1.ニューイヤー
町は新年を祝うライトアップに被さっていた。町と灯、生まれ持った輪郭に抗っても敵わない。構造は疑似的三次元、二次元平面に広がり、大量の車が各々の一次元ラインを持ち合って走行している。ペーシンは独り、夜道を歩いていた。
ペーシンには友人がいない。町を逆さに振っても知り合い一人出てこない。自ら率先してつくろうという気概もなく、またペーシンには金もなかった。みんなが金と呼んで流通している紙幣や硬貨の一枚や二枚、その断片だって持っていなかった。
ペーシンのように孤独な者はその代わり、町が時折みせる、眩い虹色の光を決して見逃さない。暑さを凌ぐ日陰のさなか、予期せぬ鋭い雨のさなか、そんなふとした瞬間の隙間を縫うようにして、これまでに何度も光の恩恵に与ってきた。大いなる存在との繋がりはそう易々と金で買える代物ではなかった。
**町が神聖なる光を纏い、ペーシンの内側に現れた**
**ペーシンの思考は町に掌握された**
『この町は金で溢れている。この町は金を求め彷徨う人で溢れている。その両方がこの町で今もなお増加を続け、止まることを知らない。これらの事実から分かること、それは金の知られざる正体。金は安心も興奮も与えない。見せかけるだけ。幻で人々を誘い、スパイラルに陥れ、経済や情念の場に起こる運動エネルギーを骨の髄までしゃぶり尽くす、人間には不可視の未発見動物だ。まだ身を持って知らないのなら、そのまま身を引いて待っていろ。時の果てをぼんやり見つめて待っていろ。待っていさえすれば幕は他が降ろしてくれる……』
その降りる幕とは、自分の死のことを指しているのか、それとも世界の終焉のことを指しているのか、はたまた全く別の意味を指す比喩なのか。ペーシンには見当がつかない。
しかし具体的な記憶も定まらないほど遥か昔、あの虹色の光を目の当たりにして以来、真意も釈然としないその言葉を胸に留め、彼はずっと待ち続けてきた。一体あの経験の何が、幼かったペーシンの心をここまで射止めたというのか。彼の態度は盲信というよりも、生まれてこの方、欲望や責任といった原動力が頭に存在していないという風だった。ペーシンを人間たらしめていたあらゆる心の影は、真っ新だったあの頃、虹色を発する神聖なる光の下に身を潜めてしまった。
明かりのないウィンドウに影が落ち、八角形ごと区切られた曲面に小さなペーシンが五十人蠢いた。不変のペースで通り過ぎ、姿はウィンドウから外れる。背後から車が一台ペーシンを追い抜き、百個のヘッドライトは一瞬で飛んでいく。
ペーシンが住む家は通り沿いに建つ、赤いシオマネキだった。見るからに危険と分かるボロ屋で、プロの眼が入れば余命は三年と残っていない。社会的にあらゆる能力の代がないペーシンでも住まわせて貰えている通り、家賃は破格。お金じゃない。彼はいつだって世間から自分の置かれている状況を眩まされ、そこに留まっていた。
ペーシンはガタガタいう椅子に着いた。四脚の釣り合いが取れないテーブルの上、ひっそり佇む電気ランプを灯し、広がる明かりの中に古びた本が一冊浮かび上がる。『一理普遍神話』と題されている。
ペーシンは最後の章から開いた。
──
第八節/逃避
スルーリンは従に尋ねた。
「現世から人が逃れることは可能でしょうか」
従はしばし黙し、問いに答えた。
「可能です。現世とは己と他者から成ります。なぜならば己と他者が相対することで時間という概念が生じるためです。よって肉体的に他者から離れることができれば己は世俗を逃れ、同時に現在という時間からも逃れることになります。人は現世から逃れることができます」
スルーリンは再び従に尋ねた。
「はい。しかし時間は単に概念という形のみならず、実際に苦しみという形をとって万物に影響します。世俗から逃れようとも肉体は老い、時間の重責によって心を乱します」
従はスルーリンに尋ねた。
「それでは人は現世を逃れることができないのでしょうか」
スルーリンは問いに答えた。
「三つの要素を欠くこと無く暮らせば、人は現世から逃れることができます。それこそが恍惚、熱狂、官能です。これら三要素は肉体や心と影響を及ぼし合い、互いにも影響を及ぼし合います。一度でも均衡を崩せば己はたちまち現世に戻されます」
従は再びスルーリンに尋ねた。
「もしも均衡を崩してしまったら、その人は現世に残されたままなのでしょうか」
スルーリンは答えた。
「再び均衡を取り戻すことはより深い困難となって立ちはだかるでしょう。そのとき困難に立ち向かうことこそが教えを全うするということ、信仰の証です。困難を前に堕落してはなりません。逃避を完遂しなかった者には時間という永遠の苦しみだけが残されます」
スルーリンとその従が対話をしているちょうど背後、テニスボールが衝突し、金網を勢いよく揺らした。金網の向こうに広がるテニスコートでは、羽に角に尾まで生え揃った典型的な悪魔がラケットを握っていた。来るボールに対してフォアとバックを順繰り切り替えながら、一緒にしっぽの逆ハートを振り振り。漆黒の肌にピンク色の汗を流していた。
相手コートにはペーシンが入っていた。服装はすっかり白いテニスウェアに着替えてある。ペーシンは悪魔から放たれるボールを小気味よく打ち返した。
スルーリンは従に尋ねた。
「人が現世から逃れる目的とは一体何なのでしょう」
この問いの答えを、従はすでに授かった覚えがあった。
「以前教えていただきました。苦しみから逃れるためです。人の器に収まる程度の軽微な苦しみであればむしろ文化や文明へと形を変えて人類の発展に寄与しますが、苦しみが許容量を超えたときに逃避が始まります」
スルーリンは従に言った。
「いえ、そうではないのです。なぜそういう風にできているのでしょうか」
従はスルーリンに尋ねた。
「なぜと申しますと、どういう意味合いでしょう」
金網の向こう、シューズの跳ねる音が7回当たり、1回のボールが跳ねる音。
悪魔は地面と水平になってまでラケットを伸ばしたが、あと数センチ届かなかった。「クソ!」
得点係の男の子が心底退屈そうに羊革を捲った……ペーシン30 - 悪魔15
ペーシンの周りを幼いボールガールがウロチョロ。ボールを手渡し逃げるように退散。
スルーリンは答えた。
「創造主の真意というのが近いでしょう。人は適度に苦しみ、そこから考えを発する。しかし過ぎた苦しみを受ければ次は逃げ道がある。常に逃げるという行動が残されている。なぜいつでも逃げることができるのでしょうか。逃げ続けた先には終わりがあるのでしょうか。逃げるとは一体何なのでしょうか……」
スルーリンの意識は知的探求に差し掛かった。目に恍惚の光が宿る。
従はスルーリンの邪魔をしてはいけないと、以降を黙した。金網の向こうで行われているゲームに意識を移す。
ペーシン40 - 悪魔15……そのとき、誰かの打ちこぼしたボールが地面を這った。
「げ~むせっと~……」得点板サイドから変声期前の声がダウナーに響く。
「クソクソクソ! おいペーシン! もっかい戦……っな!」
**スコーンッ!**
言い終わってしまうよりも早く悪魔がサーブを放った。膝に手を付き息を整えていたペーシンは出遅れ、サーブボールを取り逃した。
テキパキと羊革が捲れる……ペーシン0 - 悪魔15
ボールガールが悪魔に向けて背伸びし、ボールを差し出した。
あろうことか悪魔はそんな小さな手をまるでゴルフのピン扱い。受け取りもせず直接スマッシュ。
「うおりゃあ!」**スコーンッ!**
女の子はその手をギリギリで引っ込め、おかげで大事には至らなかった。でもちょっと痛かった。
「もうっ!」
悪魔のしっぽに怒りのチョップを仕返し。二撃目を狙って躍起に追尾。
ペーシンの足は今度こそ間に合った。お手本のようなフォームでレシーブを返す。
ボールはネットを跳び越え、ワンバン、悪魔のシューズがセブンバン。
「ふおいっ!」**スコーンッ!**
ラリーは光速が衰えるほどの長期戦にもつれ込んだ。




