プロローグ 中等部の頃
今日は好きな絵を描く気にもなれない。
ロマはベッドに寝転がり、携帯端末の画面をぼんやりとスクロールしていた。
部屋は薄暗く、カーテンの隙間から差し込む街灯の光が、壁に淡い影を投げかけている。
机の上にはスケッチブックと色鉛筆が散乱している。
普段なら手が勝手に動いて何かしら描き始めているはずなのに、今日はその気力すら湧いてこない。
クラスメイトたちの冷たい視線や、くすくすと笑い合う声が頭の中でぐるぐる再生されている。
「はぁ……もうやだ」
ロマは小さく呟き、ため息をついた。
学校での孤立は、半年前にクラスメイトの女子からの告白を断った日から始まった。
あの時、ロマはただ「友達でいたい」と正直に答えただけだった。
彼女はぎこちない笑顔で「うん、わかった」と頷いた。その次の日から周囲の空気が変わった。
女子グループの会話が途切れ、ロマが通り過ぎるとヒソヒソ声が聞こえてくる。
男子の一部も距離を置くようになり、教室はまるでロマを透明人間扱いする空間と化した。
直接的な暴力や悪口ではない。
ただ、存在を無視される。
それがこんなにも心を削るなんて、想像もしていなかった。
そして今日はお気に入りの白猫のペンケースが無くなった。
肉球のチャームがついていて可愛かったのに。
どこを探しても見つからなくて不安と恐怖と怒りでいっぱいになる。
本当にやめてほしい。
ロマは端末で動画を見ながら、怒りと悲しみを紛らわせていた。
端末で適当に面白いものがないか漁っていると、関連動画のサムネイルに心を惹かれた。
『ライブペイント!夏の夕焼け』
投稿者は「キール」という名前。
サムネイルには、キャンバスに鮮やかなオレンジ、桃色、紫、水色、紺色のグラデーションが広がる夕焼けの絵が映っていた。
ロマはその絵がどんな風に描かれるのか気になり、再生ボタンをタップした。
動画が始まると、キール本人の後ろ姿とまっさらなキャンバスが映る。
背丈から見てロマと同じくらいの年齢のようだ。
その後、画面はキャンバスと絵筆を持つ手のアップに切り替わった。
穏やかなピアノのBGMが流れ、キールの手元がリズミカルに動く。
深紅の長髪はゆるく束ねられ、絵筆の動きに合わせて軽やかに揺れる。
ロマは思わず画面に引き込まれた。
空は燃えるようなオレンジから深い紫へと、グラデーションが素早く塗り重ねられていく。
雲はもくもくとした立体感で、まるでそこに浮かんでいるかのようだった。
光と影のコントラストが絶妙で、雲の縁に反射する夕陽の輝きは、まるで本物の空を見ているような錯覚を起こさせた。
「すごい……」
ロマはため息をつきながら呟いた。
キールの筆使いは大胆かつ繊細で、絵の具を重ねるたびにキャンバスに命が吹き込まれていく。
キールの手元が映った画角になるとテロップに「思い通りの色にならない」「ミスったのを必死にごまかし中」と出て思わず親近感が湧いてしまった。
後ろ姿しか映らないため、性別はわからなかった。
華奢な体格と、ゆったりした白いシャツから覗く手首の細さから、なんとなく中性的な雰囲気を感じた。
ロマと同じくらいの年齢なのに、この実力。
尊敬しちゃうな。
動画の最後で、キールがキャンバスをカメラに近づけ、完成した夕焼けの絵を見せる。
画面いっぱいに広がる色彩に、ロマは息をのんだ。
「キール、か……」
名前が気になり、調べてみると、白ワインと黒スグリのリキュールを使ったカクテル「キール」が由来だとわかった。
「おしゃれだな……大人っぽい」
と、ロマは少し笑った。
キールのチャンネルを見ると、なんとこのライブペイント動画が初投稿だった。
「やった!チャンネル登録、俺が一人目じゃん!」
ロマは興奮気味に登録ボタンを押し、小さな優越感に満たされた。
その夜、ロマはスケッチブックを開いた。
キールの動画に刺激され、心のどこかでくすぶっていた創作の火が再び灯った。
白猫のペンケースを失った悲しみや、クラスメイトの冷たい態度への怒りはまだ消えない。
でもキールの絵を見ていると「自分も何かできるんじゃないか」と思えた。
ロマは色鉛筆を手に取り、夕焼けの雲を真似て描き始めた。まだ下手くそで、キールのような立体感は出せなかったけど、描いている間だけは心が軽くなった。
それからというもの、ロマはキールのライブペイント動画が心の支えになっていた。
キールは定期的に動画を投稿し、毎回違うテーマで絵を描いた。
夕暮れの海辺、雨上がりの空、星空に浮かぶ銀河や宇宙――どの作品も、キールの独特な感性と技術が光っていた。
ロマは動画を見ながら、自分もスケッチを重ね、徐々に上達していくのを感じた。
絵を描くことは、クラスメイトの無視や嘲笑から逃れるための小さな避難所になった。
ある夜、ロマは勇気を出してキールの動画にコメントを残した。
『キールさんの絵にいつも救われています。自分も絵を描くのが好きで、キールさんみたいにもっと上手くなりたいです』
送信ボタンを押した後、ロマは急に恥ずかしさと緊張が押し寄せてきた。
返事来るかなぁ。
でも、この想いを伝えられただけで少し心が軽くなった。
翌朝、端末を確認すると、通知が届いていた。
キールからの返信に思わずテンションが上がる。
『俺の絵に救われたなんて言ってもらえてすごく嬉しいです。いつかあなたの絵も見てみたいです。ありがとうございます』
短い言葉だったけれど、ロマの胸は高鳴った。
画面を何度も見返し、思わず笑みがこぼれる。
同時に、ロマの心にはもう一つの目標が芽生えていた。
パルフェ学園への進学だ。
そこは地域で有名な進学校で、芸術分野にも力を入れていた。
希望すれば芸術だけでなく、商業や農業など多岐に渡る分野が学べる。
その多様性が人気で倍率は高く、受験は熾烈だった。
それでもロマは「絶対に入ってやる」と決意した。
クラスメイトたちを見返すため、そして自分の居場所を見つけるためだ。
深夜まで参考書に向かい、受験勉強に励んだ。
疲れ果てた夜は、キールの最新動画を開き、絵筆の動きに癒されながら「俺も頑張ろ」と自分を鼓舞した。
絵を描き続けていれば、いつかキールにも追いつけるかもしれない。
そんな思いを馳せた。




