質問してもいいか
鑿が石を叩く音が、朝から城壁の北側に響いていた。
乾いた、硬い音だ。廃墟の石を剥がすたびに、百年以上の空気が混じったような埃が上がる。ドンネが鑿を両手で持ち直した。ニルが石頭を振り上げた。二人とも、視線は石の上に落ちている。
「段取り八分、仕事二分」
ガルドは小声でそれを言い、地面に膝をついた。土魔法を通して廃墟の石組みの密度を確かめる。指先から感触が来る。ここは崩れていない。次の区間に移っていい。
廃墟の撤去は三日目に入っていた。
コルダが連れてきた三人のうち、ドンネとニルが鑿と石頭で廃墟の石を剥がし、オーカが剥がれた石を仕分けする役に回っていた。シオが寸法を測り、クルトが記録を取る。
ガルドは掘り出した基礎の底を土魔法で走り、地盤の状態を確認しながら指示を出した。
「その区間は三つ分剥がしたら止まれ。底の確認をする」
「……三つか」
ドンネが低い声で繰り返した。文句ではなく、確認するときの口調になっていた。
「三つだ」
「わかった」
ドンネが鑿を持ち直した。
(ドンネが指示を確認するようになった。最初の日は「そんな手順が必要か」と言っていたのに。壊してみてわかったことが、ドンネにもあったのだろう)
ガルドは次の区間に移った。
コルダは少し離れた場所に立っていた。
作業に加わっているというより、全体を眺めている姿勢だ。腕を組んで、誰かの仕事を見ているようで、現場全体を見ているようでもある。
ガルドは気づいていた。コルダがいつも斜めから見ている角度。真正面でも後ろでもなく、常に斜めから。それはどこかの現場で叩き込まれた癖だろう、とガルドは思った。職人は現場全体を俯瞰で見るとき、そういう立ち方をする。
橋の補強を始めた頃から、コルダはそういう立ち方でガルドの現場を観察してきた。黙って見る。次の日また来る。質問はしなかった。
今日もそうだった。
昼前、基礎の一区画が掘り終わった。
廃墟の石組みを全部取り除いた後の底だ。幅は四間弱、深さは二間弱。底の地盤は、土魔法を通すと粘土と砂が層になっているのが感触でわかった。
ガルドは底に降りた。
「シオ、深さを計れ。北端、中央、南端の三点だ」
「はい」
シオが測量棒を持って降りてくる。北端から計測を始めた。
「北端、一間七寸です」
「記録」
クルトが書き取る。
「中央、一間七寸二分」
「よし。南端」
「一間七寸一分です」
(誤差一分以内。地盤の凹凸としては許容できる。この底の上に地盤改良を入れ、基礎石を置く。それで城壁を支える設計が成り立つ)
ガルドは底の地盤に手をついた。冷たい。水分が多い。だが硬さは想定の範囲内だ。
「地盤改良、この区間から入れる。午後から始める」
午後の作業が始まった。
ガルドが地盤改良の土魔法を通している間、コルダが少し近づいてきた。
ガルドは地面を見ながら作業を続けた。土魔法で粘土層の透水性を調整し、砂と粘土の配合を均一にしていく。目に見えない作業だ。地面は何も変わらないように見えるが、手応えが変わっていく。粘土が締まって、指先に返る抵抗が少しずつ重くなる。
コルダがその様子を見ていた。
しばらくして、近づいた。ガルドの作業から三歩ほどの距離で止まった。
「質問してもいいか」
ガルドは手を止めた。振り返った。
コルダが腕を組んだまま、まっすぐ見ていた。
「どうぞ」
「なぜその深さまで掘るんだ」
コルダが言った。
「根拠を聞いている。感触じゃなくて」
「計算から出た数字だ」
「計算で深さが出るのか」
「出る」
ガルドは膝をついたまま、地面に木の板を置いた。腰の道具入れから炭を出して、数字を書き始めた。コルダが一歩前に出た。板の上の数字を追う目線がわかった。
「城壁の重さを出す。北側の区間は一区間で三十間、高さは現状から一・五倍に伸ばす設計だ。石材の重さと厚みから、基礎に伝わる荷重が計算できる」
「……そこまでは、わかる」
「その荷重を地盤が支えられるかどうか、地盤の支持力が要る。支持力は地盤の種類と深さで変わる。ここの地盤は今の底で支持力の基準値を超えている。だからこの深さで止めた」
コルダが板の数字を見た。
「支持力の基準値——それは誰が決めた」
「俺が計算した。沼地の粘土層の場合、深さが増えるほど圧縮されて支持力が上がる。ただし水分量が多い場合は上がり方が鈍い。ここの地盤は水分が多いから、基準の一・二倍の深さで計算した」
「一・二倍——どこから来た数字だ」
「余裕を見た。完全に確かめるには荷重をかけて実測するしかない。今の段階では計算上の推測だ。だから余裕を持たせる」
コルダが黙った。
(コルダが「感触じゃなくて」と言った。橋の補強のとき、「石の引き」でひびの原因を感触で判断した男が、今は計算を聞いている。何かが変わった)
「一つ確かめる方法があるか」
コルダが続けた。
「計算が合っているかどうか、壊してみる前にわかる方法があるか」
「ある」
「何だ」
「荷重試験をかける。地盤改良が終わってから、実際に重さをかけてみる。設計荷重の一・二倍の重さをかけて、地盤が沈まなければ合格だ」
「重さをかける——どうやって」
「石を積む。設計荷重に相当する重さの石材を仮置きして、地盤の沈み込みを計測する。三日間計測すれば十分だ」
コルダが腕を組み直した。
「それをやれば——計算が合っているとわかるか」
「三日間で沈み込みが許容範囲に収まれば、設計が正しい確信が増す。完璧な証明にはならないが、施工を続けていい根拠になる」
コルダが少しの間、地面の数字を見ていた。
「……なるほど」
低い声で言った。組んだ腕のまま向き直り、ゆっくりともとの場所へ歩いていった。
ドンネが壁面の石を叩いていた。廃墟の上層部分の剥がし残しを処理している。
「荷重試験ってのは何だ」
戻ってきたコルダに聞いた。気づかないうちに聞こえていたらしい。
「石を積んで地盤の沈み込みを計る試験だ」
「壊してみないとわからないんじゃなかったのか」
「壊す前に確かめる方法がある、ということだ」
ドンネがしばらく黙った。
「……壊す前に確かめる」
「そうだ」
「なんで最初からそうしないんだ」
「地盤改良が終わってからでないとできない。今日のうちに地盤改良を終わらせれば、明日から試験に入れる」
ドンネが「そうか」と言った。
「なら早く終わらせればいい」
「そうだ」
ドンネが鑿を持ち直した。速さが少し上がった気がした。
(ドンネが理由を聞けば動く型になってきた。最初の日と比べると、ずいぶん変わった)
夕方、地盤改良の第一区画が完了した。
ガルドが仕上がりを確認する。土魔法を通して均一に改良できているかどうかを感触で確かめ、四点でシオに深さを計らせた。
「北西、一間七寸一分。北東、一間七寸三分。南西、一間七寸。南東、一間七寸二分」
「最大誤差は三分か」
「はい」
「許容内だ。明日、荷重試験の石材を搬入する」
シオが手帳に書き取りながら「荷重試験って初めてですね、今回の現場では」と言った。
「道路でも橋でも同じことをやっている。形が違うだけだ」
「え、道路の地盤改良の後も確かめてましたっけ」
「踏み込み確認をした。全区間で踏み込んで沈み込みがないかどうかを確かめた」
「あれも試験だったんですか」
「簡易版だ。城壁は荷重が段違いだから、正式な試験が要る」
シオが「なるほど、全部繋がってる」と書いた。
(シオが「全部繋がってる」と言う。本人は気づいていないだろうが、それは正しい観察だ。道路も橋も城壁も、確かめてから進むという順番は変わらない)
帰り際、コルダがもう一度近づいてきた。
「一つだけ追加で聞いていいか」
「どうぞ」
コルダが少し間を置いた。腕を組み直した。
「計算が合っていたとして——それは、誰が計算したかに関係するか」
ガルドが少し考えた。
「意味を聞いていいか」
「お前が計算したから信用できる、ということか。別の人間が同じ計算をすれば、同じ答えが出るのか」
「出る」
「根拠は」
「計算式が同じなら、数字が同じなら、答えは同じになる。俺が計算したからではなく、手順が正しければ誰でも出せる」
コルダが腕を組んだ。
「……俺でも出せるか」
「手順を覚えれば出せる。計算そのものは難しくない。地盤の特性を見極めるほうが難しい」
「地盤の特性は感触か」
「感触と計測の両方だ。感触だけでは数字が出ない。計測だけでは現場の変化についていけない。両方を合わせる」
コルダが「そうか」と言った。
「橋の補強のとき、『感触は問題を見つける、計算は原因を説明する』と言っていたな」
手が一瞬止まった。
「覚えていたのか」
「書いてなくても覚える」
(シオが「計算と感触の両方が要る」という話をガルドから聞いたのを覚えている。コルダも同じことを、別の回路で聞いていた。今、それが繋がった)
「そうだ。感触は問題を見つける。計算は原因を説明する。基礎の深さも同じ順番だ——感触で『これくらい必要だ』と当たりをつけて、計算で確かめる」
コルダが少し頷いた。
「明日、荷重試験の立ち会いをしてもいいか」
「来てほしい」
コルダが腕を解いた。横でシオが顔を上げた。
「じゃあ明日」
それだけ言って歩いていった。
一人になってから、ガルドは作業現場を眺めた。
今日一日で撤去した廃墟の石組みが、脇に積んである。仕分け済みだ。再利用できるものとそうでないものに分けてある。
明日から荷重試験に入る。三日間の計測が終われば、基礎石の搬入に入れる。
(コルダが「俺でも出せるか」と聞いた。出せる。出せるようになる。あの手と目と経験があれば、計算の手順を覚えれば、もっと早くなる。三十年の職人の感触に計算が合わさったら、何が出来上がるか)
シオが手帳を閉じて横に来た。
「コルダ親方、今日話しかけてきましたね」
「した」
「橋の工事のとき以来じゃないですか。向こうから話しかけてきたの」
「橋のときとは違う聞き方だった」
「どう違うんですか」
ガルドは少し考えた。
「橋のときは計算書を見てから聞いてきた。今日は計算書を見る前に聞いてきた」
「……それはどういう意味の違いですか」
「見てから聞くのは確認だ。見る前に聞くのは知りたいということだ」
シオが「なるほど」と書いた。
「それって、すごいことじゃないですか」
「そうだな」
「コルダ親方が知りたがってる、ということですよね」
「そうだ」
シオが手帳を膝に当てて「楽しみだなあ」と言った。
「何が」
「コルダ親方がどこまで行くか」
(シオが「コルダがどこまで行くか」と言った。俺も気になっている。言わないが)
「帰れ。明日も早い」
「はい。でも明日も来ます」
「わかっている」
シオが手帳を抱えて歩いていった。
夜、計算書を広げた。灯り一つ。昼に地面の板に書いた数字と同じ手順を、今度は紙の上に書いていく。
荷重試験の段取りだ。石材の搬入量、積み方、計測点の配置、三日間の計測間隔——それぞれを書き込んでいく。
荷重試験の結果次第で、基礎石の仕様が変わる可能性がある。許容誤差を超えた沈み込みが出れば、地盤改良をもう一段入れる必要がある。出なければ、このまま基礎石の搬入に進める。
(段取りを組む。現場が変わる前に手順を整える。これは道路のときから変わらない。変わったのは規模だけだ)
ペンを置いた。
コルダが「俺でも出せるか」と聞いた声を、もう一度思い出した。どこかで、自分も同じことを誰かに聞いた気がした。
三十年、石を積んできた人間が「計算を覚えれば出せるか」と聞いた。出せる。絶対に出せる。感触がある人間に計算が合わさったら、どれほどの仕事ができるか——それは、荷重試験の計測より楽しみな問いだと思った。
(楽しみ、か。シオと同じことを考えた。たまにはいい)
ガルドは計算書を折って置いた。
明日、荷重試験が始まる。




