第14話 広がった噂の責任
秋葉原の喧騒から少し離れた落ち着いた住宅街。鈴木悠作の自宅マンションのキッチンには、食欲をそそる香ばしい匂いが満ちていた。
換気扇が低く唸る下で、悠作は黙々と夕食の仕上げに取り掛かっていた。昨夜は加藤茜が持ち込んだポータブルSSDの検証とクリーンコピー作成で遅くまで作業が続き、ろくなものを食べていなかった。日中も再起堂PCサービスの来客対応に追われていたため、仕事終わりのこの時間は、しっかりと腹に入れておく必要があった。
ダイニングテーブルの端に、所在なげに浅く腰掛けたすずは、手元に置いたトートバッグのストラップを何度も握り直していた。昨夜の調査報告の整理のためだったが、再起堂が閉まった後の深夜帯、かつ店舗の明かりをつけたまま男女が遅くまで話し込んでいれば近隣に余計な詮索をされかねないため、悠作が自宅へ招いたのだ。
普段は作業着姿しか見ない悠作が、私服でエプロンもつけずにキッチンに立っている姿は、すずにとってひどく新鮮で、居心地の悪さを助長していた。彼女は視線のやり場に困り、整頓されたリビングをあちこち見回している。
「あの……悠作さん。一人暮らしの男の人の部屋に、こんな時間に上がるなんて、私、その……」
「外で立ち話するよりはマシだろ。茶の一杯も出ない店番のお礼だ。食べないなら片付けるぞ」
悠作が素っ気なく促し、ようやくすずは遠慮がちに箸を持った。
火にかけた網の上で、皮目に美しい焦げ色のついた紅鮭がパチパチと脂を弾かせている。隣の調理台では、レンジで加熱したばかりの熱々の茄子を手早く裂き、あらかじめ合わせておいた特製ダレを回しかけた。すりごま、唐辛子、大葉、生姜の千切りに、醤油とごま油を和えたソースもどきだが、熱で香りが一気に立ち上る。
小鉢には、昨日のうちに仕込んでおいたキビナゴとタマネギの酢漬けを盛る。酸味の効いた香りが食欲を刺激する。炊飯器から湧き立つ湯気を払いながら白飯を茶碗によそい、最後は沖縄産のもずくを大量に使った澄まし汁を椀に注いだ。磯の香りがふわりと漂う。
手際よく仕上がった夕食だったが、二人の食事は無言で淡々と進んだ。悠作は咀嚼しながらも、頭の中では昨夜の検証結果——茜のローカル動画に混入した記録工房の映像と、元管理者である新田香織の行方を反芻していた。西尾直樹のスマートフォンとイベント用の素材運搬用SSD。一見何の関係もない二つの異なる媒体から、同じ5年以上前に閉店した店舗の映像が出てきた事実が、胃の奥に鉛のように横たわっている。偶然のデータ破損ではなく、何者かが意図的に古いデータをバラ撒いているのではないかという疑念が、静かに頭をもたげていた。
食後。すずは「初めてお邪魔したから」と慌てて空になった食器を重ねて立ち上がった。
「あの、せめて、洗うくらいはさせてください。本当に、美味しかったですし……」
「客に洗わせる趣味はない。そこに置いておけ」
悠作がぶっきらぼうに制する。
「でも、お邪魔させてもらってるわけですし……」
すずは「お邪魔」と言いかけて、自分の声の妙な響きに慌てて口を塞ぎ、顔を真っ赤にした。まだお互いの距離感を計りかねているぎこちない沈黙が、換気扇の唸る音に混ざって二人の間に流れた。彼女は慌てて視線を逸らし、テーブルの上の木目を見つめた。
悠作はそれを気にする風もなく、リビングの棚からシガーケースを取り出した。
中から抜き出したのは、エル・レイ・デル・ムンドのペティ・コロナス。イギリスのシガーショップから直接取り寄せている代物だ。シガーカッターで吸い口を落とし、マッチを擦って慎重に着火する。ゆっくりと煙を吸い込み、天井へ向かって紫煙を吐き出すと、上質な煙草葉の甘く芳醇な香りが部屋に広がった。仄かに甘さを伴うその煙は、狭い再起堂の作業場で嗅ぐオイルや埃の匂いとは全く異なっていた。
すずは、再起堂の勝手口で吸っているいつもの紙巻き煙草とは違う、その豊かな香りと、悠作の手元の動きを驚いたように見つめていた。そして、すずの視線が、棚の奥のキャビネットに整然と積まれた木箱に突き刺さった。
「……悠作さん」
「なんだ」
「その、葉巻……なんですか、それ。木箱の数、おかしくないですか」
「備えだ」
「ストックが200本を超える備えって何ですか。個人消費の量じゃないですよ。肺より先に財布が壊れますよ」
ジトッとしたすずの目が怖い。彼女は悠作の金銭感覚と健康管理の両方を疑っているようだったが、悠作は意に介さず二口目をくゆらせた。ただ深く煙を吸い込み、吐き出す。そうして思考のノイズを平熱に落とし込んでいく。この私的な時間を、誰かに譲るつもりはなかった。
その時、リビングのテーブルに置かれていた悠作のスマートフォンが短く震えた。
画面には「加藤茜」の名前が表示されている。
「……こんな時間にどうした」
通話に出た瞬間、茜の切羽詰まった声が耳に飛び込んできた。
『鈴木さん! 今どこですか!? 大変です、あの映像が……ネットに出回ってます!』
「なんだと?」
悠作は葉巻を灰皿に置き、目つきを鋭くした。
『私、今から再起堂に向かいます。鈴木さんも来られますか!?』
「わかった。すぐ開ける」
通話を切り、悠作は上着を手に取った。
「悠作さん?」
「加藤からだ。動画が漏れたらしい。店に行くぞ」
「……はい」
すずも即座に頷き、二人は夜の秋葉原へと急行した。
★★★★★★★★★★★
30分後。秋葉原の裏通りにある雑居ビルの1階、再起堂PCサービスの重いシャッターを開け、悠作たちが店内に入った直後だった。
店舗の引き戸が勢いよく開いた。
「鈴木さん! すずさん!」
慌てて飛び込んできた茜は、激しく上下する肩を抑え、カウンターに両手をついた。その大きな瞳には、昨夜以上の差し迫った焦燥が浮かんでいる。
「落ち着け。何があった」
悠作はカウンターの内側に立ち、彼女へ向き直った。
茜は自身のノートPCをカウンターに置き、震える手で画面を悠作たちに見せた。
表示されているのは、匿名SNSのタイムライン。そこには、昨夜茜のノートPCで再生された「1分20秒の異常映像」——薄暗い記録工房の内部が、数秒の短い動画として投稿されていた。
『秋葉原のパレード告知動画にヤバいノイズ入ってる。これ心霊映像じゃね?』
そんなテキストとともに投稿された動画は、既に数百回のリポストを記録し、加速度的に数字を伸ばしていた。リプライ欄には野次馬たちの好奇心に満ちたコメントがぶら下がっている。
「……これは、クラウド上の元データじゃないな」
悠作は画面を注視した。投稿されている映像は、直接出力されたデータではなく、モニターの画面を斜めからスマートフォンで直撮りしたものだった。画面のベゼルの一部が薄っすらと映り込んでいる。
「はい。昨日の夕方、私が再起堂に来る前……自分のノートPCで異常に気づいてパニックになって、商店会の少人数のスタッフ用チャットに『なんかバグるんですけど』って、スマホで撮った動画を投げちゃったんです。たぶん、そのチャットにいた誰かが面白がって、裏アカウントか何かで流しました」
茜は唇を強く噛み締めた。
「私の責任です。不用意にチャットへ流したせいで、噂が変な方向に広がってて……」
茜がノートPCのタッチパッドをスワイプすると、関連する投稿が次々と表示された。
『この動画、ジャンク通りにあるPC修理屋に持ち込まれたらしい』
『そこに出入りしてる女の子が霊媒師って噂』
『呪われたPC直してる店があるらしいぞ』
すずは小さく身を縮め、いたたまれなさそうに肩をすぼめた。さっきまでのマンションでの緊張とは違う、冷たい不安が彼女を包んでいる。
「情報に尾鰭がつく典型だな。ネットの怪談なんてそんなもんだ」
悠作は淡々と言い捨てた。
「鈴木さん、ごめんなさい。私……」
茜の声がわずかに震える。自分が原因で、協力してくれた悠作やすずまで巻き込んでしまったことへの罪悪感が滲んでいた。
「泣き言を言いに来たのか」
悠作の低い声が、茜の言葉を遮った。
「えっ……」
「公式データには異常がない。お前は広報だろ。まずは機器不調として説明を統一しろ。お前がやるべきなのは、事実を正確に伝える訂正文を書くことだ」
冷徹に聞こえる言葉だったが、悠作の視線は茜を真っ直ぐに見据えていた。
茜はハッと顔を上げ、自らを奮い立たせるようにギュッと拳を握りしめた。
「……そうですね。泣いてる場合じゃないです」
茜はきつく唇を結び、手元のノートPCのキーボードへ指を走らせた。
SNS上で拡散された転載投稿をまとめ、ソーシャル分析のWebツールを駆使して転載経路のマップを作っていく。リポストの分岐点と影響力の大きいまとめアカウントをリストアップし、起点となったアカウントを特定していく作業だ。並行して、テキストエディタを開き、事態を冷静に説明する訂正の声明文を書き始めた。
複数のウィンドウを立ち上げ、ショートカットキーを駆使して画面を素早く切り替えていく。
悠作は、黙ってそのキーボードを叩く茜の横顔を見つめていた。画面に打ち出されていく訂正文は、技術的な事実を歪めず、しかし必要以上の不安を煽らない、極めて冷静な言葉で綴られていく。泣き言を遮られた悔しさを、そのまま実務の正確さへと転換させる彼女の指先には、広報としての確かなプライドが宿っていた。
「随分と手際がいいじゃない。でも、焦って火に油を注がないことだ」
不意に、店舗の入り口から声がした。
振り返ると、スーツ姿の山田しずかが立っていた。生活安全課の警察官である彼女は、店の外の様子をうかがうように背後を一瞥してから、茜の開いている画面に視線を向けた。
「山田さん。警察がネットの怪談のパトロールですか」
茜がキーボードを叩く手を止めずに言った。
「まさか。管轄内の不審な噂は耳に入ってくるってだけだ」
しずかは店舗に入り、悠作に軽く顎で挨拶をした。彼女の眼光は、警察官としての冷静な観察眼に満ちている。
「『呪われた修理屋』なんて物騒な単語が飛び交ってるから見に来たけど、当事者は冷静みたいだな」
しずかは茜の方へ向き直った。
「訂正を出すのは勝手だけど、個人情報の扱いには気をつけなさい。こういう時は、面白がって店舗や個人の特定に動く連中が必ず出る。相手を挑発したり、深夜に一人で確認に動いたりするのは絶対にやめること。わかったか?」
「……はい、わかってます。慎重にやります」
茜は画面から目を離さずに頷いた。
「新田香織の件も進展はない。ただ、そっちのSSDの元管理者と繋がった以上、ただの家出で片付けるわけにはいかなくなったけどな」
しずかは悠作に向かって低く告げた。
「……鈴木さん、これ」
完全に作業へ集中していたはずの茜が声を上げた。タイピングの手が止まり、怪訝そうな顔をしている。
「なんだ」
「拡散されてる発端の投稿に、変なアカウントがリプライをつけてます。さっきできたばかりのものみたいで、アイコンも初期設定のままで……名前が『リライト』」
その単語に、悠作とすずの動きが不意に止まった。二人の脳裏に、西尾直樹の事件で関わった謎の人物の名前がよぎる。
悠作は茜の背後に回り込み、画面を覗き込んだ。
匿名アカウント『リライト』は、テキストを一言も添えず、ただ一枚の画像を投稿していた。アイコンすらないその無機質なアカウントの存在が、不気味な冷たさを放っている。
茜の指先が凍りつき、喉を詰まらせた。
そこに写っていたのは、スマートフォンの画面をスクリーンショットしたと思われる画像。
それは、茜が探していた「イベントへの参加を取り消した出演者の名簿」だった。クラウドの共有フォルダからは既に削除されていたはずの、古い連絡先リストの断片が、そこにはっきりと表示されていた。
【書籍発売のお知らせ】
作者の別作品『実力S級の俺、配信切り忘れで「虚無顔でボスを瞬殺する姿」が全国放送されてた件。今さら「ただの荷物持ち」とは言えない~定時で帰りたいので、追放してくれてありがとう~』第1巻が、9月4日に発売されます。
現在予約受付中です。
もしご興味がありましたら、こちらもチェックしていただけると嬉しいです。
書籍の詳細は活動報告/近況ノートをご覧ください。




