表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蹴鞠少女はひとりではない   作者: みつたけたつみ
10/11

甘納豆

 カーラジオからはスローバラードではなく、軽快なジャズが流れる。 


 トランペッター、ハーブ・アルパート作のインストゥルメントル「ビタースイートサンバ」はニッポン放送の深夜ラジオ、オールナイトニッポンのテーマとしてあまりにも有名だ。オリジナルは二分弱だが、このテーマをバックに提供を読み上げるためアレンジされた長い尺のものが使われている。


「ええか、ええのんかー」


 ハンドルを握るひげの男があえぐような声でうめく。店を出る前にポマードでカッチリ固めたオールバックが甲州街道を走る対向車の光に照らされる。


 パーソナリティが提供を読み終えると同時に助手席の少女がDVDをかける。こちらも負けずに軽快な出囃子の後に落語が始まる。


「蹴鞠に和菓子、今度は落語かい。ほんとババくさいね」


 悪態をつくフレディ。新宿という土地柄もあり二丁目に足しげく通う噺家は珍しくない。落語は男も女も演じ分ける、ドラァグクイーンからガチムチまで男という男がしなを作るゲイタウンはまさに芸の肥やしなのだ。


「ほっといて」


 聞く耳を持たない杏木。これから夜通し車に揺られるのだ、少しでも自分をリラックスさせないと身が保たない。


「寝てきゃいいじゃない」


 後部座席では二人のヘビー級が船を漕いでいた。


 瑞穂は生まれて初めてショートにした髪の上によだれを垂らす。耳に風が当たるのはずいぶん涼しかったらしく、風邪薬を飲んだらすぐに寝ついた。


 山路は酢こんぶをくわえたままいびきをかいていた。今日はバイト先がソックスナイト、股間に靴下をかぶせたほぼ全裸の男たちで大盛況、一生分の男の尻を見せられた疲れがどっと出た。


「迎えに来てくれたらええのに」


「松戸にゃインターチェンジがないだろ」


 型落ちのハイエースが新宿出入口から首都高に上がる。


 饅頭こわい、目黒のさんま、時そば、うどん屋。


 揺れる車内では眠れない杏木は図書館でこれらのCDを市立図書館で借りてきた。図書館で本以外のものが貸し出されてるのを初めて知った。


「見事に食べ物の話ばっかね」


 関西はとにかく口頭の文化だ。喧嘩といえば口喧嘩のことだし、杏木も舌先の格闘技なら免許皆伝である。だから見台・小拍子・膝隠しの三点セットを前に喋る上方落語は話芸そのものに特化していると見ていた。


 しかし口より先に手が出るのが江戸っ子。噺家の小道具は扇子と手拭いのみ、話だけでなく仕草にも重きを置き、パントマイムの要素も含まれる。全ての動作、視線のひとつにまで意味がある。そこに強く惹かれた。


 東京に出て半年、井戸の中の蛙だった自分を思い知ることばかりだったが、笑いに限れば大阪の芸人ばかりで優越感を感じていた。しかし先月、ひょんなことから寄席小屋に連れられて以来、江戸落語にがぜん興味がわいていた。


 崇徳院は、どこへ行った。


 車は三郷ジャンクションで常磐自動車道に移った。あとは北へと一直線。


「起きな」


 三人まとめて叩き起こされた。窓の外はもうすっかり明るい。


 外へ出る。杏木にとっては初めての東北地方だったが、思っていたよりずっとあったかだった。


 福島県の太平洋沿い、通称浜通りは年間を通して温暖。その事前情報と寸分違わぬものだった。


 降りたのはコンクリートの広びろとした駐車場。


 目の前にはガラス張りの建物。


 向かって左には何面ものコート。


 サッカーに打ちこむ環境としてこれ以上のものはない。替えのパンツだけ用意しなと言われたのも納得できた。


 Jヴィレッジ。


 サッカー日本代表のベースキャンプであり、その広い敷地を活かしてユース年代の全国大会を開催することも可能。当時オープンして十年足らずでありながら、日本サッカーの新しい聖地と呼ぶに相応しかった。


「邪魔になんないようにさ、端に寄せといてよ」


 そびえ立つ城のような佇まいに気圧されていた杏木、瑞穂、山路を促すフレディ。荷台から下ろしたボールやコーンをコートに運ばせる。その瞳は感慨深げに潤んでいた。


 スーパー少女プロジェクト。


 将来有望な女子小中学生を選抜し、ゴールキーパーの英才教育を施すのは彼の悲願であった。


 現在も女子GKキャンプと名称を変えて続いているプログラムの、これが記念すべき第一回である。


「よっ」


「石さん!」


 日本代表のポスターが張り巡らされた入口を潜ると、大勢の大人たちに取り囲まれた。全国津々浦々から集めた選りすぐりのスタッフたちである。年輩の男性もいれば、また若い女性も。共通しているのは、杏木たちを連れてきたひげの男を心から慕っていることだけ。


「ただのオカマやないんやな」


 大石尚幸は十代から葛飾クラブの若き守護神として名を馳せ、甘いマスクと華麗なファインセーブとで当時の日本リーグでは異色のアイドル的な存在だった。一度引退するもプロリーグ発足と時を同じくして現役復帰、今度は派手さはないが堅実なプレーで日本代表にまで上りつめ第三キーパーとしてチームを支えた。45年目を迎えたオカマの人生は人の何倍も密度が濃く、よって顔も広い。


 いつもはおネエ言葉のフレディが自分を俺と呼ぶのが杏木はおかしかった。サッカー界でゲイはいまだにタブーである。


 旧交を温めあっている間、杏木たちは手持ちぶさた。しょうがないのでレストランへ向かう。本来であればこの時間は宿泊客しか利用できないが、フレディが人数分の朝食を用意してくれるよう手配してくれていた。だが当の本人がそのまま準備に行ってしまう。日付が変わるまでゲイバーでのイベントをそつなくこなした後夜通し運転した疲れを、これから始まることへの興奮がねじ伏せてしまっているようだった。しかし三人で四人前食べるほどの食欲はない。


 通りがかったロビーにふと目をやると座りこんでいる小さな先客がいる。銀色のスーツケースにもたれ、サンダルを履いたすらりとした足をだらしなく投げ出して疲れきったオーラを醸す。チビTシャツの胸には島人とある。


 杏木たち同様夜を徹して移動してきた人間なのは明白だったが、いきなり声をかけるのはさすがにハードルが高い。こんな時、トウモロコシ頭のあいつがいると気軽に声をかけてくれるのだが。


「はいさーい」


 やきもきしていると向こうから声をかけてきた。日焼けした小さな顔からよだれがつーっと糸を引いた。


「まーさんやー、まーさんどー」


 少女が茶碗で顔でも洗うような勢いでご飯をかきこむ。まーはうまい、うまいにさんをつけてうまいや、うまいぞと言っているわけだ。


 一晩かけて300キロを移動した五臓六腑にも染み渡る滋養であった。


 つやつやの新米、薄味ながら出汁のきいた味噌汁、ほくほくとした歯触りも楽しい筑前煮、水気たっぷりの青菜のおひたし、黄身の盛り上がりで鮮度がわかる生卵、デザートに出されたシャキシャキとした桃。近海ものだという焼き魚も含め、このレストラン「アルパインローズ」では地産地消、地元福島県産の食材を使っての料理にこだわっていた。


 三大栄養素の炭水化物は米から、タンパク質は味噌から、脂質となるおかずにはさっぱりと醤油をかけて。これで満足できないなら日本に住むのは相当苦労するだろうというくらいの鉄壁の布陣である。


 未来のなでしこジャパンの守護神を発掘しようという壮大なプロジェクトになぜ杏木たち三人が選ばれたか。選んだのがフレディだからである。


 今月末に都道府県予選が始まる第一回レディースフットサル大会。杏木たちがエントリーしたのは千葉県サッカー協会だった。メンバーは杏木、やよい、真夏、瑞穂、深雪の五人。一人でもケガなり出場停止になればアウトというギリギリの人数である。


 そしてこの五人の中には、ゴレイロがいない。フレディ曰く半分はゴレイロで決まるフットサルにおいてそれは致命的だった。


 頭を抱えたのは酔った勢いで監督を受けてしまったマカロン修羅。スーパー少女プロジェクトのことを知り、その中心となっているフレディに泣きつく。どうせ恥という恥は酒場でさらしまくっていたのだから。


 意外にもフレディはこれを快諾した。瑞穂はフレディがその長身と冷静な読みに目をつけゴレイロとして育てたがっていたのを本人がかたくなに拒んだという経緯があった。


 かたや山路はすでにアンダー代表に名を連ねている。フットサル選手権では背番号1で登録されたプリンセーザの正ゴレイロだが、フレディに言わせればまだまだ素材の域を出ないと選外の高校生ながら呼び寄せた。


 そんな二人と一緒に、やりたくもないキーパーの合宿に行かされる。出不精である杏木が嫌な気持ちでいっぱいでいたのをなだめたのがアテネ五輪から帰ってきたなでしこジャパン主将の改源春風だった。


 その話は、どんな名人の芸よりも杏木をそそった。


 藤くん、Jヴィレッジはねえ、ご飯がおいしいんだよ。


 去年(2003年)のワールドカップ、その予選を兼ねたアジアカップでぼくたちは出場権を取れなかった。ホームアンドアウェイ方式で行われるメキシコとの大陸間プレーオフに回ったんだ。


 メキシコラウンドはアステカスタジアムで行われた。10万人のメキシコサポーターはひっきりなしに騒ぐし、空気の薄さで頭は痛くなる。なんとなドローに持ちこんで地球の裏から戻ってきたらヘトヘト、日本でも試合があるのにボールも見たくないくらい。


 成田からチャーターバスに乗せられて連れたのがJヴィレッジ、荷物すら解く前に連れていかれたレストランで出されたのは小さい土鍋だった。


 すいとんだったんだよ。みんな白い米が食べたかったから暗くなって、でも食べた。


 ゴボウ、ニンジン、シイタケ、ネギ、鶏肉。


 あの時何が入ってたかは死ぬまで忘れない。


 気がついたら土鍋の中身がなくなってた。


 その代わり、よし、やろうって気持ちがムクムク湧いてきた。


 疲れってのは内臓からくるんだなーって思ったよ。食べなれた味、不足してた栄養、何より日本に帰ってきたんだって安心感。


 おかげで国立の試合には勝てて、ワールドカップにも出られた。


 あのすいとんがなければ、アテネにも行けなかったろうね。


 あの食事を四日もタダで食べられるなら、ぼくが行きたいくらいだよ。


 きれいに自分の分を食べ終えた山路が、まだ足りないのか焼き魚に添えられたレモンの輪切りを口に運ぶ。同じようにした瑞穂は風邪で味覚が過敏になっているせいでむせ返った。


 そして杏木は親の仇でも見るような目で唯一箸がついていない、草食動物の糞を思わせるころころとした小粒の集合体をにらんでいる。個体の間には腐敗したような粘液が蜘蛛の糸のようにまとわりつき、腐敗臭が漂う。


 京都を離れて半年、マクドをマックと呼ぶのにも抵抗が消え、鰹だしの真っ黒いうどんのつゆをためらいなくすすれるようになった彼女の前に立ちはだかったラスボス、その名は。


「NATO」


 それでは北大西洋条約機構である。


 納豆。日本人のソウルフードでありながら、西日本でこれほど毛嫌いされている食べ物も他にない。


 杏木がこれを初めて見たのは横浜にある父親の実家の食卓で。明らかに腐った豆をうれしそうにかき混ぜる父をそんなん食うたら死んでまうと本気で止めた記憶がある。父は父で入婿ゆえの猫を借りてきたような食卓を離れ思う存分かっくらってやろうとしたのを制止されえらく不機嫌になった。


 関西で納豆といったら普通は甘納豆のことを指す。


 今でこそ関西のコンビニでも正方形の白いパックが並ぶようになったが、少なくとも当時杏木の実家や学校給食に納豆が出されたことはなかった。


「嫌いなら残せば?」


「いや、食うたことすらないねん」


 食わず嫌いというやつである。


 とにかく箸をつけないことには何も始まらない。箸を納豆のど真ん中に突き立て、グジャグジャとかき回す。糸は何重にも糸を引き、豆と豆とを強固につなぐ。


 手から箸を離した。箸は倒れない。


 ますます食べたくなくなってしまった。


 杏木よ、それは粘りにございましょう。そもじの鞠を助け、高みに上げるのに必要になるのは。


 粘りとは何か。こればかりは言葉にするがちと難しゅうなりまする。


 たとえば十の力を要する技があると致しましょう。五の力しか持たぬ鞠足がそれをなそうとすれば、それはいかにもいやしく、白けて見えましょう。


 ところがこれを、十五の力を持つ鞠足がなせば、そこにはよく熟れた果実のごとき香しさが満ちるもの。それが粘りにございます。


 鞠の真髄は、のどかに蹴鞠ること。鶏合わせのごときけたたましき鞠は、ただただ興が醒めまする。


 近頃のそもじを見ると、あれやこれやと目移りし、できもせぬことにも手を出しているように見えてなりませぬ。できることすらおろそかになってはおりませぬか。


 では五の力の鞠足が粘りを見せることはできぬか。そのようなことはございませぬ。


 三の技しか用いぬこと、自分ができぬことはせぬことにございまする。


 それでも喧嘩をせねばならぬ時、でございますか。


 それこそ粘りにございます。


 他の鞠足と密に言の葉を交わし、己が見えるものを他にも知らしめ、また他の考えを己がものとすること。太刀でも絶てぬ無数の糸を巡らせるがごとく、己と他の境目をなくすのでございます。


 ですが、それは口にするほど容易くはございませぬ。他の者が骨を折るより己が擦り傷に痛みを感じるのが人ですからな。


 己と他は別の人、一つになどなれますまい。その異なる者をつなぐが粘りにございまする。


 杏木よ、五の力しか持たぬそもじが十五の力の者に挑むなら、まずは粘りを知り、そして理解し、ついには共有しませい。それすら能わざれば、勝ち負けにすらなりますまい。


 一幅の巨大な絵画のようだった風景の中に一つだけ動くものがあった。


 向かって左手に見える下り道を、縦に連なってわっせわっせと駆け上がる自転車である。よく見れば三つの自転車がくっついたようなタンデム自転車。


 うんと平たく言うと、ヤッターマンに巨大メカを爆破され黒焦げになっまドロンボー一味が退散する時に乗る、あの自転車のことである。違うのは三つのペダルを漕ぐのが二人だけなところだけ。


「あ、こけよった」


 入口を前に横倒しになった自転車、受け身すら取れなかったので飛び出す一同。すでにフレディがその傍らに腰を下ろしていた。


「1時間59分45秒! 組長、自己ベストです!」


「気持ちいー! チョー気持ちいい!」


 白いマニキュアを塗った右手と、赤いマニキュアを塗った左手が鳴った。


 アホである。心配したほうが。


 チャリダー二人は女子中学生だった。赤いTシャツを押し上げる胸板、肩までたくしあげた二の腕、短パンから突き出した大ももやふくらはぎなど雷門付近にたむろする人力車の車夫のそれだ。松がプリントされたヘルメットを外すと、サイドの髪をきれいに剃り落としたモヒカン頭があらわに。もう一人の竹がプリントされたヘルメットの下はサラサラのサーファーカット。夜道で会ったら財布を置いて逃げるしかないペアである。


 必死に頭を巡らせる杏木。この顔に見覚えがあるような気がした。


「マツ!」


「山ちゃん!」


 モヒカンのほうに声をかけたのは山路だった。抱き合う二人。


「20番!」


 五月に行われたU19アジア選手権に出ていた選手だった。重戦車のようなドリブルを忘れてはいない。


「なんか暑苦しいのが来たね。あんたら、名前は?」


「松長來未! 小名浜第二中学三年! 自慢の筋肉は大腿筋!」


「佐竹奈緒! 小名浜第一中学二年! 自慢の筋肉は上腕二頭筋!」


「自己紹介まで暑苦しいな。それより小名浜からここまでフルマラソンくらいの距離はあるだろ。こんなふざけた自転車でよく来れたもんだ」


 あきれ果てるフレディには目もくれず、モヒカンの松長は杏木のほうを見つめてくる。上から下まで、値踏みでもするかのように。


「おっ、いい女」


 今までに(こけしのように)かわいい、くらいなら言われたことはあるが、いい女は初めてである。だがなぜか素直に喜べなかった。


「やっぱり玄関にシーサー置いてあるの?」


「あるよー。みんなの家はないの?」


 小学生17人、中学生12人、高校生一人。


 北海道から沖縄まで全国から選抜されたメンバーがJヴィレッジに到着したのはお昼前。全員お揃いの紺色のウェアに着替えていた。


 その中に、やはり見慣れた顔があった。


「あんれ、プリンサーゼの人たちだ」


 先月ワンデイのフットサルで対戦したリッカ札幌のゴレイロ、渡辺仁美だった。


 雪深い北海道は屋内でもできるフットサルの盛んな土地だ。そんな激戦区北海道予選で中学生だけのチーム、リッカは優勝を決めており、十一月に東京で行われる全国大会にコマを進めていた。


 まず手の寸法を図る。キーパーグローブは一双一万円以上する上にすぐ傷みひんぱんに買い換える代物である。これもプレゼントしてくれるという。


「聞いてないさー」


 どこかの三人組みたいなことを言い出すひなの。


「ゴールキーパーなんてやったことないよ」


 確かに、スーパー少女プロジェクトという企画のどこにもゴールキーパーという文字は入ってはいないが、全く知らなかったとすればうかつにもほどがある。


「俺だってキーパーなんか初めてだよ」


 真っ先に採寸を終え、真新しいグローブを手に入れた松長。真っ白なマニキュアが塗られているのはなぜか右手のみだ。


「けどキーパーの心理とか、取りにくいコースとか、わかるじゃねえか」


「あたしはキーパーだけど、自己流だから、ちゃんと勉強したいと思った」


 そう言ったのは寸法を終えたロン毛の若竹。こちらは真っ赤なマニキュアを左手にだけ。普段使っていたものよりワンサイズ小さいグローブをあてがわれて驚いていた。


「手首から中指の先の長さで決まるんだ。中にあそびがあるとスローがとんでもない方向に飛んでくことがあるからね」


 今年の五月のことである。日本で行われた試合でキーパーが何気なく投げたボールが指先にひっかかり、真後ろに飛んでゴールの中に飛びこんでしまった。この世にも珍しいオウンゴールは試合をぶち壊し、チームは大敗した。


「えっと、普段グローブ使わないんだけども」


 そう申告する渡辺。フットサルのゴレイロはスローの感覚を優先するため、素手だったりフィンガーレスのグローブを使うことが多い。


「タダなんだから試してみなよ。ケガ防止にもつけないに越したことはない」


 自己紹介を終えると、いきなり小学生と中学生に分かれてのミニゲームだった。当然能力は中学生のほうが高いが、人数は小学生が多い。またキーパーはなしだった。


「ゴールキーパーである前にサッカー選手です。左右両足でボールを蹴られるようになってください。バックパス、ゴールキック、PK戦になったらキッカーになることだってある」


 全員がボールに集まり、いわゆる団子サッカーになる小学生チーム。これはゴールデンエイジ理論と深い結びつきがある。


 九歳から十二歳の間、技能を修得する速度が急激に上がる。これがゴールデンエイジで、この時期に得た技能が一生を決める。サッカーでいえば止める・蹴るがボールに触れば触るほどうまくなり、だから全員がボールに団子状に群がる。


 その中で異彩を放っているのがひなのだ。二十人弱の小学生の集団にあってポジションなどお構いなしにボールを追っかける。取れるかどうかはあまり関係ないらしく、ひたすら子犬のように走り回る。そして速い。この年齢にしては大したスピードだ。


 中学生チームのほとんどはゴールデンエイジを過ぎてしまっている。足元の技術に伸びしろは残されてないが自分の能力を理解し、全体を見渡しながら最大限それを発揮することができるようになる。


「カエデ」


 杏木が中盤で前を向けず、緩いパスを瑞穂に戻す。ひなのが俊足を飛ばし、インターセプトを試みようと前へ出た。延ばした爪先の5センチ先を抜けたボールを瑞穂がダイレクトで返す。ひなたが空けたスペースに入った杏木が前を向いて受けた。


「こいっ!」


 ボールに群がるということは、それ以外の場所はがら空き。ゴール前に突撃する松長。アホか、とぼやく杏木。あれでは自分の居どころを相手に教えてるようなものだ。それでもふわりと浮かせたパスを松長の走る方向に出す。案の定左右から一人ずつマークが迫る。


 丸太ん棒のような腕をのばし、ブロックするとそれ以上寄せられない。頭上から落ちてきたボールを、そのまま二人を引きずり倒しながらゴールへとなだれこんだ。


「ナイスパス!」


 親指を立てながら満面の笑みを送る松長。ゴールというよりはラグビーのトライに近かった。


「すごいなー」


 目を丸くするひなの。だましうちのようなことをしてしまったのがなんだか詫びたくなるほどの純真さだった。


 ゴンゴン、とドアをノックする音。瑞穂と山路が訪ねてきた。瑞穂はチームのジャージ、山路は闘魂プロレスラーのようなに真っ赤なガウン姿。


「今何時や思てん」


「だって金曜の10時」


 最後まで聞き終わらないうちに杏木がリモコンをつかむ。


「これや、この、うちの友達」


 ブラウン管の左端に映った黒目勝ちの女子生徒をじかに指差した。普段は絶対にやらないツインテールにした、見慣れた顔があった。


 桜井やよいの出演する学園ドラマが今月から始まったのだ。二十年以上続く人気シリーズで、その生徒役は人気俳優への登竜門とされていた。


「うわぁ、かわいい」


 自分より年上のやよいに、ひなのがそんな感想を漏らす。


 なんか、こんなやりとりがどこがであった気がする。


 しかしそれがいつ、どこで、誰とだったか忘れてしまっていた。


『みんな、やめてっ』


「サクラ、きしょっ」


 淀みなく使う標準語を使いこなすやよいがくすぐったくてかなわない。


「うわぁ、叩かれた」


 校則に厳しい中年教員をクラス全員でリンチするシーンだった。教員一人を三人がかりではがいじめにし、男子たち顔や腹を殴っていくというもの。やよいが扮するのはリーダー格のコバンザメ的な存在の生徒役で、あまりのことにそれを止めに入る。言わば見せ場だったのだが。


「しばいてへん、芝居や。音も後から入れてんねん」


 本人から撮影の様子は聞いていた。昔は本当に殴ることもあったが今そんなことをしたらテレビ局に抗議の電話が殺到するという。


「ほんまもんって、こんなもんやないで」


 杏木たちが親友の熱演に、妙に冷めた視線を送らざるを得ないのは、本物の校内暴力を身をもって知ってしまったからだった。


 ことの発端は、同じクラスの真夏と深雪の担任が二学期から産休に入ってしまったことだった。代用教員は通常正式採用を目指す若い教員の卵がなるものであるが、都内の学校や千葉の大都市に求人が流れてしまい、求人に苦労している面がある。


 結局、学年主任が担任代行をつとめ、英語を教えるのは一度定年退職をして再雇用された先生だった。fiftyをヒフテーと沖縄料理の名前っぽく発音するおじいちゃん先生に、母親がフランス人のバイリンガルである真夏は目の前が真っ暗になった。


 事件はおじいちゃん先生の二回目の授業で起きた。


 ミミズがのたうつような筆記体で穴あきの英文を書き出し、ランダムに当てて答えさせるというものだった。最後の設問にさしかかった時、チョークの粉まみれになった指で真夏を差した。こう言いながら。


 次、そこの黒んぼ。


 あまりのことに固まってしまった真夏の横を、風が走り抜けた。


 一番後ろの席で寝ているとばかり思っていた深雪が机を飛び渡り、全体重を乗せた拳をおじいちゃんの鼻面に叩きこんでいた。体は教壇に立ったまま、頭だけが黒板にぶつかったようだったと真夏は語った。


 おじいちゃん先生は入院。学校はこのことを表沙汰にはしなかったものの、深雪は二週間の停学処分を受けた。この週末でようやく停学は解けるがそれまで当然プリンセーザの練習にも出られなかった。


 サッカー選手で問題児と呼ばれる選手はたいていストライカーだ。スペイン語では得点感覚を殺し屋の本能、と呼ぶ。点を取るには味方すら押し退けてゴールに迫るエゴイズムが必要なのだ。


 が、深雪のいつ暴発するかわからない危うさを、みんながもて余していた。


 もしこういうことがもう一度あったら、荷物まとめて四国に帰ってもらう。


 菅原は深雪に釘を刺した。


 闇の中に、白く塗った顔だけが浮かび上がる。


 平安人がふすべ鞠を蹴りあげられるたび、真っ黒な水干の裾が烏の羽根のように翻る。その鞠は三つあり、お手玉のように軽やかに上げ、ミスもない。


 次第に鞠はかき混ざり、ネバネバとした糸を引く。


「アリ、ヤカ、オウ」


 高々と蹴り上げた鞠が、無数の納豆になって杏木の頭上に降り注ぐ。それはよく見ると赤や白や緑の直垂を羽織った童子の頭で、蹴るなどできず全身に納豆を浴びせられた。


「そもじの戦は勝たねばならぬ戦。その目は何ぞ。面立ちは、涙は何ぞ」


 糸を引きちぎり、逃げ出す杏木。その眼前に巨大なゴールマウスが。飛びこんでしまった杏木の五体をゴールネットが蜘蛛の糸のように捉えた。もがけばもがくほど絡みついてくる。


「お残しは、許しまへんで」


 闇に浮かぶ割烹着、おひつとしゃもじを手に襲いかかるヒゲの男。


 前門の麿、後門のホモ。


 胸を締めつけられるような息苦しさに飛び起きた。息苦しさの正体は胸で組んだ自分の腕だった。窓の外はまだ暗い。


 頭から布団をかぶり、今度こそ眠りの世界に落ちようとすると。


「アンマー」


 すすり泣く声が隣のベッドから聞こえた。


「初めてさー。親元を離れるのも、本土に来たのも」


 ひなのは泣き腫らした目をしてボソボソと愚痴った。


「なんでここ来ようと思たん?」


「わったー力がどんなもんなわからなかったからさー」


 その気持ちは痛いほどわかる。杏木も自分が何者であるかを必死に模索中なのだから。


「藤原さんは帰りたいと思ったことは」


「あらへん」


「さみしいと思ったことは」


「あらへん」


 京都に帰るのは負けたときだと決めている。それに学校にクラブに家、一人になれる場所ばかりでむしろ毎日おまえらいなくなれとさえ思ってた。


「沖縄帰りたい」


 力ない言葉に、杏木の中で何かが炸裂した。


「そんなん言うなら帰したる」


「でも、チケットもないし」


「飛行機なんかいらん」


 そう言って自分のデイバッグを背負った。


「どこ行くんさあっ」


「黙っとき、舌かむで」


 入口にほっつけてあった松長たちの自転車には鍵がかかっておらず、これ幸いと飛び乗った。


 太い道に出たところで左に曲がる。福島県道391号線、通称広野小高線。文字通り双葉郡広野町の国道6号線から分岐し、北上して馬追で有名な南相馬市小高地区まで続く道だ。


 ヘルメットをかぶった顔を潮の香りが突き刺す。右手に海が見えたところでハンドルを右に切った。


 防風林を抜けたその先の道は砂浜に消えていた。轍が砂にめりこみ、バランスを崩した自転車が立ち往生する。


 ちょうど、暗闇をたたえた水平線を、黄金の朝日が縁取ろうとしていた。


「こっから泳いでけばそのうち沖縄に着くやろ」


「むちゃくちゃだよー」


「いつでも帰れる、そう思とくんが大事や。帰れへんと思うから帰りたなる、いつでも帰れる思たらちょっとはがんばれるやろ」


 慣れぬ土地、常識が通じない同居人、ハイレベルなライバル、思わぬ故障。帰る理由などいくらでもある。


 杏木が半年間その誘惑に負けなかったのは、一度京都に戻ったら二度と東京に行かなくなる自分が怖かったから。今の場所にたどり着くまでのしんどさを覚えていたから。来たくても来れなかった者たちの顔を、いまだに忘れられないから。


 そして、京都にはもう、自分の帰れる場所がないから。


 勇壮な朝日が昇る。潮風は肌を刺す冷たさだが海は凪いでいた。


 あふれるような黄金に細い目をさらに細めながら、杏木は目の前に広がる海を見つめる。


 朝日が完全にその姿を表した空はどこまでも青い。空色とはよくいったもので、北から南までとこまでも薄い青が広がっている。


 だが海は違う。遠くからは藍色に見えた水を目の当たりにして気がついた。


 浜辺は真水に水彩絵の具を垂らしたような透き通ったアクアマリン。


 沖は夜の闇を残したかのように光を吸いこむミッドナイトブルー。


 打ち寄せる波が白いのは空気を巻きこむことで魚や微生物が呼吸するためだが、その白にもシアンが含まれている。


 最も暗い部分は明るい空と接する水平線、コバルトがくっきりと引かれている。


 海の青はこれらさまざまな青が糸のように織り成す現象であり、海の色はどんなものとは一概には言えない。


「沖縄の海と全然違う」


 ひなのの言葉も正しい。沖縄の海は白砂が透けるほど明度が高く、こんな深い色合いをしていない。


 群青、という言葉がある。


 明るい青、暗い青、濃い青、淡い青。


 それら青の群れこそ海の正体である。


 海はいつもそこにあるが、同じものであることは一瞬たりともない。


「納豆筋!」


 Jヴィレッジに二人が戻るとすでに全員が食卓についており、松長が暑苦しいボージングを決めながらマニキュアを塗った方の手で納豆をかき混ぜる。


「海はきれいだったかい?」


「なんてわかるん」


「頭が砂で真っ白」


 練習前にシャワーを浴び直さないといけないが、食べるのが先だ。二日目の朝食メニューは昨日とほとんど変わらない。味噌汁の具がなめこに、魚が鮭の切り身になったくらいだ。


 ということは当然、納豆も。


「なんで豆を納めるで納豆なんや。腐っとるやないか」


 名前にまでケチをつけ始める杏木、完全に負け惜しみだし、腐敗ではなく発酵である。


「中国から渡ってくる時に豆腐と逆に伝わっtsんdsろ」


 ていねいな箸さばきで几帳面に鮭の皮から身をほぐす瑞穂。


「そりゃガセだ。中国だって豆腐はドゥフだし、中国に納豆はない」


 バレンシアオレンジをむさぼり食う山路の言う通りである。


「なんだ、納豆ダメなのか」


 とっくにごちそうさまを済ませ、他人のテーブルにまで首をつっこんでくる松長。


「なでしこジャパンにゃ専属のコックなんかつかないんだぜ。アウェイに行ったら出されたものを食べて力を出すんだよ」


 松長は四か月前、日の丸を背負って海を渡った。その言葉には重みがある。


「タケ、砂糖」


 さっきまで座っていた席の隣で食後のコーヒーを楽しんでいた佐竹に目配せする。無言で差し出されたキメの細かいグラニュー糖をティースプーン山盛りにすくい、納豆の上に雪のように降らせる。最後にそのど真ん中に杏木の箸を突き立て、突きつけた。


「け(食え)」


 東北地方の山間部には納豆に砂糖をまぶして食べる地域が存在する。沿岸部のように魚が摂れない地域では納豆でタンパク質を補う他なく、少しでも食べやすくするための工夫だったのかもしれない。


 ここまでされたら後へは引けない。砂糖と納豆を和え、一思いに流しこむ。


「これは甘納豆やあっ」


 もちろん納豆に砂糖を混ぜても甘納豆になるはずがない。口の中に広がる粘りと臭みは噛めば噛むほど増してゆくが、ついにそれを飲み下した。


「ねーねー(お姉ちゃん)すごいー」


 同じように納豆を克服できないでいたひなのが羨望のまなざしで杏木に自分の分を差し出した。


「いや、納豆は一口に限る」


 食通を気取る鼻持ちならない男を珍味だと騙して腐った豆腐を食べさせる「酢豆腐」上方では「ちりとてちん」のサゲである。


「こいやあっ」


「よっしゃあ」


 ピッチに入るや腹ごなしとばかりに腕立てを始める松長と佐竹のコンビ。松長はとにかくスピード重視で何度もくり返し、佐竹はじっくりと体を沈めてはゆっくりと起こす。やがて二人とも精魂つきてその場にへたりこむ。


「痛! くない!」


 Jヴィレッジ最大の自慢は八面もの天然芝コートだ。この時期は夏芝と冬芝の端境期にあたり、特にゴール前と副審が走るタッチライン際が荒れるものだがここでは優秀なグラウンキーパーが常駐し、利用者に一切の不便を感じさせないほどに青々とした状態を保っている。


 今回のプロジェクトはピッチを二面借りての贅沢なもので、通常より長めに刈りこんだのはフレディのリクエストだった。


 ゴールキーパー大国と呼ばれるのはヨーロッパの国が圧倒的に多い。ドイツやイタリアといった強豪国はもちろん、中堅国と呼ばれる国からも世界的なキーパーが現れる。


 これは公園や学校のグラウンドが芝に覆われているからである。


 日本のような固い土のグラウンドの上で飛べば落ちたとき当然痛い。その恐怖から飛距離はどうしても縮み、キーパーを志願する者もなかなか出ない。


 スーパー少女プロジェクトの第一歩は、倒れても痛くない深い芝の上で思う存分選手を飛ばせることにあった。


 フレディが全員を集め、自分を囲むように車座を組ませた。


「腕がつけ根からじゃなく鎖骨や肩甲骨から始まってることを意識しながら腕を回しましょう。右も左も均等にね。肩こりにも効くからおうちに帰ったらお母さんにも教えてあげてね」


 和やかな雰囲気の中、本格的な練習が始まった。


 汗ばむほどみっちり準備運動を終え、ようやく小学生と中学生に分かれる。フレディは中学生組の前に立った。


「二人一組になって」


 松長が指先の赤い右手で杏木の左手をつかんだ。電光石火の早業になすすべもない。


 二人一組のキャッチボールから始まり、オーバースローからサイドスロー、アンダースロー。


「腕だけで投げるんじゃないぞ。肩や背中も意識してな。肩甲骨をはがすイメージ。肩の可動域が広がれば止められるボールも増える」


 上体が温まったところで足でのパス。右で受けて左に出す。逆。ワントラップからダイレクト。


「ゆっくりでいいから正確に、苦手は重点的に。長所を伸ばすより短所をなくすのが上達への近道だ。物足りなければスピーアップ、ただし絶対ミスるな」


 パスを受け、返すだけでもわかる。松長のキックは速いだけでなく恐ろしく重い。うっかり軽い気持ちでトラップすると足を後ろに持っていかれそうだ。インステップならわかるが、インサイドやインフロントでここまでずっしりした感触を伝えてくる選手はプリンセーザにもいなかった。


「うめぇな」


 松長の顔からも不敵な笑みが初めて消えた。


 次はいよいよ女子キーパーの悩みの種、ロングボールである。キャッチしたボールはなるべく遠くに蹴り出すのが普通だ。しかしキック力が低いとヘディングで跳ね返されたボールがディフェンスの後ろに落ちて即ピンチにつながる。フレディもそれは心得ていた。


「まず南米のキーパーのキック」


 軽く浮かせたボールに、地面と水平に足を振るう。直線を描いたボールが40メートル先にいた瑞穂の胸に飛びこんだ。


「次、ヨーロッパのキーパー」


 足元に転がしたボールをゆっくりと前に運び、下から上へ蹴り上げる。今度は弧を描いて飛ぶとやはり瑞穂の延ばした腕に収まった。


「ストリートサッカーの盛んな南米は地面が固いから踏ん張りの利くパントキックで速いボールを前線に送り、芝のグラウンドがゴルフのティーアップの役割をするヨーロッパはエリア外まで運んでヘディングで競りやすいハイボールを蹴る。どっちが優れてるかじゃなくて、状況に応じて使いこなせるようになってね」


 隣のコートではビブスを使った尻尾とりをしていて、ひなのの金切り声が聞こえた。


 杏木の左コーナーキックが鋭く曲がりながらファーサイドに落ちる。長い髪をなびかせ、両手を広げてジャンプ。渡辺に競り勝った瑞穂が額に当てたヘッドがクロスバーすれすれの高さに飛んだ。


「きええーっ!」


 ニワトリを絞め殺すような絶叫もろとも左から右へダイブ。長い髪をなびかせ、指先でゴールラインにかかったボールをかき出す。


 佐竹が恐るべき身体能力の高さを見せつけた。


「はい、今のがなんでダメかわかる?」


 フレディが止めた。


「右から左、そんで右。動きすぎ。もしアキがニアに速いの入れてたら松長が突き刺してたよね」


 そうなのだ。遠いところでのらりくらりとしていた松長がニアサイドへと走ったのが杏木には見えてなかった。


「最悪ファーは捨てていい。外れる可能性が高いし、仲間がカバーしてくれる。けどニアを抜かれたらキーパーの責任だし、何より悔いが残る」


 返す刀で瑞穂にも注意を与える。


「ヘディングはこめかみ。皮が薄いから切れやすいけど一番強く飛ぶ。それから怖がるな、マスミがそんなへっぴり腰でヘッドしてたか?」


 だが今のヘディングはほぼ完璧だった。マーカーを寄せつけないように腕で空中の陣取りゲームに勝つと最高到達点でボールを捉えた。ジャンプそのものも高かった。


 失恋ダイエット。薦めはしないが効果は抜群だ。


「ヒロコは何やってるだ。唐揚げ禁止つっだろ」


 松長をどフリーにしてしまった山路にも容赦ない。福島のご飯がおいしいのか、見るからに動きが鈍い


 杏木の番が来てしまった。


「ケガすんなよー」


 松長が自らにできうる最大限のサポートをして送り出した。


 お母はん助けて、のどまで出かかっていた叫びを必死に飲みこみながらグローブをはめ、ゴールマウスに立つ。サッカーゴールを守るのは初めてで、周りを取り囲むのはキーパー志望の長身の少女たちで。急に自分が縮んでしまったような錯覚に陥った。


 いきなりフレディに突き飛ばされ、ぐらりと揺れた体がその場に倒れた。


「緊張しすぎ。なにも取って食おうってんじゃないんだから」


 そんなことを言われても、指示の出しかたなど習ったこともないのに。


「コーチングじゃないよ。とりあえず、俺の真似しな」


 フレディが胸いっぱいに空気を吸いこみ、叫んだのは。


「試合に出たけりゃ、キーパーよ!」


「・・・」


「リピート、アフターミー」


「し、試合に出たけりゃ、キーパーよ」


「ワールドカップ出たけりゃ、キーパーよ!」


「ワールドカップ出たけりゃ、キーパーよ」


「オリンピック出たけりゃ、キーパーよ! はい全員で!」


「オリンピック出たけりゃ、キーパーよ!」


 完全にヤケクソだったが、杏木の体から余分な力が抜けていた。


 緊張とは精神的な重圧が筋肉を硬化させる状態である。それを緩和させるのに有効なのは笑いであるが、あまり弛緩してしまうのはこれでこれでよくない。


 だから大声を出させた。夜道が怖いとき歌うのが効果的なのは、声帯を震動させることで体の強ばりをある程度逃がすからである。


 松長のコーナーキックがフリーの佐竹に渡った。火の玉のようなミドルシュートに一歩も動けない。


 緊張が解けようが、止められないものは止められない。


 午後の練習が終わり、大浴場で汗を流す。


 別にそういう趣味はない杏木も、やはり他人の体つきは気になる。


 ひなのは手足に余分な肉がなく、幼児体形である。シュート練習でゴールポストに頭を打ったそうで髪が洗えないとこぼしていた。あとまだ生えてない。


 瑞穂は同性の杏木が見とれるくらいの抜群のプロポーションをしている。青い静脈が透けて肌が朱に染まり、長い手足にほんのりと女性らしいふくらみが宿っている。


 それに比べると山路はパーツの一つ一つが大きい。そんなに食べていたり、練習をサボってるとかでもないのに急激に女らしい体つきになりつつあった。中国人だから当たり前なのだが、ワキ毛が延び放題なのを気にもしていない。


「いやぁ、女湯はパラダイスですなあ」


 頭に濡れたタオルを置き、まじまじとそれらを眺めるのは松長。浴槽に乗せた肩の盛り上がりはメロンのように血管が浮き出ている。


 一足先に上がり、ドライヤー片手にやたらと量の多い髪と格闘している佐竹の背中には鬼の顔が浮かぶ。ハムケツ、ももの裏のハムストリングと大臀筋も一刀彫のように荒々しい仕上がりぶりだ。


「松長はんたち、なんでそんなん体鍛えるはるん?」


 そんなストイックさは尊敬に値するが、サッカーは筋肉だけでやるものでもない。必要以上につけた筋肉が動きの妨げになることだってある。


「俺らは福島の田舎もんだからさ、ちゃんとサッカー教えられてないんだ」


 ボールコントロールの巧拙はゴールデンエイジにどれだけ多くボールに触ったかで決まり、それを過ぎると練習しても上達しない。


「コーチは一生懸命教えてくれるよ。でも五しか知らないコーチに教わった選手がそれ以上にはなれるわけねえ」


 その点杏木は恵まれていた。ゴールデンエイジに教えを受けたのは、鞠聖と称された蹴鞠名人だったのだから。


「でも筋肉は嘘をつかねえ。鍛えりゃ鍛えただけ効果が目に見える。速く、強くなれる。マシンなんかなくても腕立てや腹筋ならいつでもできる。こんなもんいらねえだろ」


「ひゃあっ」


 背後から胸を遠慮なくわしづかみされる。


 反射的に平手打ちした音が浴室に響いた。


 メンズ。


 どのチームにも一人二人、ボーイッシュなんて通り越えた、兄貴と呼びたくなる男前がいる。それを女子サッカーの世界ではメンズと呼んでいる。


 ぶっちゃければ、レズビアンのタチ、男役のことだ。


 髪を短く刈り上げて、化粧もせず自分は女が好きだとアピールしている。誰に向かってか? 同じレズのネコ、女役にだ。


 女子サッカーはレズのやるスポーツだとか平気でぬかす愚かな男がサッカー界にははびこっている。彼らに問いたい、女の何十倍もいる男のサッカー選手に一人もゲイを公言する者がいないのは不自然ではないのか。


 殺されるからである。


 聖書にもある。女と寝るように男と寝たものは必ず殺されなければならない。その一行のためにどれだけの同性愛者が迫害されてきたことか。


 しかし聖書には、女と寝る女については一切書かれていない。だから女同士でくっつくことには何一つ触れられていない。


 自分のセクシュアリティを堂々と打ち明けられる、その事に関しては女のサッカーは男より進んでるのは間違いない。


 だからといって、強引に迫る論外。


 悪いことした? そんなものにほだされる必要はこれっぽっちもない。


 三日目の朝。


 食卓に目をやった杏木の顔が華やいだ。アサリの炊きこみご飯だったからだ。別にアサリが特別好物というわけではない。白いご飯につきもののあいつは味のついたまぜご飯なら出番がないからだ。


「うわ、サンマ」


 秋刀魚の字のごとく、銀色に輝く頭のとがった魚のシルエットを発見するやあからさまに嫌そうな顔をするひなの。


「サンマ嫌いなん?」


 人の嫌いなものを聞くと杏木はうれしい。


「苦いし、食べにくいし」


 普通尾頭つきで出されるサンマは内臓や骨が混ざるととても食べづらくなる。そしてひなたの箸の握りかたは、とても不器用そうだった。


「見てな」


 瑞穂が右を向いたサンマの首に箸を添え、力を入れると骨の折れる音が。ついで箸を背中のほうから入れ、頭から尾にかけて横一線に走らせる。最後にしっぽを引き抜くと小骨ごときれいに抜けた。さすがは医者の家系、鮮やかなものだ。


「ハラワタ残すなよ」


 内臓を端によける杏木を佐竹がとがめる。


「だって苦いやん」


「いいから一口食べなよ」


 まだ左の頬に真っ赤な手形が残る松長に強く勧められ、はしっこのほうをおそるおそる口に運ぶ。


 苦くも、臭くもなかった。


四倉よのくら港のサンマだ」


 いわき市にある四倉ではサンマを鮨にして食べ習慣がある。サンマのハラワタが苦いのは鮮度が落ちているからで、生で食べられる新鮮さなら当然苦くない。


「サンマは四倉に限るな」


 目黒のサンマのサゲを口にしながら味噌汁の器を口に運ぶ、その手が凍りついた。


 納豆汁だった。完全に油断していた。


 グラウンドには先客があった。


 野球帽を逆さまにかぶった中年の男だ。髪はボサボサで肌に色つやもない。記者ではなさそうだが杏木たちがピッチに入ると無言で大型カメラのシャッターを切り始めた。左手の薬指をちらりと見たが指輪などなかった。


「ちーっす」


 松長が小さく頭を下げた。


「その人には気をつけろよ、パンツの色まで調べ上げられるぞ」


「人を変態みたいに言うな」


「ムームーさん変態っしょ。女のサッカーにこんなに入れあげる人いねーし」


 男がまくし立てるように反論するも松長、スルー。


 今日杏木とコンビを組むのはリッカ札幌の渡辺だった。二人組になって柔軟をするが、共通の話題はひとつしかない。


「大熊はんとどんな関係なんです?」


 葛飾プリンセーザの宿敵、浜松女学院のキャプテン大熊七星はリッカ札幌のメンバーでもあった。


「小学校からのチームメート。こないだはたまたま東京に来てたから久しぶりに一緒にプレーしたってだけ。楽しかったなぁ」


「どんな人なんですか」


 何かと因縁をつけてくる大熊に、杏木はあまりよい印象がなかった。


「ごう慢で欲張り、怠け者で大食い、短気で男にだらしなくてねたみ深い」


「何もそこまで言わんでも」


「でもサッカーに対してだけは、信じられないくらい真剣。あたしも、他の六人も、みんなナナのファンなんだ」


「ねーねー!」


 この日からひなのが中学生グループに加わった。身体能力が飛び抜けており、退屈しているからだった。


「手はこうね、両手の親指と人差し指で三角を作る。迷ったら高さで判断。顔より下ならポストの外、上ならバーの上。無理なキャッチはケガのもと」


 そんなひなのを渡辺が懇切丁寧に教える。


「分度器使えば?」


 よろよろと立ち上がる山路に冷たい言葉を浴びせるフレディ。この合宿、経験者には別人の厳しく接していた。


 コースに対して直角に飛べば最短距離でボールに触れる。だが止めようとする意識が強いあまり山路のダイブは前のめりになりがちで、その頭越しをフレディのキックが襲う。できるようになるまで休みなく飛ばされた。


 容赦ない責めを受ける山路が、杏木はうらやましくてたまらない。


「急にはうまくならないよ」


 そんな焦りを見透かすように、渡辺。


「キーパーは孤独だ。一人だけ手が使えて、ユニフォームも違う。一人しか出られないから他のキーパーとは口をきかないことだってある。けど練習はそいつとやるしかない。自分が出てればそいつに恨まれてるのは確実、自分が出てなければ悔しさを押し殺さなきゃならない」


 今度はポジション取りに難ありの佐竹がいたぶられる。出たらふわりと頭上を抜き、待てば横を鋭く破る。


「だからこういうの、すっごくうれしくって。自分の悩みや苦しみが自分だけのものじゃない、一人じゃないんだって」


 あんなにチームメートと仲睦まじくしていた渡辺が抱えていた孤独に杏木は気づきもしなかった。そしてようやく地獄の責め苦から解放されてゴールの裏でぜえぜえとうずくまる大きな背中を見つめた。


 葛飾プリンセーザ13期生中で一人だけ高校生、自宅から練習に通い、早くから試合に出ていた山路をうらやましいとしか思えないでいた。


 だが年も同じで共同生活を営む自分たちとの壁を、山路が感じてないわけがない。そして杏木たちは五人でチームを組み、敵味方に分かれた。


「うええっ」


 あわててバケツに顔をつっこむ山路。せっかくのおいしい朝食を派手にもどした。


「次、ミズホ」


 現在はセンターバックだが、もともとはキーパーもやっていた瑞穂が青白い顔でゴールマウスを背にし、両腕を掲げる。


 取れるボールは確実にキャッチ、強いボールは力強くパンチ、際どいボールは器用にトス。基本がしっかりしている分山路より安定して見えた。


「じゃ、これはどうだい」


 フレディが右足アウトフロントでかるく蹴りだしたボールは瑞穂の延ばした指先の5センチ先を通過、そこから内側に曲がってネットを揺らした。同じようなボールを繰り返し蹴り続けられるが、ハーフスピードのシュートに一本も触れない。


「そっちは相変わらずだね」


 瑞穂は利き手も左で、右手に向かって打たれるシュートへの反応が左どうしても鈍い。


「ミズホ、骨ってどんな形してる?」


「どうって、こんな」


 犬がくわえてるような、両端がハート型になった形状をグローブをはめたままの手で宙に描く。


「そう、関節って球体なんだよ。球体二つのへこんだところでくっついてる。ってことはちょうつがいでつながれたみたく決まった角度にだけじゃなく、どんな方向にでも動く。それを意識すれば、止められるボールは増える、意識しなきゃずっとそのまんまだ」


 何気ない一言だったが、それは確かに杏木の心をえぐった。


「最後、アキ」


 鼻唄混じりですれ違う松長が尻をなでにきた手を払いながらゴールに入る。


 フレディがインサイドで転がしたボウリングのようなゴロをそのまま蹴り返した。


「本気でやってください」


「あんた、お嫁にいけなくなるよ」


「おみやげもなしに、葛飾に帰れへん」


 新チームを立ち上げて、プリンセーザと戦う。


 自分のあまりに馬鹿げた提案を受け入れてくれた深雪を、杏木は拒んだ。だがその負い目からではない。


「お望みならいくらでもしごいてあげられるけど、ここはそういう場じゃないよ」


「承知の上で頼んでます。うちは今うまくなりたいんや」


 石さん、となだめる他のスタッフを突き飛ばすフレディ。


 代わるよ、と申し出た瑞穂を押しのける杏木。


「ちょうどお彼岸だろ。おはぎ、ごちそうしてやるよ」


「おはぎ?」


「半殺しだ」


 曲げる、落とす、叩きこむ。ありとあらゆる球種がネットをつんざく。その度に飛びつくが杏木の手はむなしく空を切り、半身が芝の上に落ちる。


「根性論は嫌いだけど、口だけのやつはもっと嫌いでな」


 だが何度倒されようと杏木は立ち上がる。


「ただ突っ立ってるならかかしと同じ。ゴールキーパーなら追いつめられるほどふてぶてしく、憎たらしく笑いな。相手をおびえさえ、味方の背中を押すんだ。そんな能面みたいな顔してたらみんな不安になる」


 そう言われて、顔が硬直していたのに初めて気づいた。だがおかしくもないのにどうやって笑えばよいのか。


「お、生きてた」


 あまりにも顔が近かったので思わずグーで殴ってしまった。三脚つきカメラを構えていた、あのオタクっぽい中年男である。


「鼻血は止まったけど脳しんとうを起こしてるっぽいし、お昼まで休んでな」


 そう言われて、フレディ渾身の一撃を顔面に受けたのを思い出した。


「おっちゃん、お医者さんなん?」


「ただの地方公務員でさぁ。仕事がら看護師と救急救命士の資格はあるがね」


 見ればひなのが、松長が猛然とシュートに食らいついている。


「あんたが火をつけたのさ」


 フレディは初心者にはキーパーを好きになってもらうことに心を砕いていた。しかし初心者だろうと、うまくなるためにここに来ているのだ。


「あんた、名前は?」


「藤原杏木」


「どんな字?」


「杏に、木曜日の木」


「杏木、と」


 みみずがのたうつような字を大学ノートに書きなぐる男。そのページには典型的なパサー、関西弁、左ひざかばう、と走り書きがされている。


「一枚おくれ」


 カメラを向けられ、思わずピースしてしまった。


「えっと、ブーブーはん」


「ムームーな。ハンドルネームだよ」


「ハンドル?」


「インターネットで使う、自分でつけるあだ名」


 男の名は村田晋。本名の一番最初と最後の文字を取ってムームー、である。


「ここに来る女子サッカー選手を紹介するブログ、ネットで見られる日記を書いてるんだ」


 顔入りの名刺まで手渡された。携帯番号にメールアドレス、ブログのURLまであるのに本名がない、趣味用の名刺と分かる。


「サッカー好きなんですか」


「全然」


 あっさり、ばっさりと男は言ってのけた。


「福島にゃ東京電力の原子力発電所がある、なんで東京で使う電気のために福島の人間が危険にさらされなきゃなんねえの。こないだだって福井の原発事故で四人も死んだ。こんなもん作ってごまかそうたって俺は認めねえ」


 なんとも面倒くさい御仁につかまってしまった。


「けどさ、ひまだからな、親もいないし兄弟や友達も妻子持ちになって疎遠、マンションも墓も買った。あとは定年まで働くだけ。休みになると海か、ここしか行くとこがねえ。小名浜の海は世界一だ。そしてここも他にはねえ場所だ」


「でも、なんで女子だけなんです? 男子も来るでしょ」


「男の選手にゃマスコミが大名行列のように連なってる。若い選手にはお姉ちゃんのファンがぶら下がってる。でも女子選手には誰もついてない。なら俺がついてやろうって」


「それだけ?」


「それだけ。いつか女子サッカーが天下取ったらざまあみろって言ってやる」


「えっと、ムームーはん」


「ムームーでいいよ。あんたら葛飾クラブの選手だってな。しかもキーパーってガラじゃあない。なんでまた福島まで?」


 杏木は洗いざらい打ち明けた。プリンセーザとたもとを分かってフットサル選手権に出ること、千葉県予選を間近に控えながら先が見えないこと。


 ふぅん、とため息を漏らしながらひび割れた唇を爪でこするムームー。


「キズナって知ってるかい」


「糸へんに、半分の半って書く?」


「んだ。あれって本来は生の綱でキヅナだったんだと。家畜を縛るものって意味でな。情で縛るのをほだされるって言うしね。福島、ことに浜通りは馬とゆかりの深い場所だ。馬追は全国的に有名だし、相馬市なんて地名にも残ってる」


「説教は嫌いや」


「あんた自分で言ったろ。糸に半分の半で絆だ。糸の片方はあんたが握ってる。もう片方は? あんたの仲間だろ? あんたの手の中に仲間の数だけ糸がある。あんたの仲間と仲間の間にも当然糸はつながってる。糸の一本一本は細いが何本も編みこめば立派な綱になる。それが、今使われてる意味での絆だ」


「・・・国語の先生みたいな」


「俺は先公なんか嫌いだけどな。今さら何をやっても飛躍的に力が伸びるなんてスーパーサイヤ人でもなきゃ無理だ。だったらあんたらが、どれだけ強く結びつけるか。でも相手だって人間、反発することだってある。そん時どんだけ暴れ馬みたく手に負えなくて、飼い犬に手を噛まれようが、血のにじむ綱を離なさい覚悟はあるか? それがあるやつらは強いよ。どんなに下手だって、追いこまれたって、絶対にあきらめない」


「なんやそのカッコ」


 合宿最後の夕げが終わり、レストラン脇のトイレに入った杏木の目に真っ先に飛びこんだのはお揃いのTシャツにジーンズ姿の瑞穂と山路。瑞穂が短くしたばかりの髪を必死にゴムで結わえていた。


「何って、石さん言ってたじゃん。一人一芸って」


「あ」


 杏木はけろっと忘れていた。最後の夜に全員が出し物を披露することになっていたのを。


「なんでそんなんやらなあかんの」


「それも言ってた。一発芸もキーパーの武器だって」


 ゴールキーパーは一人しか試合には出られない。一度レギュラーが決まってしまうとよほどのことでもない限りサブに出番はない。


 控えに回ったキーパーの仕事は二つ。そのよほどのことが起こってしまった時すんなりとゲームに入っていけるための不断の準備。そして盛り上げ役だ。


 巡ってこないであろう出番をただ待つだけなら誰でもできる。悔しさを部屋のゴミ箱に投げ捨てて、外では明るく振る舞えることが求められるのだ。


「落語でもやったら? 最近ハマってんじゃん」


「でもとか言うな」


 落語は話芸、ただ喋るだけではない。余興とはいえ人前でそんな真似事を見せるなどプライドが許さない。とはいえ丸いものを足で蹴る以外に自分の取り柄がないのも事実だ。


 宴は三十分後に始まるという。


「五分前になったら呼んで」


 そう言ったきり、杏木は個室に籠った。


「カメルーン!」


 宴会場を貸しきってのお楽しみ会が始まった。


 トップバッターは緑のタンクトップ、赤のパンツ、黄色いソックスに身を包んだ松長と佐竹の二人。ひなのがカンカラ三線で弾くピンクレディーの「カルメン77」に合わせてカメルーン代表の選手の名前を連呼しながらオイルでテカテカに塗った体で次々とポージングを決める。


 鍛え上げた肉体に、顔の筋肉だけで笑う二人に小学生も中学生も大人も腹を抱える。


 が、杏木はそれを笑う気になれなかった。


 ムームーが教えてくれた。


 あの二人、もとは同じ中盤の選手だったという。


 小学生の全国大会に出場し、力の差を痛感して帰ってきた。今さらうまくなることは難しい。ならそれに対抗するには別の何かで勝負するしかない。


 東北の地方都市にいて、東京にいる選手にない武器を身につける。


 彼女たちの答えは、筋肉だった。


 日本代表チームでさえ、国際試合ではパワーとスピードに圧倒される現実も知っていた。指導者に恵まれなくても、設備が整わなくても、腕立てや腹筋なら今すぐその場でできる。


 ところがすぐ壁にぶち当たったという。男子のようになかなか体が大きくはならないのだ。食事や生活を見直したが、それでもうまくいかない。自分たちの考えが正しいのかという答えも得られずにいた。


 それが変わったのは一年前、二人はある検査を受けることになった。


 大したものではない。スプーンでこそげた口の粘膜を提出し、あとは検査の結果を待つだけ。それだけで分かることがあった。


 筋肉には白い筋肉と赤い筋肉とがある。白い筋肉は速筋、瞬発力に優れる。赤い筋肉は遅筋、持久力に優れる。


 松長の体は速筋、佐竹の体は遅筋の割合が高いことがわかった。筋肉の質が違うと、同じトレーニングをしても効果が上がらない。同じ腕立てにしても松長は素早く回数をこなし、佐竹は一回にじっくりと時間をかけるのが効果的。二人の色違いのマニキュアは、筋肉の質の違いを表すものだった。


 それが明らかになると、ポジションの適性もわかった。


 速筋は一瞬のスピードが必須のオフェンス、遅筋はギリギリの忍耐を要するディフェンスに向いている。試合を決める最前線と最後尾に持ち場を分けた。


 二人が片方ずつ塗っている白と赤のマニキュアは、筋肉の種類を示しているのだという。


 あの過剰な筋肉は二人の生きざまそのもの。


 そしてあの鍛え抜かれた体こそが、苦楽を分かち合ってきた絆の証。


 瑞穂と山路、合計346センチのPUFFYが舞台を降りるのと同時にカンカラ三線の「You' ll never walk alone」の出囃子がかかる。


 上手から真っ赤なガウンの裾をはしょった杏木が座布団を抱えて現れた。深々と頭を垂れると、まずは枕から。


「昔はよかった、なんて言ってしまうとオバサンの始まりでございます。昔はダイエットすりゃすぐやせたのが今じゃダイエットすればするほどリバウンド。昔は男が寄ってきてうるさいくらいだったのに今じゃ男が道を開ける」


「言うね十二歳」


 山路がゲラゲラ笑う。


「サッカーでも昔と今じゃだいぶ違う。たとえばサイドバックなんてポジション、元々は向かい合う敵のウイングを潰すのが仕事だった。ところがドイツもブラジルも2トップのチームが主流になってウイングそのものが絶滅危惧種。しょうがないから手の空いたサイドバックがウイングのようにサイドを駆け上がって攻撃参加、いわゆるオーバーラップが必修になってくる。ところが最近じゃサイドバックが外じゃなくて中に入って、ゲームメークの仕事をするインナーラップなんてものまで出てきた。うちみたく真ん中しかできへんもんは廃業の危機や」


 これまた笑いを誘う。


「今日ここにお集まりのみなさんはゴールキーパーになろうって人たちでございます。昔はバックパスって手で取ってもよかったんだそうで。ところがバックパスとキャッチをくり返して時間を稼ぐチームが増えちまったことからバックパスを手で触るのが禁止になっちまった。そうなると今度は足技のうまいキーパーがもてはやされるようになる。そのうち歌って踊れるようになるかもしれへんな」


「んなわけあるかい」


 フレディ、苦笑い。


「とはいえ、キーパーの一番の仕事は飛んできたシュートを止めること。これはこれからも変わりません。ところが向いてることと、やりたいことが違うってのもよくある話でございまして」


 そう言いながら、ガウンの上から羽織った江戸紫のジャージを脱いだ。


 沖縄生まれ沖縄育ちの女の子がおりまして。名前はひなたちゃん。


 足が速く、サッカーが大好きでございます。


 それがエリート合宿があるよ、三泊四日うまいものも食えるよってんでほいほいとやって来たのがここ福島県。


 Jヴィレッジの門をくぐると雲をつくような大女が二人、うち一人が青い目でぎろっとにらんでくる。


 お嬢ちゃん、あんたもゴールキーパーになろうってのかい。ここにはそんな鬼みたいな連中が来るところさ。お嬢ちゃんで大丈夫かい?


 ゴールキーパーなんてやったこともない、サッカーの合宿があるって聞いただけなのに、沖縄に帰りますと言ったらもう一人ががはははと笑う。


 帰れるもんなら帰ってみな。けどここに来るとき大門をくぐったろ。あそこには本物の鬼がいるよ。ゴールマウスに住み続けてるひげの男が逃げるやつは取ってくっちまう。


 食われてはかなわんとしぶしぶ合宿に参加するひなたちゃん。何をやらせてもうまい子なんでめきめきと腕を上げる。ただ嫌々やってるんでなかなか身が入らない。


 そこで声をかけたのが熊子って女。顔が白粉を塗ったみたいなんで白熊。


 なんだいあんた、キーパーなんざわけないよ。そう言ってひげを生やした大鬼の前に立ちはだかる。


 ドリブルシュート、こわいよー!


 バナナシュート、こわいよー!


 ヘディングシュート、こわいよー!


 恐いよ恐いよと言いながらバタバタと倒れる白熊。しかも一本も止められない。最後には白目をむいて気絶した。みっともないったらありゃしない。


 気がつくとひなたちゃんに介抱されている白熊。今日はこれくらいで勘弁したる、シュートでも納豆でも持ってきやがれってんだ。


 え? 本当に持ってきちゃったの? 納豆。甘納豆。へー。


 こりゃ大納言小豆だね。皮が厚くて腹が切れないから大納言ってんだ。


 こっちはうぐいす豆? こりゃまた宝石みたいな緑色だね。


 こりゃまた大きいね。空豆。道理で。


 この茶色くてまだらなのは? 虎豆。今年もタイガースはダメだね。


 意地汚く甘納豆をむしゃむしゃ食べる白熊に、ひなたちゃんはってえと、だんだん悩んでる自分がバカらしくなってきた。


 こんな人にもできるんだったら、自分だってキーパーになれる。


 そう思いながら続けた合宿も今日で三日目。日程は三泊四日。


 一日、二日、三日。


 熊さん、今何時? 二時?


 一日、二日。あと二日も残ってる。


「誰が鬼だコラ」


 瑞穂、山路、フレディに囲まれる杏木。


「よくもあれだけ乗っけたもんだ」


 明烏に饅頭こわい、サゲは時そば。古典と呼ぶには斬新すぎるし、新作と呼ぶにはパクリが過ぎる。そもそも落語とサッカーを無理矢理結びつけるなんて力業にも程がある。


「なんか口寂しくなってきちゃったじゃない」


 合宿も三日目、疲れもたまってくる頃である。それであんなものを見せられた日にはたまったものではないが、Jヴィレッジの売店にはプロテインバーくらいしか置いてない。


「あそこだけは黒門町も顔負けだったね」


 黒門町の師匠といえば八代目桂文楽の二つ名である。黒門町、現在の台東区上野一丁目に居を構えたこの昭和の名人は少ない演目を極限まで練りこんだ芸で知られ、中でも甘納豆をつまむ場面が出てくる「明烏」をこの人が高座にかけると売店から甘納豆が消えたという伝説が残されている。


 それくらい杏木の食べっぷりだけは絶品だった。小振りなうぐいす豆は指先で軽くつまみ、香りを楽しむように小鼻をふくらませる。大ぶりの空豆は指までかじらぬよう横からはさみ、奥歯で噛みしめる。食べ終わると指についた砂糖をはらう仕草まで丁寧に再現してみせた。


「なんだって、あんなにうまそうに食べられるんだい」


「あまり上手に食べへんことや。食べたい気持ちに体が追いつかへんほうがそれらしくなる」


 サッカーと同じである。あまり上手じゃなくても、懸命にボールを追いかける選手を見てると、この人ほんまにサッカー好きなんやろなと思う。


 常にピッチの真ん中にいて、間に合わないボールには決して足を出さない。それは杏木のスタイルなのだが、淡白だとか、一生懸命にやってないとか言われがちなのを一応本人も気にしている。


 杏木の中にも、粘りはあるのだ。


「キーパーに関してもあたいの言いたいことを言ってくれたしね。たかが四日でうまくなるわけない、それよりキーパーを好きになってくれりゃ万々歳さ」


 福島最後の夜は、こうして更けていった。


 最終日の朝も快晴。一度も降られなかったのは案外気づかれない恩恵だった。


 山路が食事より先にグレープフルーツにむしゃぶりつく。酸味と苦味とが目覚めきらない頭をしゃきっとさせた。


 あおさの味噌汁をすすりながら時刻表とにらめっこしているのはひなのだ。午後一番の列車に乗らないとフライトに間に合わないという。


 松長と佐竹は三日前、ここJヴィレッジにやって来た時の赤いジャージ姿だ。煮豆を白い皿の並べてはフォーメーションに見立て、皿の上で真剣に言葉を交わしていた。


「杏木」


 瑞穂がいたずらっぽく笑って指差す。今朝も当然のように納豆が出た。


 たれを落とさぬままパックのど真ん中に塗り箸を突き立て、時計回りに旋回させる。糸が引き、箸を重くさせる。それでもまだかき混ぜ、いよいよ真っ白になってきた。


 納豆を納豆たらしめているのは発酵して生じた納豆菌である。これがなければただの豆で、和菓子屋の娘にとって幼なじみのようなものだ。


 つまり杏木をここまておびえさえてきたのは、この糸である。


 杏木の鞠が高みに上るために必要なもの。平安の公卿はそれを粘りとのたまい、平成のオタクは絆と呼んだ。


 恐らく、二人が示しているものは同じである。


 わずかな時間で突然変異のようにうまくなることを期待していても仕方がない。


 それより今、自分たちの中にあるものをどれだけ振り絞れるか。箸に絡みつく糸のように、どうあがいても一つにはなれない五粒の豆がどこまで強固に結びつけられるか。


 それができて、初めて、同じ庭に立てる。


 それを教えてくれた納豆を、一思いにかきこんだ。


「朝っぱらからこんなにあられもなくおっぴろげてしまって。このドスケベが」


 そう言いながらアジの開きをむさぽる、百貫デブということばがとてもよく似合う中年男。


「おはようございます。夜のフラガール、樺島薫です」


 ペイズリーの真っ赤なバンダナ、ヴィンテージもののレッド・ツェッペリンのTシャツというめまいを覚えそうな出で立ちで、最終日の朝に突如として現れた。


「なんでここに」


「おら、いわきっ子だもの」


 そういう問題ではない。葛飾クラブのライバル、浜松女学院サッカー部監督がどうしてJヴィレッジにいるのかと聞いているのだ。


「監督、ちーっす」


 チャラいあいさつをしながら手を上げたのは松長だった。


「カバさんね、もうすぐ浜学辞めんだよ」


 フレディが鰆の西京焼きをむしりながら説明した。


「ついにクビか。何やらかしたんや」


「人を犯罪者扱いすんでねえ」


「コーヒー」


 空気を一切読まず、空いている席を指差しながら言ったのは無精ひげ姿のムームーだった。樺島は彼の車でここまで来たらしい。


「樺島先輩はこの辺の顔さ。ここを建てるとき、あまり歓迎しなかった地元のもんを説得したりな」


「先輩?」


「中学の二個上だ」


「ちゅうことは」


「オナニー、ファイ!!!」


 女子小中学生ひしめく食堂に樺島とムームー、そして思わず吊られてしまったフレディのコーラスが響き渡った。ちなみに松長も現役の小名浜第二中学三年生である。


「クレールフォンテーヌって聞いたことあるかい」


「ヤナギが教えてくれた」


 杏木と瑞穂の同居人である、アフリカ系フランス人の母を持つ新潟市民から伝え聞いた。


 クレールフォンテーヌ国立研究所。名前だけ聞くとロケットでも作ってそうな響きであるが、フランスにあるサッカー養成校である。


 1970年、当時ヨーロッパでもサッカー弱小国だったフランスでは選手はビッグクラブが大枚をはたいて「買う」ものだった。それを「育てる」という目的のもと始められた。郊外にある広大な森林を切り開き、何面もピッチのある施設を作った。画期的だったのは無償で通え、貧民層の少年にも門戸を開いたことにある。その象徴がアルジェリア移民二世のジネディーヌ・ジダンを擁し、自国開催のワールドカップで初優勝した1998年のチームである。


「施設はあんだもの、遊ばせとく手はねえ。ここにおらがチームを作る」


「カバさんはそこの初代スクールマスター、校長先生に就任のご予定だ」


 ただいきなりおっ始めると色々と齟齬も生まれる。そこで試運転ではないが地元の子女に限り、通いで仮のチームを発足させていた。再来年予定の開校に向けて。


「おらもまだ浜学の人間だ、ちょくちょく福島さ戻ってくるわけにもいかね。だからあの子達には、とにかくガシガシ体さ鍛えとけとしか言えね」


「イースト筋!」


「酵母筋!」


 その視線の先に、パンを手にポージングを決める松長と佐竹が。


 朝食が済んだら彼女が所属するいわきレディースフットボールクラブ、通称イワガールズとのテストマッチが控えていた。


 最後の練習は、Jヴィレッジのメインスタジアムで行われた。なでしこリーグも開催される三千人収容のスタジアムに、観客はムームーだけ。


 赤いユニフォームがひしめきあうピッチが、いつもよりも小さく見える。


 イワガールズの選手は全員、むやみやたらに筋肉がでかかった。そして全員の手に、自分の筋肉のタイプを示した白か赤のマニキュアが施されていた。


「暑っ苦しい絵面だこと」


 樺島と再会してすっかり地の部分が出てしまったフレディ。頬に添えた指もきれいに反り返っている。


「キレてるよ!」


「最高だよ!」


 目の前ではひなのら小学生チームとイワガールズのBチームによる一本目が始まっている。中学生とはいえ大人と子供ほども体格の差があり、競り合えば100パーセント赤のユニフォームが勝つ。そのたびに外野から蒸気のようなゴールが噴き上げる。暑苦しいとはそんな様子を差しての言葉だ。


「杏木、瑞穂」


 山路がグローブをはめた手で指差した先に、ボールに群がるイワガールズたちが。


「あの18番、どっかで見たことない?」


 赤いユニフォームに白く18とプリントされた背中はひときわ小柄だった。うなじな見えるベリーショート、他の選手のユニフォームが寸足らずに見えるのに比べずいぶんブカブカだ。


 しかしその技巧は際立っていた。フィジカル一辺倒のチームの中に一人だけ違うタイプの選手がいるとそれだけでメリハリが生まれる。その機敏なな動き、早い判断にただ一人ついてゆけるひなたが降りてきてマークするも、ことごとくその逆を突いてゆく動きに振り回されていた。


「・・・ウメコ」


 二本木小梅。遡ること七ヶ月前、葛飾プリンセーザのセレクションを杏木や山路と一緒に受験した選手だった。


 非常によく走る、がんばり屋の選手であったと記憶しているが残念ながら不合格だった。東北なまりがかわいらしかったが、福島出身だったとは知らなかった。


 名前を呼ばれ、反射的に杏木のほうを向く小梅。笑顔を返す杏木。旧交を温めようとしたその一瞬を、ひなのが見逃さなかった。


 かっさらったボールを前線にポンと蹴り出した。受けたのは走りこんだひなの自身。ミスったトラップがかえってキーパーの逆を突き、そのままゴールへと転がった。


 やさぐれた眼差しで杏木をにらんだ小梅は黙って試合に戻った。


「とにもかくにもケガをしないこと。相手は見ての通りフィジカルモンスター、筋肉オバケの集団です。相撲取ったって絶対に勝てません」


 30分×三本の二本目に臨む中学生チームを前にフレディが講釈を垂れる。キーパーは渡辺、瑞穂と山路がセンターバックを組み、杏木がトップ下に。


「その上でどうする? 自分たちより速くて強い相手にどう戦う?」


「パスサッカーや」


 杏木の答えは単純明快だ。


「高さも、うちらのが上です」


 瑞穂だった。スーパー少女プロジェクトはゴールキーパーのプログラム、平均身長なら向こうを上回る。


「セットプレーかな、やっぱし」


 うなずく山路。コーナーキックやフリーキックなら守りにほころびも生じやすいのを経験上知っている。


「パスを回す、頭に合わせる、セットプレーを有効に使う。こっちは急造チームだ、約束ごとはこれくらいが限度だろ」


 イワガールズのワントップに入った松長がベンチの樺島に大声で訊く。


「オヤジ。何点取ればいい?」


「前半一点、後半一点だ」


「オッケー」


 まるでスーパーに買い物を頼まれたような気軽さだった。


「クミー!」


「来んでね!」


 松長が恥ずかしげに叫んだ先に、真っ赤なシャツの中年男女。男性の目元と、女性の口元が松長に生き写しである。


 勝敗にはこだわらないとは言うものの、負けたらそれなりに気分が悪くなる。それにこんなチームと勝負できる機会もそうそうないだろう。


 一本目を見る限り、スピードのある選手をサイドに配してクロスを多く上げさせ、力ずくで押しこんでくると予想できた。監督があの浜松女学院を指導しているのと同一人物であればなおさら。


 イワガールズは浜学ほど速くもうまくもないが、浜学より高くて強かった。あえて山路をフィールドプレーヤーで起用し、瑞穂とのコンビで弾き返す作戦は功を奏した。筋肉の化身のような松長とてヘビー級二人を相手にそう自由自在には動けない。


 だがスーパー少女たちも同様。センターハーフに位置する杏木の前後左右をかごめかごめのように包囲し、ボールを受けさせない。マークを嫌ってサイドに動いてもついては来ない。ゴールは真ん中から移動しないので、最後は跳ね返される。


 業を煮やし、右サイドで自らボールに寄せる。急に寄せられた赤いユニフォームがボールを外にこぼした。スローインである。


「カエデ! 山はん!」


 センターバック二人に向かって叫び、イワガールズのゴール前を指差すと自分はボールを袖で拭きながらスタンドぎりぎりまで下がる。


「ロングスローか?」


 長年女子サッカーを見続けてきたムームーでさえ、女子のロングスロワーにお目にかかったことはない。ただゴール前に投げ入れるだけではダメで、一定のスピードとキーパーが出られない場所に落とすコントロールが必須なのだ。


 助走を開始する杏木。タッチラインの3メートルも前で上体を倒す。ボールを下にして倒立、その反動を活かして前転する。右足がラインにかかるかかからないかの位置で離した。全体重を乗せたハンドスプリングスローが一直線にゴール前へ。


 反応したのは瑞穂。ペナルティスポット付近、長身を利して競り勝つと右のこめかみに薄く当てた。渾身のヘディングシュートがファーポストへ。


「きえっ」


 風になびくロン毛。猫のようなジャンプで反応した佐竹のグローブの先をかすめた。わずかでも軌跡を変えれば、ギリギリを狙ったシュートなら外せる。小気味良い音でクロスバーを鳴らしたボールが佐竹の懐に戻ってきた。


 すぐさま立ち上がる佐竹。ペナルティエリアを飛び出す間際で離したボールを水平に振るった右足で蹴り出した。一人センターサークルに残っていた松長が猟犬のダッシュ。マーカーを延ばした腕でブロックしながら全身、独走。最後は前に出た渡辺の真上をズドンと突き破った。


「10番、ナイスポーズです!」


 袖を肩までまくった両腕でガッツポーズを決めた松永に割れんばかりの称賛の声。


 わずか五秒。カウンターアタックがこのセット唯一のゴールとなった。


「ごめん」


「あれはしゃあない」


 肩を落とす渡辺。だがあれは積極的に得点を奪いにいった結果だし、マークミスでもない。何よりニア上をえぐった松長のシュートが強烈すぎた。


「あれ以外に決定機を作れなかったうちたちのほうが問題や」


 事前に松長と佐竹が杏木たちの情報を伝えていたのだろう、こちらの特徴を消してくるプレーを徹底していた。


「私が決めてれば」


「あれもしゃあない」


 かぶりを振る瑞穂。会心のヘッドだったが佐竹の手がぐんと延びたようにさえ見えた。


「やることは変わらへん。ボールを回して、ちょっとでもチャンスを増やそ」


「・・・勝ちたい、よね」


 ボソッとつぶやいたのは、キーパーグローブをはめた山路だった。


「このメンバーでやる、最後のゲームだし」


 勝負にこだわるあまり忘れかけていたが、この合宿はゴールキーパー志願者を募ってレベルアップを図るためのもの。この練習を最後に、全国から集まった三十人は元のチームに戻る。


 同じメンバーでまた集まるなんてことは、もうない。


「どうせだったら、笑ってサヨナラしよう」


 せやな、とうなずく杏木。


「ひなの、フォワードに入り。うちがボール前走り。カエデ、ボランチ。うちをサポートして」


「おう」


「アキ、あの子を見てみな」


 フレディが示したのは松長と根を詰めて話しこむナンパー18、二本木小梅。


「あの子がこの半年間、どんな思いでサッカーを続けてきたか、よーく考えてごらん。そして思い知らせてやんな、なんであんたが選ばれてあの子が選ばれなかったかを、ね」


 キックオフ。センターサークルに入った杏木とひなの。そのすぐ前には松長と小梅が仁王立ちする。


 主審をつとめるスタッフが笛を吹く。ひなのが前に短くはたくと前へ。それを受けた杏木がゆっくり後ろへと転がす。小梅がセンターサークルを突っ切り、プレッシャーをかけにいく。


 長い左足が斧のように振るわれた。瑞穂の放ったロングフィードがイワガールズのバックラインの裏へ。佐竹が飛び出しかけて、すぐ止まる。芝の上に落ちたボールがキーパーから逃げるように戻ってくる。バックスピンがかけられていたためである。


 飛び出したのはひなの。本当にパスが出た。エリア内での一対一。かわしにいったスパイクにキーパーグローブがかかった。笛が吹かれ、主審がPKスポットを指差した。


「わざとじゃないって」


 判定に食い下がる佐竹の横で、倒れたひなたがボールを下手投げ。受けたのは当然杏木である。


 ゆっくりした助走。ど真ん中に、ふわりとしたチップキックで決めた。


 キーパーが先に動くのを見極め、真ん中に蹴るのはペナルティキックの常套手段ではある。だが低く強く蹴ってしまうと残った足で止められる可能性がある。だからわざとゆっくりとしたボールを浮かせた。結果的におちょくられたようにも見え、佐竹がいまいましげにボールを蹴り出した。


動量も尻上がりに増えていくようだった。


 杏木が苦しまぎれに前に蹴ったボールをひなのが懸命に追うも、佐竹がペナルティエリアを大きく飛び出してクリア。中盤に下がっていた松長が瑞穂に競り勝ったヘディングでボールを反らす。ポジションを入れ替え、前線に侵入した小梅がボレーシュート。弾丸のような一発が山路のクロスさせた腕を弾いて外へ。


 すぐさまコーナーに走る小梅。ゴールが固まる前に短く蹴り出すショートコーナーを松長が受ける。一気に振り抜いたダイナマイトのようなミドルシュート。


 山路が飛んだ。シュートコースに対し、定規を当てたように美しい直角で。


 両腕でつかむと。ボールをクッションに芝に落ちるとすぐさまスローで放したボールがフリーの瑞穂へ。その前に攻め残りしていた杏木とひなのが。左足のスルーパスに抜け出すひなの。副審の旗は上がらない。飛び出した佐竹の肩に当たったシュートがゴールラインを割る。


 左コーナーに歩いて向かう杏木。勝っているのだから焦る必要はない。イワガールズは松長も戻り、赤が密集するゴール前はネズミ一匹這い出すすき間さえない。


 杏木が蹴ったボールは小梅の頭上を越えてニアサイドへ。頭から飛びこむ瑞穂、カットにいった松長が目隠しになり佐竹の視界からボールが消えた。


 カーブのかかったボールがニアポストをかすめ、ファーサイドネットに突き刺さった。


 コーナーフラッグを引き抜いて喜びを表現する杏木。もちろん狙っていた。ニアを破れば、この試合を終わらせることができる。そう思った。


 残り時間わずか。これで勝負ありのはずだった。


 だが小梅のキックオフを松長がセンターサークルの中から蹴り出すと、前に出て指示を出していた山路の上を越えてゴールに入った。


 50メートル以上する超ロングシュートで試合前のノルマを達成した松長にポーズはなかった。


「ここの海、こんなにきれいだったのね」


 全日程が終わり、東京へと戻る車内でフレディがぽつりとつぶやく。彼にとってはただただ慌ただしく過ぎた四日間で、海を眺める余裕もなかった。


「ウメコ、ええ選手になってたね」


 山路の手にはまだしびれが残っている。あのボレーは決定的で、とっさに上げた手にたまたま当たっただけにすぎなかった。


「そうね。もしプリンセーザに合格してたら、ひょっとしたらそこで燃え尽きてしまってたかもしれないわ」


 十一月に再会すると誓い、松長と佐竹が乗ってきた自転車の一番後ろにまたがって去った二本木小梅。その両手には左右色違いのマニキュアが塗られていた。


 筋肉には二種類あるといったが、ごくまれに速筋と遅筋両方の性質、瞬発力と持久力を兼ね備えたタイプの筋肉、通称ピンク筋を持つ者がいる。小梅はまさにこのピンク筋の持ち主で、鍛え方次第では松長や佐竹を越える逸材であると樺島は言っていた。


 それは、もしプリンセーザに合格していたら、わからなかった事実だ。


「落とされたほうだけじゃなくて、落としたほうだってその顔は忘れられないもんよ。夢に見ることだってあるし、落ちてもサッカーを続けてほしいって願わない日はない」


「コーチってのも、しんどいもんですね」


 瑞穂がグローブの汚れを丁寧に拭きながら返事する。彼女にとっても実りある合宿になったようだった。


「でも、会えるもんなんやな」


 最後に小梅が返した、はにかむような笑顔は半年前のままだった。


 ひなの、松長、佐竹、渡辺・・・またねと言って別れた彼女たちとの「また」はいつか訪れるのだろうか。


「会えるって。サッカーさえ続けてたらね」


 ハイエースは広野インターから高速に乗った。


 群青の町とも「またね」の時である。


「お帰り」


 秋の日はつるべ落とし。とっぷりと日の暮れた千葉県松戸市の家で杏木と瑞穂を出迎えたのはキャッツアイに防塵マスク姿の松田深雪だった。花粉症持ちの彼女は春だけでなく秋もブタクサとヨモギにアレルギー反応が出てしまい、暴走族のような出で立ちである。


「おみやげはー?」


 ドラマの収録が大方終わり、もうすぐ舞桜稽古が始まる桜井やよいの鉛筆で真っ黒になった手に、福島銘菓ままどおるの入った袋を手渡す。


「できたよー!」


 恐ろしいほどのハイテンションは柳沢真夏だった。手には真新しいユニフォームの上下があった。彼女が一夏かけてデザインしたものがついに完成したのである。


「うわぁ」


 話には聞いていたが、いざ実物を見てみると絶望的な気分にさせられた。


 ベースとなるのは若干暗めの黄色、そこに茶色の波線が縦に入るツートンカラーだ。そして胸にはこうプリントされている。


「MATSUDO MAX」


 松戸マックス。これが女子フットサル選手権に挑む五人のチーム名である。


 情状酌量の余地ゼロ、いっそ清々しいまでの丸パクりだ。


「で、これがジャージ。ユニフォームで移動できないし」


 大きく違うのは背中だ。ユニフォームなら背番号のある位置に、松戸出身の俳優阿部サダヲの似顔絵がでかでかと入っていて、上には「Spirit of ABESADAWO」とある。


 阿部サ魂、と読むらしい。


「あれだけ悩んだ結論がこれかい」


 どこからどう見ても許してもらえそうにない出来栄えに真夏が胸を張る。


「怒られたら謝ればいい」


「これは?」


 ミズホの目に止まったのはユニフォームの左胸に入ったエンブレムである。エンブレムはクラブのアイデンティティ、言葉なしにどういうチームかを表現するものである。


 深く、青みがかった紫の円の中に星が五つ描かれている。円を白い部分、星を黒い部分に見立てるとサッカーボールのようにも見える。


 問題はその五つ星だ。色も大きさもバラバラである。


「まず丸の部分から説明するね。江戸紫は葛飾クラブのカラーでしょ。それから星はマナたち五人を現してる」


 どれが誰か、言わなくても分かるものもあった。まず右下の黒い星はアフリカにルーツを持つ真夏自身。その左隣、他の星より一回り大きな黄色い星は金色に輝く髪を持った瑞穂。その対角線上にある一回り小さな青い星は小柄なやよい。


「なんでおれが赤?」


 左上の星を指差した深雪への答えが秀逸だった。


「血の気が多いから」


 残るのは一番上、真ん中でいばっている白い星。もちろんこれが杏木である。


 常に上から目線で物を見、ピッチを俯瞰するようにパスを出す。彼女が動けば他の四人がそれに合わせる。本人の自覚がないうちに彼女は五人のリーダーになっていた。


「岩井先生もほめてくれた。とてもあなたたちらしいって」


 日本のスポーツデザイナーの第一人者のお墨つきに、真夏が誇らしげに笑った。


 ユニフォームの完成とともに、五人の覚悟も固まった。


「松戸マックス、レーロ!」


「「「「レーロ!!!!」」」」


 記念すべき第一回レディース大会千葉県予選が三日後に迫っていた。




参考文献


「サムライブルーの料理人 サッカー日本代表専属シェフの戦い」(西芳照著)


「ボディビルのかけ声辞典」(日本ボディビル・フィットネス連盟)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ