第1話 壊れたスマートフォンが見せたもの
秋葉原の表通りから一本裏へ入ると、街の空気は急に重さを増す。
大通りを埋め尽くす観光客向けの派手な電子看板や、コンセプトカフェの店員たちの甲高い呼び込みの声、そして最新のガジェットを求める人々の喧騒は、灰色の雑居ビル群の谷間に吸い込まれてほとんど響かなくなる。代わりに耳につくのは、壁面にへばりついた室外機の低いうなりと、錆びついた古い換気扇が回る単調な音ばかりだ。日差しすら遮られるこの裏通りには、華やかな電脳街の裏側で静かに呼吸を続ける、もう一つの秋葉原の顔があった。
その裏通りに面した古い雑居ビルの1階に、「再起堂PCサービス」はある。
店舗の前方には、中古のノートパソコンやグラフィックボードの空き箱、無造作に値札が貼られたジャンク品のケーブル類が所狭しと並んでいる。ショーケースには時代遅れになりつつあるパーツが陳列されているが、どれも丁寧に清掃されていた。奥へ続く短い通路を抜けると、接客用の小さなカウンターがあり、その背後が鈴木悠作の作業場だった。
「……だから、水没した時は絶対に電源を入れるなとあれほど……」
作業台の上で、悠作は一人ごちた。
手元にあるのは、持ち込まれたばかりの薄型ノートパソコンだ。キーボードの隙間からコーヒーをこぼしたらしい。甘いミルクの匂いが、わずかに焦げたような機械臭と混ざり合って漂ってくる。悠作は静電気防止手袋をはめた指先で、極小のプラスドライバーを操り、底面のネジを次々と外していく。外したネジは、長さや太さがそれぞれ異なるため、無くしたり間違えたりしないようにマグネットシートの上の決まった位置へ、規則正しく並べられていった。
バッテリーのコネクタを慎重に外し、基板を覗き込む。案の定、メイン基板の一部に腐食の兆候が見られた。ショートした痕跡もある。無水エタノールを含ませた綿棒で汚れを拭き取りながら、悠作は小さく息を吐いた。
直せないわけではない。だが、コーヒーの糖分と水分が浸透した状態で通電させたことで、ダメージは予想以上に深くなっていた。持ち主の「もしかしたら動くかも」という浅はかな希望が、機械の寿命を確実なものにしてしまう。いつものことだ。焦って電源を入れるのは、致命傷を確認するだけの行為にすぎない。
作業用ベストのポケットで、スマートフォンが短く振動した。近隣の店舗からの部品の問い合わせだろう。無視して作業を続けようとした時、店舗の入り口でドアベルが硬い音を立てた。
「すいません……」
カウンターの向こうに立っていたのは、若い女性だった。白いブラウスに、薄手のカーディガン。肩にかかるミディアムヘアは黒に近いダークブラウンで、線が細く、顎のラインがシャープな顔立ちをしている。大きくて、どこか怯えたような瞳には、明らかな焦燥と、夜もまともに眠れていないであろう深い疲労が滲んでいた。肩から下げた大きめのキャンバス地のトートバッグの形から、重いノートパソコンなどを常に持ち歩いているのがわかる。
「いらっしゃい」
悠作は手元の作業を中断し、静電気防止手袋を外してドライバーを置いて立ち上がった。
「修理依頼か?」
すずは、カウンターの奥から姿を現した店主の姿に、ほんのわずかに目を丸くした。
そこに立っていたのは、予想していたような年配の職人ではなく、自分とそう変わらない年代の青年だった。細身だが引き締まった体格をしており、身長は178センチほどだろうか。少し癖のある黒髪は動きがあり、作業用ベストの下には黒のカットソーを着ている。何より印象的なのは、強い目元と精悍な輪郭を持つ端正な顔立ちだ。しかし、その表情には愛想笑いの一つもなく、無表情なままでは近寄りがたい冷たさを放っていた。
「はい……。あの、スマートフォンなんですけど」
女性はトートバッグの中から、ハンカチに包まれた小さな塊を取り出し、カウンターの上にそっと置いた。
布が開かれると、悠作はわずかに眉を寄せた。
それは、黒いAndroidスマートフォンだった。ただし、原型は留めているものの、ディスプレイのガラスは蜘蛛の巣状に激しくひび割れ、本体のフレーム自体が「く」の字に曲がっていた。高いところから落としたというレベルではない。車のタイヤに轢かれたか、重い金属で叩き潰されたような損傷だ。
「……ひどいな。通電はさせたか?」
「いえ、触っていません。壊れているのを見つけて、そのまま……」
「賢明だな。これだけ基板が曲がってると、バッテリーが発火する危険がある。電源を入れた瞬間にショートして、残ってるデータも完全に飛ぶ」
悠作はカウンター越しに端末を観察し、女性の顔を見た。
「俺は鈴木悠作。ここの店主だ。あんたは?」
「高橋、すずと言います」
「高橋さん。確認だが、この端末はあんたの持ち物か?」
すずは、強く唇を噛んでから首を振った。
「違います。私の、同人ゲーム制作の仲間のものです。沢村真紀という……」
「他人の所有物か。悪いが、所有者本人の同意がないと、中身のデータ復旧や閲覧は引き受けられない」
悠作が淡々と告げると、すずはカウンターに両手をついて身を乗り出した。
「同意は、取れません。真紀は……3日前から行方不明なんです」
「行方不明?」
「はい。連絡もつかないし、サークルの作業チャットにも現れません。昨日の夜、彼女のマンションに行ったら、郵便受けの近くにこれが落ちていました。警察にも相談しましたけど、事件性がないからって、本格的には探してくれなくて……」
すずの言葉は、焦りからか少し早口になっていた。
「お願いです。中身を見たいんじゃありません。彼女がどこに行ったのか、手がかりになるものが残っていないか、知りたいんです」
悠作は腕を組み、再び無惨なスマートフォンへ視線を落とした。
「……クラウドのバックアップは確認したのか? 今時の端末なら、写真も位置情報も、大抵のものはサーバーと同期されてるはずだ」
「サークルの共有ストレージには何もありませんでした。真紀の個人のクラウドアカウントは……パスワードは推測できたんですけど、2段階認証がかかっていて」
「なるほど。この端末でSMSを受け取るか、認証アプリを開かないとログインできないってわけだ」
「はい……」
すずがうつむく。どこかのサーバー上にあるクラウドという強固な見えない金庫を開くための鍵が、目の前にある物理的な残骸の中にだけ閉じ込められている。2段階認証というセキュリティが、本来の持ち主を捜索しようとする者の前には絶望的な壁となって立ちはだかる。日々、最新の端末を持ち込まれる悠作にとっては、決して珍しくない見慣れた光景であり、そして最高に質の悪い皮肉だった。
「状態を見てみないと約束はできないが」
悠作は静電気防止手袋を再びはめ、カウンター上のスマートフォンをそっと持ち上げた。
「フレームの曲がり方からして、メイン基板も折れてる可能性が高い。直すにしても、ストレージのチップとmicroSDカードを基板からはがして、別の基板に移植するか、専用のリーダーで読み出すしかない。完全に物理修理の領域だ」
「直るんでしょうか……」
「直せるかどうかは、状態を見てから決める」
悠作が手元のルーペを引き寄せようとした、その時だった。
すずが、何かにすがるように、悠作の手にあるスマートフォンへ指先を伸ばした。彼女の細い指が、ひび割れたディスプレイに触れた瞬間――。
「――っ!」
すずの喉から、短い悲鳴のような声が漏れた。彼女は弾かれたように手を引っ込め、その場にうずくまった。肩が大きく上下に激しく揺れている。顔面から一気に血の気が引き、蒼白になっていた。
「おい、どうした。貧血か?」
悠作はスマートフォンを作業台の静電気防止マットの上に置き、カウンター越しにすずの顔を覗き込んだ。漏電を疑ったが、バッテリーは完全に死んでいるはずだ。
「違う、違います……っ」
すずは片手で頭を押さえ、もう片方の手で口元を覆っていた。強烈な吐き気を堪えているように見える。
「……雨」
「あ?」
「雨の音……。水たまりを、強く踏む音……」
すずの焦点は悠作を見ていなかった。虚空を見つめ、震える声で言葉を紡ぎ出す。
「女性の声……。違う、真紀の声じゃない。もっと……『返して』って。強く、泣きそうな声で……」
悠作は黙ってすずを観察した。彼女の瞳孔は開き気味で、額には冷や汗が浮かんでいる。演技や嘘をついているようには見えない。だが、そんなオカルトじみた現象をそのまま鵜呑みにするほど、悠作はお人好しでも夢見がちでもなかった。
「……金属の、冷たい箱。たくさん並んでる……。赤い、ランプ。ロッカー……万世橋の近くの、スマートロッカー……」
言葉が途切れ、すずは強張らせていた身体からようやく力を抜き、カウンターにしがみつくようにして立ち上がった。彼女は怯えた目で悠作を見た。頭のおかしい女だと思われる。笑われる。そんな恐怖が彼女の表情に張り付いていた。
悠作は小さく鼻を鳴らした。
「……酸欠による幻覚か、極度の心労によるパニック発作か。いずれにせよ、その完全に死んでいる端末の中身とは別に、あんたには何か感じるものが残ってるって言いたいんだな」
「え……?」
すずは息をのんで悠作を見つめた。
「否定、しないんですか。私、変なことを……」
「変なことかどうかは、裏付けが取れてから決める。機械の修理ってのはそういうもんだ。現象を観察して、原因を特定する。あんたが今見たものがただの酸欠による幻覚か、それとも現実のデータと一致する手がかりか、事実を突き合わせればはっきりする。なら、俺は無視しないだけだ」
悠作は作業台の引き出しから紙のメモ帳とボールペンを取り出して、カウンターに置いた。ボールペンでメモ帳をトントンと叩く。
「見えた順じゃなく、確実なものから話せ。映像、音、文字、感情。分けて、ここに書け」
すずは震える手でボールペンを受け取った。指先にはまだ小刻みな震えが残っていたが、彼女はそれをもう片方の手で抑え込むようにして、まっすぐにメモ帳を見つめた。
「……雨の音。女性の声で、『返して』」
すずが書きつけながら、呟く。
「場所は、万世橋の近く。赤いランプがついた、金属のロッカーです」
「万世橋のロッカー……。最近主流のスマートロッカーか。番号や、QRコードみたいなものは見えたか?」
「そこまでは、はっきりとは……。ごめんなさい」
「謝るな。不確かなものを推測で補う方が厄介だ。見えないなら見えないでいい」
悠作はメモ帳を引き取ると、作業台の奥へ向き直った。
「あんたはそこの椅子で少し休んでろ。顔色が最悪だ。俺はこいつの開腹手術に入る」
背中越しにすずの衣擦れの音がして、丸椅子に腰掛ける気配がした。
悠作はヒートガンを手に取り、スマートフォンのひび割れたバックパネルの縁へ慎重に熱風を当て始めた。接着用の防水テープを緩めるためだ。温度に気をつけながら、吸盤とプラスチック製のピックを使い、少しずつパネルを剥がしていく。
内部の構造が露わになる。やはり、バッテリーはひしゃげて使い物にならない。メイン基板も中央付近でわずかに反り返っていた。
悠作はピンセットで極小のネジを外し、基板を覆うシールドプレートを取り外した。
「……ん?」
悠作の手が止まった。
基板の端、チップコンデンサが密集する領域の横の空きスペース。そこに、極細の黒い油性マーカーで、手書きの文字列が記されていた。製造時の刻印でも、正規のメーカー修理の痕跡でもない。
『R-17-03』
無機質なその記号を見た瞬間、悠作の心臓が不快なリズムを打った。
ただの管理番号かもしれない。中古店でつけられたものかもしれない。だが、そのアルファベットと数字の組み合わせは、悠作の記憶の底にある、ある光景とひどく似ていた。
「……偶然、だよな」
悠作は誰に聞こえるでもなく小さく呟き、意識を目の前の基板へ引き戻した。今は余計なノイズを混ぜるべきではない。
ストレージチップであるeMMCと、スロットに刺さっていたmicroSDカードを取り外す。eMMCの方は専用のソケットリーダーへ、microSDは手元の検証用PCへと接続した。
悠作の指がキーボードを叩き、保全用のイメージファイルを作成していく。
1時間後。
作業用ソフトウェアの進捗バーが100%に達し、抽出されたデータのディレクトリ構造がモニターに表示された。
「……高橋さん」
悠作が声をかけると、丸椅子でうとうとしていたすずが跳ね起きた。
「は、はいっ。直りましたか?」
「電源が入る状態にはならない。だが、ストレージのデータは無事だった。今、ファイルシステムとログを照合してる」
悠作はモニターを見つめたまま、眉をひそめた。
「……あんたの友達が消えたのは、3日前だったな?」
「はい。3日前の夜から、チャットの既読もつかなくなって……」
「なら、計算が合わない」
悠作はその画面を、カウンターのすずから見えるように少し傾けた。
「この端末のシステムログは、4日前の夜、23時14分で完全に停止している。言い換えれば、このスマートフォンが物理的に壊れたのは、真紀というあんたの友達が失踪する前日だ」
「え……?」
「だが、おかしな記録がある」
悠作はマウスを操作し、microSDカード内に残されていたキャッシュフォルダの一つを開いた。
「システムが停止した翌日……つまり、3日前の昼だ。なぜかこのmicroSDの内部に、新しい画像ファイルのサムネイルデータが作成されてる」
画面に表示されたのは、解像度の粗い、小さな画像だった。
どこかのガラスか鏡に反射した姿が写っている。
スマートフォンを構え、こちらへレンズを向けている人物。だが、その手と服装は、すずが話していた「沢村真紀」という女性のイメージとは明らかに異なっていた。
「……端末が壊れた後に、誰かが別の機器を使って、このmicroSDへアクセスした痕跡だ」
悠作は、作業台に置かれた曲がった基板と、メモ帳に書かれた『万世橋のロッカー』という文字を交互に見つめた。
「あんたの友達のスマートフォンを、最後に持っていたのは、おそらく本人じゃない」




