絶望するのはまだ早い
1934(昭和6)年3月25日日曜日午前11時、東京市麹町区霞ヶ関1丁目にある有栖川宮家霞ヶ関本邸。
フランスを中心にした欧州情勢は荒れに荒れ、私を含めた梨花会の面々は、中央情報院からの情報を分析したり、欧州の知り合いに働きかけて情勢の安定化を試みたりと忙しい日々を送っていた。その一方、私の長女・万智子とその子供の光子の身体は順調に回復し、晴れて本日、霞ヶ関本邸から淀橋区にある南部家に戻ることになった。私は寝不足でボーッとした頭を左右に振って眠気を覚ましながら、夫の栽仁殿下、そして次男の禎仁とともに、万智子と光子を見送るため霞ヶ関本邸に到着した。
「ねぇ、母上」
私たちが本邸の応接間に入ると、長椅子に腰かけた万智子があいさつもそこそこに私を呼んだ。彼女は光子をしっかりと抱いている。昨年のクリスマスイブに生まれてから約3ヵ月、私の初孫は万智子と彼女の夫・南部利光くんの愛情に育まれ、すくすくと成長していた。
「どうしたの、万智子?」
私が娘に応じると、
「伊藤の爺たち、全然お見舞いに来てくれなかったじゃない!」
彼女は私に向かってこう言い、膨れっ面になった。
「楽しみにしていたのよ!こうして、おばあ様のところにいさせてもらえたから、身体はすごく楽だったの。でも、退屈で退屈で……。母上に、“伊藤の爺たちがお見舞いに行きたがっている”と聞いたから、爺たちが来てくれるのを待っていたのに……弥生先生から“人と自由に会っていい”という許可が出ても、爺たち、ちっとも来てくれないんだもの!」
「あー、そっかぁ……そうねぇ……」
お冠な長女にどう答えればいいのか、私は考え込んでしまった。万智子に“人と自由に会っていい”という許可が出たのは2月下旬……フランスで革命じみた騒ぎが始まったのと同じころだ。あれ以降、梨花会の面々は忙しくなってしまった。
すると、
「しょうがないよ。爺たちだって、もういい年だしさ。それに、色々忙しいから、姉上のところに来る体力がないんだよ、きっと」
禎仁が軽い調子でこう言うと、私と栽仁殿下にそっと目配せする。恐らく、うちの次男坊は、伊藤さんたちがなぜ姉のところに来られないか、理由を察しているだろう。
「”爺たち”って、原閣下や、枢密院議長の伊藤閣下のことだよな、禎仁?……なら、禎仁の言う通り、お忙しいんだよ。帝国議会だって会期末だし」
万智子の隣に座る彼女の夫・南部利光くんが、まず同学年の禎仁に確認してから、万智子の方を向いて彼女をなだめた。利光くんは、”爺たち”が忙しい真の理由は知らないと思うけれど……もし知っていたら、その”爺たち”の厳しいしごきを受けることになるだろうから、知らないままの方がいいかもしれない。
「そうね……。じゃあ、落ち着いたら、私の方から爺たちのところに行くわ」
禎仁と利光くんの言葉を受けて万智子が力強く答えると、驚いてしまったのか、光子が声を上げて泣き出した。「よしよし、どうしたの?」と言いながら光子をあやし始めた万智子の表情は、慈愛に満ちた母親のそれだった。私は光子が生まれた時のことを思い出し、密かに胸をなで下ろした。
と、
「ところで、父上、母上……謙仁のお見合いの話はどうなっているんですか?」
早くも光子を落ち着かせた万智子が、身を乗り出しながら、この場にいないもう1人の弟のことを尋ねてきた。
「まさかとは思うけれど、仲介してくれる爺たちが忙しいからって、お見合いを先延ばしにしてるんじゃ……」
「大丈夫、それは安心していいよ」
栽仁殿下が長女に答えた。万智子の弟で禎仁の兄である私の長男・謙仁は、内々で結婚の話がある。万智子はその進捗を心配しているのだろう。
「本当は、謙仁が練習航海から戻ったらすぐに、相手と顔合わせをしてもらおうと思っていたんだ。でも、謙仁から、”赴任先に向かうまで時間がないから、顔合わせは夏期休暇の時にしたい”って連絡が入ってね……。仕方がないから、顔合わせは謙仁の希望通り、今度の夏にすることにしたよ」
栽仁殿下が少し残念そうに続けると、
「姉上、兄上が”結婚なんて絶対イヤだ”なんて言わなかっただけ、まだよかったって思おうよ」
禎仁が姉に妙ななだめ方をする。
(いや、謙仁、そこまで堅物ではないと思うけれど……)
来月の頭に練習航海を終えると、すぐに舞鶴に赴任する予定の長男のことを私は思った。寄港先から時々送ってくれた手紙によると、謙仁は同僚にも恵まれ、元気に楽しく練習航海に従事しているようだった。
「ま、謙仁自身がお見合いをするつもりでいるなら、ちゃんとその相手と結婚するわ。あの子、約束は守るから」
万智子の遠慮のない言葉に、私は「そうね」と相槌を打つ。光子が産まれた後、ややぎこちなかった私と万智子との関係は、今では万智子が嫁ぐ前と同じように戻っていた。
「だからさ、姉上。来年には兄上のお嫁さんに会えるよ。それまで僕が父上と母上の面倒を見るから、姉上は何の心配もしなくていいぜ」
「あなたねぇ……母上はともかく、父上の面倒は見なくていいでしょ。それに、禎仁だって、そろそろ帝大の受験のことを考えないと。もし来年の入学試験に落ちたら、上原閣下に合わせる顔がないわよ」
胸を張った禎仁に、万智子が手厳しく言い返すと、「うわぁ、言われちゃったよ」と禎仁が首をすくめる。とたんに、応接間に笑い声が広がった。
「万智子も、すっかり元気になったみたいで何よりだ」
栽仁殿下は満足げに頷くと、
「万智子、身体は良くなったと思うけれど、無理をしてはいけないよ。無理をしたら、母上が飛んでくるからね」
冗談なのか本気なのか分からない注意を万智子に向かってした。
「はい、父上。母上に雷を落とされないようにするわ」
万智子が真面目な口調でこう言うので、
「もう……私、そんなに怖くないと思うけどなぁ」
と私がぼやくと、
「いや、すごかったんでしょ?利光から聞いたよ。母上が鬼のような形相だったって」
横から禎仁が茶化して言う。「禎仁!」と叫びながら私が睨んだのと同時に、「僕、そんなこと言ってないけどな」と利光くんが抗議する。すると、
「ふふっ」
利光くんの隣で万智子が噴き出した。その笑いは再び応接間にいる人々に伝染し、しまいには、怒っていた私まで笑い出してしまった。
再び明るい笑い声に包まれて、私はようやく、欧州の混乱を少しだけ忘れることができた。
1934(昭和6)年4月9日月曜日午後2時35分、皇居・表御殿にある牡丹の間。
先月の定例梨花会以来、皇居では臨時の梨花会が何度か開かれている。議題はもちろん、混乱するヨーロッパ情勢と、それに伴って揺れ動く軍縮会議の予備交渉についてである。
「フランスの混乱は、一応は落ち着いてきました」
外務大臣の幣原さんが、堀海兵大佐とともにヨーロッパに出張しているため、外務大臣がするべき海外情勢の報告は総理大臣の原さんが行っている。外務大臣不在ではあるけれど、外務次官の松井慶四郎さんがしっかり情報をまとめている。そして、中央情報院がヨーロッパに職員を大量に増派していることもあり、報告の質は幣原さんがいる時と全く変わりなかった。
「正規軍が勢いを盛り返して各地の臨時政府を討伐しているため、臨時政府はブルゴーニュにあるもののみになっています。しかも、ブルゴーニュの臨時政府には院の手の者が入り込んで工作を行っておりますので、消滅は時間の問題と思われます」
「あの悪童が好きそうな仕事ですな」
原さんの報告を聞いた大山さんがポツリと呟く。中央情報院の職員・石原莞爾さんは、現在、フランスに潜入し、地方に設立された臨時政府潰しの任務を遂行していた。
(確かに石原さん、そういう仕事が得意そうだなぁ……)
私が大山さんの隣でこんな感想を抱いた時、
「一方、軍縮会議に対するフランスの態度は、消極的なままです」
原さんがやや沈んだ口調で報告を続けた。
「フランス国内の情勢は落ち着きつつあるものの、フランスは、可能であれば軍縮会議から離脱したいという意向を示し続けています。フランスでは今回の騒ぎで閣僚が数名入れ替わりましたが、新任の大臣たちが、国粋主義者たちの再度の暴走を恐れ、軍縮交渉に消極的なのです。ジュネーブの吉田と米内が、フランスへの働きかけを続けておりますが、フランスを軍縮会議から離脱させないようにするのが精一杯とのことです。また、今月に入ってから、ドイツでも、国粋主義者たちによる軍縮反対を訴える暴動が発生しました」
原さんの報告の末尾に、
「僕らが後始末を手伝ってやっているというのに、フランスはこちらの意図を汲み取らないのですなぁ。政情が落ち着けば、我々の勧め通り、軍縮会議に復帰すると思っていたのですが」
という、西園寺さんの嘆きが重なる。
「仕方がない、西園寺くん。フランス側もまだこちらに対応する余裕がないのじゃろう」
西園寺さんの隣に座る伊藤さんが西園寺さんを慰めると、
「これからですよ。幣原君と堀君もヨーロッパに到着したから、フランスを軍縮に前向きにすることはできます」
陸奥さんがこう言った。
「本当に大丈夫でしょうか?」
ところが、山本五十六航空大佐が、陸奥さんに疑念を呈した。
「フランスの騒ぎは黒鷲機関が引き起こしたことが、院の調査によって判明しています。そして、いつもなら黒鷲が鎮圧するはずのドイツ国内での国粋主義者たちの騒ぎが、未だに鎮圧されていない……。恐らく、ドイツは軍縮会議から手を引くための言い訳を作るために、ドイツ国内の暴動を放置しているのだろうと俺は考えます」
「なるほど……フランスが動揺している今なら、自分たちがもう一押しすれば軍縮会議の枠組みそのものを崩壊させられる……ドイツはそう考えたということですね」
山本大佐の言葉に、栽仁殿下が苦々しげに応じる。とたんに牡丹の間は重苦しい空気に包まれた。梨花会の出席者たちの顔に、一様に苦悩の色が漂っている。陸奥さんですら、僅かに顔をしかめていた。こんなことは今までにほとんどない。
「フランスが動揺している隙に、フランスに攻め込んで領土を奪おう、……ドイツがこう考えていてもおかしくはないですな」
枢密顧問官の山本権兵衛さんの言葉を聞きながら、
(これが皇帝の本性ということか……)
私は暗澹たる思いに囚われようとしていた。“兵力を減らしたい””軍艦を減らしたい”……口ではそう言っていても、結局、どの国も、自国が攻撃される恐怖や、他国を打ち負かしたいという欲から逃れることはできないのだ。
「確かに、吉田と米内からは、予備交渉のドイツ代表団が妙な動きをしているという報告がありました。五十六の言う通り、ドイツも軍縮会議から離脱したい……と主張し始めるつもりなのかもしれません。この流れに他の国も乗ってしまえば、間違いなく軍縮会議の枠組みそのものが崩壊します。しかも、予備交渉の終了期日まであと数日しかありませんし……」
原さんのますます暗くなる報告に、
「梨花叔母さま……」
という、お上の呼びかけが重なる。お上の声には悲しげな響きが伴っていた。
(人が理不尽な理由で死ぬのは嫌だ……その思いで頑張って来たけれど、ここまで、かしらね……)
私が目を伏せたその時、
――絶望だけに囚われるな!
私の頭の中に、大きな声が響いた。
――しっかり前を見て、希望を見つめろ、梨花!
(あ……)
確かあれは、謙仁が生まれた時……。帝国議会の閉会式直前に破水してしまい、”生まれるのが早過ぎるから、この子は生きられない”と絶望する私を、まだ皇太子だった兄が叱り飛ばしたのだ。その結果、謙仁は無事に生まれ、立派に成人したのだけれど……。
「……まだよ、まだ!」
私は左右に首を振りながら叫んだ。
「絶望するのはまだ早い!私が皇帝に働きかければ、ドイツは余計なことを考えずに、ちゃんと軍縮をするかもしれないし、フランスへのちょっかいもやめるかもしれない。軍縮会議の本交渉がおじゃんになったわけじゃないし、幣原さんと堀さんだって、ヨーロッパに到着したのよ。日本にいる私たちが、軍縮を諦めたらいけないの!」
「叔母さま……」
お上が軽く目を瞠ったのと同時に、
「その通りですね」
陸奥さんが私を見つめて頷いた。
「相手を翻弄してこちらに屈服させるのも外交。しかし、こちらの言い分を粘り強く主張し、説得・交渉するのもまた外交なのです」
(あれ?)
陸奥さんのセリフに、私は微かに違和感を覚えた。いつもの陸奥さんなら、私を褒める時には必ず皮肉をセットで降らせるのに、今回はそれがない。どうしたのかと訝しんだ直後、
「……梨花叔母さまのおっしゃる通りです」
お上の力強い声が牡丹の間に響いた。
「本交渉が中止になったわけではありません。軍縮できる可能性はまだあります。……もうすぐチャーチルも来日するのです。彼とも連携して、軍縮を推し進めましょう」
「そうね」
私がお上に相槌を打つと、
「楽しみですねぇ」
陸奥さんがニヤリと笑った。
「あのブルドッグのような顔をしたチャーチルを、徹底的に屈服させられると思うと、楽しみで仕方がないですよ。止めに入って来そうな幣原君もいないことですし、思う存分、チャーチルをいたぶってやりましょう」
(あ……これ、単に矛先が変わっただけ?)
陸奥さんの、まるで血に飢えた獣のような言葉を聞いた私は、なぜか妙に安心してしまった。




