31. 愛玩動物
カイラス様が城を立って、1週間が過ぎた。
今日もゆったりとした時間が温室に流れる……。
雲間から暖かな陽射しがドームに差し込み、テーブルに木々の陰を落とす。
彼がいた時とは違い、滝音が広場には響く。
変わらず続く穏やかなその水音が、まるで励ましてくれているようで……今は心地良く感じる。
彼のいない寂しさを紛らわせるように、ただひとり、その音に耳を傾け続ける……。
カイラス様は、引き続き昼食はここでとるように勧めてくれたが、なんとなく憚られて、ハンナと共に部屋で頂いている。
その代わり、午後の決まった時間にここに来て、ひとりのティータイムを愉しむようになった。
ハンナも誘ったが、瞬間顔色を変えて、頑なに拒まれた。
理由は聞かなかったが……結果、彼女にひとりで過ごす時間を作ってあげられたし、これで良かったのかもしれない。
カートが運ばれてきた。
このティータイムの初日に頼んだ通り、以前の様な大盛りの三段トレーではなく……ケーキを一品と少しの果物を盛り付けた皿が乗せられている。
あの約束を交わした日……広場に戻り、デザートはもう食べないのかと、尋ねられて……気が付いた。
毎食後供される、美しく盛りつけられた多種多様な菓子……この全ては……私ひとりのために用意された物だという事に。
カイラス様がそれらを口にした事は一度も無く、いつも私が夢中になって菓子を選び堪能する間、彼は紅茶を飲みながら、静かに待っていてくれた。
それが私に対する好意の表れであったなら、初めての食事の時既に、その気持ちは芽生えていたのだろうか?
……いくら考えても、答えは出なかった。
ティーセットのサーブを終えた召使に、礼を伝えるが……目を合わせることも、返事することもなく……無言で去っていった。
いつもの事だ。
この城で、私に話しかけ、返事してくれる人はたった3人だけだ。
だが、皇城にいた時は誰1人として……いや……皇城でたった1人だけ、私に対して普通の人のように接してくれた人がいた。
別れも礼も言えぬまま……去ることになってしまい……元気にされているだろうか?
熱い紅茶をくゆらしながら、感傷に浸っていると……突然、滝音をかき消すほどの、高く明るい声が庭園に響いた。
「あーら、こんなところに! 精人族の姫様がいらっしゃったのね!?」
目を向けると、そこには複数人の女性が立っていた。
声の主はすぐに分かった。
先頭に立ち、真紅のドレスに身を包み、扇子で口元を覆いながら、三日月目でこちらを見つめる彼女……。
「あっ……」
謁見の際に、侍従に詰め寄っていたあの人だ。
意味ありげにこちらを見つめながら、いつも彼が座っていた向かいの椅子に迷いなく腰掛ける。
突然真横から、腕を強くこ突かれた。
振り向くと、眉間に皺を寄せた、いつものあの不機嫌な召使がこちらを見下ろしていた。
「ご挨拶なさいませ。こちらのご令嬢はとても高貴な方よ」
この場が偶然ではなく、仕向けられたものだと気づく。
「……ご機嫌よう」
一声掛けて、ゆっくりと紅茶を啜る。
ピシリと鋭い音を立て、扇子がたたまれると、その下から貼り付けたような笑みがあらわれた。
先程より低く、どこか威圧的に感じる声音で、問いかけられた。
「精人の姫様は、こちらでいかがお過ごしですか?」
「……ルミリーナです。ルミと呼んでくださっても構いません。
皆様とても親切にして下さいますので、すっかりこの国の虜です……」
「あらっ、先代の国王陛下の側室は皆様、離宮にご移動されるか、領地にお戻りになるのでしょう? あなたは如何なさるのかしら?」
「私はカイラス様から、こちらで待つように申し付けられました」
途端、鼻で笑われ……その顔には明らかに侮蔑的な笑みが浮かぶ。
「そう……。話に聞いた通りね。
まるで愛玩動物ねあなた……。
主人の帰りを従順に待ち続けて……。
尻尾を振って、涎を垂らして、出迎えるのかしら?」
彼女の後ろに立つ侍女達が、不愉快な笑い声をたてる。
「まぁ、これも一時のお戯れでしょう。
私は、陛下のお側で、幼い頃から共に過ごして参りましたの。
陛下のことはよく存じ上げておりますから」
その高圧的な口調と、嘲るような笑みは、彼女の華麗な美しさをひどく損ない、残念にさえ感じさせた……。
「……そうですか」
また一口紅茶を啜る。
私は、この目を、よく知っている。
蔑み、相手が傷つくことに期待する目。
これ以上、この不愉快な茶番劇に付き合うつもりはない。
「では、私からカイラス様にお伝えいたします。
カイラス様が私のことを愛玩動物として慈しんでくださっていると……。
皆様がそのように思い、私達のことを温かく見守っていると、全てお伝えいたします」
嘘だ。わざわざ告げ口の様なことをするつもりはない。
前世でも今世でも、悪意を持って接してくる人たちは沢山いた。
そんな人たちは、相手が我慢するほど増長するからタチが悪い。
だが、そんな人に限って……権威と名声には弱い。
投げつけられた悪意は、その悪意を跳ね返すことができる人の名前と権力を上手く利用すればいい。
幸いにも、この人たちの言うように『ペットとして』でも、私を尊重してくれる人が、特別な約束を交わしてくれた。
だが、もし彼女の言う事が本当であれば、このハッタリは何の効力も成さないが……。
「謁見申請などしなくとも……
私はここで、カイラス様と毎日会えますもの。ね?シェリア様」
にっこり笑いかけると、パキッと扇子の骨の折れる音がした。
露骨に怒りを表した彼女を、正面から見据える。
この人は、私が言い返すとは思わなかったのだろうか?
人に投げつけた悪意が、そのまま自分に跳ね返ってくることもあると、経験でもって知るべきだ。
ガタリと大きな音を立て、彼女が立ち上がった。
「どうやら……躾が足りないようね」
(しまった!)
密室でこの状況は……。
血の気が引き、嫌な予感に身体を固くし身構えた。
だが、そのまま踵をかえすと、足早に去って行った。
最後尾で、彼女を追いかけるあの召使は、去り際に、憎々しげな目で私を睨んだ。
「はぁ……」
ため息と共に、椅子にもたれかかり、空を仰ぎ見る。
いつの間にか陽は翳り、ドームに映る空は厚い雲に覆われていた。
悪意はへし折れたけど…結果的に敵意は増長してしまった。
我慢し、受け流すべきだったが、そうしたくはなかった。
彼の名前を利用した事に、罪悪感が沸く。
彼の気持ちは、彼にしか分からない……。
あの時私に向けられたひたむきな表情と、誠実な言葉は、私の心を鷲掴みにした。
今でも、思い出すたび、心臓が高鳴り心が満たされる。
前世でも今世でも、抱いた事のない感情に戸惑い、焦れる。
だが、その感情は……時間とともに薄れ、跡形もなく消え去ってしまう事があると、知っている。
私に向けられた彼の感情が、移り気で不確かな『愛』などと言うものではなく……
いっそ、愛玩動物に向けられるような、『愛着』であれば良いのに。
その方が、きっと長続きするから……。
今まで穏やかに心を満たしていたものは……その熱を失い、静かに崩れ消えていった。




