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蹴鞠少女はひとりではない   作者: みつたけたつみ
9/11

かき氷

 初めて聴くにも関わらず、どこか懐かしかった。


 クラシックではバイオリンと呼ばれる弦楽器、フィドル。鉛筆握りのバチで叩く片面だけ革を張った太鼓、バウロン。脇にはさんだふいごで空気を送って音を出すイリアンパイプ。非常に簡素な縦笛で安く買えるためペニーホイッスルとも呼ばれるティンホイッスル。電気を通す楽器は一切使われていない。


 そこに躍り出る二人のダンサー。赤毛の青年も、金髪の少女もエメラルドグリーンのフレアスカートを履いた長い足で軽快なステップを踏む。カンカンという渇いた音を鳴らす革底の靴だって立派な楽器である。


 ケルト人、という種族がいる。一時はヨーロッパ大陸に広く生息しながら、もう一方の勢力であるゲルマン人によって駆逐されたとされる大いなる民族。


 ところがゲルマンの侵略が唯一及ばなかった場所がある。グレートブリテン島の西に位置するアイルランド島だ。そこで生き長らえた彼らはアイルランド人として独自の変化を遂げながら息づくことになる。


 ケルトの文化は口述で伝えられてきた。当然楽譜などない。ピリオドのない音楽は奏者が耳で覚え、根が尽きるまで終わらない。ケルト音楽がダンスミュージックとして発展を遂げたためである。


 この曲は「ジョン・ライアンのポルカ」という名前のトラッド。映画「タイタニック」で三等客室のパーティーで主人公のジャックとローズが踊った曲である。


 二人が互いの左腕を組んで回る。185センチと170センチのダンスはひたすらダイナミック。


 赤毛の青年と金髪の少女、映画の二人とは髪の色が逆だが、薄目で見ればそれっぽく見えなくもない。

 十人弱のバンドが奏でる

 大石尚幸は葛飾クラブの誇る名ゴールキーパーだったが80年代末に一度引退、その後二年間コーチ修行と称して世界中を放浪している。


 その時に気づいたのだ、アメリカにもヨーロッパにもアイリッシュパブのない街がないのに。


 長年アイリッシュ系アメリカ人のセンターバックと同じゴールを守っていたこともあり、行ったこともない日本と同じ島国には親近感を抱いていた。そして彼の昔話を思い出したのだ。


 日本が幕末と呼ばれる血生臭い時代だった頃、アイルランドも国難を迎えていた。ジャガイモ飢饉、アイルランド人の主食であるジャガイモに疫病がまん延し多数の餓死者を出した。座して死ぬをよしとしなかったアイルランド人は海を渡りアメリカに移住した。アメリカ人が難民を冷遇したため、消防士や軍人といった死と隣り合わせの危険な仕事にしかありつけなかった。そう言っていた当人も在日米軍基地に勤務するネイビーだった。


 アイルランドそのものは小さな国だが、世界中にはアイルランドをルーツに持ったアイリッシュたちが大勢いる。彼らは訪れたこともないアイルランドを懐かしむようにパブに集いアイルランドの誇る黒ビール、ギネスを飲みながらケルト音楽に身を傾ける。


 この人たちを相手に商売したら儲かるのではないか。そう思って始めたのがここ、九州男児である。本当はアイルランドを感じる名前にしたかったのだが、二丁目でそんなこじゃれた名前の店流行らないわよと共同経営者の反対に遭い、この名前に落ち着いてしまった。


 だから月に一回はこうしてバンドを呼び、セッションする。ここがアイリッシュパブだと忘れないために。


「えー、今晩は、ザ・チークダンスのライヴにですね、お集まりいただきましてね」


 ありがとうごさいます、と言い切らないうちに店内にムチムチした肢体を寄せあうようにひしめくオスどもの雄叫び。


 昔のディスコには必ずスローバラードに合わせて男女が頬をくっつけて踊るチークタイムがあり、その踊りがチークダンス。チとダの二ヶ所にアクセントがくるが、このバンドはチから先を下るように発音する。ケルト音楽の巨匠、ザ・チーフタンズとかけているのだ。


 このバンドの二代目のバンマス、マカロン修羅が汗の引かぬ顔を白いワイシャツの袖で拭う。うっすらと肌色が透け、それだけで悲鳴がそこここで上がる。


 その間に金髪の少女、楓瑞穂がアイリッシュハープをひざの上に抱える。エメラルドグリーンのマニキュアを塗った白魚のような指がアルペジオで金属の弦を鳴らし、最後の曲が始まった。



Your hills and dales and flowerly vales


(丘と山々と花咲く谷)


That lie near the Moorlough shore.


(ムアロック川のほとり)


Your wind that blow through Burden's grove


(森から吹き抜ける風に吹かれる)


Will l ever see you more.


(あなたにまた会えるのかな?)



 修羅の吹くアイリッシュフルートの音色がそれに折り重なった。


 ミーンミンミン・・・


 ミンミンゼミのコーラスを聞きつつ、河川敷のグラウンドを江戸紫の集団が周回する。


「ウン、ドイス、トレス、クアトロ・・・」


 呪文のように繰り返しているのはポルトガル語の1、2、3、4である。葛飾クラブではランニングやウォーミングアップのブラジル体操の時に取り入れている。


「いやー、スカッとしたね」


 あの人の前で絶対その話題には触れるな、と口裏を合わせていたのをぶち壊したのは当の山路寛子だった。


「ブーブーうるさいったらない、豚かよっての」


 中国で開催されていたアジアカップの話である。


 日本代表の試合に地元サポーターが大挙して押しかけ、君が代を打ち消すほど大音量のブーイングをする行為はちょっとした話題になっていた。


「ムカつかんの?」


「だって中国出てねーもん」


 これが問題だったのは、中国代表の試合ではなく、日本と第三国の試合で行われていたことだ。赤一色の中国人たちは日本に罵声を浴びせるためにスタジアムに行き、日本が勝つとすごすごとスタジアムを後にしていたのだ。


「中国と中国人は好きだけど、中共にゃヘドが出る」


 父は上海人、母は日中ハーフ。悠久の歴史を刻んだ誇り高き漢民族には、中国共産党による反日教育が腹に据えかねるようだった。


「日本と中国が当たったら、どっちを応援するんですか?」


 176センチのゴレイロとただ一人目線の高さを合わせられる楓瑞穂が尋ねる。背中にかかるひっつめ髪は、明け方と夕暮れだけプラチナブロンドに輝く。父方の曾祖母がロシア人で、鼻梁の高さにスラブ人の特徴が出ている。


「どっちにするかねえ」


「どっちも応援すりゃいいじゃん」


「運動会かよ」


 長い舌を出す柳沢真夏。長い手足と褐色の肌、縮れた髪の彼女の母は象牙海岸で有名な西アフリカのコートジボワール共和国をルーツとするフランス人。パティシエの修行でパリに来ていた日本人と知り合い、彼女を身籠った。


 国際色豊かな三人に続くのは松田深雪、桜井やよい、藤原杏木。


 顎眉が濃くや頬骨が発達、鋭い眼光が目を引く縄文顔の深雪。夏休み限定で髪を茶髪にしたところゴリラっぽくなったと評判だ。


 丸顔で眉も唇も薄く、さっぱりとした顔立ちの弥生顔のやよい。目下撮影中のドラマの役作りで髪を結ったところお侍のチョンマゲのようである。


 色白で下ぶくれ、細い目におちょぼ口の典型的平安顔の杏木。ようやく訪れた美容院で夏らしい髪型をとオーダーしたらまるでこけしのようだ。


「チンタラ走るな六地蔵!」


 遅れて走る杏木たちに監督、菅原真澄の雷が。七月から一日の休みもなく真夏日の続く東京の蒸し暑さが容赦なく体力を奪いにくる。


 世間の中高生は夏休みを謳歌している頃、葛飾プリンセーザは朝の九時からたっぷりと走りこまされる。ラダーを用いたステップ、クラブハウスの非常階段をひたすら上下動することもあるが、一番多くの時間を割かれるのがグラウンドの周りをひたすらランニングする持久走。


「六地蔵なぁ」


 京都の夏祭りといえば五山の送り火だが、よそさんが大文字焼き見に来ました、と言わはったら腹の中でせせら笑いするのが正しい京都人のお作法である。山は焚くものであって焼くものではない。


 杏木にとって、京都の夏祭りといえば、六地蔵巡りである。


 宇治市に六地蔵という地名がある。かつてはここに一本の木から彫ったとされる六体の地蔵菩薩が安置されていた。しかし現在、伏見区の寺にある地蔵は一体のみ。


 --保元の世、清盛めが都に災厄が入ってこないよう、街道の入口に移したのでございます。己が力を世に知らしめるために。


 大納言だった彼が、自分より官位が上の大政大臣にまで上り詰めた平清盛を目下の者としてこき下ろしているのが面白い。当時賤しいとされた武士の出だからだ。


 嘘やろ、と杏木がひきつった笑みを浮かべれば、嘘も餅もついたことがございませぬ、と平然と返された。祖父の新盆に供養をしたいと口走ったのが間違いだった。


 地蔵盆は二十四節季の処暑、暑さの盛りを過ぎた頃に行われる。八月下旬の京都は当然のように30度を超える。また処暑は台風の特異日でもある。


 そんな日に蹴鞠りながら六地蔵巡りをせよとのたまった。当時九歳だった杏木に向かって。六体の地蔵は現在の京都市を取り囲むように一体ずつ安置されている。それを巡るということは、京都市の外周をぐるりと回るということだ。


やったことあるんか、と毒づいたら保元の頃すでに還暦近い老足でありましたゆえと返された。自分もやったことがないことを人にやらすなと言ったら、恨むなら清盛めを恨みませとにべもない。


 あまりにも無茶苦茶だった。外は暑いし、鞠はあさっての方向に飛んでゆく。泣き叫びながら参拝し、最後は公共手段を使ってやっと回り終えた。頭の中で谷村新司と加山雄三が「サライ」を歌っていた。  


 その次の年はだいぶ慣れた。自分の足で二日かけて回れた。三年目は一日で終わってしまった。


 あれに比べれば、六地蔵呼ばわりされるなどわけもない。

 日中は室内での筋トレ。ただしプリンセーザの全選手が一斉に利用できるほどクラブハウスのトレーニングルームは広くないので11時からが高校生、13時からが中学生。杏木たちは一度家に帰り、昼食を取ったり仮眠を取ったりしてから北千住に戻って来る。


 少女の体が子供を産めるよう変化する体から脂肪を文字通り削ぎ落とす必要がある。そのためには長い時間をかけて体に負荷を与えてゆくのが効果的。普段は週に一回乗る程度の体脂肪計に毎日乗り、グラム単位で体重を管理するボクサーのような毎日を送っていた。


 杏木はとにかく左の大腿筋を大きくしたかった。今まで右足一本に頼りきりだったために左右の太ももの太さがまるで違い、そのアンバランスがケガの引き金になっていた。マシンにかけた左足を上げ、苦痛に顔を歪ませる。


「ぐあっ」


 10キロのダンベルを誤って足元に落とす深雪。腕が棒のようで額の汗も拭えない。握力を失った両手のひら、中指から小指のつけ根には枝豆のような握りたこが三つずつ。彼女のトレーニングは上半身中心、これでもかとばかりに胸筋を痛めつける。ふくらみつつある乳房を削ぎ落とすかのように。


「みゃー!」


 出入り口の梁に手をかけて懸垂するのは第三キーパーの平手紫織。公称で153センチの身長を少しでも伸ばそうと毎日パックの牛乳を飲み干したり、煮干しをかじったり、ちょっとでも背を伸ばそうとする涙ぐましいまでの取り組みには誰もが刺激を受けていた。


 カナカナカナ・・・日暮とも書けるヒグラシの声が遠くに聞こえる。


「ヤナギ!」


 タッチライン際をオーバーラップする真夏に声をかける杏木。クロスはその頭めがけて上がるが合わない。


 16時からは隅田川の河川敷グラウンドでボールを用いた練習だ。ドリブルやパス練習をみっちり行ったあと30~45分ハーフのゲームを行う。朝から追いこまれた体が悲鳴を上げるが、それでもボールなしの練習よりは誰の顔もはるかに明るい。


 ここしばらく杏木と真夏がレギュラーチームに入っている。不動のスタメン、立花と佐倉が東京都選抜に招集、不在のためだ。杏木がメイヤー、真夏が左サイドと本来のポジションではないもののこれ以上のアピールの機会はない。


 ボールを前に運ぶ瑞穂。色素の薄い彼女の虹彩はより多くの光を吸収してしまうので、まぶしそうに目を細めるのがくせになってしまっている。太陽のほうの手で陽射しをさえぎりながら、白く長い左足をしなわせる。


「縦切り!」


 杏木のコーチングもむなしく、ロングパスを出させてしまう。ぐんぐんと伸びたボールの落下点、ボールをヘディングで競り合うのは深雪とキャプテンの志村。体格に勝る深雪が競り勝ち、足元に落としたボールを左足でトラップ、その間に体勢を立て直した志村が寄せるも先にシュート。山路の指をかすめたボールがゴールの上に。


「なんで迷った!」


 菅原が声を荒げる。右足で確実に狙った分、時間を与えてしまった。

 松戸駅に着くのは八時。そこからようやく自由な時間になる。実家から夏野菜が届いたので台所に立つ杏木。暑ささえこらえれば料理はいい気分転換になった。


 皮をむき、裏包丁を入れると何でも手鍋にぶちこむ。えぐりこむようにして煮るべし。


「アンコちゃん、ちょっと見て」


 甘えたような声を出し、デッサン用のエンピツで髪を細やかに編みこんだ頭をかきむしる真夏。


「おいしそう」


「大したもんやあらへん。山科なすの炊いたんに九条ネギの炊いたん、鹿が谷カボチャの炊いたん」


 京言葉では煮ることを炊くという。炊いたん、で煮物である。大したことないと言いつつブランドをアピールする京都人。


 その昔、部活動中に水は飲むなということが厳しく言われた時代があった。これは食生活と密接な関係があった。水で炊く米や味噌汁、煮物からは一食でペットボトル一本ほどの水分を摂取できたという。昔ながらの炊いた野菜は体に負担なく水分を補給できる合理的な調理法だ。


 関東の鰹だしが杏木は未だに慣れず、利尻コンブで出汁を取る。調味料には出し惜しみするな、というのが藤原家の家訓である。


 玄関のドアが音もなく内側に開く。


「あれがうちのタイタン(巨人)」


「いやーん、煮ても焼いても食べられない」


「うるさい」


 瑞穂がハート型の楽器ケースを肩から下ろす。サッカーの後はバンドの練習、今月ギグがあるらしい。


「夕飯まだやろ?」


「いや、いい」


「みっちゃん、実家から荷物届いてたよ」


「どうせいつもと同じだよ。ほうとうと信玄餅」


 ほうとうはきしめんのように平たい麺を野菜と一緒に味噌で煮込む甲府の郷土料理。貧しかった時代の代用食でもあった。


「たまには帰ったら? 中央線で二時間でしょ」


「盆地の暑さなめんなよ」


「ただいまー!」


 激しい音と共に開く玄関を閉めることすらせず、テーブルの炊いたんを手づかみでむさぼるさまは餓鬼のようであった。


「もう揚げもんいややー!」


 泣きながら食べ続ける。やよいだった。


 秋から始まる学園ドラマの撮影は佳境を迎えていた。


 世間は夏休み。学生役の子役たちがスケジュールを最も合わせやすい時期であり、半年分の教室のシーンを録りだめしている最中だ。


 やよいは午前の練習(つまり、走りこみ)だけ参加するとそのまま赤坂に向かう。月曜から金曜、午後一時から九時までみっちりと拘束される。並行して彼女がメインになる回の撮影も行われており、電車でもトイレでも台本を手離せない日々が続いている。サッカーでは周りに合わせて気の利いたプレーのできるやよいだが、演技では役にのめりこむタイプで杏木たちが話しかけるのもはばかられることもしばしばあった。


 夕方には食事も出る。いわゆるロケ弁だ。腹持ちがよく量産できるおかずといえば揚げ物が中心になるのはいたしかたない。しかしこの暑さのなかそれが毎日続けば胃袋が拒絶反応を起こすのもこれまた道理である。


 薄味の中にコンブの滋養がしみた味つけが疲れ果てたやよいの体をほっとさせた。


 子役は二度売れなあかんねん。やよいの口ぐせだ。かつての名子役が次第に飽きられて消えてゆく例は枚挙にいとまがない。


 サッカー選手と女優、それを両立させるのは想像もつかないほどの苦労で、どちらも中途半端になりかねない。


 だがどちらに自分の天性があるのか、決められるのはやよい本人ではない。だからどちらにも本気で挑むしかない。


「ゆっくり食べ。誰も取らへんから」


 それに口をはさむほど野暮な杏木ではない。だからこうして、炊いた野菜に関西風の味つけをして帰りを待っていた。



 下弦の月の下、乾ききった音が響く。三メートル四方の狭い庭をボールが縦横する音だ。


 杏木の出したパスが瑞穂の足の間を抜けた。瑞穂の長く外側に伸びるX脚は股抜きの格好の餌食だった。


「カエデ、昨日と同じや。腰が高い」


「わあってるよ」


 時計の針は11時を回っている。それでも五人には一日の最後にこのトリカゴをやらなければならない理由があった。


 今年の十一月に全国レディースフットサル大会、現在の女子フットサル選手権が初めて開催されることが決まったのだ。去年までローカルな大会として行われていたものが日本サッカー協会が主管となり、エントリーしたチームが予選から戦うオープンな大会として生まれ変わったのである。


 五人は葛飾プリンセーザの選手として登録されている。だからそれ以外のチームの選手としてサッカーの公式戦に出場することはできない。


 が、フットサルならその限りではない。


 葛飾クラブに籍を置くマカロン修羅がフレディのチームでフットサルをしているのがヒントになった。フットサルなら葛飾クラブに在籍したままで試合に出ることができる。ただし同一クラブの複数チームの出場は認められておらずプリンセーザ・セグンダみたいなくくりではなく別チームを作るしかない。


 またフットサルの経験者などおらず、できる練習はこのトリカゴと呼ばれるゲームだけだ。中に鬼が入り、鬼に取られないようボールを回す。狭い庭でできる練習はこれ以外ない。この練習に明確な終わりはなかった。誰かが疲れて根を上げるがケンカして収拾がつかなくなるまで毎晩続いた。


 チーム名もユニフォームも、監督も他のメンバーも、どんなサッカーをするかすら決まっていない。そもそもゴールキーパーがいない。


 だがいっぺんに全ては解決できない。一つずつこんがらがった糸をほどいてゆくのみだ。


 申込締め切りは今月末だった。



「山路は出さんぞ」


 菅原が先手を打ってきた。日に焼けた顔はいよいよなまはげに似てきた。


 記念すべき第一回レディースフットサル大会への出場の打診は葛飾クラブにも当然あった。本心から言えばトップチームであるハイーニャの出場を望んだいたがリーグ最終戦と日程がかぶったため断念、お鉢がプリンセーザに回ってきた。


 開催地は東京都駒沢。開催地枠が設けられ、東京都予選および関東予選なしでいきなり決勝大会からという特別待遇である。


「登録選手は上限15人、その中にあんたらを必ず入れるってわけじゃないからあたしに止める権利はない。ただし山路は別だ。フットサルの大会とはいえ、出場する以上は葛飾クラブの誇りにかけて勝ちにいく。誰が相手だろうと全力で」


 そしてそのためには守護神である山路寛子の存在は不可欠だった。


「わかってます」


 凹む様子がないのが気にくわなかったのか、菅原が揺さぶりをかけてきた。


「楓もこっちのメンバーに入れるかもな」


 フットサルは五人でやるもの、瑞穂を欠いては四人になってしまう。


「左利きでオールラウンダー、あたしの考えもよくわかってるし、何より経験を積ませる場が必要だ」


「経験積ませるんやったら、試合に出たほうがよろしおす」


「ベンチで経験を積むか、野良チームに行くか。賢いあいつだったらわかるだろ」


「・・・そうですね、カエデが決めることです。せやったら、うちたちにも一人、選手をください」



「あてし?」


 杏木たちが目をつけたのはプリンセーザの三番手ゴレイロ、平手である。


「てしはんしかおらんねん」


 フットサルのコートはサッカーのおよそ六分の一、そしてゴールは三分の一しかない。サイドをえぐってハイクロス、というサッカーの常套手段は使えない。小柄だが機敏な反応を見せる平手はフットサルのゴレイロにはうってつけだった。


 不意に、鼻をすする平手。


「なにも泣かんでも」


 杏木がなだめても涙は止まらない。


 三年前名古屋から上京してプリンセーザのセレクションを受けた時、平手は身長わずか151センチだった。それでも合格できたのは両親がともに元バレーボール選手で、将来を買われてのことだった。しかし平手の身長はそこから2センチしか伸びなかった。


 プリンセーザは中学を卒業するタイミングで「足切り」を行う。三年間一度も公式戦に出たことがない平手は来春葛飾クラブを去る可能性が高かった。


 後から入ったキーパーに序列で抜かれ、ベンチにすら入れなくなっても笑顔を絶やさずチームを盛り上げた平手の気持ちに、杏木たちはあまりにも無頓着すぎた。




 そこはまるで白亜の城であった。


 千駄ヶ谷駅から徒歩五分、閑静な住宅街に場違いのような三階建てのビルディングがそびえ立っている。打ちっぱなしのコンクリートで四方を固め、窓もほとんどない無機質な建物はまるで建築会社のそれで、ここから世界中に最先端のユニフォームやトレーニングウェアが発信さるているのが不思議な印象を受けた。


「間違いないやろな」


「ないよ。ほら」


 そう言って横長の名刺を杏木の眼前に突き出す真夏。


 名刺の住所は間違いなくこの建物を示している。


 一番上、一番大きなフォントで書かれた名前は岩井幹。その下にはローマ字でMiki Iwaiとある。


 そしてその上には「ミキイワイデザインラボ 代表取締役社長」と控えめな書体で記されている。そして目の前の看板にも同じ名前。名刺の右上にはスーツを一分のすきもなく着こなしている妙齢の女性の写真があった。先月、千住スタジアムに浴衣姿で現れたあの女性である。


 ミキイワイ。日本発のスポーツブランドの草分けとして世界に名を馳せるブランド。創立当初から葛飾クラブのユニフォームサプライヤーをしている。杏木たちのユニフォームや練習着は全てここからやってきたのだ。


「行くで」


「おう」


 セミの鳴き声がかまびすしい月曜の昼下がり。やよいは撮影、瑞穂は夏期講習、深雪はこの頭であの人の前に出られないと怖じ気づいた。


 残った二人が、互いの背中を押し合うようにして前に出た。


 ベルリンの奇跡って知ってるか?


 その名刺を託したのは佐藤だった。新しいチームを作ると申し出た杏木たちに、この方ならおまえさんたちの力になってくださるかもしれねえ、と。


 サッカー日本代表チームには、そのターニングポイントとなったいくつかの試合に名前がついた名勝負がある。


 1968年、メキシコ五輪。三位決定戦。地元メキシコを相手に国際大会で初めてメダルを獲得した「アステカの栄光」。


 1993年、アメリカワールドカップアジア最終予選。初めてのワールドカップ出場を目前にしながらイラク相手にロスタイムの失点で逃した「ドーハの悲劇」。


 1996年、アトランタ五輪。28年ぶりに出場したオリンピックの初戦、スター軍団ブラジルを撃破する大金星を挙げた「マイアミの奇跡」。


 1997年、フランスワールドカップアジア予選第三代表決定戦。アジア最強の2トップを擁するイランを延長Vゴールで下して悲願達成した「ジョホールバールの歓喜」。


 そのはるか前、日本が戦争という暗い運命に飲みこまれつつあった時代に、初めて日本のサッカーが世界を驚かせた試合があった。


 相手は当時世界屈指の強豪国スウェーデン。それに対し、日本は東京帝大、早稲田大ア式、慶応大ソッカー部の選手でオールジャパンを結成した初めての大会だった。戦前のサッカーはインテリのスポーツだったのである。


 日本は平均身長で20センチ近く高いスウェーデンを相手に前半2点を奪われながら後半3点を奪い逆転。文字通りのジャイアントキリングを達成した。


 ベルリンの奇跡である。


 学生選抜であった日本代表をまとめるのは唯一の社会人で、彼が日本代表のキャプテンであった。しかし彼は戦争で帰らぬ人となってしまった。


 岩井三朗、岩井幹の実父だ。


 一階の応接間に通された杏木と真夏。一時からの約束でアポイントメントを取ったがしばし待つ。スーツ姿の女性が運んできたお茶がびっくりするくらい美味しかった。頑丈そうな額にはめられたウェアの数々はどれも洗練されていて鮮やかだった。


 その中に見慣れた江戸紫のユニフォームもあった。黒をサブカラーにした、直線的なデザインの男子チームのものと、白をサブカラーにした曲線的なデザインの女子チームのものとが一対になって飾られている。よくよく目を凝らせば男子の布地が薄手のメッシュになっているのに対し女子のそれが厚手になっているのが見て取れる。


 葛飾クラブは親会社を持たない純然たるクラブチームとして創立された。ブラジル流のテクニックとマリーシア(狡猾さ)を前面に押し出したスタイルは武士道精神や体育の延長上にあった実業団チームだらけの当時のサッカー界では異色。言わば「ワル」の軍団で、ユニフォームもそれ相応のものが欲しかった。既存のスポーツメーカーのデザインを物足りなく感じた若き日の佐藤が白羽の矢を立てたのがヨーロッパ帰りの新進気鋭のデザイナー、岩井幹。


 岩井が念頭に置いたのは歌舞伎十八番の一つ、助六だったという。喧嘩が強く、義理堅く、女にももてる江戸時代のスーパースター。そのトレードマークが頭に巻いた青紫のハチマキである。武蔵野に自生するムラサキソウから染め上げたこの色は江戸紫とも呼ばれ、邪気を払うとされた。この紫シャツに黒のパンツ、赤のソックスという組み合わせは助六の羽二重と襦袢から取った。刺激的な組み合わせであり、ダークヒーローとしてのイメージを確立させた。


 葛飾クラブが女子チーム、現在のハイーニャを立ち上げた当初は男子と同じデザインのものを採用しようとしていた佐藤に岩井がダメ出しをした。


 男と女とでは体の形も大きさも違います、そのまま着せたらお下がりを着ている子供よ。男の人は暑がりだからメッシュにしてるけど下着のラインが透けるでしょ。パンツの丈も短い、滑ってもすりむかないよう膝丈に。何より女の子が着たくなるようなハイカラなデザインでないと。


 いちいち言う通りだった。だが新しいユニフォームを作るとなれば別途にお金を支払わねばならない。その頃の岩井は日本のスポーツデザイナーの草分けになっていた。だが若い頃と変わらぬ笑みを浮かべ、胸のすくような見栄を切った。


 助六を演じるに必要な小道具、羽二重や蛇の目や煙管は全てご贔屓が用意しますのよ。同じように全てこちらで持ちます。先行投資ですわね、女子のサッカーは今後、大きなマーケットになるかも知れませんから。

「ごめんなさいねお待たせしちゃって」


 約束の時間から遅れること15分、女性はあわただしく応接間に入ってきた。ブラウスにパンツルックという出で立ちで。


 来年で戦後六十年、戦争遺児というからには還暦を過ぎているはずなのだが二十歳は若く見えた。


「改めまして、岩井です」


 女性が丁寧にあいさつしたまさにその瞬間、ぎゅーっと腹の虫が鳴った。


「これ、どうぞ」


 そう言ってオレンジ色の包装紙に小さなカニが描かれた大きな化粧缶を差し出す真夏。


「あら、柿の種」


 岩井の顔がぱあっと華やいだ。


 米どころ新潟を代表する、三日月状のあられに唐辛子入りの醤油を塗った米菓である。多様なバージョンが存在するがこれは落花生を入れない昔ながらの製法で作られたもの。お昼ご飯がまだだった岩井がさっそくお茶を片手にぽりぽりとやりはじめる。あなたたちもどうぞ、と言われ杏木と真夏も手を出す。


 辛という字は幸という字に似ている。本来苦痛であるはずの辛いという味覚は脳を刺激してアドレナリンを誘発する。空腹も手伝って止まらなくなる。



「どう、見せて」


 柿の種があらかた三人の胃に消えたところで、開いたスケッチブックをおずおずと差し出す真夏。いくつかしたためたユニフォームのデザインを岩井に見てもらうのが今回の目的だった。何かを言われるまでの間、黒い手をぎゅっと握る。鉛筆を握りすぎて中指が痛かった。


「いいんじゃない」


「あの、それだけですか?」


 肩透かしを食らい、呆けたような表情になる真夏。事前に杏木も目を通したが、どれも色合いやデザインが変に奇をてらいすぎて、見ていて落ち着かないものばかりだった。真夏の部屋の前にMAXコーヒーの空き缶ではち切れそうな袋が転がってるのを見ると、それも言いにくかったのだが。


「アドバイスしたら、それはもうあなたの作品じゃなくなるもの」


 岩井が笑顔で頬杖をつく。その手には、真夏と同じ場所にその何倍も大きなペンだこがあった。


「あなたたち、パンツくらい自分で買うでしょ? お母さんに服を買ってもらうような男の子とおつきあいしたくないでしょ? そういうことよ」


「でも、どうしても納得できなくて」


「ねえ、あなたたちのチームはなんて名前? どんなサッカーをするの?」


 言葉に詰まる二人。


「ユニフォームってね、チームの顔なのよ。自分たちがこんなチームですって言葉を使わずに自己紹介するためのもの。それが決まらないうちにユニフォームだけ決めようとしても迷うばかりじゃないかしら」


 全てを見透かすような言葉だった。


 だがフットサル選手権に出るチームは今月中にエントリーを済ませ、ユニフォームの色も申請しなくてはならない。時間がなかった。


「でももしそういうのが全くなかったら、一つだけ方法があるわ」


「どんなんですか」


「パクるの」


 杏木がお茶を噴いた。


「優秀な芸術家は真似し、偉大な芸術家は盗む。パブロ・ピカソの言葉よ。あなたたちは今いろんなものを吸収する時期だもの。サッカーだってお姉さんたちのようなテクニックを真似てるはずよ。まず世の中にあふれる優れたデザインを模倣することからなさい。その情報が多いほど少しずつ自分の中に蓄積されるものが生まれる、それがオリジナリティよ。最初はとにかくこれいいと思ったものをパクりなさい。それで怒られたら謝ればいいの」



 もらった時間は三十分、まだ少し余っている。何かしらヒントを得ようと真夏が必死に食い下がる。


「どうして先生はスポーツデザイナーの道に進んだんですか」


「父がサッカー選手だったの。ユニフォーム姿が素敵でね、あんな服を自分で作れたらきっと父も喜んでくれるって思って東京芸大を出たの。でもスポーツメーカーの採用試験、片っ端から落ちたわ。男女雇用機会均等法なんてまだなかったし、女は結婚したら退職するって時代だったから。女の幸せは結婚、なんてどうしても納得できない、王子様なんかいらない、この国にいたらなりたいものになんかなれやしない。だったら海外に出ようって」


「先生のお父さんってどんな人やったんですか」


「ハンサムで、スマートなジェントルマン。昔はプレイボーイだったって母に聞いたわ」


 見た目は若々しくても、言葉のチョイスに年齢が出るものだ。


「私ね、ものすごいファザコンなの。ついに結婚できなかったのも、父より素敵な殿方に巡り会えなかったからかも知れないわね。だって死人は無敵だもの」


「めぞん一刻」


 それは真夏が大好きなマンガの台詞だった。


「そう。生きてる人間のあら探しならいくらでもできるけど、死んだ人って思い出の中でどんどん美化されていっちゃうじゃない。おつきあいしている男性を父と比較し続けてきたんだわ」


 杏木はその言葉を額面通りには受け取らない。女性の社会進出が今よりはるかに難しかった時代、一代でここまでの地位にのしあがるにはそれなりの犠牲を払ってきたのだろう。佐藤がこの人に自分たちを引き合わせようとした理由が理解できる気がした。


「ユニフォーム姿の父を見て、私はスポーツをする人に寄り添えるデザインの道を選んだ、でもいまだに難しくて。だって服装って人となりが出るじゃない。タイトなのを好む人もいればゆったりしたのを好む人だっているし。ユニフォームって同じデザインじゃないといけないルールじゃない。なのにみんな好き勝手に着こなすでしょ」


「袖をまくったり、襟を立てたり」


「そうそう。だからできるだけ遊びを持たせるようにはしてるわ。最大公約数を拾ってく感じにね」


 真夏がにっと笑いながら何かをメモる。どうやら何かをつかんだらしい。


「でももし私がもしあなたたちくらいの年齢に戻れたら、きっとボールを蹴ってるわね。話すことができたらまたいつでもいらっしゃい」


 強い女は、優しい笑顔で杏木たちを送り出した。


「こんばんは、中島らもの他人の中島ほもです」


 いいんだぜー♪ とAとEとDをアコースティックギターでをくり返すフレディ。チューリップ型のパイントグラスを差し出す修羅。


「修羅さん、飲みすぎだよ」


「っせーな。人の真心を無下にできるか」


「それは真心じゃなくて下心だってばさ」


 マカロン修羅の飲み代を出しているのは、この店に巣食う野郎どもである。


 今日は調布で男子のトップチーム、インペリアルの試合があった。修羅はこのチームで英国人監督の通訳もしている。今日も真夏日、のどがカラカラであった。それを見越して雄どもが千円札片手にギネスをおごる。酔わせて、どうにかするために。


「女は優しい男が好きとか言うけど、これが男の優しさの正体よ。あんたらはこんなのにつかまる安い女になるんじゃないよ」


「畜生!」


 選手、指導者、通訳。三つの顔を巧みに使い分けるさまは三面六臂の軍神、阿修羅のごとく。阿修羅はインド密教の悪神アスラが仏教に取り入れられ、仏法を守護する善神となったもの。


 修羅は昨年この監督と衝突している。他のチームでプレーを拒み引退まで追いこまれたが佐藤の恩情でスタッフとして葛飾クラブに残った。しかし通訳としてその人物と四六時中顔をつきあわせなければならないのははなはだ皮肉な話だ。


「で、今日はなんて呼ばれたの? ボノ? ボブ・ゲルドフ?」


「トム・ウェイツ、今夜ダウンタウン・トレインでブルックリンの女の子と会うのかい? っざけんな」


 小粋なジョークにありがちなことであるが、その背景を知らないとクスリともできない。


「あい、ギネス」


 カウンターからグラスを差し出したのは山路だった。フレディに教わったわけでもないのに実にきめ細やかなビールを注ぐ。泡の上に描く三つ葉のクローバー、シャムロックも上手い。ギネスビールは黒ビールの代名詞とでも呼ぶべきアイルランド産の銘柄だ。


 それを男たちの飲んでならぬノンケコールとともに飲み干す修羅。注ぎ手のこだわりは、まさに水泡に消える。


「ダーリン、どうしてビートルズが世界一のバンドかご存じ?」


 唐突な質問である。


「フレディ・マーキュリーやジミ・ヘンドリックスを見て、あれを真似ようって思うやつはいないよね。あまりにもバケモノすぎて。けどビートルズって、難しいことやってなさそうに見えんじゃん。簡単そうに歌いながら演奏して、あれくらいならできるかもって思わせちゃう。でもいざやってみると左手が死ぬんだわ。複雑なコード進行にメロディアスなベースライン、ニコニコしながらこんな鬼ムズいことやってたんかって」


 I wanna hold your hand(抱きしめたい)を例に取り、実演してみせるフレディ。自分で作曲する時は演奏しやすいコード進行にするものだが、この曲はあっちこっちにコードが変わり、転調もするので弾くのだけで手一杯。どんどんしょっぱい顔になってゆくフレディに真夏が大ウケし、杏木とやよいが「アホな北条はーん♪」と歌う。


「こんなクッソひねくれた曲を連中は歌いながら弾くわけ。その秘密がこれ」


 そう言って真っ赤になった修羅の手に自分の手を重ね合わせる。手を商売道具にしてきたフレディより修羅の手は大きかった。特に親指が関節一つ長い。


「ケルト人の証よ」


「ケルト?」


「世界史でゲルマン民族はやったでしょ。ヨーロッパ大陸を征服して、今のドイツ、フランス人になった人たち」


 この中に一人フランスのハーフがいるが、真夏はアフリカ系なのでゲルマン人の子孫ではない。


「でもヨーロッパにはもう一つの民族がいた。それがケルト人。そして彼らが生息したのがグレートブリテン島の西、アイルランド島。そこで独自の文化を育んでいたケルト人に絶滅の危機が訪れた。ジャガイモ飢饉、アイルランド人の主食にしてるジャガイモが伝染病で全滅して多くの餓死者が出た。生き残った者は国外に活路を見いだすしかなかった。行き先はまずイギリス。ポール・マッカートニーもジョン・レノンもケルト人よ。頭にMcやOがつく名字は~家の子孫のケルト人、レノンはゲール語(ケルト人の言葉)で外套のこと」


 ギターは通常Eで調律するので、半音上がるFのコードを鳴らすには六本の弦をネックを支える指を除く四本の指で押さえる必要がある。一本ずつ押さえては物理的に不可能なので、人差し指を伸ばして1弦から6弦まで強引に押さえる。手の小さい日本人はこれで挫折する者が多いが、これをたやすくやってのけるのがケルト人である。


「もう一つはアメリカ。長い船旅で生きてアメリカにたどり着けたのは半分。ありつけた仕事は消防士や軍人といった危険な仕事にしか就けず、ニューヨークならブルックリンみたいなスラム街にしか住めなかった。こいつはそうやって流れ着いたアイリッシュの末裔さ」


 修羅が怒ったのは血筋をジョークの種にされたからだ、祖先をアイルランドから追い出した英国人に。


「これで1ガロン(=8パイント、約4.5リットル)だよ、パト」


 パトは修羅のミドルネーム、パトリック。贅沢な名だってんでパトにされてしまった。


 そんな修羅が愛飲するのはアイルランドのみならず世界を代表する黒ビール、ギネス。世界中に散らばったアイリッシュたちはアイリッシュパブでギネスを傾け、行ったことのないアイルランドの空を懐かしむのである。


「何よこのビール腹。デブ専がほっとかないよ」


そう言ってカウンター越しに修羅の横っ腹をむにむにとつまむフレディ。ベルトの上にだいぶ蓄えができた。


「修羅さん、抑えましょう」


「あんたもさミズホ。チチもケツもだいぶけしからんじゃない」


「・・・筋トレの、成果ですかね」


「あたいが筋肉と脂肪を見間違えるわけないでしょ。このうっかりホモ兵衛の目はね、コートに隠れた乳首の位置も当てるのさ」


 手加減なしの酔いどれに更なる追い討ちが。


「この飲んだくれが。バカにバカって言ってもバカのバカは治りゃしないけど、それでもバカにはバカって言わないとバカのバカはいつまでもバカのまんまだからね」


 杏木の脳内でバカのゲシュタルト崩壊が起こる。


「こないだホモに家までつけられたんだろ?」


 瑞穂の顔がさっと青ざめた。


「鼻に一発くれてやったらおとなしくなりました。土下座されて、カモだから警察には言わないでくれって泣きつかれました」


 カモはカモフラージュの略、世間体のために妻子を持ったホモのことだ。


「そいつも気の毒ね。この街に入り浸るノンケのほうがよっぽど罪深いわ。女でも作れば?」


「女なんて作るもんじゃなくてできるもんでしょ」


「じゃあ作ってみやがれ」


 財布の中からコンビニでプリントアウトしたチケットを取り出すフレディ。


「三鷹の森ジブリ美術館、向こう三ヶ月待ちのプラチナチケットよ。頭が高い、控えおろう!」


「目が、目がぁ!」


 やよいと真夏が目を押さえて床に倒れた。その隣で深雪が何が起こったか理解できない、という様子でいる。


「映画って、見たことない」


 これまた衝撃的な発言が飛び出した。


「なんでそんなもん持っとるん」


「ちょっと気になってる男を誘うためのエサのつもりだったんたけど、アニメ嫌いだってさ。あーしょっぺえ」


 その日も朝から暑かった。


 吉祥寺パルコの前、手首の内側に巻いた時計を何度も確かめる空色のワンピースの女性。瑞穂だ。コンタクトをして、薄いルージュを刷いている。明らかにそれとわかるデートルックだ。


「よぉ」


 ダメージジーンズのポケットに手をつっこんだままあいさつする修羅。首からネームタグを下げ、黒いTシャツには金文字で「死ね! お国のために!」とプリントされている。


「なんで気合入れてったカエデがイモひいたみたいになっとん」


「つーかあのシャツどこで売ってんだよ。靖国神社?」


 ハモニカ横丁で買ったばかりの羽根つきのたい焼きを頬張りながらやきもきする杏木たち。今日は葛飾クラブの創立記念日、全てのカテゴリの練習がお休みだった。


 幼さを残した顔立ちに筋肉質なボディを露出して二丁目を徘徊する修羅は、ビキニのグラビアアイドルがいろいろと揺らしながら歩いてるようなもんで、目の保養を越えて目の毒にすらなってしまっている。振り向かせようとしてビールをおごってくる男たちがいつ人の道に外れた行いをするかわからない。


 というわけで、既成事実を作りにきた。何のことはない、女とデートした写真を店に貼っておけば魔除けになるというわけだ。


 ジブリ美術館、誰だって行きたい。なんで瑞穂だけ、と不満が出たが理由は単なる消去法だ。他の四人では親子か兄弟だと勘違いされる可能性が大きい。


 杏木たちは尾行、ではなくその証拠写真を撮るためについてきた。決して、ヒマだからではない。


 まずは吉祥寺駅前のゆったりした坂を徒歩で上る。よさげなアンティークショップや古着屋なんかでウィンドウショッピングを楽しむ。普段他人の着た服なんて絶対着ない瑞穂が楽しそうにしているのは決して無理してるわけではなかった。


 それから井の頭公園に。広大な敷地内には貸しボートのある池や動物園がありひまつぶしには事欠かない。途中には太宰治が入水自殺した玉川上水なんかもあったが素通りしていった。


 入場開始になる12時前に二人が美術館前の長蛇の列に並ぶ。チケットがない杏木たちはリュックに入れてきたボールを回して過ごす。やよいはここで離脱、テレビ局のスタジオへ。脳天からうち下ろすような日差しにあっという間に気持ち悪くなった。


 瑞穂たちが出てきた。だいぶ距離感が縮まっている。サッカーで言えばボールを取れる間合い。オーガニックのカフェで感想を熱っぽく語り合う。杏木たちはそこから一番遠い席でもっとボールに寄せろだの動き出すタイミングが遅いだの反省会だ。


 さらにパルコの地下にある映画館だ。2004年は邦画の当たり年、特に恋愛映画が大豊作だった。


 二人がその中の代表的なやつをチョイスする。三人も後に続く。


 二時間後、地上に出た二人と三人。二人は身を寄せあって泣いており、三人はあくびをしたり仏頂面だったりした。


「空港の中心で、助けてくださいと叫ぶ。の間違いやろ」


「音楽がきれいだった」


「よく眠れた」


 瑞穂たちが渋谷でディナーをとっている間、杏木たちは九州男児でホモとノンケの尻隠し。


「おめえさんたちも一緒に食ってくりゃよかったじゃねえか」


「馬に蹴られて死にたくないです」


 みたらし団子の串をつまみながら麦茶をすする佐藤が珍しく店にいた。朝から式典でろくに食事もできなかったという。


「あんたたちに恋愛映画は早すぎだわね、ダーリン」


 それにしても意外だった。


「カエデはともかく、修羅はんが泣くと思わんかった。あんなベタなんで」


「恋愛ものってのはベタでなんぼさ。多くの共感を産むには、誰もが通ったようなありふれた経験じゃないとね」


 うわあっ、と窓際のテーブルからオットセイのような慟哭がにわかに聞こえた。


「どうしてノンケに恋しちゃうのよ!」


 それを聞き、店中が阿鼻叫喚に包まれる。ホモなら一度は味わう地獄だ、


「あれがこの街のベタ。ノンケに片想いするホモの話なら世界中のゲイタウンで大ヒット間違いなしよ」


 うへえ、と一同げんなりした。


「カエデと修羅はん、くっつけようとしてへん?」


 恋愛のレの字も知らない杏木でさえとっくに気がついている。


 自分たちにはカオナシにしか見えない修羅が、瑞穂にとってはハクであることに。


 友達以上恋人未満でいる石部金吉におまえらつきあっちゃえよと周りが冷やかすのはどこにでもある話。ただし、葛飾プリンセーザには鉄の掟があった。


「ずいぶん生意気な口をきくね。いつからそんなに偉くなった?」


「禁酒禁煙禁男、それを作ったのはあんたやろ。それがどういう了見や」


「だってミズホ、このままじゃ昇格できないもん」


 楓瑞穂は一都三県にある葛飾クラブの小学生チームから今年唯一プリンセーザに昇格した、将来を嘱望されるエリート。そしてそれを決めたのは、去年までプリンセーザの監督だった大石尚幸なのに。


「そもそもなんで禁酒禁煙禁男って言い出したか知ってるかい?」


「ホモのひがみだろ」


 深雪が五寸釘のように突き刺した。


「ぶぁーか、ちげーよ」


 フレディも負けてはいない。


「女の体ってのはな、サッカーするようにはできてねえのさ」


 それまで黙って聞いていた佐藤が団子の串を置いた。


「ボールを蹴れば足が太くなる、乳がふくらめば胸トラップが決まらなくなる、外に長い時間いれば日に焼ける。サッカーがうまくなればなるほど、男が寄ってくるような女らしさってやつが消えてゆくのさ」


「試合になりゃ鬼みたいな顔して相手をなぎ倒し、味方がヘマすりゃ怒鳴り、ファウルを取られりゃ審判にわめき散らす。そんな姿、惚れた男に見せたいかい? 女子サッカー選手は、恋をすると弱くなるんだ。残念なことにね」


 恋愛禁止の理由はわかった。


 ではなぜその恋愛を瑞穂には勧めるのか。そしてこのままでは昇格できないという根拠は何なのか。詰め寄る少女たち、顔を見合わせるおっさんたち。


「八月だし、ちょうどいいかもしれないね」


 不意に、椅子の上に正座をする佐藤。


「えー、毎度馬鹿馬鹿しいお笑いで」


 先日はホモの弾き語りで今日はハゲの小噺。ゲイバーも大変である。


「風が吹けば桶屋が儲かる、なんてことを申しまして。その心はって言いますとまず風が吹けば目にごみが入って盲が増える。盲ってのは何を生業にするかってえと、三味線弾きながら琵琶法師のごとく歌うんででございますな。三味線ってやつは猫の皮でできております。三味線が必要になれば猫があちこちで取られて町から猫が消える。猫がいなくなればそれまで猫が取って食っていたネズミが増える。ネズミってやつはすぐ歯が伸びる生き物でございまして、固いものなら漆喰の壁だろうとあたり構わずかじっては歯を削る。ひのきでできた桶なんて穴だらけでございまして、穴の空いた桶なんざ使い物になりやせんから新しいものを買わなきゃならない。これが風が吹けば桶屋が儲かる、まぁ屁理屈なんではございますが一応筋は通ってる」


「何の話や」


「最後まで聞きな」


 ここまで話したからには、もう後には引けなかった。


 たいそう仲のよい双子の兄と妹がおりまして。


 親父がアメリカ人で海軍に勤めてて、転属先の横須賀で日本人のお袋との間に産まれた子供でございます。


 親父がアメリカ人にしちゃ珍しくサッカーをやってたんで、子供二人もやるようになった。双子といいましても出来は月とスッポンでございます。兄貴のほうが出来が悪いというより、妹のほうがあまりにもなんでもできちまう。


 親父は海軍兵でございますからいずれアメリカに帰らなきゃならない。アメリカの女子サッカーは世界一を誇りますが、見事に白人しかいない。代表チームを見たって黒人やアジア系、ヒスパニックやプエルトリコ人なんていやしない。郊外にクラブチームを作り、車のない貧しい家庭の子は入ってこれない仕組みになってるんでございますな。双子の親父はアイルランド系で、ニューヨークでも下町のブルックリンに居を構えていた。アメリカに帰ったら、この才能が埋もれてしまうってんで海軍を辞めてまで日本に残った。


 おかげで二人はサッカーを続けることができた。ある意味、子供たちに賭けてたしょう。


 さて、二人が十七歳になった八月のこと。いつものごとく練習に行こうとしていたら妹の自転車がパンクして使えない。兄貴はってえと夏風邪を引いて寝こんでる。


 兄ちゃん、自転車貸してくんな。


 おう、気をつけろよ。


 一緒に買ったはずの自転車でございましたが、几帳面な妹のものが新品同様だったのに対し兄貴のほうはブレーキは効かないわチリンチリンはなくなってるわで大変なありさまでございました。また夕立があって視界も悪く、路面も滑りやすい。


 それでも自転車を貸してしまったんですな。妹が練習に遅れないように。


 近くで救急車のサイレンが聞こえる。胸騒ぎってやつがして、兄貴が風邪で重くなった体を引きずるようにして家を飛び出した。


 駅前の交差点が、真っ赤に染まっておりました。


 自転車はトラックの下敷きになり、路肩には見慣れた人影がぐったりとなって倒れている。抱きかかえるとその体から急速に体温が失われているのがわかります。


 救急隊員に向かって、泣き叫んだそうでございます。


 助けてください。


 沈黙が耳に痛かった。


「バタフライ効果って言ってね、チョウチョの羽音が地球の裏側で津波を起こすことがある。よかれと思ってやったことが取り返しがつかない事態を招いちまったのさ」


 フレディが天上を見上げながら広げたアルバムには、赤毛を三つ編みにした選手が。その立ち姿の美しさ、ボールをキープしながらまっすぐ前を向いてプレーするポーズだけでも、彼女がクラッキ(名手)であることが伺い知れた。


「強いだけじゃなくてプレーの一つずつが美しいザゲイロだった。まるだ白鳥のようだったよ。天国に行ってなきゃ今アテネにいるなでしこジャパンの中心になってたはずさ」


 その顔は修羅に瓜二つで、背中には3番が。


「プリンセーザの背番号3が空いてるのはこのためだ。欠番にしてるわけじゃないが、やはり重すぎてな」


「マスミもハルカもあん時はヤバかったね、毎日泣いてたよ。でもあたいらにとっては悲劇でも、家族にとっちゃただただ現実さ。あいつの、修羅の一家は壊れちまった」


 杏木はいつかの修羅の言葉を思い出した。


 まるで家族が引き裂かれるみたいだった、あんな思いはもうごめんだと。


「命日が近づくと、ここであの子が好きだったケルトの音楽を演奏して踊るんだ。あの子の魂がアイルランドへ帰れるように、あたいらがあの子を忘れないように、何より地獄のような毎日を過ごしてるパトが考え事をせずに済むように」


「きたっ」


 東京が連続真夏日記録を更新したその夜。すでに翌日の二時近くになっていたが、クラブハウスにはハイーニャとプリンセーザの選手が目白押し。


 オリンピックの開幕式より先に女子サッカーが開幕していた。なでしこジャパンが世界にお披露目となった試合は1-0でリード。


 後半ロスタイム、ついに待ちわびていた瞬間が訪れた。


 青のユニフォーム。背番号5。ひっつめた髪は目指すメダルと同じ金色。


 下がる選手とタッチを交わすとピッチに入る。それまでキャプテンマークを巻いていた選手からそれを受け取ると右腕に巻いた。


 なでしこジャパン主将、改源春風がピッチについにピッチに立った。試合を終わらせる者として。


 それまでの杏木だったら、ただその出番を待つだけだっただろう。


 しかし、修羅の妹の話を聞いて、気づいてしまったのだ。


 どれだけ多くの選手が、この場に立てなかったか。


 自分だって、そうなってしまうかも知れない。


 金髪をなびかせボールを懸命に追い回す改源は、それを二度も叶えた。


 程なくしてタイムアップの笛が。日本の女子チームが初めてオリンピックで挙げた勝利の瞬間、誰彼なく抱きあい、タッチを交わした。


 しかしテレビの向こうのカピタンは至って冷静で、敗れた相手に駆け寄ると何かをささやき、立ち上がる手助けをした。


「なんやアズキ、そんな感動したんか」


 自分の顔を指でなでる杏木。濡れていた。


「サウダージだね」


 杏木の胸に不意に沸き上がった、言い知れぬ感情の名前を教えたのは菅原だった。


「ポルトガル語の辞書には懐かしさって載ってる。けど同じポルトガル語を母国語にしてるブラジル人は、それをちょっと違う意味で使うんだ。二年前のワールドカップの決勝、見てたかい?」


 2002年、初めてアジアで、初めて共催で開催されたワールドカップ。横浜で行われたブラジルとドイツの試合は2-0でブラジルで勝利、史上最多となる五回目の優勝を決めた。


「ドイツが攻める力をなくして、ブラジルが時間を稼ぐ。ブラジル人でもドイツ人でもないあたしは、これで祭りが終わるんだってさみしくなった。まだ試合は続いてるのに。これがサウダージ」


 未来への郷愁、そんな意味でブラジル人はこの言葉を好んで用いる。


 選ばれてそこに立つ十一人。そこにいない多くの選手が杏木にはたまらなく懐かしいものに思えた。


 そして自分たちは今、あの場所を目指して地獄のような日々をくぐり抜けるようにして生きている。二十歳になるまでにあそこに立てなければ杏木はサッカーを辞める約束で京都を出た。


 だがそれが叶っても、スパイクを脱ぐ日が来る。家でもクラブでも顔をつきあわせているやよい、真夏、瑞穂、深雪とも別れる時がいつかは訪れる。


 そしてあの場所を目指し、それを果たさなかった多くの顔も名前も知らない選手たちがいるなど、それまで考えもしなかった。


 杏木がそんな思いを馳せていると長い笛が。


 なでしこジャパンがオリンピックで初めて挙げた勝利の瞬間を知らせるものだった。



 アテネ五輪・サッカー日本女子代表チームは決勝トーナメントに進出。準々決勝でアメリカに惜敗したものの、国際大会でのベスト8は初めての快挙であった。


 帰国後、なでしこジャパンの初代キャプテン、改源春風は代表チームからの引退を発表。


 ギリシャの地でピッチに立ったほんの数分間が、十代からつけてきた日の丸を背負っての最後の試合となるのである。


 新しいチーム作りは遅々として進まない。それでも時間は容赦なく過ぎる。


 実戦を積まないことには課題すら明らかにならないが、なにしろ女子のみのフットサルチームを探すのが難しい。サッカーならプリンセーザで毎日吐くほどやらされてはいるのだがフットサルとはまた別物である。


 悶々と日々を過ごす杏木たちに、意外な方向から救いの手が。


「よう、おめだち」


 来客があった。全日本ジュニアユース選手権のあった神戸から帰ったばかりの浜松女学院監督、樺島薫。東京都選抜は事実上プリンセーザとそのライバルである浜松女学院中等部の混成チームであり、その御礼に訪れた樺島の鼻には巨大なばんそうこうが。その理由は聞いてはいけない気がした。


「こんな大会があんだけんども」


 B5サイズのコピー用紙には、次の日曜に大田区のフットサルコートで開かれるワンデイ大会の要項が。


 ワンデイとは文字通り一日で何試合も行う大会である。負けたら終わりのトーナメント方式ではないので前の試合の反省を次の試合に活かせるし、メンバー登録の必要もないので飛び入り参加もできる。何より毛色の違う複数のチームと対戦できるのは貴重な経験を得るまたとない機会になる。


 まさに渡りに船、乗らない手はなかった。


 お盆休みで練習がないからと、夜遅くまでオリンピックを見ていたのが間違いだった。


 朝から雨降り、疲れも出て誰かが起こしてくれるだろうとつい寝過ごしてしまった。中でもやよいは部屋のドアを叩いても反応がない。ドライバーでこじ開けると、部屋にはMAXコーヒーの空き缶が散乱し、台本に顔を埋めた姿で発見された。メイン回の収録を控え、自分の台詞やト書きに走らせた鉛筆を握りしめた右手のたなごころが真っ黒だった。


 北千住から人形町とメトロを乗り継いで泉岳寺で京浜急行に乗り換える。完全に時間を読み間違えたと気づくのにさして時間はかからなかった。最寄り駅である穴守稲荷に着いたのは第一試合の始まる20分前。ようやく雨が上がり、濡れたアスファルトの上をダッシュする靴が1ダース。


「でらきついわ」


 走りながらそうぼやくのは今日のゴレイロ、平手。キーパーはゴールラインにかかとを乗せてシュートを止めるのが全て、ペナルティエリアを大きく飛び出して相手より足でボールを処理したり味方のボール回しに混じって細かくパスを出すプレーはケレンとされていた時代。平手もひまさえあればひたすらダッシュや反復飛びばかりしており、走るのは何よりも苦手だった。


「おお、見えた」


 クーラーが効きすぎのスタジオ通いで風邪気味だったやよいが指差した方向に、巨大なフットサル場が見えた。国際規格の人工芝コートが四面、全部つなげればフルコートのサッカーも可能、照明も完備。23区内に初めて作られたフットサル場、東京ベイフットサルコート(現在は閉鎖)である。屋外の試合になるが、この日一ヶ月以上続いた真夏日の記録がついにストップ。湿度も適度に下がり、絶好のコンディションに。


「葛飾クラブですっ」


 杏木が受付を済ませる間に、他の五人がスパイクを準備する。


「サッカーのスパイクじゃできませんよ」


 平手が係員にそう言われてしまう。チラシにはフットサルシューズをご用意くださいと明記してあるが、誰一人それに気づいてなかった。


「4.5だろ? 貸してやるよ」


 ありがとう、の語尾を上げる平手に靴底が飴色のフットサルシューズを差し出したのは、浜松女学院中等部のキャプテン、大熊七星。


 第一試合はその大熊のチームとだった。ただし浜学ではなく、リッカ札幌というチーム名だった。上から下まで白一色のユニフォームで背番号の周りだけえんじ色の正六角形で囲んでいるシンプルなデザイン。


 大熊が小学校卒業と同時に単身北海道から上京してきたことを、杏木だけが知っていた。と思ったら平手も知っていた。


「あてしと一緒にプリンセーザ受けたんだ」


 二人は同学年。人生万事塞翁が馬、である。


 サッカーほど明確ではないが、フットサルにもポジションがある。キーパーがゴレイロ、フィールドの四人がひし形に並んだとき後ろをベッキまたはフィクソ、サイドをアラ、前をピヴォと呼ぶ。ゴレイロに平手、フィクソに瑞穂、アラにやよいと杏木、ピヴォに深雪がとりあえず入る。ランニングタイムの10分ハーフを三試合やるので、疲れたら早めに交替する約束だった。


 相手のキックオフ。センターサークルに入ったの緑色のマウスガードをつけた大熊だった。浜学不動のセンターバックは杏木は自分と色ちがいのマウスガードをつけてるのを見て、ぎょっとなった。


 リッカ札幌は、とにかく手堅い印象を与えてくるチームだった。


 ゴレイロの前で三人が壁を作り、紫のユニフォームが飛び出すスペースを与えない。奪ったボールは低く長いボールで大熊に当てる。


「ミズ!」


 大熊が両手を広げてボールを呼ぶと、ひょろっとした体型のフィクソから鋭いくさびのパスが。背後の瑞穂をブロック、足を伸ばしてキープする大熊が時間を作っている間に三枚の壁が杏木とやよいを追い越す。


「カタ!」


右を走るちょっと太めの選手に落とす大熊。受け取った白いユニフォームの選手が強烈なダイレクトシュート。平手が飛びつくが取れないが枠にも飛んでない。


 ファーポストに滑りこむ影。大熊の伸ばした足がボールにかかる。無人のゴールに転がりこんだ。


 前半、圧倒された。しかし前月新宿でフレディのチームにやられたように、パワーとスピードによるものではない。


 リッカ札幌、一人一人の技量は大したものではない。足の遅い選手もいれば、技術がつたない選手もいる。普段やっているプリンセーザの選手たちとは比べるべくもない。


 だがフットサルを知り尽くしていた。


「ワタ!」


ゴレイロのゴールクリアランス、ゴールキックではなく遠投での速攻。大熊がキープしている間に両サイドが上がる。


「ザラメ!」


今度は左利きの選手に渡した。アルファベットのLを描くように走ると、角度のないところから鮮やかなコントロールでサイドネットを貫く。


「ツブ、コオリ、コナ!」


 疲れたら後ろの三人がいっぺんに変わる。大中小と体型だけでなく粘り強いディフェンス、豊富な運動量、キレキレのテクニックとそれぞれの個性を存分に見せつけた。


 何より、大熊の存在感たるや。ディフェンスの選手らしい体の強さでボールを取られず、サイドに展開すると瑞穂の背後に回ってマークを外すと逆サイドへ。オフサイドのないフットサルならではの待ち伏せ。シュートは全てそちらに蹴られた。完成度の高さが違いすぎた。


 だが、それを差し引いた上で、あまりにも杏木たちがだらしなさすぎた。杏木はスペースのないところにパスを出しては奪われ、深雪のシュートははことごとくキーパーに当たってしまう。


 だがこの日一番の穴は瑞穂だった。


 フィクソは相手のピヴォを「消す」のが仕事。フットサルの基本戦術であるピヴォ当て、サッカーでいうポストプレーをさせないのが先決。ピヴォの足下に入れさせない、それができなければ前を向かせない。


 だが瑞穂の動きは見るからに重く、同じセンターバックである大熊にボールが入ると、面白いほどターンを許してしまう。


 気を抜いているわけではないし、読みを外されているわけでもない。だがことごとく懐に入れない。


  原因は明白で、体重の増加だ。


 体脂肪の増加に生理痛、第二次性徴を迎える女性の体は大きな変化を迎える。その変化と向き合い食事制限やトレーニングによって一歩ずつこの山を越えるより他ない。ダイエットなどという生易しいものではない。


 これは全ての女性アスリートが通る試練。順番がたまたま彼女からだったに過ぎない。


 きれいすぎんのよ、ミズホのプレーは。


 格で守るのがザゲイロさ、チョロチョロせずにゴール前に立ちはだかるもんだ。そのためには汚れ仕事をいとわない。ストライカーだってあいつ嫌だなと思ったらなかなか入ってこれないだろ?


 ミズホのプレーはどこまでもクリーンだ。ファウルもほとんどしないし、カードなんかもらったことない。けどそれって、一歩間違えたら軽さにもつながるんだよ。軽いザゲイロなんて恐くもなんともないだろ。


 みんな、パトのせい。


 あいつの妹もザゲイロだった。白鳥みたく美しいプレーをする、ね。守備的なポジションならどこでもこなすミズホがザゲイロ一本にこだわってるのもそれが理由。


 けど白鳥って、水面下で足を必死にもかいて泳ぐって知ってた?


 パトの妹は、審判の見えないところで結構やってたよ。セコいファウルや、あざといタックルを。やった後にとぼけてみせるのもうまかった。ちゃっかりしてるっていうか。動画に撮っておけば見せてやれたけど、二十世紀だったし、そんなもん残っちゃいねえ。


 けど、パトの中でそういう汚い部分は忘れ去られちまってる。どんなピンチにも正義の味方のように現れてチームを救う妹の姿しか残っちゃいない。


 でもミズホはそうなろうとしてる。


 これはサッカーに限った話じゃない。


 あいつ、ミズホも兄がいるんだよ。ただこいつがどうやらハンディキャップ背負ってるらしい。それもかなり重いやつ。


 障害のある子供が生まれた家庭が二人目を作るってどういう意味か。


 全てを背負わされてるのさ。兄の面倒も、医者になることも。そしてそれをあのクソがつくくらいマジメな娘は自分の使命だと思いこんでいる。


 でもあいつの人生はあいつのもんじゃん? 親のものでも兄貴のものでも、ましてパトのもんでもない。でもあいつはそこから目を背けてる。


 自分はこうしたい、こうなんだってものがなにひとつない。


 その殻を破れない限り、ミズホはここでおしまいさ。


 ペナルティエリア内、ゴールを背にボールを受ける大熊。また散らされる、と反射的に体を外した瑞穂の動きは致命的だった。寄せのなくなったことでスペースが生まれ、ピボットターンを許してしまう。すぐさまシュート体勢に入る大熊の足元にキーパーの平手が滑りこんだ。借り物のフットサルシューズが、持ち主の足を払ってしまう。


 主審がPKスポットを指差し、レッドカードを平手の頭上にかざした。当時のルールでは、サッカーのような人へのスライディングタックルは悪質なファウルとされていた(現在はファウルなし)。


 立ち尽くすしかない瑞穂を突き飛ばすようにして平手のもとに駆け寄った者がある。杏木だ。背中から抱えるようにして立たせると、すでに涙を浮かべていた平手が脱いだキーパー用のユニフォームを自ら着る瑞穂を押し退けてエリアから出す。やよいは体格的に、真夏と深雪は性格的に無理、瑞穂がそれどころではないのだから自分がやるしかなかった。


 キッカーは倒された大熊本人。緑のマウスガードで威嚇されたので、黒いマウスガードで笑い返してやる。


 軸足の向いた方向に飛んだが、逆を突かれた。


「フットサルなめんでね」


 大熊の勝ち誇った顔。杏木がめいっぱい肺の空気を吸って、吐いた。


「ご先祖はーん!」


「何をそのように、かまびすしい」


 ランプの魔神か未来の世界の猫型ロボットのように呼び出され、甲高い声は不機嫌さを隠そうともしない。


 大熊たちはこの暑さと失点でおかしくなったのかと遠巻きに眺め、やよいたちはいつものことだと取り合わない。


 しかし、杏木には見えるのだ。見えてしまうのだ。烏帽子に烏の濡れ羽色、眉墨に歯までお歯黒のやんごとなき公達の姿が。鴨沓を履いた両足は人工芝の上を浮いており、影もない。


 藤原成通、鞠聖とまで呼ばれた平安時代のファンタジスタ。こんなこともあろうかとバッグの隅にふすべ鞠を忍ばせておいたのだ。


「おおかた鞠が来ぬ、そのようなところでございましょう」


 鋭い。


「そもじには名足の心はわかりかねましょうが、麿には非足の心がわかりまするゆえ」


 しばいたろか、とのどまで出かかった言葉を飲みこむ。


「ヤカ」


 若草色の直垂をまとった禿、春揚花。


「アリ」


 朱色の直垂をまとった禿、夏安林。


「オウ」


 乳色の直垂をまとった禿、秋園。


 顔は幼子、体は猿の童子たちは鞠の精霊であり、成通の眷族のような者たちである。


縮開つめびらきでございます」


 成通と精霊どもが四方に散った。


 サッカーでは大きく分けて二つのディフェンス方法がある。マンツーマンとゾーンディフェンスである。


 マンツーマンとは読んで字のごとく、人が人につく。これを両チームが採用していると一対一がキーパーを除く十通り行われることになる。


 葛飾クラブのディフェンスはこのマンツーマンがベースで、ゆえにタックルやドリブルといった一対一で勝つスキルを磨く。ただこれを徹底すると相手が右に行ったら自分も右に、下がったら自分も前に出なくてはならない。葛飾クラブが選手ごとにザゲイロやラテラウとかポジションを決めているのはこれを防ぐためで、自分の持ち場を離れそうになったら隣のポジションの選手にマークを受け渡す決まりになっていた。


 これに対し、ボールに対してくのがゾーンディフェンスだ。最も近い者が寄せ、飛び出したスペースに隣の者が流れる。横一列や縦一列になってはいけない、一人抜かれたら誰もカバーできないから。


 斜めに、均等な距離で並ぶのが鉄則だ。これをディアゴナーレ(斜め)スカラトゥーラ(はしご)と呼ぶ。伝統的に堅守の国イタリアでは小学生でも知っている守りのいろはが、この時代の日本では代表選手すらできてなかった。


 だが知らなかったのではない。忘れたのだ。


 鞠はどこへ飛ぶかわからず、庭にはそれを妨げる木が四方に植えられている。柳に当たれば鞠は柔らかな枝に絡め取られて下に落ちるが、松に当たれば強く跳ね返る。


 どこに鞠が落ちても必ず誰かいる。そのために鞠の位置によって立ち位置を定めた約束ごとが縮開である。その名のごとく人と人との距離が縮んだり開いたりしながら鞠をこぼさないようにする技術は八百年前も前の日本には存在していたのである。


 純然な一対一なら杏木たちのほうが上である。しかしそこからが難しい。前線にはやよいと深雪二人、リッカはゴレイロを含む四人が待ち構えている。倍の人数を相手にやよいが果敢にドリブルで仕掛けるが、分厚い守りをなかなか崩せない。


 自分でパスを出して攻めを分厚くしようと杏木が鞠を乞う。真夏のバックパスを右足で受けた。


 笛が吹かれた。審判のジェスチャーはリッカの間接フリーキックを示している。なんでやと食ってかかると自陣にいるゴレイロへのパスは遅延行為を防ぐために反則となっていた。


 このファウルをリッカは逃さなかった。味方がちょんと出したボールを大熊が豪快に蹴りこむ。クロスバーを叩いてゴールの中に落ちた。


 ボールは取れるようになったが、今度は攻め手がない。杏木がキーパーに下がってしまったことでパスがつながらない。


「今度はどないしたらええ」


「少しは自分で考えませい」


「考えてもわからんから聞いてんねん」


「・・・讃岐院にでも聞かれたがよろしい」


 そう言ったきり、成通は一切杏木の問いに答えなくなった。


「讃岐院? うどん屋の名前か?」


 帰りの電車で、愛媛の出の深雪に聞いてみたが聞いた杏木が愚かであった。


 守りに関しては、まずまずの手応えを得ることができた一日だった。杏木のコーチングに従い、縮んで開くチェーンのようなディフェンスは安全にボールを奪うことに成功していた。これは大きな収穫だった。


 もちろん修正点はある。オフサイドのないフットサルではあまり前が仮になりすぎると背後に広大なスペースを空けてしまう。また堅固なブロックを築くにはまだまだ時間が必要だった。


 だが問題は他にあった。攻撃のパターンがあまりにも少なすぎた。深雪のシュート、やよいのドリブル、真夏のスピード。武器は豊富なのだが、いろいろと工夫もしているのだが、やはり動きがサッカーのそれで、広さの違うフットサルコートでは有効ではない。


「なんかさ、ネットとかで見れないかな。そういう映像」


「何夢みたいなこと言うてん」


 時は2004年8月。動画サイトyoutube開設が2005年2月、夢みたいなことが現実となるのはそれからわずか半年後。


「監督、欲しいな」


 ぼそっと瑞穂がつぶやく。それはみんな考えていることだった。


 選手は小豆や求肥、砂糖や上新粉といった材料である。それらを融合させ、商品としてお客様にお出しするには職人の力が必要だと痛感した。


 最後までチームの足を引っ張り、挽回の機会すらなかった瑞穂。


 こっちでやるか、プリンセーザに戻るか。


 そのもどかしさが痛いほど伝わり、このまま残れとも言えなかった。


「まっことすみゃあせん」


 それまで考え事をしていた平手が顔を上げたかと思うと、手のひらを合わせて五人を拝んだ。


「おみゃあさんたちの力にはなれせん」


 残念だったが、こちらには引き留める理由もなかった。頭数を揃える以外では。


 ブレイクアウェイという技術がある。キッカーとの一対一を迎えた時、あるいは止めたシュートを前にこぼしてしまった時、前に飛び出しボールをブロックをするプレーがサッカーのキーパーにもフットサルのゴレイロにも必要不可欠だ。


 問題はサッカーとフットサルのゴールの大きさ、厳密には縦横の比率が違うことである。


 サッカーのゴールは幅5フィート、高さ2フィート。


 フットサルのゴールは幅3メートル、高さ2メートル。


 横に長いサッカーのゴールを守るためのブレイクアウェイは体を横に倒すのに対し、縦長のフットサルのゴールを守るためのブレイクアウェイは体を立てたままひざから滑りこむ。


 平手は153センチ、身長が能力に直結するキーパーとしては小兵だ。そのハンデを埋めるために血のにじむような鍛練を重ねてきたことはここにいる誰もが知っていたし、だからこそ杏木も平手をスカウトしたのだ。


 だが今日の平手のプレーは満足できる水準に達してしなかった。そして失点のほとんどがこのブレイクアウェイの場面でのことだった。努力の末彼女が会得した飛び出しは体を横に倒すもので、シュートはことごとくその上を破られた。杏木たちもそれに気づき、言葉に出して伝えたが体にしみついた動きというのは急に変えられない。飛び出すべき場面での一瞬の迷いはキッカーに余裕を与え、ゴールを容易にする。するとますます自信を失い、判断が鈍った。


「てしはん、かんにんえ」


 すべては杏木のわがままから始まったことだった。平手を怨む気持ちは、これっぽっちもない。


「やっだぴょーん」


 セッション終了直後、フレディに二つ返事で断られた。


「あたいこれでもプロのコーチよ。何が悲しくてタダ働きしなきゃなんないの」


 そう言ってウーロン茶をやよいと真夏に差し出す。さっきまでギター激しくカッティングしていた手は休む間もなくビールを注ぐ。


「スケベな手つきだねえ。夜のIOC委員長エロゲ男爵」


 カクテルのサクランボを舌で結び、カウンターにペッと吐き出す樺島。先ほどまで指まで毛むくじゃらの指で繊細にティンホイッスルを吹いていたあたり熊系の外見とは裏腹に乙女なところがある。


「石ちゃんね、しばらく忙しくてそれどころでないの」


 そういうこと、と言いながらこれでもかとばかりにグラスを乗せたお盆を工藤に運ばせる。葛飾クラブ全てのゴール裏で太鼓を叩く男のバウロンはさすがに正確なリズムを刻んでいた。


「肝いりの企画がやっとこさ通ったのさ」


「企画?」


「女子のゴールキーパーを輝かせるための企画」


 常日頃、日本におけるゴールキーパーのステータスの低さを嘆いては落ちくぼんでいた眼がキラキラしていた。


「ブラジルじゃね、ゴレイロはオカマかキチガイのやるもんだって言われてるの。あたいオカマでキチガイだもん、当たってんじゃーん!」


 フレディ、今日も絶好調。


「当たり(ファインセーブ)外れ(ミス)ビフテキ(ももにできるすり傷、血もしたたることから)かぶる(飛び出してボールを触れないミス)遮断機(ただ倒れるための下手くそ)。キーパーはモノじゃねえっての。こんなんじゃキーパーやりたい子なんか出でくるわけないじゃん」


「ええキーパーが育ったら、うちたちに回してえな」


 平手が一日でチームを去ってしまったしまった話をするやよいたち。


「あれま、そりゃヤバイわ。フットサルは半分くらいゴレイロの出来で決まっちゃうからね」


 それでなくても、ギリギリ五人なのだ。参加を迷っている約一名を、死んでも逃すわけにはいかない。


「なんでちゃんと歌わない」


「歌いにくいんです、あっちの歌詞」


 小一時間続いたセッションがようやく終わった後、楽器を片づけながら言い争う修羅と瑞穂。口論は最後の歌を巡ってのもの。


 元の歌は瑞穂が歌っていた「ムアロッホ・ショア」(ムアロッホ川のほとり)。


 美しい自然をバックに紡がれる三角関係の歌である。川ののほとりのたたずむ少女が彼女を探しにきた少年に語りかける。私はあのアイルランドから来た兵隊が好きなの、と。少年も返す。あいつはもう戻ってこない。死んだかもしれないし、他の女と結婚したかもしれない。だが少女の答えはそれでもその人を待つの、この川のほとりで、というもの。


 ストレートなラブソングで、文法上も英語の教科書に出てくるような至ってシンプルなもの。瑞穂が歌いやすいと思ったのも無理はない。


 一方、修羅が歌わせようとしたのは同じメロディの「フォギーデュー」(霧の旗)という歌だったのだ。多くのアイルランド人ミュージシャンがカバー、現在はこちらのほうが有名になっている。しかしのっけから極端な倒置法を用いるなど非常に歌詞が難解な上、歴史的な背景を知らないと理解できない内容になっている。


 1916年の復活祭の日、イギリスからの独立を求めて義勇軍が鎮圧され百人近いアイルランド人が殺されたイースター蜂起をテーマにしている戦闘の歌なのだ。イギリス人をブリテンの蛮族と罵る激しい歌を演奏するマーチングバンドを先頭に軍隊は行進したのである。


 修羅にとって、今この日本に生きる毎日が戦いなのだ。監督と戦い、選手とも戦い、ぶつかりあう痛みでしか生きてる実感を、自分の形を感じることができない。


 だから去った者を待ち続ける幼なじみを思う歌をあえて歌う瑞穂の気持ちに、これっぽっちも気がつかない。


「讃岐院ってのは、崇徳天皇のことだな」


 ダメ元で聞いてみた杏木と深雪だったが、佐藤はたやすく答えてみせた。


「保元の乱、平安時代の末期に皇族、貴族、武士が敵味方入り乱れての戦に負けて讃岐国、今の香川県に流罪になってそこで亡くなった。だから讃岐院」


 保元といえば、平清盛が宇治の六地蔵を都の出入口に動かしたと成通が言っていた時代。成通と同じ時代を生き、彼が仕えていた帝ということになる、


「院ってなんですのん


「退位した天皇を上皇、出家した上皇を法皇って言うんだ。上皇や法皇を院、院がお飾りの天皇の代わりに政を司るのが院政だ。崇徳天皇の時代は藤原家の摂関政治が影を潜め、上皇や法皇が政治の実権を握ってたのさ。この院政ってのにもルールがあって、自分の子や孫といった直系の天皇じゃないとできねえ、天皇が弟やおいっこじゃダメなんだ」


「日本史の授業はええて」


「院政の仕組みを知らねえと崇徳天皇の話はできねんだ。崇徳天皇は鳥羽天皇の子供だった」


「鳥羽のインケツ」


 杏木の口からどえらい言葉がこぼれた。成通が昔の話をする時、閉じた扇子をへし折りそうな形相で鳥羽の腐れインケツめが、と罵倒する人物が鳥羽天皇だった。身のこなしが軽く、それゆえ落ちつきなく見える成通を御前に呼び出し「汝が早業を好むは何の詮かある」と問い質すなど何かと目の敵にし、成通が出世街道から再三外してきたとされる。


「ところが崇徳天皇の母親ってのが鳥羽天皇の祖父、白河天皇とも通じてたんだな。鳥羽天皇は崇徳天皇を自分の子供じゃないと疑い叔父子と呼んでいた。崇徳天皇をお飾りにさんざ院政を振るった挙げ句、退位させると弟の後白河天皇に継がせた。院政ってのは直系の天皇じゃないと執れねえ、お飾りの天皇からお飾りの上皇にさせられちまったんだな。親子の確執は死ぬまで続き、臨終間際の見舞すらさせず崇徳院に自分のなきがらを見せるなと遺言して死んだそうだ」


「親父がクズだと子供は不幸だな」


 深雪が心底嫌そうに吐き捨てる。


「弟の後白河天皇ってのも大天狗と呼ばれた権謀術数に長けた人物。崇徳院が反乱を企ててるって根も葉もない噂を流し、実の兄貴を捕まえようとした。そこから崇徳院が逃げ出したところから始まったのが保元の乱だ。当然準備なんかできてないからあっさり負けて島流し。崇徳院は出家して写経に打ちこみ、国の安寧を願ってそれを都に送るが弟は呪いがかかってると疑われて受け取られなかった」


「まるっきりイジメやん、大人げない」


「女は嫉妬深いなんて言うが、出世が絡んだ時の男の嫉妬にはおぞましいもんがある。崇徳院は送り返された経文に舌をかみ切った血で怨みつらみを書き、その後髪も爪も切らなかった。怨霊伝説はいくらでもあるが生きながらにして怨霊になったのはこの人だけだ」


 崇徳院というのは死後に送られた称号であり、それより先に亡くなった成通が知るよしもない。だから讃岐院と呼んでいたわけだ。


 勉強にはなったが、成通が何を言わんとしていたかはまだつかめない。怨霊のようなサッカーをしろとでも言うのか。


 ふと思い出したように、銀の腕時計に目をやる佐藤。短い針がちょうど8を指している。間に合うかな、と言いながら立ち上がる。


「芸の世界ってやつを見てみるかい」


「ゲイの世界? 見飽きてます」


「いい若いもんが、ひとっ走りしたくらいで肩で息してやがる」


 確かにこんなに息は上がるほど離れてはなかった。ただフットサルを三試合、ケルトダンスを8セットこなした後のひとっ走りなら話は別だ。


 新宿二丁目の隣は当然三丁目、他の四人も連れ出された。


 ビルがすき間なくそびえ立つ街でその一角だけがタイムスリップしたかのようだった。漆塗り、木造の日本家屋はおびただしい数の提灯が煌々と照らされ、まるで不夜城だ。


 新宿末広亭。落語から色物と呼ばれる漫談や演芸を昼から夜まで見られる、老舗の寄席である。


 佐藤は楽屋口へ回った。畳敷きの楽屋ののれんをくぐると羽織姿の人物が店屋物のそばを手繰る手を止める。その総白髪の富士額には見覚えがあった。


「お、まだ足がありやがる」


「お足はねえがな」


「柳三師匠や!」


 やよいのすっとんきょうな声。三柳亭柳三、戦後の江戸落語を代表する噺家であり、テレビでもおなじみのタレントでもある。テレビでのトレードマークであるえんじ色の着物ではなく夏らしい単衣の柄は竹に犬。合わせて「笑」。


「えらく若い子はべらせてるじゃねえか。キャバクラみてえだ」


「冗談よしとくれ、こんな子供に手ぇ出したらお縄だよ」


「オーナー、柳三師匠とどういう関係なんですか」


「昔コンビ組んでたんだ」


「いやね、この人がある日突然弟子入りさせてくれって言い出して。アリちゃんみたいなインテリを尋常小学校しか出てないあたしが教えられるわけがねえ、じゃあ一緒に漫才やろうって。この人がアリンコみたいに甘いもの好き、あたしが本名高梨大吉だから深川アリ夫ナシ夫って名前だ」


「嫁はもらわない、弟子は取らない、宵越しの金は持たないのないないずくめだからナシちゃんじゃねえか」


「恐ろしいほど受けなかったな。罵声までもらったのはあの時だけだ」


「人間怖いものがなくなるほど怖いことはない、花やしきのジェットコースターなんかよりよっぽど恐怖を味わえたよ」


 丁々発止というか、二人のやり取りそのものが落語のようである。


「で、今日はなんでえ」


「これから高座だろ?」


「これでも真打ちだからね」


「崇徳院をやっちゃくれねえか」


 杏木がはっとなる。


「崇徳院ていやあ三十分はかかる大ネタだ。この時間までお声がかからねえってえとどうやら時間が押してやがる。この寄席も九時に客出ししねえと従業員がストライキ始めちまう」


「長い枕と多いくすぐりを削りゃなんとかなんだろ」


「枕とくすぐりがなかったらレコード聞いてるのと変わんねえじゃねえか」


 真顔のまま黙りこんだ佐藤に、柳三が軽くため息を漏らしつつもよござんすとうなずいた。


「よござんす、って、できはるんですか?」


「お嬢さん。落語ってのはね、頭で覚えるんじゃない。体にしみつかせるんだ。親が死んでも、家が火事で丸焼けになっても、次の日から高座に出られるようにね。おまいさんたち、サッカー選手だろ?」


「はい」


「あたしゃサッカーとラグビーの区別もつかねえような運動音痴だけど、こうなったらこうだからこうしようなんて考えながらやってるわけじゃあんめ? それとおんなしさ」


 師匠、そろそろもお弟子さんらしき坊主頭の男がのれんをくぐる。


「じゃ、木戸銭払ってくらぁ」


 佐藤が立ち上がる。


「ちょいと、おまいさんは残りな」


 呼び止められたのは杏木だった。佐藤が行くぞ、と声をかけるのに四人はついて行った。


「なんでうちだけ」


「崇徳院、と聞いて顔色が変わったのがおまいさんしとりさ」


 江戸っ子らしく「ひ」が「し」に聞こえる、東の噺家である。ピース缶から一本引き抜くその表情は穏やかで、どこにでもいる老人とまるで変わらない。


「ここはね、アリちゃんにとっちゃ逃げ場所なのさ。作家で、政治家で、今はサッカーチームの会長。しゃちほこばった顔して肩で風を切らなきゃなんねえ男が、何もかも忘れて大口開けて笑えるところさ。本当だったらそんな姿誰にも見せたかねえだろうし、ここも教えたくねえはず。ここに人を連れてくるのはおまいさんたちで四組目。それも決まって藪入りだ」


「藪入り?」


「住みこみで働いてる奉公人が親許に帰れる日さ。あたしゃ公団住まいの一人もんだから決まってこの時期は高座に出る。みんなが休んでる時期にアリちゃんが連れてくるのは他の子よりがんばってる子のはずだ。どうせ二丁目のゲイバーから来たんだろ?」


 徳用マッチを擦る乾いた音、匂い。クーラーの効いた楽屋を漂う紫煙。


「一人は背の高い、頭がチリチリの子だったな。何もかもしょいこんだ死神みたいな顔でよ。思いきり笑わせてやってくるってんで饅頭こわいをやった」


 菅原だ、それも指導者になってからの。


「一人は髪の長い、どっかしょうしょうとした子だったな。噺家って儲かるんですかって聞いてきてアリちゃんがきゅうりみたいに青くなってた。明烏って男女の機微を描いた噺をしたけど、伝わったか怪しいもんだ」


 アテネにいる改源だ。ひょうひょうがしょうしょうに聞こえる。


「外人さんを二人連れてきたこともあったっけ。そん時は寿限無だったな。子供の名前によさそうなものを全部つけたらとんでもなく長くなっちまう噺だね」


 修羅と、その妹。他の日本人と違う顔と名前を持って生まれた二人はどんな気持ちで聞いたのだろう。


「落語ってのは人間の業を肯定するもの、ってある名人が仰ってな」


「ゴー?」


「おまいさんは関西の人だろ。なんだって東京でサッカーやってんだい? 実家にいたってボールを蹴ることはできるだろうし、女がサッカーやっても大した金になんねえんだろ? それが業さ。おまいさんのたちの中にある、ボールを蹴ることでしか表現できねえ、言葉にならねえ思い。あたしらの仕事はね、それが決して間違っちゃないって伝えるためにあるのさ」


 まるでお坊さんと話してるみたいだった。


「別の名人は落語とは緊張と緩和であるなんてことも言った。上方のしゃべくり漫才みたくのべつまくなしに笑わせにきたんじゃやってても見てても気忙しくて疲れっちまう。真面目な話を聞かせてるところにポロっとくすぐりを入れるほうがその落差で思わず吹き出す。これが緊張と緩和だよ」


 高座から水戸黄門のテーマソングが聞こえる。柳三の出囃子「ああ人生に涙あり」だ。無理矢理にでも引きずり出そうという魂胆のようだ。


「じゃ、楽しんでくんな」


 一礼して楽屋を出る杏木。ぐるりと回って木戸をくぐった。


 上手の座敷に見慣れたはげ頭があって、杏木が履き物を揃えると噺家の顔になった柳三が羽織を脱いだ。枕が終わり、本題に入りますよという合図だ。


 えー、病気にゃ四百四あると言われておりますが、夏やせと答えてあとは涙かな、なんて申します。恋煩いってやつですな。


 大旦那が上方から奉公に来てる女中の熊子ってのを呼んだ。この熊子、色が白いもんで白熊なんて呼ばれてる。


「アズキのことちゃう?」


 なあ、白熊。おめえさんうちの娘たぁ仲がいいよな。


 へいっ。お嬢様のことならスリーサイズまで心得ておりますっ。


 スリーサイズはどうでもいいよ。その娘がここ数日臥せってる。どうも上野の清水さんに行ってから様子がおかしい。


「上野にも清水寺があるん?」


「寛永寺のことだよ。上方落語だと高津さん、仁徳天皇陵になったりする」


 医者でも草津の湯でも治せねえ気の病ってやつで、このままだと五日ももたねえって話だ。おまえさん、ちょっと屋敷に上がって話を聞いてやってくんな。


 へいっ、てなもんで布団に潜ってるお嬢さんを見舞ってくる。お嬢さん、ただでさえ色白なのが血管まで透けて見えるほどやせ細って、青みがかった目もうつろ。


「カエデやん」


 お嬢さん、どうなすったい。そんなんじゃ田村でも金、谷でも金ってわけにいきやせんぜ。


 あたしは柔道家じゃないよ。実は清水さんに行って茶店で休んでると年のころ一七八の、水もしたたるような方がいらしてね。


 そりゃ急な夕立でも来たんですかい。


 素敵な殿方のことを水もしたたるいい男って言うのさ。


 じゃあそのいい男がつなぎのホックを外して言ったわけですか、やらないかって。


 そんなネタで笑ってくれる客がこの寄席に来ると思ってるのかい。しばらくその方を見送ってたけど先に出て行かれてね。扇子を置いて行かれたからあわてて追いかけてね。そしたらお礼言いながらその裏にさらさらっと書いて渡してくださったのがこれなのよ。


   瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の


「あっ」


「どしたのアンコちゃん」


「いや、どっかで聞いた思て」


 これはね、百人一首にもなってる崇徳院様のお歌さ。下の句はね


   割れても末に 逢わむとぞ思う


 川の流れって、早瀬や岩にぶつかって分かれたりするでしょ。同じようにたとえ今は別れてもそれでもいつかまた会おうって恋の歌さ。それ以来、何を見てもその人に見えてね。ほら、あなたの顔も。


 あたしゃ百合の趣味はございませんぜ。


「・・・!」


「マツ、そんな泣くほどおもろいか?」


 白熊さん、一部始終を大旦那にお伝えした。


 そうかい、恋の病じゃ医者も薬も効き目がなくて当然だ。三日あげるから何としてもその男を探しといでってなもんで江戸中を駆けずり回るがいっこうに手がかりがない。するってえと白熊の女中仲間、一緒に上方からやって来たのがちっちゃな体をよじらせてあきれ果てる。


「ウチや。柳三師匠の落語に出てもた」


 あんた、もっと人の多いとこに行くんだよ。湯屋とか床屋とか。そしたら、そのお歌を詠み上げるんだよ。せーをーはーやーみー、って。ほら。


 急かされるままに白熊さん、湯屋に行ってもせーをーはーやーみー、床屋に行ってもせーをーはーやーみー。しまいにゃ指はふやけるわ、毛という毛は一本残らず剃られるわ。それでも見つからないってんで半ばあきらめながら一軒の床屋に転がりこんだ。そこの亭主ってのが髪は短く刈りこみ、目なんてカミソリのように鋭いこれぞ床屋って風貌だ。


「深雪ちゃんも登場だ」


 お客さん、髪の毛もまつげも残ってねえが、いかが致しますか。


 うん、いっそのこと植えてくれ。


 アデランスにでも行ってくれ。


 なんてえやり取りをしてますと急ぎの客が飛び入りした。どこをどう駆けずり回ったか顔は日に焼けて真っ黒、髪の毛はくしゃくしゃのお女中さんだ。


「マナ、生まれたときからこうなんですけど」


 うちの若旦那が茶店で見かけたお嬢さんに一目惚れしちまって、その場で言やあいいのにわざと扇子を忘れたふりして、その扇子に崇徳院様のお歌を上の句だけ書いて手渡した。なんでそんなまだるっこしいことをしちまったんだろって後悔してふさぎこんじまった。大旦那が血相変えてあたしらに探してこい、せーをーはーやーみー、って言いながらそこらへん回っておいでってさ。


 白熊さんの顔がみるみる気色ばり、そのお嬢さんうちのお嬢さんだ、今すぐ来てくんな。いやいや、そっちこそ来てくんなってんで互いの手を引っ張りあった拍子に鏡が落っこちて割れちまった。


 今度は床屋の顔色が変わった。あんたら、めでたい話だと思って黙って聞いてりゃ、この不始末どうしてくれんだい。すると白熊さん。


 割れても(月)末に、買わんとぞ思う。


 売店の助六寿司が半値だったので佐藤が買って、食べながら小屋を出た。


「なんで助六いうんです?」


 葛飾クラブのユニフォームのコンセプトは江戸歌舞伎に登場する侠客だと聞いた。しかし平成生まれの杏木にとって助六といえば稲荷と巻き寿司のセットだ。


「助六のなじみの花魁が揚巻って名前なのさ。油揚げの揚に巻き寿司の巻で揚巻」


 しかし、さすがは真打ちである。頭ではなく、体で話していた。その細胞の一つ一つまでに噺がこびりついているから、杏木たちを話中に出しても無理やりな感じがない。


 事前に崇徳院のおどろおどろしい人生を聞かされていたので、てっきり怪談話かと思っていた杏木は意表を突かれ、大笑いした。こんなに腹の底から笑ったのはいつ以来だろうか。


「せーをーはーやーみー、せーをーはーやーみー」


 セミのようにそればかりくり返す。そこから先が出てこない。


「岩にせかるる 滝川の 割れても末に 逢わんとぞ思う」


 業を煮やして佐藤が続ける。


「白峯神宮や」


 やっと思い出した。杏木が祖父とともに蹴鞠の練習に足しげく通った堀川今出川の神社に、その歌碑はあった。


 都の地を踏むことなく亡くなった崇徳院の遺体はそのまま讃岐国に埋葬された。これが白峯陵、四国にある唯一の天皇の墓である。それから八百年の後、明治天皇によって崇徳院を祀る神社が堀川今出川に建てられ、ここに四国にとどまったままであった崇徳院の御霊を迎え入れた。これが白峯神宮で、千年の都である京都としては非常に新しい神社である。


 ではなぜここに鞠庭があるかといえば、ここに蹴鞠師範の一族、飛鳥井家の邸宅があったためである。また明治天皇は維新以降急速に廃れた蹴鞠のために保存会を結成するための援助を行っている。


 崇徳院と蹴鞠、これがようやくつながった。


 が、まだ疑問は晴れない。


 稀代の名人曰く、佐藤がわざわざ落語を聞きに連れ出すにはそれなりの理由があるはず。その意味を、杏木はまだ知らない。


 再び「九州男児」に戻ってきた五人と佐藤を出迎えたのは、グラスが砕け散る音だった。


 真っ赤な顔にうつろな目をした修羅の胸ぐらをつかみ上げるフレディ。泣き叫ぶホモたち。


「修羅場だね」


 さすがに佐藤もお手上げの様子だった。


 マカロン修羅は生き急いでいた。まるで死に場所を探し求めるかのように。


「修羅さん」


 意を決して一歩前に出たのは瑞穂だった。おでこを出した顔を、めいっぱい上に向ける。


「そんなに力が有り余ってるんだったら、私たちの監督をしてください」


 思いつきではない。それは五人の総意であり、消去法でもあった。


「監督? 俺が?」


「そうです」


 修羅を明らかに気圧されている。さっきまでの喧騒はどこへやら、店の外からの声の方が大きかった。


「・・・考えさせてくれ」


「ダメです、今決めてください」


 時間がなかった。


 チェーンのついた長財布から二千円札を取り出す修羅。


「あんたまだこんなもん持ってたんか」


 いいから今から言う通りのレシピでカクテルを作ってください、と言ってフレディを定位置へと追いやる。


「パイントグラスにギネスをハーフで。それからショットグラスにジェムソンとベイリーズを半分ずつ」


 まずアイルランドの誇る黒ビールを注ぎ、それから小振りなグラスにアイリッシュウィスキーとアイリッシュクリームを入れるフレディ。


「作りながら言うのもなんだけどさ、酒を酒で割るって、さてはお前バカだなあ?」


「今ごろ気づいたんですか」


 並べられた大小のグラス。修羅の長細い指が小さいほうのグラスをつまんだかと思うとそれをビールのグラスに落とした。1980年代、政治集団がアイルランド中で自動車を用いた爆弾を爆破させるテロ行為が流行った。


 アイルランドの酒だけで作られたこのカクテルはそんな侮蔑の意味を持ってアイリッシュたちに振る舞われ、世界中のアイリッシュたちはそれをあおって男振りを見せつけたという。


「アイリッシュカーボム。俺の親父を、殺した酒だ」


 クリームリキュールがビールの中で固まる前に飲み干した。甘さ、苦さ、強さを兼ね備えた爆弾が炸裂し、その場に崩れ落ちる修羅を反射的に抱き留める瑞穂。その耳元で、僕修羅、と酒臭い息で自己紹介された。


「人はやるべきことがあるうちは殺しても死なねえ。これでも生きてたら俺はおまえらを教えるべきなんだろう」


 そう言うと足元から崩れた。


「ミズホ、タクシーで送りな。電車をゲロまみれにしたら面倒だ」


 そう言って一万円札と避妊具を渡すフレディ。一万円だけを受け取り、ぐてんぐでんになった修羅を肩に担いで店を出る瑞穂。


「横須賀だよ。五反田とか鴬谷なんか行くなよ、絶対に行くなよ」


 わかってます! とドアを出る瑞穂と修羅。


「人の道を取るか男の道を取るか、見物だね」


 黙ってないのは店にひしめくホモたちだ。アイドルの貞操の危機に阿鼻叫喚。


「お盆やな、地獄の釜が開いたみたいや」


「オカマバーだけにな」


「だー! まー!! れー!!!」


 湯婆婆そっくりの鶴の一声。店中の壁から窓かビリビリ震える。


「どの道あんたらのものになんざなりゃしないんだから指くわえて見てな!」


「つーかさ、あんななりだけど、みっちゃんまだ12歳だよ」


「13歳未満の児童とそういうことになったら合意の上でも犯罪だったな」


 そこに気づかなかったらしく、自分のおでこをぴしゃりと叩くフレディ。


「このうっかりホモ兵衛が!」


「ひでえや、あんまりだ」


「ええやんか」


 その騒ぎには一才関わらなかったやよいだった。


「死んだ妹のことでメソメソしている男と、その男を思ってウジウジしている女。お似合いやんか。こんなめでたいことはない。お赤飯でも炊いて待っとったらええねん」


 やよいは父を知らない。


 毎月残業200時間以上働き、やよいが母の胎内にいる時に亡くなった。そのため生後半月で赤ちゃんモデルの仕事に就き、労災を争うための弁護士費用を稼ぐことになる。


「生きとるもんは思いを自分の口で言えるやろ。言わんかったら気づいてもらえへん、気づかれんかったら何も思ってないのとおんなしやんか。そんなんもしいひんやつは、いくら勉強できたかて、あほや」


 せやな、と杏木がその震える肩に手を添えた。


 蒸し暑い京都に比べ、松戸の夜はひどく涼しい。鈴虫の声に夏が去り行くより先に訪れる秋を感じた。


 やよいと真夏の部屋の窓からはから灯りが漏れている。それぞれ台本とスケッチブックとにらめっこしているのだろう。MAXコーヒー片手に。


「せーをーはーやーみー」


 杏木は鞠をひざに乗せベランダの背もたれに体を預ける。成通は姿見せぬ。


「藤原、ここか」


 深雪だった。やはり眠れないのだろう、杏木の隣に腰かけた。末広亭に負けず劣らず年季の入った木造建築、二人も乗るとみしみしと床が鳴る。


「どうなるだろうな、楓」


「どうもこうもないやろ」


 女と男だ、なるようにしかならない。


「藤原は、いるのか」


「何がや」


「その、あれだよ」


 たった二文字がどうしても言えない。


「好きなんか? おらん。うちは世の男には絶望しとんねん」


 クラブに禁止されているからではなく、そんな異性に出会ったことがない。避けているわけではなく、恐ろしく鈍感なだけであった。


「そうか。そうだよな、男なんて。うん」


 だから深雪の反応が微妙にうれしそうなのに全く気づかない。


「うちはな、今のままがええんや。あんたらと一緒やったら」


 あろうことか、こんな無防備な一言まで口走ってしまった刹那。


 上体が荒々しい力で押さえつけられた。抗ういとまもなかった。


 前歯同士がぶつかり合う痛み。口内に押しこまれたぬるりとしたものを前歯で遮断する。あわてて飛び退いた深雪の下に、赤黒い滴が浮かんでいた。


 酢飯の味がした。


「何の真似や」


 杏木は冷静に振る舞うようつとめた。


 さっきまでいつも通りだった仲間に馬乗りにされても。


「藤原」


「言うたらあかん」


 確かに男に興味はないと言ったが、もちろん女に興味かあるという意味ではない。


「マツ、あんたはうちの仲間や。でもそれ以上やない」


 できるだけやんわり、しかしきっぱりと拒絶するしかなかった。


「おれは本気だ」


「うちかて本気や。あんたと仲間ですらなくなるんはいやや」


「おれが女だからか?」


「あんたが男やったらとっくにタマつぶしとる」


「どないしたん?」


「ケガしてない?」


 やよいと真夏の声で我に返る。二人分の体重で、家全体がきしんだのだ。


「こけただけや!」


 とっさにかばいながら立ち上がる。深雪の腕から先ほどのけものじみた力はとうに失われていた。


「あんたはただの仲間やない、大事な仲間や。サクラ、ヤナギ、カエデ。うちたちは誰一人欠けたらあかんねん」


 振り向かないのがせめてもの情けだった。


 固い前歯と柔らかな唇の感触が残ったままの口許を指でなぞりながら。


 四人が四つの理由を抱えたまま眠れない夜を過ごした。八月も後半となれば日の出もたいぶ遅くなり、六時前に空が白みだすと誰彼なく自室を出てリビングにわらわらと集まり、テレビをつけるが内容は何一つ頭に入ってこない。


 楓瑞穂の朝帰りが確定したからだ。


 あの時間に横須賀に向かったのだから終電に間に合わないのは当然のことだが、いざそうなってみると現実が重くのしかかる。


 セミの声が聞こえ始め、うつらうつらし始めた頃。


 静寂はけたたましく押し開かれたドアの音で打ち破られた。


 立っていたのは顔は白く、背中にかかる髪は金色、見開かれた二つの目は水晶のように青く光る夜叉であった。


 眼鏡をかけた夜叉は台所に走り、鍋いっぱいに水をくべると火にかけた。


 冷蔵庫からストックしていた野菜の炊いたんを洗いざらい取り出すとまな板の上にあけ、左手に握り締めた出刃包丁で賽の目に切ると鍋が煮える前から手際よく放りこむ。水があふれるのもお構いなしだ。


 全ての野菜を切り刻み終えると、自分の部屋へ。その間にやよいがふきこぼれた床をぞうきんで拭く。


 戻ってきた瑞穂がほうとうの封を切り、鍋にぱらぱらと落とす。ほうとうは保存のための塩が入っていないのでゆでて塩抜きする必要がない。


 弱火にすると、冷蔵庫から味噌を取り出す。


 食器棚に手を伸ばす。おたまがその白い指から滑り落ちる耳障りな音が。


「タクシーで横須賀に着いたらまた雨でね。部屋まで担いで行った」


 セミの声に負けそうな小声で、ぽつりぽつりと雨だれのように瑞穂が口を開く。煮えたぎる鍋が噴きこぼれないよう菜箸を渡してから。


「ベッドの上に寝かせて、帰ろうとしたらものすごい力で抱きしめられた」


 おお、とどよめく一同。


「言われたよ。春、って」


「ハル?」


「修羅さんの死んだ妹さん」


 ああ、と嘆く一同。


「あとは吐きまくる修羅さんを介抱してたら朝に」


 三年越しの恋は、水洗トイレに流されて、消えた。


「最低。そんな男、やめて正解だよ」


 吐き捨てる真夏。


「よかったじゃねえか」


 深雪は正反対の反応を見せた。


「妹に間違われるなんて、少なくとも嫌われてはいないってことだろ。拒否られるよりなんぼかましだ」


 恋人や妻は別れればそれで関係は終わるが、妹は死んでも妹のまま。その関係は平行線のように離れることも交わることもなく続いてゆく。これまでも、これからも。


「ああっもうっ」


 最悪にやさぐれた気分を振り払うかのように、杏木が宣言する。


「外行こや。おごったる」


 青波に赤で「氷」の一文字。日本の夏の風物詩としてこれ以上のものはない。


 杏木が四人を引き連れて訪れたのはJR松戸駅の西口にある店だった。昭和を感じさせる、純喫茶という響きがよく似合うこじんまりとしたたたずまいながら、中に入ると二階だけでなく地下にも階段が延びていて、意外と奥行きを感じさせた。


「宇治金時!」


 理科の実験道具を思わせるサイフォン式のコーヒーメーカーが置かれたカウンターに叫ぶと、一番奥の席に座る。モーニングセットが売りの店だったが、あいにく今日は胃の中がほうとうで満たされている。


「レモン!」


「巨峰!」


「ブルーハワイ!」


「・・・苺ミルク」


 主語はない。いや、いらない。


 厨房からガリガリという氷を削る音が聞こえる間、初めての店内を一同が目で物色する。


「ようこんな店知っとったな」


「たまには練乳の入っとらんコーヒー飲まんとほんまのコーヒーの味を忘れてまう」


 あんなに千葉暮らしを拒んでいた杏木がすっかり松戸になじんでいるのを笑っていると。


「あ!」


 真夏が大声を上げる。


「ほたえなや」


「だって、ほら」


 指で示した先に、古びた色紙。


 先月ライブを見たばかりのバンドのボーカル、暴動こと阿部サダヲのサインが、言われなければ気づかれないほどひっそりと飾られているではないか。


 思わぬ再会に驚いていると、五色に彩られた氷の山が運ばれてきた。

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