火星作戦②
【1942年6月12日 ソビエト社会主義共和国連邦 クイビシェフ 最高総司令部】
ウラルと欧州の中間に位置する要衝クイビシェフ。
その繁栄ぶりは「ロシアのシカゴ」と称えられ、連邦随一の兵器生産地としてソビエトの軍需産業を支えてきた。
モスクワ陥落後、同市に政府機能が移されたのも、大兵站基地としての機能を期待されてのことだ。
すでに市内では作戦開始にむけた膨大な物資の詰め込みが始まっている。
最高総司令官代理ジューコフ上級大将が最高総司令部の一室に入ると、火星作戦に参加する全ての高級将校が集まっていた。
参謀総長ワシレフスキー上級大将。
参謀本部作戦部長アントーノフ大将。
西部戦線軍司令官コーネフ大将。
カリ―ニン戦線軍司令官プルカーエフ大将。
赤色空軍総司令官ノヴィコフ大将。
ジューコフは席につくと早速、本題を切り出した。
「火星作戦の決行を7月12日と決定した」
将軍達は互いに顔を見合わせながら頷く。
すでに、何か月も前から攻撃参加部隊は入念に訓練を積んできている。モスクワ周辺の詳細な地形を全て頭に叩き込み、トーチカや対戦車陣地の攻撃訓練を受けてきた。
一つの作戦にこれほど多くの時間を費やしたのは前例がない。
「アントーノフ大将。作戦の説明をお願いしたい」
「はっ!」
アントーノフは独ソ両軍の配置が詳細に記された地図を広げると説明を始めた。
「火星作戦の目標は首都モスクワの奪還及び敵中央軍の撃滅にあります。二個戦線軍による迅速かつ強力な攻撃により、モスクワ地区のドイツ軍兵力を包囲、集中攻撃をもってこれを壊滅させます」
「プルカーエフ大将が指揮するカリ―ニン戦線軍攻撃部隊はモスクワ北方のカリ―ニン=クリンの一線を突破し、ルジェフを越えて、可及的速やかにヴャジマの一線に到達します。南からはコーネフ大将が指揮する西部戦線軍攻撃部隊が重点を形成。ヴャジマ地区でカリ―ニン戦線軍と合流し、包囲網の完成を狙います」
火星作戦は典型的な両翼包囲作戦だ。モスクワの南北に最大戦力を叩きつけて突破口を形成、ドイツ軍の背後に回り込み包囲する。攻撃兵力を限界まで集中させ、全ての支援攻撃手段をもって局地的優勢を作りだす。
迅速な突破を実現するため、兵員189万人、戦車3375両、火砲2万4682門、航空機3182機の大兵力がモスクワの一点に集中される。
「攻撃開始は1942年7月12日午前4時となります。それまでに各軍司令部は作戦計画に沿って準備を進めておいて下さい」
作戦の説明が終わると最高総司令部の議題は各戦線軍司令部の調整へと移った。
「同志閣下。戦線軍司令部の出撃拠点からはドイツ軍陣地の詳細がわかりません。敵の陣地秘匿は巧妙で囮陣地と本物の区別がつかないのです。作戦開始までに敵火点の位置を示す正確な情報が欲しいのですが…」
西部戦線軍司令官コーネフが発言すると、ジューコフは空軍総司令官ノヴィコフに発言を促した。
「空軍としても航空偵察に全力を挙げている。だが、敵の防空網は想定以上に厳しい。すでに何機もの偵察機がやられた。作戦までに敵陣地の詳細を判別するのは無理だ」
「それは困りますな。敵砲兵を味方砲兵で計画的に制圧しなければ、攻撃部隊は敵の十字砲火にさらされますぞ。敵陣地の位置もわからないのではどうやって制圧すればいいのです?」
「同志コーネフ。すでに作戦は決まったのだ。例え敵陣地の詳細がわからなくとも我々はやりとげねばならん。違うかね?」
ワシレフスキーがコーネフを窘めるように発言する。
モスクワ陥落によりスターリンの軍に対する信頼は大幅に低下した。なんとかスターリンを説得し、1941年度中の攻勢を撤回させたが、これ以上の延期は難しい。
例え情報が不足していても火星作戦は決行されなければならない。
「それにだ。〈ヴェルテル〉や〈ルシー〉の報告は君も見ただろう?敵の火砲はせいぜい1万程度。戦闘が始まってから火点を特定しても砲兵戦で遅れをとることはあるまい。君には作戦参加兵力の60%以上を与えているのだ。情報面の問題を差し引いても十分な兵力だと私は考えるがね」
「・・・わかりました。ならば予備の航空軍と突破砲兵師団を我が戦線軍の直援にあてていただきたい。対砲兵戦が期待できないのであれば、数で補うしかありませんからな」
ワシレフスキーはかたをすくめて答える。
「それは同志スターリンの許可が必要だ。私から上申しておくが確約はできんぞ」
「お願いします」
コーネフ麾下の西部戦線軍は第31軍、第20軍、第5軍、第29軍、第30軍、第39軍、第33軍、第3戦車軍の8個軍で構成される。どの軍も新編成の統合兵科軍であり強力な機甲部隊と支援砲撃部隊を併せ持つ。
さらに最高総司令部予備の2個突破砲兵軍団、4個突破砲兵師団が加わり、第17航空軍と第18航空軍が援護につく。
前年のモスクワ防衛軍をはるかに凌ぐ規模の大攻撃部隊である。
これだけの大軍団を持ちながら、さらに増援を求めるコーネフの厚かましさにワシレフスキーは弱冠呆れていた。
コーネフより少ない兵力を指揮するプルカーエフも同様の表情を浮かべている。
「同志コーネフの懸念はもっともだ。しかし、我々は勝たねばならん。今年中にファシストから主導権を奪い返さねばならんのだ。勝利に必要な戦力はそろえた。あとは諸君の働き次第だ。各指揮官は本作戦の重要性を肝に命じよ!火星作戦を成功させ全世界に反攻の狼煙をあげるのだ!」
「「はっ!」」
ジューコフの発言で敵陣地に関する話は打ち切られ、議題は参加兵力の確認へと移っていく。
参加兵力の強大さに多くの将軍達は安心していたが、コーネフだけは最後まで表情を緩めようとしなかった。




