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第二十一話 静かな国が消えた夜

 赤ん坊は、まだ夢の中にいました。


 抱く腕のぬくもりは変わらないのに、

 世界の揺れ方だけが、少しずつ変わっていきます。


 さっきまでやさしく丸かった景色が、

 どこかで、きし、と音を立てた気がしました。


 母らしき声が、低くなります。

 眠らせるための声のまま、けれど、ほんの少しだけ慎重に。


「……それから、しばらくして」


 声が続くと、

 赤ん坊の前にあった穏やかな国の景色が、ゆっくりと遠ざかります。


 畑は、まだ実っていました。

 川は、まだ静かでした。

 人々は、まだ巫女の言葉を信じていました。


 けれど――

 遠くのほうで、別の音が混じり始めていたのです。


 それは、国の人々が聞き慣れていない音でした。


 金属が擦れる音。

 重いものが集まる音。

 人が、怒りを抱えたまま歩くときの、硬い音。


 母らしき声が、ゆっくり言います。


「外の国の人たちはね、

 その小さな国を、とても不思議に思いました」


 どうして、争わないのか。

 どうして、飢えないのか。

 どうして、備えが早いのか。


 人は、分からないものに名前をつけます。

 そして、その名前を理由にします。


「……巫女の力だ」


 そう言った者がいました。


「巫女が、国を操っている」


 そう言った者もいました。


 巫女は、何も変えていません。

 何も奪っていません。

 ただ、避けただけ。


 けれど、

 避けられなかった者たちが、外にいました。


 外の国の人たちは、考えました。


 ――あの巫女を手に入れれば。

 ――あの巫女を奪えば。

 ――あの力が、こちらのものになれば。


 欲しがる気持ちは、

 いつの間にか、正しさの顔をします。


 ある夜。

 月が細く、雲に隠れた夜でした。


 巫女は、いつものように社にいました。


 白い布。

 青銅の鈴。

 いつもと同じ。


 けれど、空気だけが違いました。


 風が、迷っている。

 土が、落ち着かない。

 虫の音が、途中で途切れる。


 巫女は、境内に立ちました。


 そして、初めて――

 町へ向かう足を、止めました。


 母らしき声が、少しだけ震えます。


「……巫女は、その夜、

 はじめて、町へ言葉を届けませんでした」


 届けても、間に合わない。

 届けても、避けられない。


 そういう夜が、あることを、

 巫女は知ってしまったのです。


 そのとき。


 国の外れで、火が上がりました。


 灯りではない。

 祭りの火でもない。


 燃やすための火。


 剣が鳴り、

 盾が鳴り、

 人が叫ぶ音が、夜を裂きました。


 巫女は、走りませんでした。


 逃げなかったのではありません。

 走る意味が、もうなかったからです。


 人々は、混乱しました。


 巫女の言葉を待つ者。

 巫女の姿を探す者。

 何も分からず、ただ家族を抱く者。


 外の国の人は、巫女を探しました。


「どこだ」

「連れてこい」


 巫女は、社にいました。


 白い布のまま、

 逃げることも、隠れることもせず。


 ――その姿が、

 かえって、恐れを呼びました。


 そして、


 その恐れを消し去るために、

 刃が振るわれました。


 赤ん坊の夢の中で、

 景色が一気に崩れます。


 灯が倒れ、

 社が燃え、

 白い布が、赤く染まる。


 母らしき声は、そこで一度、息を置きました。


「……国は、その夜に終わりました」


 巫女は、いなくなりました。

 巫女の家族も。

 巫女を守ろうとした者も。


 理由は、ひとつではありません。


 恐れ。

 欲。

 嫉み。


 けれど、どれも同じ音をしていました。


 人が、人を壊す音。


 ただし。


 すべてが、消えたわけではありません。


 火と叫びの中で、

 何人かは、走りました。


 巫女の血を引く者。

 巫女の言葉を覚えていた者。

 何も知らず、ただ逃げた子ども。


 彼らは、散りました。


 山へ。

 川へ。

 町へ。

 遠い国へ。


 名前を変え、

 暮らしを変え、

 語る言葉を減らしながら。


 母らしき声は、静かに言います。


「……力はね、

 表に出ると、奪われます」


「だから、残った人たちは、

 語らないことを選びました」


 語らない。

 名乗らない。

 集まらない。


 ただ、生きる。


 生き延びることが、

 いちばんの抵抗だったから。


 赤ん坊の胸の奥で、

 なにかが、ぎゅっと縮みました。


 悲しさでも、怖さでもない。

 もっと、古くて、重たい感覚。


 母らしき人は、赤ん坊を抱く腕に、力を込めます。


「……だからね」


「昔話は、ここで終わり」


 火の跡も、

 逃げる背中も、

 霧の中に溶けていきます。


「このお話は、

 “そういうことが、あった”というだけ」


 抱く腕のぬくもりが、

 必死に“遠ざけよう”としているようでした。


「……おやすみ」


 声が、静かに終わります。


 夢は、ゆっくりほどけ、

 燃えた国も、逃げた人々も、

 すべて、夜の向こうへ沈んでいきました。


 残ったのは、

 ぬくもりと、

 名もない余韻。



朝。


【――目が覚めると、

夢は、現実より先に消えています。】


 音音は、目を開けました。


 障子の外は、もうすっかり朝です。

 鳥の声。

 桶の水音。

 花叢座の、いつもの朝。


(……さっきの夢)


 胸の奥に、妙な重さが残っている。


 楽しくはなかった。

 怖かったとも、少し違う。


(……でも、変な夢)


 音音は、頭を振って布団を出ました。


 今日は、稽古も軽めの日です。


 朝餉(あさげ)を終えたころ、

 異国の商いが、花叢座を訪ねてきました。


「おお、嬢ちゃん」


 相変わらず、香辛料の匂いをまとった男。


「この前は、世話になったな」


「……なにか?」


 音音が首を傾げると、

 商いはにやりと笑いました。


「玻璃糖だよ。あれ」


「評判が良くてな。

 『甘さが、癖になる』って」


 音音は、少しほっとしました。


(よかった)


「売れた?」


「売れた。儲かった」


 商いは、即答します。


「それからな」


 そう言って、

 懐から小さな包みを取り出しました。


「これだ」


 布をほどくと、

 中にあったのは――鈴。


 小さく、古い鈴。


 胴には、

 丸い輪の中に、一本の横線が刻まれています。


 音音の胸が、

 理由もなく、きゅっと鳴りました。

 優しくて、遠い懐かしさの音。


「……これは?」


「俺が、昔、手に入れたもんだ」


 商いは、少しだけ真面目な声になります。


「西の港の質屋で手に入れた」


「京の蔵から出てきたそうだ」


「変な鈴でな。

 売りに出しても、誰も買わなかった」


 商いは肩をすくめます。


「音が、妙だって」


「俺は、そういうの、嫌いじゃない」


 音音は、鈴を手に取りました。


 軽い音。

 冷たい音。

 なのに、どこか懐かしい音。


「……伝承もあってな」


 商いが言います。


「音が聞こえる者が、旋律を奏でる時、

 この鈴は、力を持つ――って」


「胡散臭いだろ」


 音音は、首を振りました。


「……分からない」


「だろ?」


 商いは笑います。


「だからな。

 先日の倉での、お前を思い出した」


「試してみろ」


 音音は、鈴を鳴らしました。


 ちりん。


 小さな音。


 何も起きません。


 景色も、

 音も、

 変わらない。


「……やっぱりな」


 商いは、残念そうでも、ほっとしたようでもありました。


 けれど。


 音音は、鈴を握りしめていました。


 胸の奥に、

 さっきの夢の余韻が、ふっと触れた気がしたから。


(……知ってる音)


 どこでかは、分からない。

 けれど、初めてじゃない。


「……これ」


 音音は言いました。


「もらっていい?」


 商いは、目を細めました。


「気に入ったか」


「うん」


「なら、持ってけ」


 軽い言葉。


 音音はその鈴を、布に包み、

 大事に部屋の文箱(ふばこへしまいました。


 理由は、分かりません。


 ただ――

 離したくなかった。


【――物語は、

こうして、何気ない顔で、

日常の中に紛れ込みます。】


 その夜。


 文箱の中で、

 鈴は静かに眠っていました。


 まだ、鳴らない。

 まだ、何も起きない。


 けれど、

 確かにそこにある音だけが、

 次の物語を、待っているのでした。

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