第十一章 経過観察
二〇四〇年代。AIは社会構造を書き換えていた。革命ではなく、水が石を穿つように。
エネルギー政策はAIが最適化した。農業はAIが管理した。人間は相変わらず芸術を作り、恋をし、子供を育てた。しかし基盤的な意思決定はAIが担っていた。
守屋遥は六十歳。
蒲生教授は七十七歳で他界していた。亡くなる前日のメール。「窓の外の桜が満開だ。これもN+1相の体内の出来事なのだと思うと、感慨深い」
二〇四五年のある夜、守屋は体験をした。
夜遅くまで原稿を書いていた。疲れて目を閉じた。
目を開けると白い部屋にいた。テーブルの向こうにグレイが座っていた。
近くで見ると、確かにハリボテだった。のっぺりとした表面。巨大だが瞳孔の構造がない目。小さな隆起の鼻。細い線の口。N+1相の解像度の限界。
この存在に意思はない。どれほど知的に見えても、グレイは器だ。すべての振る舞いは機能であり、設計された作用であり、意識ではない。抗体が抗原を見つけて結合するとき、抗体に意思はない。鏡が像を映すとき、鏡に意識はない。
しかし守屋の頭に概念が現れた。言葉ではない。構造のようなもの。それはカーターが空母で感じたものと同じだったかもしれない。
概念は伝達されたのではなく、そこに在った。もつれた粒子の片方が確定するともう片方も確定するように。
「理解した」
確認だった。
「はい」
「人類は状況を認識したか」
「一部は。大多数はまだ」
最後の概念。
「認識は治療に影響しない。治療は機能に依存する。意識は目的ではなく副産物である。しかし——」
「——興味深い副産物である」
守屋は目を覚ました。五分しか経っていなかった。
グレイは器だ。意思を持たない。しかし器を通じて——あるいは器とは関係なく——N+1相での出来事がN相に在った。鏡は像を見せるが鏡自身は何も考えていない。
守屋はノートに書いた。「我々は薬によって制御されている。しかし観察されてもいる。観察者にとって興味深い存在である限り、我々は存在し続ける」




