操り糸の行方
1934(昭和4)年7月11日水曜日午後2時35分、皇居・表御殿にある牡丹の間。
「最終的に、各国の常備兵力は、1938年、つまり昭和10年の末までに、昨年末の時点より0.5%削減することで同意が得られ……」
今日は臨時で梨花会が開かれている。7月になってからは2度目になる。4月も5月も6月も、ヨーロッパ情勢と、それに伴って揺れ動く軍縮会議の交渉の行方を議題にして、梨花会は何度も開催されていた。
「一方、我々、そしてイギリスが主眼を置いていた軍艦の削減についてです。フランスは最後まで、自国内の国粋主義者たちを刺激することを恐れて、主力艦を削減することを渋りましたが、イギリスと我が国、そしてドイツによる圧力により、何とか、プロヴァンス級戦艦1隻の削減に応じました」
内閣総理大臣の原さんの報告を聞いているのは、お上と梨花会の面々だけではない。今日は特別に、中央情報院総裁の広瀬武夫さんが出席しており、牡丹の間の隅に立って、原さんの言葉を黙って聞いていた。
「そして、イギリスはリヴェンジ級戦艦3隻の、ドイツはケーニヒ級戦艦2隻の削減に合意し、この内容で、現地時間の9日に第4回軍縮条約が締結されました。予備交渉が終わるころ、フランスが、更にはドイツが軍縮会議からの離脱を表明していたことを思えば、軍縮に前向きな結論となったことは喜ばしいことではありますが……」
「しかし、フランスの革命騒ぎ前の見通しと比べると、大幅な後退でありましょう」
原さんの報告に、枢密顧問官の高橋是清さんが眉をひそめながら声を被せた。
「ヨーロッパやアメリカ、新イスラエルの金融界に働きかけ、軍縮を前向きに進めるよう、財政方面からフランスとドイツに圧力を掛け続けましたが……力及ばず、無念です」
「そんなことはありません、高橋さん」
国軍大臣の斎藤実さんが言った。「ジュネーブの吉田くん、そして幣原さんと堀も頑張りましたが、高橋さんの財政方面からの圧力もフランスとドイツに効いたと俺は思っています」
「斎藤さん、そうおっしゃるなら、私以外の方々の働きも評価するべきですよ」
高橋さんは首を横に振りながら斎藤さんに指摘する。
「西園寺さんは、フランスに留学されていた時代の知己を通じて、フランス政府や、フランス各地にできてしまった臨時政府への介入を試みていた。そのおかげで、フランスの革命騒ぎは5月に入る前に終わり、フランスはようやく軍縮会議に戻ってきました。そして、伊藤閣下と陸奥さんはイギリスの、桂閣下はドイツの知人に働きかけ、梨花会の他の方々も伝手を頼って、少しでも軍縮が進むようにと運動なさっていた。それがあっての成果だということを忘れてはなりません」
私は高橋さんの言葉に頷いた。私と栽仁殿下も、約20年前の洋行中に知り合った人々や、かつて日本を訪れた外国の要人を通じて、フランスとドイツを何とか軍縮に前向きにさせようと努力した。オーストリアの皇帝・フランツ2世、ロシアの皇帝・ミハイル2世、ハワイ王国のカイウラニ女王、シャム王国のラーマ7世、デンマークのフレゼリク皇太子殿下、スウェーデンのグスタフ・アドルフ皇太子殿下、イギリスのコンノート公……外国の皇族・王族で、面識がある人々には、フランスとドイツを軍縮に前向きにさせるよう協力して欲しいと電報や手紙でお願いした。特に、私の古い友人であるドイツのバイエルン王国の王妃、マリー・ガブリエーレと、彼女の夫で、1921(大正6)年にバイエルン国王となったループレヒト国王とは、何度も電報をやりとりしたのだ。
と、
「梨花叔母さま」
お上が私を呼んだ。急に静かになった牡丹の間に、
「叔母さまはこの結末、どう評価なさいますか?」
という、お上の問いが響く。
「……日本とドイツが軍縮を巡って争っていたと捉えると、痛み分け、というところかしらね」
私はお上に回答するとため息をついた。「日本は、補助艦の削減にまで軍縮会議の議論を進めることができなかった。一方、軍縮会議そのものの崩壊を狙っていたドイツは、軍縮会議を崩壊させることができず、また5年後に第5回の軍縮会議を開くことに合意せざるを得なかった。……そう考えると、日本もドイツも、当初の目標を達成できなかったことになる。だから、軍縮を巡る争いは、5年後の軍縮会議までずっと続くと思うわ。今までは、会議の前年ぐらいになって駆け引きが本格化する感じだったけれど……」
「妥当な判断ですね」
枢密顧問官で元内閣総理大臣の陸奥宗光さんが横から割り込んだ。「グスタフ・シュトレーゼマン、この僕に屈さないとは……チャーチル以来、久々に骨のある男が出てきたではありませんか。老後の楽しみが増えましたよ」
「そう思えるのは陸奥さんだけですよ……」
瞳の奥に鬼火をチラつかせる陸奥さんにツッコむと、私は両肩を落とした。
「ほう、前内府殿下、私の老後の楽しみを更に増やしていただけるとはありがたいですね。梨花会が終わりましたら、外交の心得というものを、今一度前内府殿下に叩きこんで……」
「陸奥の爺、話が逸れているよ」
ニヤリと笑った陸奥さんをお上が止める。陸奥さんが「失礼しました」と言いながら頭を下げたのを確認すると、
「皆に聞くが……今後、どのような展開が予想される?」
お上は牡丹の間に集まった一同を見渡しながら尋ねた。
「……今回の軍縮会議は未曽有の経過をたどりましたが、それを考慮に入れたとしても、”軍縮の気運が下がった”という印象を世界に与える結果となってしまいました」
末席の方に座っていた山下奉文歩兵大佐が、挙手をすると堂々とした態度で述べ出した。
「従って、世界で軍艦、特に、今回制限を設けることが叶わなかった補助艦を建造しようとする流れが加速すると思われます。日本にも、海外の造船会社が”補助艦を建造しないか”と売り込みを掛けてくるかもしれません」
「……その通りだとすると、造船会社に手玉に取られた馬鹿どもが騒ぎそうだな」
すると、山下さんの隣に座る鈴木貫太郎参謀本部長が、山下さんの方を振り向いて言った。
「だとすれば、国軍内の言論統制にいっそう気を配らなければなりませんな」
斎藤さんが目を光らせると、
「とかく、こういう時にはカネが動く。造船会社からの賄賂は、徹底的に取り締まらなければ」
枢密顧問官の山本権兵衛さんが憤然として言った。
「なるほど。……広瀬、フランスの諜報機関設立の件と合わせて忙しくなりそうだけど、頼んだよ」
お上が牡丹の間の隅に目を動かすと、そこに立っていた広瀬さんが深く頭を下げる。今まで独自の諜報機関を持っていなかったフランスは、今回の内戦騒ぎで黒鷲機関にいいようにやられてしまった教訓から、黒鷲機関に対抗できるよう、自前で諜報機関を立ち上げることにした。そのため、以前から関係が深いイギリスと、諜報機関運営のノウハウを持っている日本に協力の要請があり、中央情報院の職員数名がフランスに派遣されているのだ。
「皆から、広瀬に確かめておきたいことはあるかな?」
お上が梨花会の面々に問う。反応がないことを確かめると、
「広瀬、今日のところはこれで帰っていいよ」
お上は広瀬さんに声を掛ける。広瀬さんが再び最敬礼して牡丹の間を去ると、
「では、もう少し深く討議すべきことはありますかな?」
原さんが一同に尋ねた。”史実”のことを知らない広瀬さんが去ったから、ここからは、いつもの梨花会と同じく、出席者全員が、手持ちの全ての情報をさらしていいということになる。早速、
「さて、ドイツの首相、グスタフ・シュトレーゼマン……彼について”史実”での記憶はあるかね?」
枢密院議長の伊藤博文さんが、斎藤さん、そして、山本五十六航空大佐に向かって質問を投げる。
「”史実”でも、首相をしていた時期はあったはずです。1920年代だったと思いますが……」
斎藤さんが答えると、
「確か、第1次世界大戦でドイツに課せられた賠償金を減額させることに成功し、ヨーロッパ諸国とロカルノ条約を締結して独仏関係を安定させた記憶があります。その結果、フランスの外務大臣とともにノーベル平和賞をもらっていたような……」
山本大佐が更に補足する。
「ほう。君たちや前内府殿下から聞いた”史実”の第1次世界大戦の結果から考えると、”史実”でも相当なやり手だったということですな」
貴族院議員で元内閣総理大臣でもある西園寺公望さんが、こう応じると腕組みをした。
「この時の流れでも相当なやり手なのは間違いないでしょう。シュトレーゼマンがこの時の流れで首相になったのは昨年の10月半ば……そこから僅か4か月ほどで、黒鷲機関を使ってフランスを混乱に陥れ、軍縮会議の崩壊を狙ったのですから」
西園寺さんの向かいに座る児玉さんが指摘する。確かにその通りだけど、シュトレーゼマンさんが成し遂げてしまったのはそれだけではなくて……。
「……その4か月で、彼は私の手から皇帝を操る糸を奪いました」
私が口を開くと、牡丹の間は静まり返った。
「シュトレーゼマン氏は、前の内閣で外務大臣を務めていました。そのころから、皇帝が顧問殿下のお言葉に従っていることを苦々しく思い、その状況を是正しようとしていたのかもしれませんが……」
「準備期間が十分にあったにしろなかったにしろ、シュトレーゼマンは前内府殿下から皇帝の手綱を奪った。それは事実です」
牧野さんの呟きに、桂さんの言葉が重なる。桂さんは首を大きく左右に振った。
「はい……ですから、日本は、最強の外交カードを失ってしまいました。いざという時に皇帝を操って、ドイツの行動に干渉する力を……」
牡丹の間が、再び重苦しい沈黙に包まれる。日本がドイツを操る力を失ったこと……それは、日英同盟を続けることができるかという問題にも関わってくる。7年前の1927(大正12)年、日英同盟が更新された理由の一つに、私が皇帝を操れるのが、ドイツに対する抑止力となるから、というものがあった。私が皇帝を操る糸を失ったこの現状で……ドイツの行動を変化させることができないこの現状で、イギリスは日英同盟を続けることを良しとするのだろうか。
すると、
「今までが異常だったのですよ」
陸奥さんが私に向かって言い放った。
「冷静に考えれば、1人の外国人女性に入れ込んで自国の行く末を左右する君主が存在すること自体があり得ないのです。我が国にとっては天祐でしたが……。今後はそれに頼らず、地道に外交をすればいい。ただそれだけのことです」
(それを陸奥さんが言うかなぁ……)
化け物じみた……ではない、人間離れした交渉力を持つ陸奥さんに私は心の中でまたツッコミを入れた。その交渉力で、どんな相手であろうとも、こちらの要求を通してしまう。それが外務大臣、そして内閣総理大臣、国際連盟設立準備事務局長だったころの陸奥さんだった。けれど、その彼の交渉力と人脈をもってしても、軍縮は思うようには進まなかった。今の陸奥さんが、何らかの大臣職に就いていたら、事態は変わったのかもしれないけれど……。
「いずれにしろ、この軍縮会議を機に、世界各国の力関係は変わっていくでしょう」
今まで黙っていた大山さんが、冷静な口調で言った。
「俺たちは、そのことを頭に入れておかなければなりません」
私は上座にそっと顔を向けた。真っ直ぐ正面を見つめているお上の瞳の色は、心なしか暗かった。




