第1話 朝、世界が消えていた
最初に異変に気づいたのは、大型犬のハクだった。
午前6時43分。二階建ての家にはまだ朝の静けさが残っていた。二階には三つの寝室があり、一つは海外赴任中の両親の部屋、残る二つを四人の兄弟姉妹が男女に分かれて使っている。
男子部屋では、二十二歳の長男・悠真と十六歳の末っ子・蓮が眠っていた。向かいの女子部屋には二十歳の長女・琴葉と十八歳の次女・美月。先週に両親が海外へ赴任してから、この四人で留守を守る生活にだんだんと慣れてきた頃だった。
一階のリビングでは、大型犬のハクがラグから身体を起こした。
ソファでは黒猫のノアが丸くなり、その近くの大きな鳥かごではオウムの教授がまだ羽に顔を埋めている。
ハクは耳を立てた。
「……変だ」
ノアが片目だけ開けた。
「朝から何」
「外」
「外が何」
「静かすぎる」
ノアは耳を動かした。
数秒後、もう片方の目も開く。
いつもなら聞こえるはずの車の音も、人間たちの生活音も、鳥たちのさえずりもない。
代わりに聞こえてくるのは、風の音のみだった。
強い風が家の壁を撫でている。
「教授」
ハクが呼んだ。
すると鳥かごの中で羽毛が膨らみ、
「……本日の営業は九時からです」
「起きて」
「鳥類にも睡眠権というものが――」
「外がおかしい」
教授が顔を上げた。
ハクは窓へ鼻を向ける。
「知らない匂いがする」
「どのような?」
「雪。それから動物。たくさん」
教授が黙った。
ノアがソファから飛び降りる。
「悠真を起こして」
「うん」
ハクは階段の下へ向かった。
「悠真ー」
反応はない。
「悠真、起きて」
まだ反応がない。
「悠真!」
しばらくして二階の扉が開いた。
寝癖のついた悠真が顔を出す。
「……どうした、ハク」
眠そうではあったが、不機嫌な声ではなかった。
「ごめん。起こした」
「いいよ。何かあった?」
あくび混じりに悠真が答える
「外が変なんだ」
その一言で、悠真の目から少し眠気が消えた。
階段を降りてハクのところまで来ると、その頭を軽く撫でる。
「どんな感じ?」
「音がしない。それに知らない動物の匂いがいっぱいする」
「動物?」
悠真はカーテンへ視線を向けた。
その途中で、部屋の寒さにも気づく。
「……寒くない?」
エアコンのリモコンを取った。
液晶が消えている。
壁の照明も点かない。
「停電かな」
「おはよ……何騒いでんの」
階段から弟の蓮が降りてきた。
続いて妹の琴葉と美月も顔を出す。
「停電みたい」
悠真が言うと、琴葉はすぐキッチンへ向かった。
「停電?ほんとだ、冷蔵庫の明かりが付かない…」
「待って!水も止まってるんだけど!」
顔を洗おうとした美月が叫んだ。
今度は全員の表情が変わった。
スマホを確認する。
全員、圏外。
Wi-Fiも繋がらない。
電気、水道、通信。
生活を支えていたものが、一度に消えている。
「パパたちに連絡もできないってこと?」
美月が尋ねる。
悠真はスマートフォンを操作したが、メッセージは送信されない。
「今は無理みたい。でも通信が戻ったらすぐ連絡しよう」
美月が不安そうに画面を見る。
悠真はその頭をぽんと撫でた。
「大丈夫。まだ何が起きてるか分からないだけだから」
「……うん」
その様子を見ていた教授が、カーテンへ顔を向けた。
「何が起きているかを確認する最も簡単な方法が残っていますが」
蓮が教授を見る。
「外?」
「ご名答」
「ハクが外おかしいって言ってるんだけど」
「だからこそ見るのです」
もっともだった。
悠真がカーテンへ近づく。
「俺が見るよ」
「私も一緒に見る」
琴葉も隣へ来た。
悠真がカーテンを少し開ける。
そして二人とも、動かなくなった。
「……お兄ちゃん?」
2人の様子から不安になった美月が近づく。
次の瞬間、四人と三匹が同じ景色を見ていた。
庭はある。
物置も、自転車置き場も、庭木も残っている。
だが、その向こうにあるはずの、いつも見慣れた住宅街がない。
家々も道路も電柱も、すべて消えていた。
敷地の境界から先には、地平線まで真っ白な雪原が広がっている。
「…………え?」
蓮がようやく声を出した。
ノアが窓辺へ飛び乗る。
「これ、家の前?」
「一応」
「昨日と全然違う」
「それはみんな分かってる」
遠くでは風に巻き上げられた雪が白い煙のように流れていた。
家の敷地だけが、丸ごと別の土地へ置かれたように見える。
そのときだった。
――ピッ。
テレビが点灯した。
停電しているはずなのに。
黒い画面に白い文字が現れる。
《転送完了》
続いて、
《WORLD 01》
《滞在期間:30 DAYS》
そしてカウントダウンが始まった。
29:23:52:16
最後に表示されたのは、
《次回転送時、本邸および接続構造物を転送対象とします》
「転送……?」
琴葉が呟く。
悠真がテレビのコンセントを抜く。
画面は消えなかった。
「三十日後に戻れるってこと?」美月が聞く。
「だといいけど…全く別の場所ということもあるかもしれない…」
渋い顔で悠真が答えた。
「そんな…」
「まず状況を調べよう。みんな一緒にいればきっと大丈夫だから」
そのとき、ハクが低く唸った。
「待って」
全員が黙る。
「外に何かいる」
雪を踏む音がした。
ぎゅっ。
……ぎゅっ。
近づいてくる。
琴葉がそっとカーテンを閉じる。
「大きい?」
「僕よりずっと大きい」
悠真は三人を窓から離れさせ、自分だけがカーテンの隙間から覗いた。
白い巨大な身体が、庭の外を歩いていた。
丸い耳。
黒い鼻。
太い脚。
「シロクマ……」
蓮が息を呑んだ。
「マジ?」
「うん。みんな窓から離れて」
「お兄ちゃんも」
美月が言った。
誰もが自然と小声だった。
悠真はもう一度、一瞬だけ外を確認してから、素直に離れた。
「そうだな。俺も」
ノアが悠真の足元へ来る。
「戦う?」
あまりに無謀な問に少し気持ちが落ち着く。
「絶対戦わないよ」
「ハクなら?」
「ハクも戦わない」
ハクが頷く。
「賛成」
教授も鳥かごの中から頷いた。
「英断です」
熊はしばらく庭の外を歩き回ったあと、雪原へ消えていった。
もう窓からは見えなくなり、ハクの臭覚からも遠ざかっているようではあったが、それでも誰も外へ出ようとは言わなかった。
テレビではカウントダウンが続いている。
あと三十日。
悠真は弟妹と三匹を見回した。
「まず、この家に何があるか全部調べよう」
ここはもう、ただの実家ではない。
七つの命を守る、世界でたった一つの拠点だった。




