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人生の意味論  作者: いのうげんてん
2章 生命誕生の歴史
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[2]進化論への疑問

[2]進化論への疑問


 進化論を少しでも知ってみると、大自然とは何と偉大なものかと驚嘆せざるをえないと同時に、偶然にこんなにうまくいくのだろうかという疑問も起きないではありません。


 そこで、進化論に対する疑問について簡記してみましょう。


(1) 宗教的反発


 ダーウインが進化論を唱えた頃、彼の説は、神の天地創造を信じるキリスト教者から激しい抵抗を受けました。人が猿から生まれたなどと信じる訳にはいかなかったのです。


 旧約聖書の創世記には、神の天地創造について記載してあり、神は六日間に宇宙の森羅万象を創造され、七日目に休まれたとあります。


 六日間を文字通り受け取れば、現代科学とは、とうてい相入れないものでしょうが、六段階、すなわち考古学的表現の「生代」と考えれば全くの物語ともいえなくなります。


 すなわち、第一段階では「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてに」あったところに光(太陽) がつくられました。


 第二段階で水が雲と海に分けられ、第三段階で陸地が現われ、植物が出現しました。


 第四段階で大空のガスや塵がなくなり、地上に日と月と星の光が届くようになり、第五段階で魚類そして鳥類が現われ、第六段階で哺乳類、最後に人類が生まれたというのです。


 地質学によると、地史は先地質時代、始生代、原生代、古生代、中生代、新生代に分けられています。


 先地質時代は、地球誕生から、地殻もなく海洋も大気もない、現在の地球上に見られるよう


な地質現象の全く見られなかった時代で、先地質時代の終りから地質時代の始生代の初めにかけて、それまで水酸化物などの化合物の形をとっていた水が遊離して水蒸気となり、地上に吹き出し地表の凹所に溜まるようになって、水圏が誕生したのです。


 現在見られるような大陸地域が初めて形成されたのは、原生代の始まりといわれています。この原生代に石灰藻、有孔虫、放散虫、クラゲ、節足動物、腕足動物が出現し生息していたと考えられています。


 古生代の後期には、両生類、魚類が、中生代には、は虫類が出現しました。新生代になって哺乳類が現われ、最後に人類が登場したのです。


 このように、地史をかいま見てみますと、創世記の記述は、物語的な表現ではあるにしろ、実に現代科学にマッチしているのに驚きます。


 注目すべき点は、第一に宇宙の誕生には時間性および段階性があったということ、第二に、低級なものから高級なものへという進化があったという二点です。


 カトリックの神学者バルバロは、「進化論は物質から最初の門ができたわけを説明し、門から綱へ、綱から目へ、目から科へ、またそこから属と種ができた理由を説明すべきです。現代科学では一つの科から他の科へ移ったものの証明はありません。また一つの種から他の種に変わったという証明もなく唯物論的進化論は実験によって証明されていないのです」と批判しています。


 創世記が編纂されたのは、バビロンの幽囚時代、B・C 586年であるといわれていますので、B・C 6世紀以前にすでに創世記は存在していたのです。


 大した科学をもたない時代に、19世紀に説かれた進化論が、すでに記載されているのです。聖書こそ進化論の主唱者であるといっても過言ではないでしょう。


 このように見てくると、進化論は唯物論的進化論と神学的進化論に分けられることがわかります。


(2)結果の羅列だけでは、自然発生ということにはならない


 地質学は、地層やそれに含まれている化石によって、その地史の年代を算定しています。


 宇宙の始まりから、現代にいたるまで時間は止まることなく進んでおり、それが事実であるならその過程があるのは当然です。


 進化論は、発掘された化石からその進化の結果を並べて、その過程を推測したのであり、何もその進化の原動力を説明しているのではありません。


 ところが、あたかもそれによって生物は自然的に進化してきたかのごとく考えられてしまっているのはおかしなことです。


 ある家に泥棒が入りました。警察はその足跡を見つけました。それによると泥棒は南側の窓から侵入し、裏口から逃げ、西の方へ逃走した模様です。


 ここまでなら足跡から推測はつきますが、足跡から、泥棒はなぜ入ったのか、という彼の動機をも説明しようとするなら、それはおかしなことですし、越権的なことでしょう。


 足跡が残っている限り泥棒が入って逃げたのは事実でしょうが、その動機までは分かりようがありません。


 すなわち、進化論が地史から生物の進化の過程を説明したのは、非常に有意義なものとはいえますが、だからといって、即、唯物論が証明されたかのごとき錯覚を与えているのは誤謬です。


 それはこれまで宗教が神秘なことを取り上げて、神の存在を説明しようとしたことと相通じ、その神秘のべールが取り外された時、宗教があたかも無用の長物ごときものと思われてしまった失敗を繰り返す危険性もあるのではないでしょうか。


 簡約すれば、進化論は進化の過程を説明しただけで、それ以上の何ものでもないことを自覚すべきです。


(3) 自然発生はほんとうか


 宇宙の発生は200億年前というとてつもない大昔のでき事です。人間の一生が約70年とすると、それはその3億倍もの年月であって、我々の頭では想像もつかない長さです。


 それが何か自然にそうなることもありえるのでは、という希望的観測をやってのけているのではないでしょうか。


 東京大学理学部の野田教授は、地球上の炭素の数とか突然変異の頻度から、物質から生命が誕生する確率をおおよそ10の40乗分の1 と計算しています。


 ところが、宇宙の年令と考えられている150億年は、秒になおすと10の17乗秒であり、10の40乗から見れば大した数字ではないというのです。


 すなわち、150億年の長年月をかければ、どこかに生命が自然発生してもいいのでは、と思うのは夢想であって、生命の誕生はそんな生易しいことではないというのです。


 熱力学の第2法則によれば、孤立系のなかではエントロピーは増大します。エントロピーの増大とは、無秩序の増大を意味します。


 すなわち、単に自然の物理化学的法則だけが作用すると考えた場合、秩序、かたより、高級なエネルギーは、より混沌、平均、低級なエネルギーの方向へ進むというのです。


 例えば、コーヒーにミルクを入れて放置しておけば、次第に両者は混ざってきます。その逆に、混ざっていた状態から自然にそれが分離して2層になることはありません。


 生命体が一番安定した状態とは、逆説的にいえば死んだ状態です。死体をさらにバクテリアがバラバラに分解して分子になってしまえばもっと安定します。


 従って、生命体がつくられ、それが維持されるには恐ろしいほどのエネルギーや秩序性が必要なのです。


 生命が現実に存在するのは事実であるし、それならいつか生命は誕生したはずです。それはそれで正しいのですが、そうだから、大昔に生命は自然発生したのだというのは暴論です。


 現在実験室で原始地球の模型を作成し、太陽光線の代りにアルゴン光源を用いてジヌクレオチドまで自然発生的に合成されていることは前述しました。だから、生命だって条件さえ合えば自然発生しえるのだと実験者は言いたいでしょう。


 しかし、これには条件さえ合えばという条件付きです。実験室では、原始地球を想定し、条件を合わせた実験者の意志があるのです。


 17~18世紀に西欧社会の哲学界を支配した力学的自然観をもつ機械的唯物論というのがあります。


 人間も含めて自然界全てが細胞などによって構成された機械装置に過ぎないという唯物論です。


 ところがよく考えてみると、機械は人間によって作られ動かされるものですから、宇宙も機械であるというなら、それを創り動かす造物主がいなければならないとなって、結局は唯物論ではなくなってしまった訳です。


 すなわち、実験者の意志という非偶然的なファクターを無視して、自然、偶然という言葉は決して使ってはならないということです。


(4) 突然変異で果して進化はなされるか


 突然変異とは、遺伝形質が突然に変わることをいい、その確率は1遺伝子について10万分の1から1億分の1くらいであろうと考えられています。


 最近、前述したネオダーウィニズム、すなわち突然変異と自然選択により生物は進化してきたとする説に対して疑問が出されています。


 突然変異とはこんなにも小さな確率でしか起きないものであるし、それにもまして、全く無方向性に偶然起こるものだからです。


 すなわち、必ずしもその個体に有利な方向に変異が起こるとは限らないのです。従って、その個体に有利な方向に変異する確率はもっと少くなります。しかも、1遺伝子のみが有利な方向に変異しても、その個体が生き残れるとは限りません。


 例えば、キリンの首の例で考えれば、キリンの首の長いのは、高い木の葉を取って食べるには有利です。


 しかし、この長い首を支えるには、筋肉、血圧なども同時に調和して変異しなければなりません。なぜなら、キリンの血圧は長い首を通って脳に血液を送るため、普通の動物より高いのです。


 しかも、頭の血管には、弁と血液を溜めるところがあって、下を向いて水を飲む時も脳に血が下って脳出血を起こさないよう血流は調節されているのです。


 このような一連の精巧なメカニズムがあってこそ、キリンの首は長くあれるのであって、そうでなければキリンの首の長さは有利なものとはなりません。


 脳貧血や脳出血を起こしたり、首がだらんと垂れ下ったままであったりして、とうてい、生存競争に打ち勝って生き残れるものとはならないのです。


 現在、突然変異と自然選択で説明できるのは種を越えない小さな範囲の変異です。


 新しい種が誕生する事は、以上を考慮に入れればいかに難しい事かが推測できるでしょう。「200億年もあればできるのでは」という楽観論が、それを可能ならしめているのではないでしょうか。


 ダーウィンを初めとする進化論は、それまでキリスト教の教義によって圧殺されていた宇宙の進化についての科学的解明の息吹を呼び覚まし、客観的にそれらを解明する方途を開いたという大きな意義をもっています。


 進化論によって、宇宙生成から人類誕生までの謎の解明が急テンポになされたのです。


 しかしここで留意すべきことは、進化論への疑問で上げたような進化論自体の限界性です。


 この限界性を踏まえた上で進化論を評価しないと、進化論によって 全てが解明されたかのような錯覚におちいる危険性があると同時に、その上に安座することによって、それ以上の進歩が失なわれる可能性さえあるといえるのです。


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