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本軍の到着

 夜明けの少し前、物見台から声が落ちてきた。


「北——北の方角、煙が上がっています」


 ガルドは詰所の床に広げた計算書から目を上げた。


 シオが手帳を持って立ち上がった。マルカが外壁の縁まで駆けていった。ガルドも計算書を丸めて詰所を出た。




 外は霧だった。夜明け前の沼地は毎朝こうだ。白い霧が水面を這って、外壁の足元まで来ている。物見台の上で見張りの男が北を指している。


「煙の位置は」マルカが上を向いて問いかけた。


「北の丘陵の向こう——もう一つ向こうの稜線から上がっています。焚き火の煙じゃないです。大きい」


「距離は」


「霧で測れません。ただ、煙の量が——」見張りが少し間を置いた。「一か所じゃないです。並んでいます」


 ガルドは北の方角を見た。霧で何も見えない。


 煙が並んでいる。一か所ではない。


(野営の朝飯の支度だ。どれくらいいる)


「降りてきます」見張りが言った。「昨夜からの記録を持ってきます」


 マルカがガルドの横に来た。声を低くした。


「本軍だ。先遣隊はあの規模で偵察に来ていた。本軍がついてきた——ということだ」


「分かっていた」


「分かっていたのか」


「計算書に書いてある。先遣隊が引いた後、本軍が動く。遅くとも二日、速ければ翌日——昨日が一日目だ。今日の朝に来ても計算の範囲内だ」


 マルカが短く息を吐いた。計算の範囲内だと言っても、実際に煙が並んで上がっているのを聞かされるのは別の話だ——ガルドにはその違いが分かる。


「増援の要請は」


「遅い。来ない」ガルドは言い切った。「計算書を読んだろう。最短でも十日——その間に決着する」




 朝が明けた。


 霧が薄れ始めた頃、ガルドは詰所に戻って計算書を広げ直した。先遣隊の規模を一覧にしたページだ。騎馬三十前後、軽装、弓なし——偵察と水路の突破を兼ねた先行部隊だった。本隊は、その偵察の結果を受けて動く。


「シオ、昨日の記録を出せ」


「はい」シオが手帳を開いた。「先遣隊の騎数、嵌まった十数騎、引き返した数騎——と書きました。合計で見張りの目視では二十五から三十。修復の時刻も全部入っています」


「先遣隊の装備は何だった」


「軽装です。旗は一本、無地の緑——ゼルカの色です。荷馬はいなかった、と見張りが言っていました」


(荷馬なし、軽装、旗一本。偵察に毛が生えた程度の規模だ。本軍はその何倍か)


 ガルドは計算書の欄外に数字を書いた。先遣隊三十。本軍が先遣隊の五倍なら百五十。十倍なら三百。騎兵百前後という最初の情報があった——マルカが最初に持ってきた数字だ。歩兵五百から七百。


「マルカ」


 詰所の外にマルカがいた。


「何だ」


「最初にお前が持ってきた情報——歩兵五百から七百、騎兵百前後、という数字だ。その根拠はどこから来た」


 マルカが入ってきた。ガルドの計算書を横から見た。


「王都の情報部だ。斥候が二週間前に確認した。動員できる規模の上限値と見ていい」


「上限値」


「そうだ。実際に動かした数が上限より多いことはない」


「下限はどれくらいだ」


「……動員の最低が三分の一規模とすれば——」マルカが指で計算した。「歩兵百六十から二百三十。騎兵三十から四十、というところだ」


「先遣隊が騎馬三十。そこに歩兵をつけた規模が先遣隊の全体だとすれば——本軍はそれより大きい」


「大きい。先遣隊は偵察だ。本軍は制圧を目的にする。目的が違えば動員規模も違う」


 ガルドは計算書に数字を足した。




 昼前になって、霧が消えた。


 北の丘陵の向こうから、旗が見えた。


 物見台の見張りが声を上げた。「旗——複数、北の稜線に出てきました。緑の旗、数が——」見張りが息を吸った。「七本、八本——数えています——」


 ガルドはマルカと共に外壁の上に上がった。


 北の稜線に、行軍の列が出てきていた。


 旗が並んでいる。先遣隊は旗一本だった。今見えているのが——ガルドは数えた——八本。旗一本ごとの部隊規模がそのままなら、八倍だ。


 それだけではない。行軍の幅が違う。先遣隊は騎馬が縦に並んで来た。今見えているのは、横に広い。歩兵の列だ。数列に並んで稜線を越えてくる。先頭が稜線を越えても、後続がまだ稜線の向こうから出てきている。


(思ったより多い)


 ガルドは口に出さなかった。計算書を持ってきていた。欄外の数字を見た。


「旗が八本以上ある。行軍の幅から歩兵だと分かる。後続がまだ稜線の向こうにいる」マルカが外壁の縁から言った。声が抑えられていた。「先遣隊の八倍から十倍——下限規模でも二百を超える」


「上限は」


「上限まで来たら——」マルカが少し間を置いた。「六百から七百だ」


「設計の想定は」


「お前の計算書に書いてある」


「七百を上限にして設計した。持つ」ガルドは計算書のページを開いた。「正面は持つ。水路が機能する、外壁がある、誘導路がある——正面から七百来ても計算書の通りに動けば守れる」


 コルダが外壁の下から声を上げた。「数が多ければ、水路を越える手順も変わらないか」


「越えられない設計にした」ガルドが下に向かって言った。「どこから来ても、水路の手前で止まる。そのために設計した」


「正面なら、か」


「正面なら、だ」




 本軍の先頭が丘陵の斜面を降り始めた。


 旗の数が増えていた。今数えれば十本を超えている。行軍の後尾がまだ稜線から出てきていない。規模が見えきっていない。


 シオが物見台の下で数を記録していた。旗の色、旗の本数、行軍の幅、先頭が稜線を越えた時刻、後続が出てくる間隔——全部、手帳に入っている。


「シオ」


「はい」


「旗が全部稜線を越えたら教えろ」


「分かりました」


 マルカが外壁の縁から降りてきた。横に立った。


「援軍の話をもう一度する気はないか」


「ない。来ない、間に合わない——昨日と同じ結論だ」


「そうだな」マルカが短く言った。「じゃあ設計で乗り切るか」


「そのつもりだ」


「計算書の通りに動く。俺が合図を出す——その段取りで行く」


「それで動ける」


 ガルドは外壁の縁に手をついて、本軍の行軍を見た。


 旗が並んでいる。行軍の列が沼地に向かって降りてくる。この距離から見ると、旗は色だ。緑の点が増えていく。音はまだ来ない。だが風向きが変われば、足音か蹄の音が届くかもしれない。


(計算書の通りだ。正面は持つ。設計した通りに動けば守れる)


 それは本当だ。


(だが——)




 昼を過ぎた頃、シオが声を上げた。


「旗の後続が——稜線を越えました。全部出てきました」


 ガルドが数えた。旗は十三本になっていた。行軍の全体が視界に入った。


 先遣隊の三十騎が偵察として来た。今視界にあるのは——幅から計算すれば——三百から五百の間だ。旗十三本、隊列の密度を見ると先遣隊より重装だ。荷馬がいる。補給が来ている。一日二日の接触ではなく、長期の作戦を想定した装備だ。


「シオ、記録したか」


「はい」シオが手帳を上げた。「旗十三本、緑地に白線——ゼルカの旗です。先頭が稜線を越えた刻から後続の最後が越えるまで半刻ほどかかりました。荷馬の数、前後から挟んで荷馬が四頭以上——後方の列に隠れていますが最低四頭見えます」


「荷馬の数を記録しておけ。補給の規模が分かる」


「分かりました」シオが書いた。「荷馬が四頭以上あれば、何日ぶんの補給ですか」


「それは荷物の内容による。今は見えない」


 コルダが水門の方から来た。


「旗が増えた。あれが全部か」


「後続がまだ丘陵の向こうにいる可能性はある。今見えているのが先行部隊で、本隊はまだ来ていない場合もある」


「そうなら——」コルダが口を閉じた。計算が要る話だと分かって、黙った。


「正面は設計した。正面から来るなら持つ」ガルドは言った。


 コルダが頷いた。




 午後になった。


 本軍は沼地の西側——先遣隊が来た街道の延長線上——に野営を張り始めていた。旗が動いていない。陣を構えている。


 ガルドは詰所に戻って計算書を広げた。シオが横に座って手帳を広げた。


「本軍の野営位置は西街道沿いだ」ガルドは地図の上に指を置いた。「そこからうちの水路まで——最短で二里半。騎兵なら一刻かからない。歩兵でも二刻あれば来る」


「今日また来ますか」


「来るとしたら夕方か夜だ。来ないなら明日だ」


 シオが地図を見た。指で北の方角をなぞった。


「ガルド様」


「何だ」


「ここ——」シオが指を動かした。地図の北側の端、丘陵の高台部分に指が止まった。「北の高台から来たら、どうなりますか」


 ガルドは動かなかった。


 シオの指が止まっている場所を見た。


 北の高台——丘陵の稜線を越えてさらに北。そこから南東方向に降りてくれば、外壁の北端に当たる。水路はそこまで設計していない。外壁の北端は沼地の地形で守られているという計算だったが——地形だけだ。水路がない。誘導路がない。


「そこは」ガルドは言った。「設計していない」


「設計していない?」シオが顔を上げた。


「水路が届かない。外壁の北端は地形で守る計算だ。沼地の縁が天然の堀になる——高台から降りてくれば途中で沼にはまる。だが——」


(だが、高台から降りる斜面ルートを詳しく調べていない)


 ガルドは地図から目を上げなかった。


 北の高台から沼の縁までの距離を計算した。斜面の傾斜を思い出した。昨年の雨季に稜線から眺めた記憶が一度ある。その時は要塞設計の段階で、北は地形が守ると判断した。計算書にそう書いた。


 ただ——計算書に書いたのは「地形が守る」という結論だ。計算の根拠は薄い。


「向こうが北の高台から降りてきたとして、ルートは何本あるか」


「分かりません。地図に書いていないです」


「調べていない」ガルドは言った。「北は調べていない。地形だけで守れると判断して、水路の設計を止めた」


 シオが黙った。


 手帳のページが静止している。


 ガルドは計算書の北側の記述を開いた。「外壁北端——天然の沼地地形による防御。水路不要と判断。根拠:稜線から沼縁まで人が降りられる斜面なし」


 そう書いてある。


(降りられる斜面なし——俺がそう判断した。だが、確認していない。歩いていない。先遣隊が引いたあとに来た北側の偵察兵が丘陵の端から沼地を眺めて引き返した——あの斥候は何を確認しに来ていたのか)




 マルカが詰所に入ってきた。


「本軍が陣を張っている。今日の接触はなさそうだ。明日の朝か——ただ、陣の配置が西街道だけじゃない。北側にも兵を出した」


「北の高台か」


「高台の手前の丘陵に歩兵を数十、散開させた。陣の本体ではない。偵察か牽制だと思うが——北側に手を出してきた」


 ガルドは計算書を閉じた。


「計算書を見ろ」ガルドはマルカに計算書を渡した。「北側の記述を読んでくれ」


 マルカが計算書を開いた。北側の記述を読んだ。顔の表情が一度動いた。


「外壁北端——天然の沼地地形による防御。水路不要と判断……根拠:稜線から沼縁まで人が降りられる斜面なし」


「そう書いた」


「確認したのか」マルカが顔を上げた。


「していない」


 短い間があった。


「確認が必要だ」マルカが言った。


「必要だ。ただ今から行けば——向こうの偵察が北側にいる。接触する」


「俺が行く。見張りを連れて行く」


「見て、斜面の傾斜と幅を測って来てくれ。人が降りられる幅があるかどうかだけでいい。測り方はシオに聞け」


 シオが手帳を出した。「縄を使って傾斜を測る方法を教えます」




 マルカが出ていった。


 詰所にガルドとシオだけが残った。


 ガルドは計算書の北側の記述のページを開いたまま、机の上に置いた。


「ガルド様」シオが言った。


「何だ」


「北の高台から来たら、ここの水路は届きません。外壁の北端もあそこまでで——」シオが地図の上で指を動かした。「その先は沼地の地形だけですね」


「そうだ」


「設計してない場所を向こうが使ってきたら——」


「今それを考えている」


 シオが口を閉じた。


 ガルドは地図を見た。北端の沼の縁の形を見た。この地図は測量したものだ。測量した時、沼の縁は歩いた。だが稜線から縁まで——丘陵の斜面は歩いていない。


(北側の斜面に、降りられる場所があるかもしれない。あの斥候が昨日見に来ていたのはそこかもしれない。設計の前提が——薄い)


 前世で一度、根拠の薄い前提で設計した現場があった。地盤調査の数が少なかった。完成してから地盤沈下が来た。やり直した。その時の感触が今、手のひらの奥に戻ってきていた。


 コルダが詰所の扉を開けた。


「正面の水路、異常なし。夕方の見回りが終わった」


「ありがとう」


 コルダが入ってきた。机の上の地図と計算書を見た。


「計算書を開いている。今夜の接触があるか」


「今夜はない。明日だ」


「だが何か考えている」コルダが言った。「顔がそういう顔だ」


「北側の話だ」ガルドは地図の北端を指で示した。「ここから降りてきた場合の設計がない」


 コルダが地図を見た。


「水路は届いていないのか」


「届いていない。設計しなかった。地形が守ると判断した」


「判断した根拠は」


「稜線から沼縁まで斜面が急で降りられないという判断だ。確認していない」


 コルダが地図から顔を上げた。ガルドを見た。


「確認していない場所が——向こうに見えた、ということか」


「そうだ」


 コルダが計算書を一度見た。また地図を見た。


「どうする」


「マルカが今夜確認に行った。明日の朝までには情報が戻る。それから設計する」


「夜に設計するのか」


「段取りだ。情報が来てから設計の段取りを決める。その前に今できることをやっておく」


「今できることは何だ」


 ガルドは計算書の北端のページに目を向けた。


「計算書に穴がある場所を全部リストにする。今夜中に」


 コルダが頷いた。


「俺に手伝えることがあれば言え」


「石材の余分がどれくらいあるか調べてくれ。北端の外壁を延長する場合の量だ」


「分かった」コルダが出ていった。




 夜になった。


 マルカはまだ戻っていない。


 ガルドは計算書の北端の記述を修正しながら待った。「根拠:稜線から沼縁まで人が降りられる斜面なし」の一行に、横線を引いた。確認待ち、と欄外に書いた。


「シオ、計算書の穴のリストを作る。北側以外にも確認が薄い場所がある。手帳を出せ」


「はい」シオが手帳を開いた。


「東端の外壁の終端——そこは地形で守れるか確認したか」


「しています。東端は農地側で、農地の向こうに川があります。川を越えないと来られない」


「川の幅は」


「……記録がありません」シオが手帳をめくった。「書いていないです」


「明日確認する。二番目の穴だ」ガルドは書いた。「水路の第一区間——流量計算の基準になっている地盤含水率、最後に測ったのはいつだ」


「修復した翌朝です。昨日の朝です」


「今日測り直したか」


「……していないです」


「三番目だ」


 シオが書いた。


 ガルドは計算書を見た。まだある。合図の伝達——霧の日の鐘合図、練習したのは一回だ。本番の霧で鐘が届かなかった場合の代替手順がない。四番目だ。


(計算書を作り込んだつもりだった。見えていなかった穴がある)


 前世でも同じだった。設計が完成した、と思った瞬間から、見逃した箇所が出始める。完成した設計に油断するからだ。見え続けるためには、もう一度最初から読むしかない。


 ガルドは計算書を最初のページに戻した。




 マルカが戻ってきたのは、夜が深くなってからだった。


「北の高台の状態を確認した」


「斜面はどうだった」


「——予想より、なだらかだった」


 ガルドは手を止めた。


「降りられるか」


「降りられる場所が一か所ある。幅二間半、傾斜は緩い。木が生えているが、歩兵なら十人ずつ降りられる。騎馬は無理だが——歩兵が降りて、沼の縁を迂回すれば外壁北端に到達できる」


 詰所が静かになった。


「向こうの斥候が昨日来た場所は、その斜面からか」


「斜面の入り口付近だ。確認していたと思う」


「向こうはもう知っている」


「そうなる」


 シオが手帳を持ったまま動いていない。


 ガルドは地図を見た。北の高台。高台から斜面を降りると沼の縁に出る。沼の縁を迂回すれば外壁北端に届く。外壁北端の先に水路はない。誘導路もない。ガルドが「地形が守る」と判断して設計を止めた、その場所だ。


(設計していない場所が——そこだ)


 計算書を広げていた。正面の設計は完成している。水路、外壁、誘導路、合図手順——全部ある。だが北端の先は、地図があるだけだ。設計がない。


「明日の朝までに何ができる」ガルドは地図を見たままマルカに言った。


「歩兵を数人、北端の外壁上に配置する。見張りを増やす。それだけだ」


「それだけか」


「今夜は動けない。向こうの斥候が北側にいる。こちらが動けば見られる」


「分かった」ガルドは計算書を手に取った。「北端の設計を今夜始める。明日の朝までに段取りを出す」


「今夜か」マルカが言った。「今夜中にできるか」


「段取りだけでいい。施工は明日だ。一晩で計算書に加えられる。シオ、起きていられるか」


「はい」シオが答えた。


「計算書を写す作業が出る。今夜のうちにやる」


「分かりました」


 マルカがもう一度地図を見た。北の高台の方角を見た。


「正面は設計した、と言ったな」


「そうだ」


「北端は今夜設計する」


「する」


「——次が来る、ということだな」マルカが言った。「本当の意味での、次が」


 ガルドは計算書の新しいページを開いた。


 欄外に「北端・設計外区間」と書いた。


 次のページには何も書いていない。


 ここから書く。



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