってる」
夜になっても、コルダの作業は続いていた。
松明の明かりの下、東面の二区間目の石を据え直している。援軍の二人が石を支えている。コルダが位置を見て、鎚で調整して、手で確認する。
ガルドが通りかかったとき、コルダが顔も上げずに言った。
「もう一刻かかる」
「急がなくていい。確実にやれ」
「知ってる」
コルダが鎚を持ち直した。石の角を軽く叩いた。音で確認している。
「援軍の二人は使える」コルダが低く言った。
「そうか」
「石の扱いは荒いが、力がある。言った通りに動く」
「王都の騎士だ」
「騎士でも石は積める」コルダが言った。「積み方を知らないだけで」
ガルドは援軍の二人を見た。大柄な男たちが、真剣な顔でコルダの作業を手伝っている。鎧は外していた。動きやすい格好だ。
「覚えが早い」
「そうだな」
「明後日から補修が本格的に始まる。引き続き頼む」
「分かってる」コルダが言った。「——先に言っておく」
「何だ」
「悪くない仕事になりそうだ」
ガルドは少し間を置いた。「三回目か」
「今回は補修の話だ。別に数えていい」
コルダが鎚を動かした。石が動いた。位置が合った。
夜の中庭にシオがいた。
手帳を開いて、松明の下で書いている。今日一日の確認記録を整理している。
「シオ」ガルドが言った。
「はい」シオが顔を上げた。「南面と西面の確認、記録に入れました。補修優先順位も——ガルド様が今日言った通りに書きました」
「確認した」
「明日は北面の細かい確認と、東面補修の完了確認と——あと、援軍の方々の作業割り振りが必要ですよね」
「そうだ。朝一番にカドウに伝える。手順を今夜組む」
「今夜もですか」
「明日動かすために今夜決める。段取りだ」
シオが手帳を新しいページに開いた。「分かりました。私も残ります。筆記します」
「今夜は作業手順だけだ。二刻で終わる」
「二刻で終わるなら残ります」
ガルドは詰所に向かった。シオがついてくる。
城壁に松明の明かりが当たっている。コルダが石を叩く音がしている。遠くで水鳥が鳴いている。北の方は静かだ。旗はない。
まだ仕事が残っている。
それで十分だ。
あとがき
戦が終わったのに、誰も休まない話になりました。ガルドが補修を始める場面は最初から書きたかった場面です。マルカとガルドのやり取り——「ありがとう」を「補修が終わってから聞く」ではぐらかすところが、二人らしい落としどころになったと思います。支援部隊が「もう終わってる」と呆然とする場面は、シオの真顔の説明がじわじわ効いた気がします。次話EP44では要塞の名前がつきます。




