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隔ての世界  作者: 貴志一樹


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ヨカゼ

 地面は遙か下にあった。

 雲はゆっくりと形を変えながら、少年の下を流れていく。時折、木々が見え隠れするが、それはあまりにも小さく見え、この崖の下に地面など無いように思わせた。

 コウテン崖と呼ばれるこの崖は、少年の住む村の中で最も高い場所にあり、垂直に切り立っている。剝き出しの岩には生命の色はなく、この土地の険しさを物語っていた。

 時折、強い風が少年の金色の髪の毛を巻き上げて、下の世界へと手招きする。体をよろめかせながらも、体を屈めて踏みしめた。もし転落すれば、屈強な体を持つ少年でも死は免れない。無意識に足が震え、恐怖を覚えた。

 少年にとってこの崖の下は特別だ。そこは、興味の尽きない不思議な場所。けれど、その興味はある意味持ってはいけないものなのかもしれない。

 この村には崖の下を下りてはならないという掟がある。崖を下りるのも、備えの木々が無くなったときだけで、下へ行けるのは大人だけだ。掟は厳しく、勝手に下りようものなら、その者は、もう村へ帰ってくることは許されなかった。

 けれど、心まで縛ることはできない。

 きっとこの村は何かを隠している。この下には一体何があり、大人たちは何におびえ、何を隠そうとしているのか。隠されれば、どうしたっても知りたくなる。

 水平線まで木々が続く世界とくらべ、少年の背後の世界はあまりにも狭い。

 見渡せば真っ白なソバの花が咲き乱れ、その奥には切り立ったいくつもの山々が見える。代わり映えのない景色の中で、老婆がヤギを連れて歩く姿は嫌いではない。けれど、好奇心と比べれば、心が躍らない。日常が穏やかな川なら、崖の下は飛沫をあげる大河だ。所詮、貧しいこの土地では、見られる景色が限られている。


「1345(ひとさんよんご)、こっちを手伝っておくれ」


 1345と呼ばれ、少年は振り返った。少年の後ろには大きな布を頭に纏った老婆が、数十匹ものヤギを連れて立っており、それぞれの首につけられた鈴が動きに合わせて音を鳴らす。


「婆ちゃん。そいつらに餌をやりに行くの?」

「そうだよ。陽が昇っているうちに餌をやらないと、こいつらがうるさくて眠れなくなってしまうからね。こいつらの食欲なら、夕食中に家まで入ってくるかもしれない」

「あはは、確かに。もう陽も傾いてきてるし、早く餌をあげなきゃだね」

「まったくこいつらはよく日中でも外で活動できるね。あたしゃ、この時間でもまだ目が痛いってのに。当番でもなければ、こんなことやらないよ」


 そういって老婆は、沈み始めた太陽の光に、眩しそうに目を細める。


「もう少しで夜だ。あとちょっとの我慢だよ」

「そうは言ったって、毎日毎日、誰かしらがこいつらのために朝夕は外に出なきゃいけない。こいつらの当番は辛くて嫌になるよ。あんたもだよ、1345」

「俺? なにが?」

「そうだよ、よく日中からこんなとこへ来るね」

「まあみんなよりは光に強いからね。その分夜は劣るけど」


 老婆の言葉に1345は笑い、もう一度崖のほうを見つめた。雲間からは、木々の間を通る川が太陽の光を反射して煌めく様子が見えた。


「夜よりも昼間のほうが綺麗なんだよ。こんなに色にあふれているのに、ほとんど黒色にしか見えない夜に見るのは勿体ないだろう?」

「1345は本当にコウテン崖が好きだね」

「この崖の下には何があるのかって考えたら、こんなに面白いことはないよ」


 1345の憧憬の眼差しに気づいた老婆は、呆れたように笑った。


「理解できないねぇ。知りたいなんて思ったことないよ」

「なんで? 崖を下りたくないの?」

「だって悪い奴らがいるじゃないか。わざわざ拝みたいなんて思わないね」


 幼いころから何度も聞かされる言い伝え。悪い奴らがいて、下へ降りたら襲われるという。しかし、見た村人はおらず、どんな姿かたちをしているのか誰も知らない。そもそも、本当にそんなものがいるのかすら怪しい。大人たちの隠している秘密の一つだ。

 少なくとも1345には、これほど美しい世界にそんな禍々しい何かがあるとは思えなかった。


「でも、誰も見たことがないのに、なんでそんなに恐れる必要があるの?」

「そりゃあ、我らが長や私の親たちが危ないっていうからさ。好奇心は素晴らしいけど、その好奇心が刃物に変わる可能性があるなら、知らなくていいね」

「つまんないね」

「つまんなくていい、それが一番。けど、もしかしたら1345でも崖の下に行けるかもしれないよ」

「なんで? もう村の木々がなくなった?」

「さぁね」


 老婆は知ったこっちゃないと続けて、少年にヤギを連れて帰るのを手伝うように手招いた。

 1345は思いがけない言葉に、一瞬にして高揚する。それまで無色に見えた世界も、色づいたような気がした。

 老婆の手に握られていた紐を手に取り、ヤギを引っ張り歩きだす。慣れたヤギのゆっくりとした足並みも、この時ばかりは非常にじれったく感じた。

 日中は放牧しているヤギは、夜になれば狭い檻の中に帰される。きっと飼われたヤギと閉ざされた空間で生きる村人たちに差はない。掟を守って、狭い世界で生きることは檻の中で生きるのと同じだ。もし、檻が放たれればきっとヤギだって飛び出していく。

 気づけば、言葉が先に飛び出していた。


「もしさ、崖の下へ行けるんだったら、俺立候補してみるよ」


 赤く輝く瞳は炎のような熱気を纏っていた。

 興奮した様子の1345を見て、老婆は少年がまだ幼かった頃を思い出した。成長し大人びた顔立ちになったが、こうやって笑えばまだあどけなさが覗いていた。懐かしさと嬉しさが入り交じり様子で、老婆は微笑みながら言う。


「ああ、そうしてみるといい。もしかしたら行かせてもらえるかもしれないね」


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