第一章 消えた読経テープ
第一章 消えた読経テープ
一
今時カセットテープを使っている女子高生はどのくらいいるだろう? 正直な話、ほとんどいないと思う。でも僕は、カセットテープを使っている女子高生をたった一人知っている。それは、僕の通う私立蓮明高等学校の文芸部員、橋本真咲だ。
真咲は十六歳の高校二年生で、僕と同じ学年だ。彼女は普通の女子高生とは違う。普通の女子高生はSNSなんかに夢中だ。でも真咲は仏教に夢中なのだ。そう、彼女の夢は僧侶になること。だから、全く普通の女子高生ではない。
僕は本を読むのが好きで、なんとなく文芸部に入部した。第一、僕は運動が苦手だ。特に球技は壊滅的にダメで、中学の時にサッカーを少ししていたけど、ずっと補欠だったから、恐らく才能はないのだろう。
2024年4月――
文芸部の部員は少ない。蓮明高校は絶対に部活に入らなければならない高校ではない。だからこそ、特にやることのない学生たちは皆、帰宅部になる。僕も帰宅部でもよかったのだけど、貴重な高校生活を帰宅部で過ごしたくないと思ったため、とりあえず文芸部に入部したのだ。
そして、文芸部の部室で出会ったのが真咲だ。彼女は奥の方の席で音楽を聴いていた。何かこう近寄りがたいオーラを発していたのだけど、僕は勇気を持って話しかけた。すると、彼女はめんどくさそうに僕を見て、
「あんたお経とか聞く?」
と、聞いてきたのだ。
お経?
僕は数年前に祖父を亡くしており、その時のお葬式でお経を聞いた。でもお経を聞くのはそのくらいだろう。というよりも、葬儀以外でお経を聞く機会はあまりない。
だからこそ、初対面の相手に「お経聞く?」と聞いてきた真咲に少しだけ興味が湧いた。
「お経は聞いたことあるけど」
と、僕は答える。
すると真咲は、
「なんのお経を聞くの?」
「は?」
「だから種類よ、お経は一つじゃないでしょ」
「え? そうなの」
「あんたバカァ、例えば般若心経とか大般若経とか、そういう種類よ」
「ごめん、全くわからない」
僕は彼女に話しかけたことを後悔する。お経の種類なんて知らない。というよりも、僕の家は仏教だけど宗派が何かは知らないのだから。
「君は何が好きなの?」
と、僕はとりあえず尋ねた。
すると真咲は、不気味な笑みを浮かべて、
「聞きたいのね。なら教えてあげる。私が好きなのは、般若心経。この世で最も有名なお経よ。短くて暗唱しやすいし、『空』の教えを説いているの」
「そうなんだ。でもなんで君はお経に興味があるの?」
「決まってるじゃない。僧侶になりたいからよ」
真咲ははっきりとそう言った。そして、その言葉は僕が聞いた女の子の言葉の中でも、最も強い輝きを放っていた。
これが僕と真咲の出会いの瞬間。
同時に、これ以降僕らは文芸部の部室で少しずつ会話するようになった。
2025年4月――
僕は高校二年生になり、授業を終えた後、文芸部の部室に向かっていた。文芸部は毎月校内の学生向けに部誌を発行している。だから、基本的に毎日やることがあったりする。文芸部員の中には、オリジナルの小説や詩を書いたりする人間がいるから、そういうのを編集したりして、一冊の部誌にして月末に発行するのだ。
僕の場合、読んだ本の書評などをまとめて発表している。真咲とはいうと、少し変わっていて、仏教の教えを説く解説文などを書いて発表している。
真咲はスマホが全盛の時代にカセットテープを使ってお経を聞くという、原始人みたいな人間だ。もちろん、スマホも持っていない。恐らく、スマホを持っていないクラスメイトは彼女だけだ。僕のクラスには、グループLINEなどがあるから、連絡はそれを使って行う場合も多い。
けど真咲はスマホを持っていないから、別のクラスメイトが口頭で彼女に伝えるらしい。もちろん、学校で会った時に。
部室に入ると、真咲がいつもの特等席である後ろの隅っこの席で何やら書き物をしていた。文芸部には専用のパソコンがあるからそれを使って編集したり執筆するのだけど、真咲はパソコンが全く使えないから、老齢の小説家のように原稿用紙に鉛筆で執筆している。
「何書いてるの?」
と、僕は真咲の隣に座ってそう言った。
すると、彼女はチラッと僕を一瞥した後、
「仏教と言葉の物語というコラムを書いてるの」
「君は本当に仏教が好きなんだね」
「まぁね。あんたもコレ聞いてみる」
真咲は蓮明高校指定の学生鞄の中から、カセットテープとカセットテープ用のウォークマンを取り出した。今の時代、皆スマホで音楽を聴くのが普通だけど、真咲はバカデカいウォークマンでお経を聞いている。
「これ、私が入手した読経テープ。あんたにも聞かせてあげるわ」
「い、いや、今度でいいよ。よくわからないし……」
僕は書評を書かなければならない。だから、お経など聞く暇はないのだ。
しかし、この真咲が持ってきた読経テープがある事件を巻き起こす引き金になるとは、この時の僕は全く予想できなかった。
二
翌日――
授業を終えると、僕はいつも通り文芸部の部室へ向かう。これが僕の日課だ。文芸部の活動は地味だけど嫌いじゃない。本を読むのは好きだし、書評を書くのにもだいぶ慣れてきた。僕の書く書評は決して好評なわけではないけれど、それでも少なからず読んでくれる人がいるのだ。
文芸部の部室は、僕の教室がある棟とは別の棟にある。いわゆる部室棟だ。部室棟の規模はそこまで大きくはないけれど、蓮明高校の全ての部活動の部室が集約されている。三階建の建物で、一階と二階の一部を運動部が使い、二階の一部と三階を文化部が使っている。
僕の所属する文芸部の部室は三階にある。エレベーターなどの気の利いた乗り物はないから、階段を使って行くしかない。これが結構しんどいけど、僕はまだ十六歳だから、若さで乗り切っている。
文芸部のドアを開けると、すでに一人の人間がいた。それは真咲だ。彼女は大抵一番にこの部室に来ている。授業が終わったら一目散に来ているのだろう。そしていつもの席である後ろに座る。しかし今日は違っていた。
書棚の前に立ち尽くしている。同時に眉間にシワを寄せて、難題を解く学生のような顔をしていた。
「どうかしたの?」
と、僕は真咲に声をかける。
すると彼女は、難しい顔をしたまま僕の方を見つめ、
「ないの」
「ない? 何が?」
「読経テープ。昨日部活が終わった後、本棚の引き出しにしまったはずだからなくなるはずないのに」
「確かに入れたの?」
「うん。入れた。第一この引き出しはアタシ以外使う人はいないはずだし」
確かにその通りだ。文芸部には書棚があり、一応本が収納されている。部員はそれを自由に読むことができるし、小さな収納ケースもついていて、そこにも物がしまえるようになっている。
でも、この収納ケースを使う人間はほとんどいない。第一、小さすぎて活用頻度が少ないのだ。しかし、真咲は使っている。なぜなら、この収納ケースはカセットテープを保管するのに適した大きさだからだ。ちなみに、この収納ケースには鍵はかかっていない。というかかけられるような仕様になっていない。
「大切なテープなの?」
と、僕は尋ねる。
対して真咲は少し困ったような素振りを見せ、
「林宗憲」
「は?」
「あんた林宗憲って知ってる?」
「いや知らない、誰それ?」
「京都の有名なお寺の住職、結構名のある高僧なのよ。そして、アタシが保管していたテープはこの林宗憲の読経が録音されているの」
「お経なんて誰が唱えたって同じじゃないの?」
「あんたバカァ、なにも分かってないのね。いい、お経には声のリズムだとか抑揚だとか、そういう色々な要素があるの。それらが複雑に絡み合って聞き心地のいい音を作り出すのよ」
全くを持って意味不明だ。有名な高僧の読経を後生大事に持っている女子高生は、恐らく全国を探しても真咲しかいないだろう。
僕が唖然として立ち尽くしていると、それを見た真咲はチラッと書棚の方に視線を戻し、話を続けた。
「あぁ、あのテープは歴史的な価値がある読経が録音されていたのに。特別な行事で録音されたものなのよ」
それを受け、僕は尋ねる。
「ちなみに聞くけど、特別な行事って何?」
「開山記念法要の時に唱えらえた歴史的な価値があるお経なのよ。わかるでしょ? そのくらい」
「わからないよ。アニメファンがコミケを愛するように、君もそれが大事ってことだね?」
「こみけ? 何それ」
「いや、知らないならいいけど。文芸部なんだから一応知っておけよ」
「何訳のわからない言ってるのよ。とにかく大事なの。一大事よ!」
真咲は声を強めてそう言った。
とは言っても、なくなってしまったものを探すのは難しい。真咲が確かにこの書棚の収納ケースにしまったのなら、それを取り出して持っていた者がいるのだろう。でも、この部室には監視カメラなどないから、見つけるのは難しいような気がした。
「読経にはね、浄化・供養・加持(祈祷)といった意味が込められているの。信仰心のある人にとっては物理的以上な価値を持つわ」
真咲は落胆したような表情を浮かべそう言った。
そこまで聞くと、僕は不可解さを感じた。
「待ってくれ。ってことは、このテープを持ち出した人間は、その価値がわかっていたということになる。この学校で君以外に仏教に詳しい人間はいる?」
「いないわ。アタシ、話の合う人間いないし」
友達いないのか……
まぁそれは当然か。僧侶を目指し、日常的にお経を聞くような女子高生とは、距離を取りたくなるかもしれない。
「とりあえず、大切なものなんだろ? 探すの手伝うよ」
と、僕が言うと、真咲は驚いた顔をしながら、
「探すってどうやって?」
「聞くんだよ、部員に。まずは持って行った人間がテープに価値があるのかわかっていたのか、それともイタズラなのか、はっきりさせる必要があるからね」
三
文芸部員は全員合わせて十名。つまり、そんなに多くない。だから、全員に話を聞くのは、比較的簡単だった。しかし、手掛かりになるような証言は何もなかった。第一、読経テープなんて盗んで何をするのか、その目的がわからない。
というよりも、まだ盗んだのかさえ不明だ。犯人がいるのだとすると、きっと理由があって持ち出したはずなのだ。恐らく、普通の高校生は読経テープなんて代物に全く興味ばない。しかし、犯人は持ち出した。
となると、真咲が持っていた読経テープの価値を知っていたはずなのだ。一通り部員たちから話を聞き終えると、僕と真咲は誰もいない学校の屋上で二人で立ち尽くしていた。
「そもそもさ……」僕はおもむろに真咲に向かって尋ねる。「読経って何なのさ?」
すると、真咲は呆れたような表情を浮かべて僕の質問に答えた。
「あんたバカァ、そんなことも知らないの」
「普通の高校生は大抵知らないよ」
「フン、いいわ、教えてあげる。読経っていうのは、仏教の経典、つまりお経ね、それを声に出して唱えることよ」
「それで有名なお坊さんが唱えたお経が、なくなったテープには吹き込まれていたわけか」
「その通り。それにね、読経っていうのは、ただ読むだけではないの」
「そうなの?」
「うん。祈り・供養・修行・教えを広める行為なのよ」
「つまり、重要な意味を持つってことか」
「そうね」
「なら、テープを持って行った犯人もその価値を知っていた可能性が高いね」
「えぇ。でも、文芸部でアタシ以外に仏教に詳しい人がいるかどうか」
悔しそうな表情を浮かべた真咲は、静かにそう言うと俯いた。
それ受け、僕は文芸部の部室について想いを巡らせる。実を言うと、あの文芸部には一箇所だけ仏教と関係がある場所がある。部室の片隅に小さな仏壇があるのだ。これは、過去の卒業生が寄贈したものらしい。
つまり、真咲以前にも仏教に詳しかった部員が他にもいるのだ。同時に、この仏壇が部室にあったからこそ、真咲は文芸部に入部することを決意したらしい。
「仏壇……」
と、僕は静かに呟いた。
すると、真咲はハッとした表情を浮かべ、
「そう言えば、部室の仏壇はまだ調べていないわ」
「一旦部室に戻ろう。仏壇を調べてみるんだ」
「そうね、行ってみましょう」
ちょうど屋上には赤焼けた陽の光が差し込み始めた頃だった。時刻は午後五時。もう夕暮れだ。
部室に戻った僕と真咲は、一目散に部室奥にある仏壇に向かう。仏壇は、この部室に最初に来た人がお線香を上げる決まりになっているが、そのお線香はすでに全て燃え尽きていた。乾いたお線香の香りだけが、わずかに残っている。
真咲は小さな仏壇の引き出しを静かに開けた。そして、まん丸の目を大きく見開いた。
「あった」
と、真咲は驚いた声をあげる。
それ受け、僕も視線を仏壇の引き出しに向け、
「それはテープだね」
仏壇の引き出しの中には、古びたカセットテープが一個入っていた。今時誰も使わないカセットテープ。僕は使い方すらよくわからない。
「これは例の読経テープよ。なんでこんなところに」
「さっきはあったのかな?」
「わからない。でも、アタシはここにはしまっていないから、誰かが本棚の収納ケースからここに移したのよ」
「なぜだろう?」
僕には皆目見当がつかない。
静まり返った部室の中で、テープを握り締めたままの真咲がゆっくりと口を開いた。
「もしかすると、これは盗まれたのではなく、供えられたのかもしれない」
その言葉を聞き、僕は聞き返す。
「供えられた? 意味がわからないよ」
「だから、供えたのよ」
「なんのために?」
「アンタ、色即是空って知ってる?」
「は? 何それ?」
「全ての現象は変化し、実体はないという仏教の教えよ」
「それと今回のテープの件と何が関係するの?」
「色即是空っていうのは、物に執着してはいけないって意味なのよ。でもね、供養の心は、その行為の中にこそ意味がある」
「誰かが、理由があって供養のためにテープを利用したってこと?」
「そうね。そうなのかもしれない」
「でも、誰がそんなことをしたんだろう」
「それはまだわからない。けれど、テープが見つかったから一安心したわ。これはアタシにとって大切なテープだから」
「よかったら僕がデジタル化してあげようか? スマホでも聞けるし」
「アタシ、スマホ持ってないし、スマホを持ってる人はみんな不潔よ。みんな暇さえあれば見てるし。あれは一種の病気よ」
キッとした口調で毅然と真咲は言った。
確かに現代人の多くはスマホに依存しているかもしれない。そしてこれは、本来ある人間の姿とは違うのかもしれない。と、哲学的なことを考えながら、僕はふと後ろを振り返ってみる。すると、ちょうど、部室の前方の席に座っている女子学生と目が合った。
その女子生徒の名は、佐伯千草。彼女は、不安そうな瞳で確かに僕らを見つめていた。
四
佐伯さんというか、佐伯先輩は僕らの一学年上の女子生徒だ。そして、文芸部の部長でもある。あまり話したことはないけれど、全体的に穏やかで、知的、責任感が強い性格だ。でも、なんとなくだけど、内面には繊細さと孤独を抱えているような気がする。
彼女は部長だけど、大抵一人でいる。人と群れないというか、部室でも一人で本を読み、月末に発表される部誌の編集作業を行ったりもする。
「どうかしたんですか? 部長?」
と、僕は佐伯部長に向かって声をかける。
すると、彼女は悲しそうな声を出した。
「君たち何をしているの?」
「いや、真咲さんの読経テープがどこかに消えたんですけど、部室の仏壇の中にあったんです。なんでかなって思って」
「そう。そのテープは真咲さんのでしょ?」
その言葉を聞いた真咲が間に入ってきて質問に答えた。
「その通りです。でも誰かが収納ケースから持ち出して、その後仏壇にしまったんです。部長、何か知りませんか?」
「私は何も……」
「そうですか。でも不思議なことがあるんです」
「不思議なこと?」
「はい。このテープは再生された跡があります。恐らく、このテープを持ち出した犯人は、テープの再生方法は知っていたけど、後処理の方法を知らなかったんです」
「真咲さん、何を言ってるの?」
「カセットテープは一度聴いたら巻き戻ししないと同じところを聞けません。だからカセットテープを使う人間は、一旦音楽を聴いたら巻き戻してから収納するんですよ。そうでないと、次に聴く時、巻き戻さなければならないから。ビデオテープって知ってますか? あれは昔、レンタル店なんかで普及していて、その時は、一旦見終わったテープは巻き戻してから返却していたんです。でも、犯人はそれを知らなかった。だからテープを巻き戻さないで仏壇に戻したんです」
「今時、カセットテープを使う人は少ないからじゃないかな」
「それと、テープが再生された跡があるということは、犯人はこのテープの中に収録されている読経を聞いたんです。同時に、この読経の価値がわかる人間だと思います。部長、何か心当たりはありませんか?」
「私は何も……し、知らないわ」
僕らの会話はそれで終わった。
しかし、調査はそれで終わらなかった。部活を終えて帰宅する時、僕らはある文芸部員から部長の話を聞いたのだ。それは、部長の祖母が最近亡くなり、彼女は落ち込んでいたということだ。
どうやら部長はおばあちゃん子だったらしく、祖母を敬愛していたらしい。だからお葬式の日は学校を休んだし、その後しばらく元気がなかったのだ。
その情報を聞いた時、僕も真咲も直感的にテープを盗んだ人間が佐伯部長ではないかと勘繰った。人が死んだ時普通はお葬式をする。日本人の多くは仏教徒だから、当然葬儀ではお経が流れる。
同時に、今回消えたテープは有名な高僧が唱えた読経が収録されている。だからこそ、全ての条件に合致する人間が佐伯部長なのだ。
翌日。僕らは佐伯部長を屋上に呼び出し、話を聞いた。
夕暮れの屋上は、哀愁じみた空気が広がっていた。さらに言えば、ここだけ時間が切り取られたかのように静まり返っている。
まず口を開いたのは真咲だった。
「部長ですね。アタシの読経テープを盗んだのは」
その言葉を聞いた佐伯部長は、苦しそうな表情を浮かべた。
何も言わず、彼女が立ち尽くしていると、たっぷりとした間を取った真咲が再び口を開いた。
「……おばあさんが亡くなって寂しいんですね。でも、手放すことは、なくすことではないんです。あなたは優しいからテープを無断に拝借したことに罪悪感を覚えている」
すると、か細い声で佐伯部長が言った。
「あ、あなた何を……」
「……それも自然なこと。アタシ、わかったんです」
「わ、わかったって何が?」
「このテープは再生され、仏壇の引き出しにしまわれていました。つまり、何かの供養に使われた可能性が高い。そして、供養という言葉が似合うのは、おばあさんを失ったばかりの部長しかいません」
真咲の言葉に、佐伯部長はゆっくりと俯いた。しかし、はっと我に返ったように口を開いた。
「ごめんなさい。盗むつもりじゃなかったの。ただ……一晩だけ……祖母に聞かせたかっただけで……」
それを受け、真咲は少し間を置いてから答えた。
「それは、素敵なことだと思いますよ」
「……責めないの?」
「仏教では(執着)は苦しみのもとって言っています。でも、誰かを思う気持ちを捨てなさいとは言ってません。ただ、手放すことで初めて、心が自由になるんです」
佐伯部長は俯いて涙ぐんだ。そして、
「おばあちゃんがいない日常が怖かったの。今も、ちょっとだけ……声が、聞きたくて……」
「アタシも似たような経験がありますよ。だから、気持ちはわかります。――供養って、決して何かをしてあげることだけじゃありません。心の中でありがとうと呟くだけでも十分なんです」
『執着は苦を生む、しかし想いは愛である』
佐伯部長の告白により、読経テープを盗んだ犯人がはっきりした。いや、盗んだんじゃない、供養のために一時的に使われただけだ。僕はそう思いたい……
五
読経テープは無事真咲の元に戻り、僕らの日常も元通りになる。真咲は、テープの件では部長を全く咎めなかった。僕は、事件ってほどのことでもないと、少しだけ拍子抜けしたけれど、これで良かったと思っている。
月末の部誌発行に向けての追い込みがかかっている中、僕は自分の作品である書評を部室にあるパソコンでまとめていた。すると、いつもの席に座っていた真咲が立ち上がり、僕の後ろに立った。
「ねぇ、あんた暇?」
と、真咲はやや大きな声で言った。なんというか高圧的な態度だ。
「これが暇に見えるか?」
と、僕。最後の追い込みで忙しい。
「アタシの書いたエッセイを少し見て欲しいんだけど」
「エッセイ書いたの? 部長に見てもらえば?」
「部長に関係することだから言いにくいの。だからあんたに頼んでるのよ」
「わかったよ。でも、後五分待って、区切りのいいところまでまとめたいから」
僕はそう言い、再びパソコンに視線を移す。そしてカタカタと素早くタイピングをしていき、自分の言葉で書評をまとめていく。
しかし、心の中で真咲の言葉が引っかかっていた。彼女はエッセイを書いたらしい。そう言えば、いつも部誌では仏教の教えに絡めたエッセイを書いていたような気がする。僕の場合、一度部誌が発行されると、あまり隅々まで読まない。自分の書いた作品が載っているから、あまり読む気にならないのだ。
ちょうど五分経ち、文章のまとめもあらかた終わったタイミングで、僕は真咲に声をかける。
「終わったよ。それで、エッセイ書いたんだって?」
僕の言葉に、真咲は真剣な瞳で机の上に広がる原稿用紙を手に取り、それを僕に渡した。
「これ、読んでみて」
原稿用紙を受け取る。
そこには原稿用紙二枚のエッセイが書かれていた。内容は、先日発生した読経テープの紛失事件を、上手く脚色し、部長が盗んだという箇所を省き、さらに仏教の教えを説いた内容だった。
タイトルは、
『読経と心の供養について』
ひどく老人じみたタイトルだ。まさかこれを女子高生がつけたとは誰も思わないだろう。しかし、彼女らしいなと思いながら、僕は読み終わった原稿用紙を丁寧に彼女に返した。
「今回の事件……」と、真咲は間を置きながら答えた。「供養とは心であると再認識したわ」
「僕にはよくわからないよ。仏教は難しすぎる」
「だからわかりやすくまとめたでしょ。色即是空よ」
「あぁ、前も言ってたね。なんだっけ?」
「あんたバカァ……もう忘れたの? まぁいいわ、もう一回教えてあげる。色即是空は、すべては形があっても本質的には空。つまり、手放すことで満たされるという意味よ」
「部長はおばあさんを愛していた。だから供養するためにテープを拝借したわけだよね?」
「その通り、そして、仏は声よりも心の声を聞くわ。だから部長にとってあのテープはとても大切だったってわけ」
「まさかあんなテープが役に立つとは思わなかったよ」
「仏教も捨てたもんじゃないでしょ」
「そうだけど、僕にはイマイチわからないよ」
「そのうちあんたにもわかる日が来るわよ」
「怒ってないの?」
「まさか、むしろ逆よ。役に立てて嬉しい」
「それならいいけど……」
僕らの会話はそれで終わる。最後にふと真咲を見つめると、彼女は心底幸せそうな顔をしていた。これも仏教の教えなのだろうか? というか、まだ女子高生なのに、悟りを開いたかのような態度だ。こんな女子高生は、日本全国探したとしても、他にはいないだろう。そのくらい、彼女は特異だ。
月末になり、僕ら文芸部員がまとめた部誌が校内の生徒に向けて発行された。真咲の書いた『読経と心の供養について』という作品は、生徒にはあまり受けなかったみたいだけど、先生たちの間では評判がよかったみたいだ。確かに、あの作品は全く高校生向けではないから。
しかし、校長先生がこの作品をひどく気に入って、彼女の持っていた読経テープが、校内の一階にある展示スペースに展示されることになったのだ。この展示スペースは主に、学外で優秀な成績を収めた生徒や部活動の戦利品が展示されるのだが、そこに真咲のテープが展示されたのだ。
運動部のトロフィーや賞状やらが並べられている中、小さく真咲の書いたエッセイと、読経テープが飾られた。真咲はこれに対し何も言わなかったけれど、不満そうではなかった。仏教の教えを広められて、もしかすると心の中では喜んでいるかもしれない。
ただ、僕と真咲の奇妙な縁は今回の事件で終わりではなかった。次なる事件が、僕と真咲の間に忍び寄っていたのだ。でもまぁそれは、別の話なんだけど……




