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第二十三話 羽衣、開く

挿絵(By みてみん)


【――朝の屋敷は、

人の声より先に、

決まりが鳴ります。


砂利の音。

障子の音。

礼の音。


そして、

今日の庭には、

舞台の息が住んでいます。】


 夜明け前に屋敷へ入った伊勢屋組の動きは、音ではっきり分かりました。

 縄が走る。

 木が合う。

 釘が沈む。

 灯の芯が整う。


 庭舞台は、朝のうちに姿を変えていきます。

 昨日は骨組みだったものが、今は「板」になっている。

 板が張られると、庭はただの庭ではなくなる。

 そこから先は、誰の庭でもない。芝居の場所だ。


 屋敷の庭は広い。

 けれど広いほど、音は逃げない。

 塀がある。木がある。建物がある。

 音がぐるりと回り、戻ってくる。


(……返る)


 音音は、足袋を履きながら胸の奥で確かめました。

 板の返りは、花叢座の庭より静かで、厚い。

 踏めば鳴るのに、鳴りすぎない。

 まるで、息を吸って吐くのを知っている板です。


 表の座敷では、すでに客の準備が進んでいました。

 家中の者が歩き回り、膳が運ばれ、襖が開閉する。

 武家の屋敷の朝は、音が整列している。

 言葉の代わりに、動きが命令になる。


 控えの間に入ると、羽衣が掛けられていました。

 薄布が、淡く光る。

 風を含めば、すぐに空へ上がっていきそうな軽さ。


 花村紫乃は、その前に座っています。

 背筋は真っ直ぐ。

 目は閉じているのに、耳だけが開いている。


 音音は、紫乃の隣へ正座しました。


「……おはようございます」


 紫乃は、目を開けずに頷きました。


「おはよう。

 今日は、よく眠れた?」


「……眠れました。たぶん」


「たぶん、ね」


 紫乃の口元が、ほんの少しだけ笑います。

 笑っているのに、音は澄んでいる。

 舞台に立つ人の笑いです。


 衣裳方が、白粉の皿を運んできました。

 刷毛が動く音。

 粉が肌に落ちる音。

 それが、静かに積もっていく。


 音音は鏡を見ました。


(……子どもだ)


 化粧をしても、目の奥がまだ柔らかい。

 それが救いでもあり、弱さでもある。


 けれど今日は、その子どもの立場が、舞台へ繋がります。

 稽古子。小舞。控え役。

 主役ではない。

 けれど羽衣の群舞は、主役だけで出来ない。

 風を見せる役目は、周りの人間が作る。


 伊勢屋組の清兵衛が、控えの間の外を通りました。

 草履の擦れる音。

 短い指示。

 返事のない返事。


 板を叩く音が、遠くで二度。


 ――コン。

 ――コン。


 昨日と同じようで、同じではない。

 昼の板と、朝の板は違う。


(……今は、揃ってる)


 揃っているのに、胸の奥が落ち着かない。

 名前のない違和感が、薄く貼りついている。


 紫乃が羽衣を肩にかけました。

 薄布が、ふわりと揺れる。

 布が擦れる音は、ほとんど無音に近い。

 けれど音音には、それが「白い音」として感じ取られました。


 白い音は、澄んでいる。

 澄んでいるほど、少しの濁りが目立つ。


(……今日は、見落とさない)


 音音は、そう思って息を整えました。


【――舞台に立つ前の静けさは、

祈りに似ています。


祈りは、

叶うことを願うのではなく、

狂わないことを願います。】


 客入りの合図が来ました。


 屋敷の廊下を進むと、音が変わります。

 畳の音。

 襖の音。

 家臣の抑えた呼吸。

 屏風の向こうにいる客の、ざわめきを押し殺した音。


 庭へ出る手前で、風が頬を撫でました。

 冬ではないのに、冷たい。

 朝の風です。


 舞台の袖。

 そこに立つと、空気がひとつ薄くなる。

 板の上の空気は、下と違う。

 板が音を返すから、息も返ってくる。


 囃子が始まります。


 笛が、空を切る。

 三味線が、地を作る。

 鼓が、呼吸を刻む。


 音が束になり、舞台の輪郭がはっきりする。


 紫乃が、袖の奥で一度だけ指を動かしました。

 合図です。

 言葉はいらない。


 音音は、足を一歩出しました。


 ――トン。


 花叢座の庭の板より、音が深い。

 深いのに、響きが短い。

 屋敷の板は、余計なものを許さない。


 紫乃が出ます。


 羽衣が、朝の光を受けて淡く光りました。

 透けた布が空気を含み、翼のように広がる。


 紫乃の足は、鳴らない。

 鳴らさないのではなく、鳴る前に板を掴んでいる。

 足裏が板を撫で、重心が滑り、袖が遅れて追いつく。


 客席の音が消えました。

 息が止まる音だけが残る。


 音音は、紫乃の後ろに続きます。

 群舞の位置。

 導入の風。

 舞台の空気を、薄く動かす役。


 腕を上げる。

 肩から、肘、手首、指。

 順番が決まっている。

 順番が揃うと、板が鳴らない。


 袖がふわり、と遅れて動く。

 遅れが美しい。


(……きれい)


 音音の胸が軽く鳴りました。

 この瞬間が、音音は好きでした。

 舞台の上では、町の音が届かない。

 嘘の音も届きにくい。

 あるのは、今の息だけ。


 舞の途中で、紫乃が羽衣をひるがえします。

 布が大きく弧を描き、空気を切る。


 その切れ目に、笛が伸びる。

 鼓が間を作り、三味線が一段深く沈む。


 音と動きが、ひとつの道になる。


 音音は、その道を踏み外さないように、足の裏で板を確かめました。


 ――トン。

 ――トン。


 鳴りは、揃っている。


 揃っているのに。


(……嫌だ)


 胸の奥で、小さな濁りが鳴りました。

 さっきまで無かった濁り。


 紫乃の羽衣は、白い。

 囃子も、澄んでいる。

 板も、整っている。


 なのに、どこかで。


(……軋む)


 軋みは音としては小さい。

 けれど音音には、色の濁りとして見えました。

 白の中に、薄い灰。


 音音は一瞬、足を止めそうになり、慌てて次の型へ戻ります。

 止まるわけにはいかない。

 止まれば、舞台が壊れる。


 紫乃の目が、ほんの一瞬だけ音音を見ました。

 問いではない。

 「続ける」という合図。


 音音は、頷きました。


(今は、舞う)


 舞台の上では、疑う音を出さない。

 疑えば、その疑いが板に残る。


 紫乃が、最後の型へ入ります。

 羽衣が肩に落ち、袖が閉じ、呼吸が静かに収まる。


 音音も、位置につき、最後の息を揃えました。


 ――すう。


 客席の息が戻ってくる。

 ため息の音。

 掌が擦れる音。

 拍手はまだ遠慮がちで、畳に吸われる。


 舞が終わった。


 袖へ戻る途中、音音はもう一度だけ舞台を見ました。


(……まだ、いる)


 嫌な音が、薄く残っている。

 理由は分からない。

 形もない。


 でも、消えていない。


 袖に戻ると、紫乃が小さく息を吐きました。


「よく、揃った」


 それだけ。


 褒め言葉は短いほど重い。

 音音は、胸の奥が少しだけ明るくなるのを感じました。


 けれど。


 外の囃子が、次の曲へ切り替わります。

 羽衣の澄んだ音から、少し荒い音へ。


 これから、別の役者が出る。


 場の温度が変わる。

 客の期待が変わる。


 紫乃が羽衣をそっと掛け直し、音音に言いました。


「次は、朔之介よ」


 音音は、唇を引き結びました。


(……あの見得)


 大きく踏む。

 板を鳴らす。

 客の息を奪う。


 屋敷の板は、よく響く。

 よく響くから――狂いも響く。


 袖の外で、朔之介の気配が近づきます。

 草履の音。

 衣裳の擦れる音。

 呼吸の長さ。


 それは、舞台の人の音でした。

 迷いのない音。


 なのに、音音の胸の奥の濁りは消えません。


【――美しい舞が終わると、

人は安心します。


けれど舞台は、

安心した瞬間の音を、

いちばんよく覚えています。】


 囃子が一段上がりました。

 客席のざわめきが、また一度だけ消えます。


 朔之介の出番です。


 音音は、袖の影で小さく息を吸いました。


(……聞き逃さない)


 嫌な音の正体は、まだ分からない。

 でも、次に鳴る音は――

 きっと、もっと大きい。


【――羽衣が空へ上がったあと、

板の上には、

別の影が立ちます。


そしてその影が踏む一歩が、

舞台の運命を変えることになるのです。】

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