赤い帝国
【1941年6月04日 ソビエト社会主義共和国連邦 ロシア社会主義共和国 モスクワ クレムリン 最高総司令部】
ソビエト連邦は戦争にむけた総動員体制に移行しつつある。14の軍管区で軍の動員が始まり、国家権力の全機能が軍事機関に移された。戦争指導の最高機関であるGKO(国家防衛委員会)とスタフカ(最高総司令部)が設立され、スターリンが戦争指導の頂点に立った。
軍組織も最高総司令部のもとで再編がすすみ、全戦線・全部隊の指揮系統が一元化された。
全ての作戦は唯一の執行機関である参謀本部が立案し、最高総司令部が作戦指導の全般を担う。
遅まきながらその膨大な国力を有効な戦闘力に変換する組織が整備され、戦争にむけ本格的な稼働を開始したのだ。
とはいえ稼働するまでの間、ドイツ軍が待ってくれるわけではない。
戦況が依然として絶望的なことに変わりはなく、最高総司令部には重苦しい空気が漂っていた。
「西部国境全域に渡って我が軍は戦術的な奇襲を受けました。各部隊はバラバラに分断され、孤立した大量の兵士が国境付近に取り残されています。国境に設置された400以上の物資集積所は敵の手に落ち、物資の90%はすでに失われました。また空軍も壊滅的な被害を受け、すでに3000機が撃破されています。制空権は敵が完全に掌握し、我が方の地上部隊は航空支援もないまま戦っているのが現状です」
参謀総長ジューコフ上級大将の報告に最高総司令部は静まりかえっている。平静を保つには前線の惨状は酷すぎた。衝撃に打ちのめされた党高官達を無視するようにジューコフは淡々と報告を続ける。
「ウクライナ地区、バルト地区では敵特殊部隊の扇動により住民の反ソ蜂起が始まっています。すでにゲリラ化した民族主義者は侵略者の先兵として我が軍の補給線や通信線を脅かしています。彼らの破壊工作により現地軍司令部は情報的に孤立させられ、有機的な反撃を実施できないでいます」
「白ロシア地区では我が党の統治は維持されていますが、軍事的には最も深刻な危機を迎えています。西部戦線軍62万人は敵に包囲され完全に孤立しました。ベレジナ河も敵に抑えられ、もはや救出の見込みはありません。同軍の壊滅によりモスクワの守りはドニエプル河と西ドヴィナ河に展開する予備戦線軍50万人にたくされました。予備戦線軍が抜かれればモスクワまでの道のりで侵略者の障壁となる戦力は0になります」
バルト地区とウクライナ地区では住民の反ソ蜂起でまともな反撃が機能せず、共産党の支配は失われた。白ロシア地区では第一梯団が粉砕され、モスクワを守る障壁はもはや第二梯団である予備戦線軍しか存在しない。物資も人員も制空権も無く依然として前線は奇襲による混乱から立ち直っていない。間違いなくソビエト連邦建国以来最大最悪の危機だろう。
ジューコフの報告が終わるとスターリンが矢継ぎ早に質問を始めた。
「ジューコフ上級大将。6月中にどれだけの軍を編制できますか?」
「12個軍です。すでに2個軍は予備戦線軍に送っているので残り10個軍をこれから編制することになります」
「あなたは残り10個軍をどの方面に送るべきと考えていますか?」
「やはりモスクワでしょう。敵は戦車と航空機の最強部隊をモスクワ方面に投入してきています」
「では今後の防衛計画を参謀総長としてどのように考えていますか?この場で説明してください」
「敵装甲部隊の快進撃は航空機の支援と後続する歩兵部隊の支援により支えられています。しかし、進撃があまりに速い影響で航空支援と後続の歩兵による支援が追いついていないようです。よって我々が狙うべきなのは敵装甲師団を支援圏外におびき出すことです」
「ドイツ軍を国土の深奥部に誘い込むと?」
「はい。敵の重点は明らかにモスクワにあります。ですのでモスクワを囮にすることで敵の快進撃を誘い、装甲師団を支援戦力から引き離します。進撃の連続で消耗し支援からも外れた敵を全予備兵力を動員して叩くのです」
深奥部に進撃すればするほどドイツ軍の補給線は伸び切り、支援に参加できる航空機の数は減る。その分機甲師団の突破力も機動力も低下していく。
対する赤軍はモスクワという大兵站基地の近くで戦うことができ、潤沢な補給と航空支援が約束される。
矛盾しているようだが敵が首都に近づけば近づくほど赤軍は強化されドイツ軍は弱っていく。
「見抜かれませんか?なにせ相手は百戦錬磨のドイツ軍です」
スターリンの危惧をジューコフは一蹴する。
「見抜かれても問題はありません。航空部隊や歩兵部隊との連携を重視した場合、その分敵装甲部隊の進撃スピードは低下し、我が国に態勢を立て直す時間が与えられます」
「ドイツ軍が慎重策をとっても問題はないと?」
「一見追い込まれているのは我が国ですが、長期的に見た場合、危険な二択を迫られているのはファシストの方です。敵にはもはや危険覚悟で装甲部隊をモスクワに突っ込ませるか、安全策をとり我が国に再起の時間を与えるかの二択しか残されていません」
進撃スピードを重視すれば装甲部隊は支援から引き離される。かといって連携を強化した場合、歩兵部隊が追いつくのと空軍が新たな航空基地を確保するのを待たなければならない。装甲部隊としての特性、足の速さは完全に殺されることになる。
最高総司令部に参加していた党高官達に安堵の表情が漂う。追い詰められたのは自分たちではなく敵の方なのだと。
そこへジューコフは冷水を浴びせるように続きを口にした。
「ですが、10個軍を編制してモスクワ周辺に展開する時間を予備戦線軍が稼げなければどうにもなりません。勝負の行方は予備戦線軍がどの程度持ちこたえられるかで決まります」
現状、モスクワを守る盾はモスクワ街道の関門スモレンスクに配置された予備戦線軍しか存在しない。
ソビエトの官僚機構が新たに十個軍を編制して配置を終えるのに最低でも一か月はかかる。その時間を予備戦線軍が稼げなければジューコフの戦略は破綻してしまう。
中央軍集団150万に対して予備戦線軍は50万人程。新たに送られた二個軍を加えても100万を超えない。
戦車の数ではドイツ軍3500両に対して4700両と各段に勝るが、航空機の数は戦闘機、攻撃機合わせても70機にも満たず、2000機の航空機を運用してくるドイツ空軍にはとてもじゃないが太刀打ちできない。
制空権を失った状態で数に勝る敵を相手に一か月持ちこたえなければならないのだ。
「新規編制した予備軍を編制が終了次第スモレンスクに送ってはどうですか?」
「それだとモスクワ決戦時の兵力が少なくなります。弱った敵に最強戦力をぶつけるのが戦略の趣旨です」
スモレンスク到達時のドイツ軍は補給も航空支援も万全だろう。
そのドイツ軍に多くの戦力をぶつけても成果はあげられない。むしろ損失が増えることになる。
時間は稼がなければならないが、多くの戦力は避けないというジレンマをうまく調整する必要がある。
「わかりました。今後の防衛計画はジューコフ上級大将に任せます。参謀本部で調整後に計画案を再提出してください」
「はっ!」
ジューコフとの会話を終えるとスターリンは国家経済計画委員会議のウォズネセンスキー議長に質問を始めた。
独裁者である彼は軍事以外にも解決すべき多くの問題を抱えていた。
その一つが戦時経済への円滑な移行である。
戦争勃発後、平時の生産品を作っていた工場は一斉に兵器工場へと変貌した。
機械生産や工作機械生産を実施していた工場は戦車や航空機の生産を、ラジオや電気製品を作っていた工場はジェネレータ―や電波方向探知機の生産を開始していた。
そしてこれらの工場群は1500以上の企業と共に東へ移転する。
ウクライナ、白ロシア、バルト三国、ロシアと各共和国の産業を支える機械設備と生産拠点を鉄道で東方に移植する。最終的に生産能力の70%に匹敵する2956個の工場単位がウラル山脈以東の地域に移転し、ドイツ空軍の空爆が届かない深奥部で兵器生産を稼働させる。
モスクワの国庫に蓄えられた金塊や外貨、美術品も西シベリアのチュメニに輸送される予定だ。
すでに政府は戦前に蓄積した生産ストックを資本にウラル、中央アジア、シベリアといった東部地帯を再開発する計画を承認している。
今後はこれら東部地帯がソビエトの戦争経済を支える工業的基盤になるだろう。
「移転はいつまでに終わりますか?」
「ウクライナを担当する同志フルシチョフの報告によると最短でも1941年12月までかかるとのことです。他の地域からも同様の報告がきています。工場群が移転している間、我が国の軍需生産能力は70%低下し、1941年秋になれば弾薬の備蓄も失われます。ですが1941年さえ乗り切れば我が国の生産能力はファシストをはるかにしのぎます」
経済基盤を敵に渡さないための処置とはいえ、工場移転は一時的に軍需物資の極端な欠乏をもたらす。
武器がない以上、新しい軍をむやみやたらに量産することも出来ず、東方に移転した工場群が稼働しだすまで、独ソの戦闘能力と物資のつり合いは、極端に敵の優勢に頷くことになる。
ソビエト経済の実情を考えると弱った敵を最強の戦力で叩くジューコフの戦略構想は最良の戦略といえる。完全な勝利でなくても一時的に敵を退けられればいいのだから。
瀕死の赤い帝国が切実に欲しているのは傷を癒す時間である。
ソビエトの巨大な工業力が大量の戦車と航空機を生み出しファシスト共に鉄槌を下すまでの時間。
いまや時間稼ぎというごく単純な戦略が国家を存亡の危機から救う唯一の手段となっていた。




