コカ・レストランの銀鍋デビュー
1.『メナムの残照』とスラウォンの夜
某日午後七時。
花金の夜の帳が下りたスラウォン通りは、淫靡な色とりどりのネオンサインの洪水と、タクシーとトゥクトゥクの排気ガスの熱気で満たされていた。
向井健司は、数日間の汗が染み込んだチャコールグレーのスーツの襟を正した。
クリーニングに出す時間すら惜しいほど、この一週間はただ街とオフィスのカオスに翻弄され続けていたのだ。
日本から持ってきた数少ない勝負ネクタイの結び目をぐっと引き締める。
今夜は、タイの大手繊維メーカーの重鎮、ソムチャイ氏(五十九歳)の接待デビューの日だった。
社用車の白いセダンのドアが開いた先には、重厚な店構えの「コカ・レストラン」があった。
タイ人なら誰もが知る老舗の“タイスキ”レストランだが、下町の食堂よりははるかに高級なため、当時は特に日本人駐在員の接待の場として重宝されていた。
店員たちも日本人対応にすっかり慣れており、中には流暢な日本語でメニューの説明ができる者もいる。
車から降りた三人、竹本、佐藤、向井は、それぞれ襟を正しながら店へと入った。
「向井、ここはただのタイスキ屋じゃないぞ。あの秋篠宮殿下がタイをご訪問された際にも利用された名店だ。心してかかれよ」
先を歩く佐藤が、いつになく低い声で釘を刺してきた。
いつものヨレたシャツの面影はなく、仕立てのいい紺のスーツに身を包んでいる。
その後ろからは、高級なコロンの香りを漂わせた竹本社長が、大物政治家のような堂々とした歩調で続いた。
案内された二階の個室は、一階の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
中央の円卓には、コカを象徴する名物の真鍮製の銀鍋が鎮座していた。
日本の土鍋とも、他店のチープな電気鍋とも違う、その重厚な銀鍋の佇まいが、老舗の格調をぐっと引き上げている。
その横にはコカレストラン秘伝の、あの赤く濃厚な“ナムチム”(つけタレ)が並んでいた。
やがて部屋のドアが開き、ソムチャイ氏が現れた。
その後ろから、部下か運転手らしき男がソムチャイ氏の鞄を持って入ってきたが、それを室内の席に置くと、長居はせずにすぐさま一礼して部屋を出て行った。
仕立てのいい生成りのサファリスーツをまとったその姿は、どこかサイアムの古き時代から続く豪商の、凄みを帯びた華僑の末裔を思わせた。
浅黒いタイ人の肌とは異なる、うっすらと白みを帯びたきめの細かい皮膚。
細い眼躯の奥には、同時に幾多の政変をくぐり抜けて財を成してきた一族特有の、底知れない知性がギラついている。
タイの繊維業界を黎明期から支えてきた男特有の、圧倒的な威厳がそこにはあった。
氏は多くの日本企業と取引を重ねてきた筋金入りの“日本通”でもある。
向井は思わずそのオーラに気圧され、背筋を伸ばした。
大御所の入室を待ち構えていた竹本社長が、弾かれたように立ち上がった。
「おお、ソムチャイさん! サバーイディー・マイ・カップ(お元気でしたか)!」
竹本社長は、バブル期の修羅場をくぐり抜けてきた男の営業スマイルを爆発させ、ソムチャイ氏の懐へ猛烈な勢いで飛び込んでいった。
タイ式の挨拶で、両手を胸より高い位置できちんと合わせ、そこから両手でソムチャイ氏の右手を包み込むように熱い握手を交わす。
さらに向井を驚かせたのは佐藤だった。
彼はネクタイを少し緩めると、淀みのない流暢なタイ語を操り始めたのだ。
今夜の会合の趣旨と日頃の感謝を、簡潔明瞭にソムチャイ氏へと伝えていく。
一通り話し終えたところで、竹本社長が向井をソムチャイ氏に短く紹介し、目で自己紹介を促した。
「初めまして、私は向井健司と申します。今後とも宜しくお願いいたします」
完璧な英語で、向井は短く、しかし堂々と自己紹介を行った。
ソムチャイ氏は「おお、ミスター・ケンジか……」と値踏みするような鋭い視線を向けた後、表情の奥で何かを思い出すように、小さく「コボリ……コボリ……」と呟いた。
向井の耳がぴくりと跳ねた。
「ソムチャイ様、まずはビールで乾杯しましょう。今夜は特別に素晴らしい牛肉が入っております」
佐藤は足元の紙袋から、日本から持ち込んだ灘の銘酒とフランスワインのボトルをちらりと覗かせ、「お口に合うかわかりませんが、どうぞ」とソムチャイ氏の椅子の脇に寄せた。
円卓には、ビールのあてとして、香ばしいタレで焼かれたペットヤーン(ローストダック)とムーデーン(チャーシュー)の皿、そして白菜の漬物にピーナッツが手際よく並べられていく。
佐藤はこのレストランの名物メニューのエビのすり身をカリッと揚げた名物「コカエビ」が出揃ったところで乾杯の音頭を取った。
佐藤は絶妙なタイミングで冷えたアサヒビールを注ぎ、四角いトレーに美しく並んだ高級牛肉のスライスや、新鮮な白身魚、小エビのシーフードに続き、色とりどりの野菜を、慣れた手付きで真鍮の銀鍋へと投入していった。
具材を入れる順番、スープの温度の管理、タレに混ぜるパクチーや刻みニンニク、マナオ(ライム)の配分に至るまで、その手捌きは完璧な“鍋奉行”であり、プロの駐在員としての底力をこれでもかと見せつけていた。
(佐藤さん、ただの無神経な男じゃなかったのか……)
オフィスでの佐藤の横柄な態度しか知らなかった向井は、自身の物差しの狭さを思い知らされた気がした。
彼はただ、飾りのように座っていることしかできなかった。
2. タイスキの洗礼
グツグツと湯気を立てる真鍮の銀鍋の中で、薄切りの牛肉が絶妙な色合いに変わっていく。
それを引き上げ、コカ特有の赤いタレに絡めて口に運ぶソムチャイ氏は、和やかに竹本たちとの談笑を楽しんでいた。
「ミスター・ムカイ、だったかね」
不意に、ソムチャイ氏が鋭い眼光を向井に向けた。
タイ語混じりの英語だった。
「君はタイに来てどれくらいになる?」
「は、はい。まだ一か月ほどです」
向井は緊張のあまり、声が上ずった。
竹本社長と佐藤が、助け舟を出そうと息を吸い込むのがわかった。
新人である向井がここで粗相をすれば、これまでの商談の空気が台無しになる。
だが、向井の胸ポケットには、あのクラシックプレースホテルの白い紙ナプキンがあった。
ケウのバイオリンのような声が、耳の奥でリフレインしていた。
(このまま、ただの無能な新人として終わってはだめだ!)
向井は意を決し、先週末の記憶を手繰り寄せた。
ケウに何度も「コボリ」と呼ばれた理由が気になり、彼はバンコクの怪しげな電脳街の露店を巡り、ようやく日本語字幕付きのタイ映画『クーカム(メナムの残照)』のVCDを探し出したのだ。
粗い画質のテレビ画面に映し出される、直訳気味の不自然な日本語字幕。
それを今日のために、文字通り擦り切れるほど再生して目に焼き付けてきた。
「ソムチャイさん」向井は居住まいを正した。
「タイ語はまだ拙いのですが……タイに来てから、この国の文化を少しでも知りたくて、少し前の映画『クーカム』のVCDを観ておりました」
当時はまだ、ビデオCD(VCD)と言われる、ビデオテープをCDに焼いただけの、画質の悪い製品が主流を占めていた。
その瞬間、ソムチャイ氏がグラスを持つ手をぴたりと止めた。
個室の空気が一瞬で張り詰める。
竹本と佐藤がギョッとした顔で向井を見た。
ビジネスの場で、なぜ唐突に古い映画の話をするのか、と二人とも焦ったのだ。
「……ほう」
ソムチャイ氏の目が細められた。
「日本人の若い君が、あの『クーカム』を観た、と言うのか?」
「はい」
向井は真っ直ぐにソムチャイ氏の目を見つめた。
「大日本帝国海軍の小堀大尉と、タイ人の女性アンスマリンの悲恋に、深く胸を打たれました。最初は国籍も立場も違い、反発し合っていた二人が、最後には激しい空襲の中で心を通わせる。小堀が息を引き取る間際、アンスマリンの胸の中で呟いた『僕の心の中に、君のための天国がある』という字幕の言葉を見たとき、不覚にも涙が止まりませんでした……」
3. 大御所の陥落
部屋に沈黙が暫し流れた。
銀鍋から立ち上る真っ白な湯気が、ソムチャイ氏の顔を遮る。
ソムチャイ氏の肩が小さく震えた。
「……コボリ」
ソムチャイ氏は呟き、ふっと相好を崩した。
厳格だったその瞳が、遠くを見るように和らいだ。
「信じられないね。今どきの日本の若者が、あのコボリの痛みを理解してくれるとは。アンスマリンが、最後にやっと『愛している』と伝えた時、コボリはどれほど救われたか……。あのドラマや映画が放映されていた時、バンコクの街から車が消えたんだ。みんな、コボリの最期を見るために急いで家に帰ったからね」
ソムチャイ氏は、まるで我が子を見るような、温かく熱い眼差しを向井に向けた。
「ミスター・ケンジ、素晴らしい。多くの日本人は、タイにビジネスをしに来る。金を稼ぎに来るだけだ。だが君は、私たちタイ人の『心』を知ろうとしてくれた」
ソムチャイ氏は自ら箸を持ち、銀鍋の中から、佐藤が絶妙な加減で火を通した最高の牛肉をすくい上げ、向井の小皿へと優しく取り分けた。
「食べなさい、ケンジ。これはタイの味だ。さぁ、さぁ……」
促されるまま、向井は牛肉をコカ秘伝の赤いタレにつけ、口に運んだ。
(――っ!)
衝撃が走った。
唐辛子の鮮烈な辛みとニンニクのパンチ、そしてライムの酸味の奥から、パクチーの香りが鼻腔を抜ける。
辛い、しかし圧倒的に美味い。
これこそが、バンコクの日系企業の猛者たちを虜にし続けるタイスキの真髄だった。
竹本社長と佐藤が、呆然とした顔で向井を見つめていた。
百戦錬磨のソムチャイ氏が、新人の一言でここまで完璧に「陥落」したのだ。
「ミスター・タケモト、あなたは大変いい部下をお持ちですね」
そう言ってソムチャイ氏はアサヒビールをグイと飲み干し、後ろで控えているウェイターにお代わりを要求した。
4. 黄金のクローザー“おじや”
宴の締めくくり。
牛肉や様々な具材、そしてスープに溶け出した旨味が限界に達した鍋に、白いジャスミン米が投入された。
スープがひと煮立ちしたところで、佐藤が満を持して、小ぶりの牡蠣をドサリと鍋の中にぶち込んだ。
一気に濃厚な磯の香りが立ち上る。
佐藤は手際よく卵を回し入れ、仕上げに刻んだネギと香ばしいごま油を垂らした。
「コカ名物、特製おじや(カオトム)だ。さあ、ムカイ、君から行きなさい」
ソムチャイ氏に促され、向井はレンゲでおじやを口に運んだ。
(……美味い)
何重にも凝縮された肉の出汁と、牡蠣の海の滋味、そしてそれを一粒一粒の芯まで吸い込んだジャスミン米の調和。
それは、昨夜までの向井の潔癖な胃壁を優しく、しかし強烈に肯定するような、これまた至高の“正義の味”だった。
ハフハフと熱いおじやを頬張りながら、向井は熱気の中でたまらずネクタイの結び目を緩めた。
向井のエルメスのネクタイには、いつの間にか特製の赤いタレのシミが一つ、新しく増えていた。
しかし、今の向井に、初日のような惨めさはなかった。
個室を出る際、ソムチャイ氏は上機嫌で竹本の肩を強く叩いた。
「ミスター・タケモト、次のプロジェクトの件、君の会社の提案を前向きに進めよう。今夜の食事は非常に愉快だったよ」
スラウォン通りの熱気の中に再び出た時、向井は夜空を見上げた。
排気ガスに煙る三日月は、オフィスのPCの緑色の文字よりも、ずっと明るく輝いているように見えた。
向井は、少し汚れたネクタイを愛おしそうに指先で触りながら、清算を済ませると佐藤と竹本社長の後を追った。
「お前、あの難攻不落のソムチャイさんを落とすなんて、たいしたもんだなぁ」
佐藤が振り向きざまにニヤリと笑って言うと、竹本社長が運転手に手を挙げながら続けた。
「じゃあ、次のゴルフコンペは、向井君のデビュー戦といこうじゃないか、はっはっは」
社長は胸元から日本の煙草「マイルドセブン」を一本取り出し、ライターで火を点けた。
紫煙がスラウォンの夜風に溶けていく。
三人は迎えの車に乗り込み、深いネオンの海の中へと消えていった。
(つづく)
――第四章「MKレストランの夜」は、向井健司が初めて“接待の場”に立ち会い、タイ社会における日本人駐在員の役割と、その裏に潜む文化的な緊張を体感する物語でした。スラウォン通りのネオンの洪水、真鍮の銀鍋から立ち上る湯気、そして老舗コカ・レストランの赤いタレ。そこに現れた繊維業界の重鎮ソムチャイ氏は、ただの取引相手ではなく、タイ社会の歴史と誇りを背負った存在でした。
新人の向井は、佐藤の流暢なタイ語と竹本社長の営業スマイルに圧倒されながらも、映画『クーカム/メナムの残照』の記憶を手繰り寄せ、勇気をもって言葉を紡ぎました。その一言が、難攻不落の大御所の心を揺さぶり、彼を「コボリ」と重ねて見た瞬間、商談の空気は一変します。タイスキの洗礼と黄金のおじやは、向井にとって単なる食事ではなく、異国で生きるための“信頼の味”となりました。




