第八章
「ただいまー」
聞き慣れた声がした。マシューだった。
「……あれ?」
買い物袋を両手に抱えたマシューが、居間の入口で足を止めた。
トーマが椅子に座っている。その向かいには、見知らぬ少女がいる。しかも。何やら随分と楽しそうに話していたらしい。
「…………」
マシューは、ゆっくりと目を細めた。
「……トーマ?」
「おう、マシュー。おかえり」
トーマは、いつもどおり手を上げた。
「……誰?」
短い問いかけだった。
その声に、ミレイユが勢いよく立ち上がる。
「失礼します!ローデン王国士官候補生、ミレイユ・ラ・フォルジュです!」
ぴんと背筋を伸ばし、深々と頭を下げる。
「本日はトーマさんのお見舞いに参りました!」
「…………」
マシューは、しばらく少女を見つめていた。それから、トーマへ視線を戻す。
「……お見舞い?」
「そうそう。わざわざ来てくれたんだよ」
「へえ」
マシューは、買い物袋を机へ置いた。
その動作は、いつもより丁寧だった。
そのまま腰に下げていた魔導杖に手をかける。
「……それで?……どうして、ここを知ってるの?」
ミレイユが答えた。
「フィオナさんに教えていただきました!」
マシューの眉が、ぴくりと動いた。
「……フィオナが?」
「はい!」
少女は、元気よく頷いた。
「昨日、学園の救護所でお会いしたときに、トーマさんのお見舞いに伺いたいと相談したんです。そうしたら、こちらの住所を教えてくださって!」
「……そうなんだ」
マシューは、にっこりと笑った。魔導杖からも手が離れる。
だが、トーマにはわかった。あれは、あまり機嫌のよくないときの笑顔だ。
「トーマ」
「……お、おう?」
「キミ、寝てなきゃ駄目だって言ったよね?」
「いや、ちゃんと休んでたんだけど」
「……今、椅子に座ってるよね?」
「まあ、そうだな」
「……しかも、お客さんまで呼んで」
「いや、呼んだわけじゃ――」
「……ふぅん」
マシューは、もう一度ミレイユへ視線を向けた。
その目つきは、どこか値踏みするようだった。ミレイユも、さすがに何かを察したらしい。
「……あの」
「……何かな?」
「私、そろそろ失礼します!」
「……え?もう帰るのか?」
トーマが顔を上げた。
「はい!」
ミレイユは、にっこりと笑った。
「トーマさんのお顔も見られましたし、お話もできましたから!それに、あまり長居してお身体に障ってもいけませんし!」
マシューが小さく頷いた。
「……そうだね、それがいいと思うよ」
ミレイユは、ちらりとマシューを見た。
その笑顔の奥に、何か近づいてはいけないものを感じたらしい。もっとも、彼女はそこで怯むような性格でもなかった。
「……では、トーマさん!今日は、お話しできてよかったです!」
少女は、嬉しそうに笑った。
「また今度、二人でお話ししましょう!」
「……おう、いいぜ」
トーマも笑って答えた。
「組手の約束も忘れんなよ」
「はいっ!もちろんです!」
ミレイユは、満面の笑みを浮かべた。その隣で。
「…………」
マシューの表情が、固まった。
……二人で?
……組手?
今、何と言った?
しかし、ミレイユは気づかない。
「それでは、お大事になさってください!」
深々と頭を下げると、元気よく玄関へ向かっていった。
「あ、今度お会いするときは、私のことは気軽にミレイユとお呼びください!それでは」
扉が閉まる。ぱたん。静寂が戻った。
「…………フゥン」
マシューは、しばらく扉を見つめていた。そして、ゆっくりとトーマへ向き直った。
「ねえ」
「ん?」
「何?」
「何って?」
「……組手って、何?」
トーマは、何でもないことのように答えた。
「ああ、あいつがさ。身体が治ったら組手の相手してほしいって言うから、いいぜって」
「…………」
マシューは、黙った。
「……それだけ?」
「おう」
「……本当に?」
「本当にって、何が?」
トーマが首を傾げる。マシューは、しばらくその顔を見つめていた。やがて、深く息を吐いた。
「もう……」
買い物袋から野菜を取り出し、台所へ運ぶ。
「何だよ?」
「何でもない!」
少しだけ、声が大きくなった。トーマは、訳がわからないといった顔をした。
「お前、なんか怒ってる?」
「怒ってないよ!」
「いや、怒ってんじゃん」
「怒ってないってば!」
トーマは、困ったように頭を掻いた。
どうにも、友人心というものは難しい。
そのとき、マシューが台所から顔を出した。
「……それより、トーマ!身体が治るまでは、絶対に組手なんかしちゃ駄目だからね!」
「……わかってるよ」
「絶対だよ!」
「……はいはい」
「返事は一回!」
「はーい」
マシューは、ようやく満足したように頷いた。それから、声を和らげる。
「……でも、友達が増えるのは、いいことだと思うよ」
「……おう」
トーマは目をぱちくりとさせたが、それから笑った。
「そうだな」
マシューも、小さく微笑んだ。
カイルとシャルロッテ。セレスティアとフィオナ。そして、今日訪ねてきたミレイユ。森林行軍を境に、トーマの周囲には少しずつ人が集まるようになっていた。
それは、マシューにとっても嬉しいことだった。
トーマが誰かと笑い合う姿を見るのは、決して嫌いではない。
むしろ、もっと多くの友人に囲まれ、楽しく学園生活を送ってほしいとさえ思っている。……ただし。
「……ねえ、トーマ」
「……ん?」
「そのミレイユって子とは、何を話してたの?」
「何って、色々だけど」
「色々ってなに?」
「この前の森林行軍のこととか、あいつの家のこととか」
「ふーん」
マシューは、野菜を切る手を止めた。
「……それで?」
「それで?」
「……他には?」
「だから、組手の話とか」
「それは聞いたよ」
トーマは、いよいよ訳がわからなくなった。
「……何なんだよ、さっきから」
「……別に」
マシューは、再び包丁を動かし始めた。
「ただ、気になっただけ」
その声は、いつもより小さかった。
トーマはふと笑った。
「まあ、いい奴だったぜ」
マシューの手が止まる。
「……へえ?」
「ああ。元気だし、真面目だし。なんか、話してて楽しかったな」
「…………」
マシューは、ゆっくりと振り返った。
「楽しかったんだぁ?」
「……お、おう」
「そっかぁ」
にっこり。
実に可愛らしい笑顔だった。
だが、その笑顔を見たトーマは、なぜか背筋に冷たいものを感じた。
「な、何だよ……」
「……何でもないよ」
マシューは、再び台所へ向き直った。
「……ただ」
「ただ?」
「今度その子が来るときは、僕もいる日にしてね」
「何で?」
「なんでも」
それだけ言うと、マシューは再び野菜を切り始めた。
とん、とん、とん。
いつもより、包丁の音が大きい気がする。トーマは、しばらくその背中を眺めていた。
それから、誰にともなく呟いた。
「……なんなんだ、いったい」
返事はなかった。ただ、台所から聞こえてくる包丁の音が、ほんの少しだけ速くなった。
休養三日目。身体の痛みは、まだ残っている。
けれど、昨日よりは動けるようになった。新しい友人もできた。それは、なかなか悪くない一日だった。もっとも。
なぜマシューの機嫌が悪くなったのかだけは、最後までわからなかった。
夕食の支度をする小柄な魔導士の背中を眺めながら、トーマはもう一度だけ首を傾げた。
窓の外では、穏やかな午後の陽が、町の屋根を照らしていた。




