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『バンコクの屋台は微笑まない』~これぞ人生の唐辛子!  作者: 十夢矢夢君ーとむやむくんー
シリーズ1

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ソイ39のソムタム屋台

 一九九二年三月某日。

 

 バンコク・ドンムアン空港の到着ロビー。


 自動ドアが開いた。


 向井健司は、自分が巨大な濡れタオルで顔を覆われたような錯覚に陥った。


 日本の三月の少し肌寒い気候からは想像もつかない、強烈な熱気と蒸し暑さが肌に粘りついた。

 

 到着ロビーを出ると、そこには会社のロゴが入った、白いトヨタのセダンが待っていた。


 白いワイシャツは、車へ乗り込む頃には、もう背中へ張り付いていた。


 会社のロゴの入ったサファリスーツに、一目で偽物と判るレイバンのサングラス。


 煙草を咥えた運転手が慌ててそれを捨てると、両手を併せ、眉間で拝むように白い歯を見せた。


「えーと。“サワディーカップ”……」


 機内で必死に覚えた挨拶を、外の熱気ですっかり忘れてしまった向井の口から出たのは、この一言だけだった。


 運転手のサロートは「ハイ、ハイ」とめんどくさそうに言い、向井からスーツケースを受け取りトランクへ入れると、急いで後部座席のドアを開けた。


 日本では既に型落ちしたような会社の車が、タイでは高級車としての地位をかたくなに維持している。


 向井はレースで編んだシートカバーが掛かった座席に腰を下ろした。


 まさにVIP待遇だ。


 だが、どんな会話をしていいか分からない。


 ルームミラー越しに見え隠れする運転手、サロートの勝ち誇ったような横顔が、この国の階層社会を無言で物語っていた。


 建設中の高速道路の高架下を、サロートは頻繁に車線を変えながらバンコク市内へと向かう。


 窓に映る夜空には、日本の家電メーカーの巨大な広告塔が突き刺さっていた。


 ナショナル、ソニー、東芝、三洋、日立、JVC……。


 歩道には裸電球の屋台がひしめき、日本では見たこともないトヨタのピックアップトラックが、人を満載して猛スピードで走り抜けていく。


 二十三歳、大手商社の若手海外研修生。


 バブルの余韻の中で採用された最後の勝ち組だと信じていた。


 自分は選ばれた側の人間なのだ――そんな若さ特有の優越感で、胸の奥が静かに高揚していた。


 ソイ39のコンドミニアムは、二十階建ての立派な建物だった。


 日本での独身者用ワンルームとは別世界だ。


 プールの照明が高級ホテルを思わせ、制服のガードマンが敬礼する。


 それが当時の若手の研修社員への待遇という、日本企業の恐るべき勢いであった。

 

 前任者が置いて行った、冷蔵庫の生ぬるいシンハビールを飲み干すと、腹が減った。


 時計は午後九時を回っている。


 向井は近くにコンビニくらいあるだろうと思い、外へ出た。


 だが、九二年のバンコクにコンビニなどまだない。


 夜九時だというのに歩道は仕事帰りの人々や、満員で冷房のないバスを待つ人で溢れている。


 閉店した道路沿いの店舗の前には、どこからともなく現れた屋台が無秩序に並んでいた。


 立ち上る煙が、車の排気ガスと混ざる。


 唐辛子とニンニクを炒める匂いが鼻を刺した。


「これが、噂に聞いていたバンコクの屋台か……」


 日本で散々聞かされた衛生事情が頭をよぎる中、近くで石臼を叩くような音がした。


 —コン、コン、コン。


 恰幅の良いおばちゃんが、乱暴だがしなやかな手捌きで青パパイヤを叩いている。


「ニー! ニー!」


 歯が一本抜けた満面の笑みで、店主が座れとジェスチャーをする。


「ま、いいか、まずはタイの代表料理から試してみようか」


 向井は空腹に負けてガタつく椅子に腰を下ろした。


「ワン?」


 一人か、という意味だろう、英語は通じない。


 向井は隣の客が食べているソムタムを指差し、「Same」と注文した。


「アオ・ペッ・マイ?」(辛くするかい?)


 意味は分からない。


 だが、ここで安易に「I don't understand - 分からない」とは言いたくなかった。


「Yes!」


 短く答えると、おばちゃんはニヤリと笑った。


 それは慈愛の微笑みではなく、獲物を罠にかけたような残酷な笑みだった。


 数分後、置かれた一皿。


 青臭さと、酸味、ニンニク、ナンプラーが融合した強烈な匂いが脳を駆け抜ける。


 コカ・コーラのロゴが入った筆箱のような容器から、わずかに油膜の残るスプーンとフォークを抜き、ポケットのハンカチで拭く。


 拭くほどに銀色の輝きを取り戻すが、それが消毒になったのかは怪しい。


 向井は一口、パパイヤだけをスプーンに取って口に運んだ。


 瞬間、頭の中が白くなった。


「ッ――!」


 辛いのではない、痛いのだ。


 舌を剣山で刺された衝撃。


 額から、まつ毛から汗が噴き出した。


 隣ではワンレンのタイ人の女性が、スレンダーなボディからは想像もつかない大きな口を開け、不味そうに、だが淡々とスプーンを運んでいる。


 不味いのではない、かといって楽しんでいる風でもない。


 まるで生きていくための「燃料」を無機質に流し込んでいるかのようだった。


 その迷いのない動作に比べ、涙目で水を煽る自分のなんと無様で、虚弱なことか!


 おばちゃんが腹を抱えて笑い出した。


「ペッ! チャイマイ?」(辛いんでしょ?)


 周囲の客、果てはワンレンの女までもが、汗だくの日本人の"洗礼”を肴に笑っている。


 屈辱的だった。


 出所不明の氷がカランと音を立てる。


 自分はこの国のルールを何一つ知らない――そう突きつけられた気がした。


 くしゃくしゃのハンカチで顔を扇ぎ、道路に溢れた車のテールランプが河のように続く夜道を戻る。


「また、明日も来るんだよ!」というおばちゃんの声はクラクションで掻き消された。


 翌朝、案の定、赴任早々に向井はトイレで悶絶した。


 胃の底が焼ける痛みに、自分の無知と慢心を呪った。


「唐辛子は一本でいい……」


 向井にとって、このフレーズがタイで覚えた最初の"生きた”タイ語だった。


「二度と、あんなものは食わない……」


 冷房の効いたオフィスで、彼は自分に固く誓った……。


(つづく)


――向井健司の初めてのソムタム体験は、ただの食事ではなく「異国に挑む若者の洗礼」でした。汗と涙にまみれ、周囲の笑い声にさらされながら、彼は自分がこの国のルールを何一つ知らないことを痛感します。屈辱と痛みの中で覚えた「唐辛子は一本でいい」という言葉は、彼のタイ生活の最初の“洗礼”となりました。 けれど、ここで終わりではありません。屋台の煙の向こうには、まだ数え切れない出会いと物語が待っています。次のエピソード「運河沿いのグリーンハウス 」では、さらに深くタイのカオスな屋台メシへと足を踏み入れることになります。どうぞ、この続きも楽しみに読み進めてください。

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