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砂糖菓子のレシピ  作者: 黒崎メグ
4 聖なる円形
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【4】

「少年がキリスト教徒でないならわからないだろうけど、ホールケーキは切り分ける時に必ず十字にナイフを入れることになるだろ。だから特別な日に焼く特別なお菓子だったんだ」

「だけどあんたは、その特別なレシピを母さんに教えただろ?」

「祥子さんはね、君と旦那さんと一緒に撮った写真を見せて私に言ったんだ。君の誕生日は十二月だろう。誕生日祝いと受験の成功を願って、ホールケーキを焼いてやりたい、とね。だから私は彼女に、ショートケーキのレシピを教えた。残念ながら、新聞で交通事故の記事を見て、レシピが使われることなく終ってしまったことを知ったけれど」

 店主は当時のことを思い出したのか、目を伏せた。それは悲しみを表しているようでもあるし、後悔をしているようでもあった。

 田口は交通事故で母を亡くした日のことを思い出して、目の奥が熱くなるのを感じたが、目をそらすことなくその心情を問う。

「あんたはそれで後悔したのか?」

 店主は顔をあげ、瞬きをした。

「いや、後悔とは違うよ。でも、このままではいけないとずっと悩んでいた。だからあの日、君に出会えたことに私は心底驚いた。同時に、今まで抱いていた思いを払拭するチャンスだとも思ったんだ」

 田口は店主と出会った日のことを思い出す。顔を確認した後に態度が変わったのは、その思いがあったためなのだろう。そうでなければ、いくら知り合いの息子であったとしても、軽々しく店に招き入れない。だがそれならば、店に招いた後、正直に話してくれれば事足りたはずだ。賭けという回りくどい方法をとったことがどうも引っかかる。

 田口がそれを尋ねれば、店主は首を横に振った。

「人から言われて気づくのと、自分から気づくのとでは大きな違いがあるんだよ。だから少年には、自分から祥子さんの残したものに気づいて欲しかった。ティラミスを出した時の反応で、少年がレシピ帳のことを知らないのは明白だったからね」

「じゃあ、デザートを出してくれたのもわざとだったんだな」

 店主は田口の言葉に唇に弧を描いた。それは肯定の証である。田口が眉間に皺を寄せると、店主の口からは笑い声がもれた。

 確かに店主が切欠を与えてくれなければ、レシピ帳に残された数々の母の思いに気づくことはなかっただろう。

「あの時は本当に驚いたんだぞ」

 田口が非難を込めてと言うと、店主は「ごめん、ごめん」と謝罪を口にして言葉を続けた。

「でも、ちゃんと埋め合わせはするつもりでいたよ。さて、少年は私の言った賭けの内容を覚えているかい」

 田口は店主の言葉に目を瞬かせる。

「俺が勝ったら、大切なものをくれるってあれか?」

「そうだよ。それが私にできる最後のことだ。少年はいらないと言うかもしれないけれど、私が何を与えようとしていたのか、見てからでも遅くはないだろ」

 確かに内容も知らずに辞退するのは惜しいかもしれない。店主のことだ、きっとなにもかも考えた末のことなのだろう。田口はその言葉に頷いた。それに満足そうに頷き返して、店主は手招きをする。

「とりあえずキッチンにおいで」

 なぜキッチンなのか、田口には予測がつかなかった。けれどキッチンに足を踏み入れた瞬間、田口はすぐにその言葉の意味を悟った。

 五帖ぐらいのキッチンには、中央を立ち位置に手前側にシンクとコンロ、奥には銀色の作業台とオーブン、冷蔵庫といったものが設置してある。作業台の上には銀色の戸棚が備え付けてあり、材料や型といったものが仕舞われているのが確認できた。だがその中で、丸型やボールといった一部の器具だけが作業台の上に置かれている。ボールの中には計量された小麦粉や砂糖が入っているようだから、今からお菓子を作ろうというのは明白だった。

「俺にお菓子を作れとでもいうのか?」

 田口が問えば、店主は隣に立つ田口の手からレシピ帳を取った。田口が奪い返そうとするも、器用にその手を擦り抜けて、彼女はレシピ帳をめくる。

 そうして開いたページは、空白のあるショートケーキのページだった。彼女は写真とレシピが落ちないように手で押さえながら、そのページを田口に見えるように示してみせた。

「この右ページに思い出を書き込んでみたいとは思わないかい」

「それがあんたのいう大切なものなのか?」

「手作り料理は、人に大切な思い出を与えてくれる。それが私の持論だよ」

 店主はレシピ帳を作業台の上に置いた。

「お父様に祥子さんの味を届けてあげたらどうだい」

 母の味もなにも、田口も父も母のショートケーキを一度として口にしたことはない。それでもきっと、それは母の味といえるのだろう。不思議と田口はそんな気がした。

 だから店主の言葉に、田口の頬は自然と緩む。それを隠すように田口は、ボールを手に取った。

「で、なにからすればいいんだ」

 ぶっきらぼうなその物言いに、店主の目尻に皺が寄る。田口の照れ隠しはお見通しなのだろう。店主は笑いをこらえているようであったが、声音からは親しみが滲み出ていた。

「粉の計量は終えてあるから、まずは卵をほぐして、そこに砂糖を加えていくんだ」

「こんな感じか?」

 店主の指示に従って、田口は順に材料を混ぜ合わせていく。

 母もこんなふうに店主に作り方を学んだのだろう。甘い香りと包まれて、田口は母の笑顔を思い出した。母がいつも料理を出す時、決まって浮かべていた笑顔だ。母の優しさに触れたような気がして、泣きたいような、けれど決して悲しくはない温かな気持ちが田口を支配した。料理は食べる側だけでなく、作る側にも幸せを運んでくるのかもしれない。

「少年?」

 あとは型に生地を流し込むだけの状態になって手を止めた田口に、店主は訝しそうに声を掛けた。田口は熱くなった瞼を強く閉じて、その感情をやり過ごし、

「なんでもない。そこの円型とってもらっていいか」

 と店主の方を向く。その表情に何かを察したのだろう。店主は、

「聖なる円形にどんな願いを込めるんだい?」

 と満足そうに微笑んだ。その問いには答えず、田口は黙って悪戯っぽく笑った。

 それは田口のせめてもの反撃であり、意趣返しだった。それを教えてしまっては、負けを認めてしまったことになる。

 型に生地を流し込みながら田口は思う。自らの手でお菓子を作り出すことがこんなにも温かな気持ちにしてくれるものだとは知らなかった。それは母の思いを知ったからなのか、食べてくれる人のことを考えて作るからなのか、田口にはわからない。

 けれど、一つだけ心に決めたことがある。

 調理師免許を取りたい。大学を卒業したら一生懸命働いてお金を貯めて、いつか――店主のように思い出を届けられる店を持とう。そして母の残したレシピで、母のように思いのこもった料理を作りたい。

 田口が聖なる円形に込めた願いは、その夢が叶うことであった。



【完】

このお話を書く切欠になったのは、知人から借りた「お菓子の由来物語」という本でした。書いていて、やはりこういった雰囲気のお話が好きだな、と実感しました。


時間に余裕ができたら、長編らしくしようと考えているので、お気づきの点はご指摘下さい。

それではここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。


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