第1話 断罪の舞踏会と、忘れられた第七条
※これは断罪から始まる物語です。
ですが、主人公は泣きません。
剣も魔法も使いません。
彼女が使うのは――婚姻契約の、たった一文。
婚約を破棄される――その瞬間が来ることを、私は、ずいぶん前から知っていた。
知っていて、止めなかった。泣くために、この場に立っているわけでは、ございませんもの。
王宮の大広間は、今宵も眩しいほどに華やかだった。断罪の舞台にしては、ずいぶんと、贅を尽くしたこと。
無数の燭台が磨かれた床に光を落とし、絹とレースが楽の音に合わせて揺れている。その中心に立つはずの私、シャルロッテ・フォン・ヴァルムントの周りだけが、奇妙なほどに静かだった。
公爵令嬢。
王太子アルヴィン殿下の婚約者。
次代の王妃と目された娘。
本来ならば追従と微笑みに囲まれているはずの私から、貴族たちは一様に距離を取り、視線を逸らし、扇の陰でひそひそと囁き合っている。
(……ええ、分かっておりますわ)
この空気。この沈黙。
私はグラスに口をつけながら、静かに息を吐いた。予定より、ほんの少しだけ早い。それだけのこと。
やがて楽の音が、不自然なほど唐突に止んだ。
広間の中央へ進み出たのは、王太子アルヴィン殿下。その腕に縋るように寄り添うのは、白い衣を纏った少女――聖女セレーネ。
「皆に告げる」
殿下の声が、よく通った。
「私は本日をもって、シャルロッテ・フォン・ヴァルムントとの婚約を破棄する」
ざわり、と空気が波打つ。同情、好奇、そして安堵。誰もが「そうなるだろう」と思っていた顔だ。
「この女は、聖女セレーネを幾度も貶めた。次代の王妃にふさわしくない」
セレーネが一歩、前へ出る。潤んだ瞳を震わせながら。
「……わたくしは、ただ皆さまのお役に立ちたかっただけですのに」
涙が一粒、床に落ちる。完璧な演出。反論の隙など、最初から用意されていない。
証拠はない。けれど、空気はもう出来上がっている。
私は、何も言わなかった。言う必要が、なかったからだ。
ただ――ひとつだけ、確かめておきたいことがあった。
「殿下。ご裁定の前に、ひとつだけよろしくて?」
私はスカートの裾を整え、静かに顔を上げた。
「わたくしと殿下の婚約は、王家縁談台帳に記された正式な婚姻予約契約ですわ。その第七条をお忘れではございませんこと?」
殿下の眉が、わずかに動いた。
「……第七条?」
「『婚約の破棄は、双方家門の合意と、王家縁談係の確認を経て成立する』。――本日この場に、王家縁談係はおりませんわね」
しん、と広間が静まる。
「つまり、ただ今の殿下のお言葉は、契約上、まだ何の効力も持ちませんの。手続きとして、空でございますわ」
殿下の顔が、みるみる赤くなった。
「……っ、揚げ足を取るな! 私が破棄すると言えば、破棄なのだ!」
「ええ。ですから、どうぞ正式に破棄なさいませ」
私は、ほんの少しだけ微笑んだ。
「ただし――破棄を申し出たのは、殿下の側。第七条に続く第十二条により、違約に伴う一切の負担は、申し出た側の家門が負いますの。王家が、ヴァルムント家へ」
ぴしり、と空気が凍る。
その意味を理解できた者は、この広間に、ほとんどいなかった。
やがて玉座から、王が重く立ち上がった。
「……シャルロッテ・フォン・ヴァルムント。その方を、王都より追放とする」
一瞬、息を呑む音がした。けれどすぐに、安堵の空気が広間を満たしていく。厄介な娘が消えることを、祝福するかのように。
けれど、私は泣かなかった。声も震えなかった。
ただ静かに一礼し、こう告げた。
「王家のご判断、確かに承りましたわ」
顔を上げ、最後に一言だけ。
「――では、わたくしは、わたくしの仕事をいたします」
その意味を理解できた者も、やはり誰一人いなかった。
背を向け、私は広間を後にする。
馬車に乗り込み、一人きりになった瞬間、ようやく小さく息を吐いた。
「さて」
窓の外を流れる夜景を見つめながら、私は呟く。
「王国中の縁談を取り仕切ってきたわたくしを、追い出すなんて。――どなたの差し金か、ゆっくり拝見いたしましょう」
追放された悪役令嬢の、静かな縁談無双が、いま始まる。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
シャルロッテは泣きません。彼女の武器は、婚姻契約のたった一文。
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