2 馬車の中で
「まずは国境の関所――シームリア大橋へ向かう」
御者台に座ったリークが、背を向けたまま最初の目的地を提示する。この旅の間の御者は、どうやら彼が務めるらしい。なんだかんだ言ってリークは勤勉だ。……少なくとも、リークの横ですでに眠そうに首を揺らしているエリカに比べれば。
「この季節はたしか、橋の通行は制限されてたと思うけど……。海峡の魔物が活性化するんじゃなかったかしら?」
「船で海から迂回するんじゃ、日にちばっかりかかるだろ。一番危険な繁殖期はもう終わったから、護衛を何人か付けられて、まともな理由を持つ者であれば、通行許可はすぐ下りる。物見遊山な旅行者なんかはさすがに撥ねられるけどな」
馬車を操りながら、あっさりと言われた答えになるほど、と納得する。
この季節、観光を売りにしているリントは閑散としているので、てっきり橋の横断全てが厳しく制限されているのだと思っていたが、例外はあるらしい。
そもそもロア島は三百年ほど前、嵐に飲まれたユーリ=プテルスの航海団が、当時、今より多くの魔物が跋扈していた海峡を偶然越えて辿り着いた島だ。海を渡ったはいいが船を失い魔物に阻まれ、故郷に戻れなくなった彼らはやがて、もともと島に住んでいた多くの民族を束ねあげ、この島を国とすることを選んだ。ロアという名も、初代の王となった航海団の頭首からついたものだ。
それから数百年を経て、魔物の減少と魔法学の発展により海路が拓け、かつての故郷であるユーリ=プテルスとの国交も復活した。十年前、海峡を結ぶ巨大な橋、シームリア大橋を共同で完成させた両国は、現在も安定した関係を築いている。
両国の関係は対等に近いが、ロアの王族の始祖がユーリ=プテルスの民であったこともあり、大陸の国々からは帝国の保護国のように思われているようだ。帝国の威光により、侵略の危険にも晒されたことはない。
わずかな鉱脈の他にはたいした資源も産物もないちっぽけな島は、それでも理想郷と称されるほどに美しい景観を持ち、旅行者は今なお増えるばかりだ。その時流に乗ったのがシャンテルの父のような商人だった。おかげでロアには裕福な民が多く、ユーリ=プテルスにとっても、良い輸出相手となっている。
そのように親密な関係ながら、両王家の間には、いまだ縁戚関係がない。
「兄上が継承問題のごたごたを起こした際、向かったのがユーリ=プテルスでな。兄上の継承権破棄に最も貢献したのがシリエル皇女なんだ」
「貢献って……どういうこと? 廃嫡なんて、喜ぶこととは思えないけど」
「兄上は、王位を棄てたかったんだ。――あの人が『ユリシーズ』という作家だというのは聞いたんだろう?」
「ええ」
頷くシャンテルに、アリステアは困ったような呆れたような顔をして笑った。
「あの人は、作家になりたかったんだ。ずっと昔からそうだった。長じてからは、そのことで父上と言い争う姿もよく見かけた。――だからといって、本当に国を出奔するとは、誰も思わなかったんだがな」
声にはほんの僅か、羨むような気配があった。
意外に思い、目を瞠ったシャンテルの視線には気付かず、アリステアは続ける。
「シリエル皇女と兄上は、その件の前から書簡をやり取りしていたようだ。皇女は当時から兄上の作品の愛好者で、今でも一番の後援者だ。だから、兄上の継承権破棄にも協力した。その辺りの縁で、俺との縁談も持ち上がったらしい」
「……なんだか漠然としてるわね。継承権の破棄なんて、皇女がどんな協力をしたところで、ロア側に 承諾させることなんて難しいと思うけど。まさか武力を持ち出したわけじゃないでしょう? 皇女はともかく、帝国側にはなんの利益もないだろうし」
いくら皇女とはいえ、単なるわがままで軍を動かせるほどの権力はないだろう。
「――七年前、シームリア大橋で大災害があった。覚えてるか?」
首を傾げるシャンテルに答えたのは、御者台に座るリークだった。
唐突に思える質問だったが、シャンテルはとりあえず頷く。
「……ええ。海峡に七日七晩竜巻が留まった、怪奇現象よね。あの時は父さんが仕事で橋の近くの町に居て、すごく心配したからよく覚えてるわ。あの事故で橋が壊れたせいで、私、学院に行くのも帰るのも船だったのよ」
竜巻が過ぎた後に残ったのは、長い道の半分以上を破壊された、哀れな橋の残骸だったと聞く。建設に二十年の時をかけた大橋がはじめに完成したのは十年前、その後わずか三年で通行不能になり、完全に再興したのはごく最近だ。何年にも渡り、災害を引きずったことになる。もちろん、シャンテルはまだ、その不運の橋を渡ったことはない。
「それがシリエル皇女の『協力』だ」
「……え?」
「魔法で竜巻を起こしてロアの追手を足止めしたあげく、継承破棄を認めないと橋が全壊するわよ、と脅しをかけやがった。もちろん後で大目玉くってたけどな。アーヴィン様は廃嫡どころか勘当されて今も王宮に入れないし。……アリスとシリエル皇女の婚約も、その件に対する帝国の詫びみたいなもんだ。ロアみたいな小国に実の娘、それも帝国きっての才媛を嫁がせるなんて破格だからな。だが、そんな彼女も、不運に負けた」
ちらりと馬車の中を振り返ったリークは、つまらなそうに続ける。
「シリエル皇女はたしかに美姫と名高いが、本人は姫というより、生粋の魔法使い気質だ。アリステアの『不運』をどうにも出来ずに逃げ出した自分が情けない、と、婚約破棄の以後は他の縁談も受けず、クリスタベルの離宮にこもって魔法の鍛錬に明け暮れているらしい。平たくいえば、まあ、変人だな。アーヴィン様と同じく、王家の問題児だ」
「――そのお姫様を、どうしてあの人は示したの? 皇女がアリスに魔法をかけたとでもいうの。一体、なんのために?」
「俺が知るか。だが、アーヴィン様と皇女が親しいのと、あの二人が結託するとろくなことにならないというのは事実だ。何かしらの目論見があるんだろ。例えば、アーヴィン様のネタ探しとかな。あの人、創作のネタにつまると変なことばっかするからな……」
「おもしろいから僕は嫌いじゃないけどね、アーヴィン様」
煮え湯を飲まされたことがあるのだろう。苦々しく言うリークに、いつの間にか船を漕ぐのをやめていたエリカが答える。
「だが、今回は限度を越えてる。ネタ探しにしろ他の事情があるにしろ、やりすぎだ」
「それは同感。リークの靴に毛虫入れてビビらせたり、背中にマタタビ仕込んで猫まっしぐらにさせたり、模擬戦のときに剣と物差しすり替えたりするのとはわけが違うよねぇ」
「ちょっ……あれ全部アーヴィン様のしわざだったのか!? つーかお前も知ってたんなら止めろ‼」
めずらしく神妙に頷いたエリカを、リークは大声で怒鳴りつけた。
にわかに色めき立った御者台の従者たちを見て、アリステアは少し笑う。だがその後、ほんの一瞬だけ表情を消した彼は、水色の目を翳らせた。
「たしかに自分勝手だが……面白半分でこんなことをする人ではないんだけどな」
ひとり言のような呟きは、彼の本音なのだろう。正直なところ、アーヴィンなら面白半分に何をやっても不思議じゃないと思えたが、アリステアが実の兄を疑いたくない気持ちはわかる。彼は優しいのだ。
(それに、なにか引っかかるのよね……)
アリステアの不運が皇女の魔法の結果なら、目的があるはずだ。それが見えないから、どうにもすっきりしない。
彼女の魔法がもたらしたものは、なんだろう。アリスの不運、それによって彼女が――もしくはアーヴィンが得るものはあったのだろうか?
「……くけ?」
「きゃあ!?」
「なにぼーっとしてんのさ、シャンテル、アリスも。ほーら、外きれいだよー」
いつの間にか背もたれに逆向きに寄りかかったエリカがこちらを向いていた。
寄ってきたタマオを構いながら、まあいいか、とシャンテルは促されたまま外を見る。
(考えたって、わからないものはわからないわ)
この際、考え込むのはやめて、久しぶりの外の空気を堪能したほうが利口だろう。馬車は舗装されていないのどかな道を走っている。季節は春だ。青い空に芽生え始めた若葉がよく映えて、景色はたしかに美しかった。
「いい天気ね。これは運がよかったってことなのかしら?」
隣のアリステアに話しかけると、彼は一瞬、おどろいたように目を瞠った。
「あ、ああ、そうだな。シャンテルのおかげだ」
取り繕うような笑みを作ってアリステアは言う。そうかしらと微笑んだシャンテルに、今度はほっとしたように息をついて頷いて見せた。沈んだ表情をうまく隠せたと思ったのだろう。稚拙なごまかしに、シャンテルは胸中でため息をつく。
(……落ち込んでるなら、無理しなければいいのに)
作られた笑顔では、なおさら心配になるだけだった。