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『バンコクの屋台は微笑まない』~これぞ人生の唐辛子!  作者: 十夢矢夢君ーとむやむくんー
シリーズ1

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4/12

クラシックプレースホテルのカオパッド

1. 佐藤がいない日


 午後十二時十五分。


 向井健司は、オフィスのビルを出て、左折する車が途切れることのない交差点を渡っていた。


 タイの交差点は、直進信号が赤であっても左折だけは常時可能というルールが多い。


 日本とは異なる不条理な交通システムに、向井は右後ろからひっきりなしに鼻先をかすめていく車の群れに肝を冷やし、神経をすり減らしながら、なんとか大通りを渡り切った。


 この日の昼、教育係の佐藤は顧客との昼食を兼ねた打ち合わせで、朝から外出していた。


 一人で過ごす初めての昼休み。


 向井の胃壁は、到着初日のソムタムと、先日、グリーンハウスで無理やり流し込んだ「出所不明の氷入りコーラ」の余波で、未だに微かな悲鳴を上げていた。


 オフィスの隣を流れる墨色の運河からは、正午の太陽に熱せられた腐臭が立ち上っている。


 向井はあの大鍋から溢れる濃厚な牛脂の匂いと、換気孔のないトタン屋根の下の熱気の中へ、今日はという日は行く気にはなれなかった。


 運河に架かるコンクリートの橋を渡り、交通量の激しいニュー・ペッブリー通りに面した一角に、その建物はあった。


『クラシックプレースホテル』


 一九九二年のバンコク都内のホテルの中でも、それは決して最新の高級ホテルではなかった。


 数年後には、周囲に次々と建つであろう、近代的な高層コンドミニアムの波に飲まれる運命にある、少し色褪せた、しかし確かな格式を残した中規模のホテルである。


 重いガラスドアを押し開けた瞬間、向井は安堵の息を漏らした。

 

 静まり返ったロビーのフロントでは、紺色のジャケットに白いブラウスをまとった小柄な女性が、にこりと微笑んで向井に合掌ワイをした。


 冷房の効いた乾燥した空気がロビーを満たし、向井の汗ばんだチャコールグレーのスーツを優しく包み込んだ。


 地階には日本の暖簾を掲げた小さな日本食料理屋「古都」があった。


 歩けば僅か五分の距離なのに、わざわざ会社の運転手を使い、十五分もかけてやって来た近隣の日本人駐在員たちが、ぞろぞろと暖簾をくぐっていく。


 日本式のおしぼり、日本の冷たい麦茶のサービス、そしてありふれた日替わり定食。


 一瞬、強烈な誘惑が向井の足を止めかけた。

 

“いや、今はタイ料理に馴染んでいくべきだ……”


 まだ日本食が恋しくなる時期でもない。


 それに、向井は佐藤や社長の竹本とも、近くの日本食レストランへランチに行ったことがあったが、どの店も一度も美味しいと思ったことがなかった。


 食材がタイ産だからなのか、それとも、どうでもいい社長や佐藤のゴルフの自慢話か、夜のホステスの話を延々ときかされるせいで不味かったのかは定かではない。


 しかし、彼らのくだらない話が、向井の塩鯖定食を一層不味くしたのは間違いではない。


 向井は「古都」の前を通り過ぎ、ロビーの奥にある、外光が大きな格子窓から差し込む、比較的空いているオープンレストランの席を選んだ。


 

2. 民族衣装の妖精


 がたつくステンレスのテーブルではなく、白い清潔なクロスがかけられた木製のテーブル。


 そこには、工事現場用の巨大な扇風機ではなく、天井で静かに回る重厚なシーリングファンが、フロアの冷気を静かに回していた。


「サワディー・カァ(こんにちは)」


 メニューを手渡してきたウェイトレスの声に、向井は顔を上げた。


 胸元に「KAEW」という名札をつけた彼女は、すらりとした細身の体躯に、タイ南部の血筋を思わせる、少し浅黒くも美しく鼻筋の通った美人だった。


 切れ上がった大きな瞳と、意思の強そうな艶やかな唇。


 向井よりは三つほど歳上だろうか、光沢のある絹で織られた、タイの伝統的な民族衣装のシワーライが、彼女の身体の滑らかな曲線を際立たせる、艶やかでセクシーな気品を放っている。


 一人だけこの衣装を身に着けた彼女は、このレストランのチーフウェイトレスだろう。


 他のスタッフはみな、白シャツに黒ズボンだ。


 オフィスのパワナーが都会的で冷徹な“地雷”だとすれば、目の前の彼女は、熱帯の木陰に咲く野生の“蘭”のような、陽気で瑞々しい美しさがあった。


 英語のメニューを開いたものの、向井の胃はまだ重い。


 クィッティオの強烈なスパイスも、ソムタムの暴力的な辛さも、今の肉体は拒絶していた。


 “Frid rice with shrimp- Khao Pad Kung (エビ炒飯)”


「よし、これだ!」


 向井にとって炒飯といえば、庶民的な中華チェーン食堂の定食のイメージが強かった。


 そして、副菜として餃子や八宝菜がないかとメニューを探してみたが、流石にそんなものはない。


 それどころか、他のページをめくっても、ソムタムを除けば向井の知っているタイ料理の名前は一つも見つけられなかった。


 向井がメニューの英語表記を指で差し、英語と怪しいタイ語で告げると、ケウは目を丸くし、それから満面の笑みを浮かべた。


「カオパッド・クン、アロイ・マーク・カァ(とても美味しいですよ)!」


 彼女のタイ語はまるでバイオリンの音色が跳ねるように聞こえる。

 

 それが心地よい異国情緒を感じさせるのだ。


 向井はメニューを畳んでケウに返しながら、胸元の名札を見て、習いたてのタイ語を試した。


「K.A.E.W……ケウさん。僕はケンジ、K.E.N.J.Iです、この近くの日本の会社に勤めています」


 まるで会社のスタッフへの自己紹介の続きのようになってしまい、向井は自分がウェイトレスを相手に真面目に名乗っていることに、少し照れ臭くなった。


 ケウは向井のタイ語が理解できたのか、それとも雰囲気で察したのか、「カァ、カァ……」と人懐っこく、しかし適当な相槌を打っていた。


 そして彼女は、最後に“コップン・カァ、コボリ……”と不思議な単語を言い残して、パントリーへ戻って行った。


“コボリ……? それってタイ語なのか” 



3. ライムの雫


 運ばれてきたカオパッドは、温かみのある純白の皿にやんわりと盛り付けされ、飾り切りされたキュウリと、半分に切られた小さなマナオ(タイのライム)が添えられていた。


 小さな器には、刻んだネギのように鮮やかな緑と赤のプリック(唐辛子)が沈んだナンプラーが添えられている。


 盛り付けはさすがにホテルのシェフの技であり、如何にも高級料理のようだ。


 向井はスプーンで焼き飯を一口運んだ。


(……優しい味だ)


 さらりと炒められたジャスミン米の香ばしさと、小エビの風味、そしてほんのり卵と絡んだナンプラーの塩気。


 それは、向井がタイに来て初めて出会った、暴力的ではない、調和のとれた“正義の味”だった。


 ケウが横で、いたずらっぽく手真似をしてみせる。


「これ、マナオ。搾って。もっとアロイ」


 さらに、あの唐辛子入りのナンプラーも少しかけろと促してくる。


 言われるままに、マナオを焼き飯の上に絞り落とし、プリックごとナンプラーを二、三滴垂らす。


 薄茶色の雫が米粒に染み込んでいく。


 再び口に運ぶと、爽やかな酸味とピリッとした辛みがナンプラーのコクを劇的に引き立て、胃の奥へと心地よく吸い込まれていった。


「アロイ(美味しい)……アロイ・マーク!(とても美味しい)」


 向井の口から、覚えたてのタイ語が連発する。


 右の親指を立てると、ケウは我が事のように嬉しそうに手を叩いた。


「そう、アロイ! あなた、タイ語、上手ですね!」


 そこからの時間は向井にとって、この国に来て最も密度の高い“タイ語の特別授業”となった。


 ケウは暇を見つけては、向井のテーブルへと歩み寄ってきた。


 彼女の英語は不器用だったが、伝えようと一生懸命な姿が愛らしかった。


「これは、プリック(唐辛子)。これは、グン(エビ)。あなたは名前は……ケンジですね?」


 向井は一つ一つの単語を現物と指差し確認をしていく。


「ケンジ……コボリ!」


「ノー、ノー! ケンジ・ムカイですよ」


 それにしても、さっきから彼女が自分のことを「コボリ」と間違えるのか、当時のタイで日本の軍人とタイの女性の悲恋を描いた大ヒットドラマ(*)があり、日本人はみんな「コボリ」と呼ばれていたという背景を、向井が知る由はまだなかった。


 向井はふやけたノートを取り出し、新しいページを開いた。


 オフィスでは使い物にならなかったそのノートに、ケウが教えてくれる言葉を、カタカナと不器用なタイ文字のスペルで書き写していく。


「これは、ナムターン(砂糖)。これは、クルア(塩)……」


 向井が昨日からの腹痛の手真似をすると、ケウは「オー、プアッ・トーン(お腹痛いの)!」と言って、本当に心配そうな顔で向井の顔を覗き込んできた。


 その距離の近さに、向井の心臓が小さく跳ねた。


 彼女は近くのカウンターから、温かいおナム・チャーを持ってきてくれた。


「これ、飲む。お腹、良くなる」



4. 白いナプキンの上の約束


 一時間が瞬く間に過ぎ、時計の針は午後一時を指そうとしていた。


 オフィスに戻らなければならない。

 

 向井がチェックを求めると、ケウは手元にあった白い紙ナプキンに、ボールペンで流れるようなタイ文字を書き込んだ。


「これ、私の名前。『ケウ』。タイ語で『ガラス』の意味」


 彼女は、ナプキンの端に、不器用なアルファベットで『KAEW』と書き添え、向井の手元に滑らせた。


「ケンジ、またカオパッド、食べに来る?」


「……また来るよ。佐藤さんがいない時は、必ず」


 向井は、その白いナプキンを丁寧に折り畳み、エルメスのネクタイが擦れるチャコールグレーのスーツの胸ポケットへと仕舞い込んだ。


 ホテルを出ると、再びバンコクの暴力的な熱気が向井の全身を襲った。


 しかし、運河の悪臭も、排気ガスの煙も、不思議とさっきほど不快には感じられなかった。


 オフィスへの帰り道、向井の頭の中では、ケウの「アロイ・マイ・カァ?」という彼女のバイオリンの響きが、心地よいリズムを伴って何度もリフレインしていた。


 午後一時五分。


 自動ドアを通り抜け、再び冷房の効いたオフィスへ戻る。

 

 デスクの先では、相変わらずパワナーが長い黒髪を指先で弄びながら、冷徹な手付きで計算機を叩いていた。

 

 エルメスのネクタイに付いた、あの牛タン麺の脂のシミを指先でそっと隠しながら、向井は自分のデスクのPCに向かった。


 緑色の点滅する文字が、心なしか、さっきよりも鮮明に見えるような気がした。


「ケンジ・コボリか……誰なんだ?」


(つづく)


(*) タイ映画『クーカム』:邦題『メナムの残照』。第二次世界大戦下のバンコクを舞台に、日本軍将校とタイ人女性の悲恋を描いた同一作品である。当時の国民的人気男優が演じたため、映画やドラマ化を通じてタイでは全国的な大ヒットとなった。

――第三章「クラシックプレースホテルのカオパッド」は、向井健司が初めて“穏やかなタイ料理”に出会った瞬間を描いています。暴力的な辛さや混沌とした屋台の熱気から逃れ、ホテルのレストランで出会ったのは、優しく調和の取れた炒飯。そして、民族衣装に身を包んだウェイトレス・ケウとのやり取りは、彼にとって異国語の特別授業であり、心を揺さぶる出会いでもありました。白いナプキンに書かれた彼女の名前は、向井にとってタイ生活の小さな宝物となり、胸ポケットにしまい込まれたその紙片は、異国での孤独を和らげる灯のように輝きます。


この章は、タイでの暮らしが単なる試練ではなく、時に優しさや美しさを伴って心に沁み込むことを示しています。次のエピソードでは、接待の場「MKレストラン」が舞台となり、タイ社会における日本人駐在員の姿と、表と裏の人間模様が描かれていきます。どうぞ、この続きも楽しみに読み進めてください。

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