良薬は口に苦し?(1)
1933(昭和5)年11月3日金曜日午後7時30分、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸。
「ちょっと、何よ、これは……」
我が家の応接間に現れた面々を見て、私はこう言ったなり絶句してしまった。
昨日、栽仁殿下に声を掛けてきたのは、内閣総理大臣の原さん、枢密院議長の伊藤さん、そして大山さんだった。その3人がいるのは当然のことなのだけれど、この応接間には彼らだけではなく、枢密顧問官の陸奥さんと山本権兵衛さん、貴族院議員の西園寺さん、内務大臣の後藤さん、前内閣総理大臣の桂さん、児玉自動車学校理事長の児玉さんまでいる。我が家の応接間は、世間一般の応接間より少し広いけれど、こんなに人がいたら流石にいっぱいになってしまう。梨花会の面々が10人近く、栽仁殿下に揃って話をしたいとは、一体何事なのだろうか。私が戸惑っていると、
「このような大人数で押しかけまして、誠に申し訳ございません」
栽仁殿下の前に座った原さんが深く頭を下げた。
「しかし、わたしたちには、そうするだけの理由があるのです。……有栖川宮殿下、ここ数か月、お仕事の忙しさはいかがでしたか?」
「仕事の忙しさ……ですか?」
灰色の背広服を着た栽仁殿下は、原さんの質問に少し驚いたようだったけれど、
「艦隊勤務は通常通り行っています。しかし、ここ数か月、国軍省からの問い合わせが妙に多くなりました。その処理に追われていましたが……あの、それが何か問題になったのですか?」
すぐに平生と同じ表情に戻ってこう言った。
すると、
「いえ、全く問題ではございません。わしらにとっては、非常にありがたい結果でございました」
原さんではなく、原さんの隣に座っている伊藤さんが栽仁殿下に答えた。
「は?それはいったいどういうことですか?」
栽仁殿下が国軍省からの問い合わせの処理に追われていたのが、伊藤さんたちにとってありがたい結果になったというのはどういうことなのだろうか。伊藤さんたちが、栽仁殿下に何かの問題の分析を国軍省経由で依頼していたのだろうか。栽仁殿下が怪訝な顔をして伊藤さんに反問した時、
「おめでとうございます」
枢密顧問官の山本権兵衛さんが、栽仁殿下に向かって最敬礼した。
「「は……?」」
全く状況がつかめない私たち夫婦の様子に気づいているのだろうか。山本さんは口調を全く変えることなく、
「我々は、威仁親王殿下の薨去以来、梨花会に新たに皇族をお一方加えるべきと考えておりました。我々の議論に皇族の立場から加わることができ、なおかつ、他の皇族の方々を統率していけるような方を……。そのために、我々は密かに選考を進めておりました。そして、我々の課した問題の数々に、有栖川宮殿下は見事にお答えになりました」
と話し始めた。
「従って、我々は、有栖川宮殿下には梨花会にお入りになる資格があると判断致しました。教育顧問として有栖川宮殿下のご教育に携わり、成長を見守っておりましたが、これほど嬉しいことはなく……」
「ちょ……ちょっと待ってください!」
涙ぐみながら話し続ける山本さんの舌の回転を止めたのは、栽仁殿下の鋭い声だった。
「つまり、国軍省から僕にあった問い合わせは、梨花会に僕を入れるための試験だったということですか?それは……それは本当に、正当な評価が下されているのでしょうか?僕は梨花さんの夫だからということで、点数を甘くつけたのではないですか?」
「それは違います」
栽仁殿下の視線を受け止めて答えたのは児玉さんだった。
「我々は、そのようなつまらないことは致しません。今回の結果は、有栖川宮殿下が、ご自身の実力のみで勝ち取ったものでございます」
児玉さんの回答を聞いた栽仁殿下は数秒考え込んだけれど、
「梨花会に入っていなくて、僕より優秀な皇族は、何人もいます」
と、梨花会の面々に向かって反論を始めた。
「例えば、稔彦が才能に恵まれているのは、国軍の上層部なら誰もが知るところです。成久さんも輝久も鳩彦も、能力は高いです。それに、僕よりお若くはありますが、秩父宮殿下はご人格も優れていらっしゃる上に、能力も高くていらっしゃいます。それなのに、どうして僕だけを試験したのですか?」
「お言葉ではございますが、東久邇宮殿下、北白川宮殿下、東小松宮殿下、そして朝香宮殿下に関しましては、今回、有栖川宮殿下と同じように、我々の“試験”を受けていただきました」
栽仁殿下からの質問に、今度は桂さんが答える。
「その結果、有栖川宮殿下のご回答が、他の殿下方のご回答より頭一つ抜けて良い出来でした。他の殿下方のご回答には、総合的な視点が欠けているものも散見されましたが、有栖川宮殿下のご回答には、それがございませんでした」
「なお、秩父宮殿下は、今回の選考から除外しております。もちろん、秩父宮殿下のご優秀さは、我輩たちも存じ上げておりますが、残念ながら、まだお若くていらっしゃいます。我輩たちが求めているのは、能力が高く、他の殿下方を統率できる威厳をお持ちの皇族……この基準に従って、候補は有栖川宮殿下、東久邇宮殿下、北白川宮殿下、東小松宮殿下、朝香宮殿下とし、選考の結果、見事有栖川宮殿下の梨花会入りが決まった訳で……」
力の入った後藤さんの言葉に、
「お断りします」
栽仁殿下の冷たい声が突き刺さった。
「何ですと……?!」
原さんが驚きの声を上げる。彼以外の梨花会の面々も、栽仁殿下の答えを想定していなかったのか、顔を僅かにしかめたり、目を丸くしたりと、様々な顔を見せる。そんな彼らに、
「その“総合的な視点”とやらが得られたのは、僕が日ごろから梨花さんの話を、機密に触れない範囲で聞いていたからです」
栽仁殿下は硬い表情で言った。
「もし、僕と同じように、輝久たちが梨花さんの話を聞いていたら、輝久たちも閣下方の意に沿う回答ができたはずです。……これでは、僕が梨花さんの夫であるという立場を利用して能力を伸ばしたことになってしまいます。不公平です」
(栽さん……)
私が全く口を挟めずにいると、
「能力を得られた経緯は、どうでもよろしいのです。僕らはその能力を欲しているのですよ。日本のためにね」
陸奥さんが冷静な口調で栽仁殿下に言う。
「もう一度申し上げますが、梨花会に入るのはお断りします。これでは、僕は不正な手段を用いて梨花会に加わることになってしまいます」
栽仁殿下は一歩も退かず、梨花会の面々を睨みつけた。
「どうしても僕を梨花会に入れたいのなら、僕が亡き父と同じ、海兵大将に昇進してからにしてください」
栽仁殿下の身体からは、激しい怒りがにじみ出ている。ここまで怒っている夫の姿を、私は数えるほどしか見たことがない。私は思わず身を固くしたけれど、夫が相対しているのは、長年、この国の中枢にいる百戦錬磨の強者たちだ。そんな彼らの中から、
「前内府殿下」
西園寺さんが、普段と変わらない声で私を呼んだ。「あ、はい」と反射的に応じた私に、
「五十六君が梨花会に加わったのは、いつでしたかな。それから、堀君と山下君が加わったのは……」
西園寺さんはこんな問いを投げた。
「ええと……山本大佐が梨花会に入ったのは、極東戦争の対馬沖海戦の直後で、堀さんと山下さんが入ったのは、お上が世界一周から戻った後でしたけれど……」
「ふむ。では、その3人が梨花会に加わった時の軍の階級は、覚えていらっしゃいますか?」
「確か……山本大佐は少尉になったばかりで、堀さんと山下さんは、少佐に……なっていたかしら?」
私が西園寺さんからの重ねての問いに答えるため、頭の中から必死に記憶を引っ張り出すと、
「流石、前内府殿下の記憶力は素晴らしいですね」
陸奥さんがニヤリと笑う。
「つまり、有栖川宮殿下は今、海兵中佐でいらっしゃいますが、梨花会に入るにあたって、軍の階級など関係ないということですな」
栽仁殿下の目をじっと見つめながら、伊藤さんが言い聞かせるように言った。
「我々が有栖川宮殿下の威厳と能力を欲しているのは、殿下が大将に昇進なさる遠い未来ではなく、今でございます」
「……重ねて申し上げます。梨花会に入るのはお断りします」
伊藤さんの言葉を聞いても、夫の態度は変わらなかった。
「少なくとも、僕の能力は、亡き父より劣ります。そんな僕を捕まえて梨花会に入れとおっしゃるなど、閣下方の行動が理解できません」
栽仁殿下は真正面にいる原さんと睨み合う。原さんは栽仁殿下の視線を黙って受け止める。応接間の中で、緊張が爆発寸前まで膨張したその時、
「かしこまりました。今日のところは、これで失礼いたしましょう」
今まで黙っていた我が臣下が一礼した。
「大山さん」
伊藤さんが大山さんを鋭い目で見た。
「ここで引き下がるわけにはいかないでしょう」
「しかし、“入りたくない”とおっしゃっておられる方を、無理に今すぐ入れる必要はないでしょう」
伊藤さんに穏やかな口調で言った大山さんは、
「鈴木くんの例もあります。……有栖川宮殿下がその気におなりになるまで、俺たちはただ待てばよいのです」
と微笑して続けた。
「なるほど。確かにその通りですね」
頷いた陸奥さんが、伊藤さんと原さんに椅子から立ち上がるよう促す。伊藤さんと原さんは席を立つと、黙って栽仁殿下に一礼して応接間から出て行く。他の梨花会の面々も次々に栽仁殿下に頭を下げ、応接間から去っていった。
静かになった応接間で私が動けずにいると、
「梨花さん……」
うつむいたまま椅子に座っていた栽仁殿下が私を呼んだ。
「……梨花さんはこの話、知っていたの?」
「ううん、全然」
私は左右に首を振った。
「だから、驚いちゃって……大山さんたちに、何も言えなかった」
「そうか……」
下を向いたまま私に応じた栽仁殿下は、
「梨花さんは、僕に梨花会に入って欲しいと思うかい?」
と尋ねた。
「……入ってくれたら、心強いとは感じるわ」
混乱する思考を、私は必死にまとめながら答える。
「でも……梨花会に入るのを、私は栽さんに強制したくはない。伊藤さんたちはああ言うけれど、栽さんが梨花会に入るのは、栽さんが納得してからでいいと思う。それこそ……海兵大将になってからで構わないよ」
すると、
「……ありがとう、梨花さん」
栽仁殿下は私に頭を下げた。
「僕は梨花さんのためにも、梨花さんにふさわしい、日本一の海兵大将になりたい。日本一の海兵大将になってから、梨花会に入りたいと思う。……そうなるには、まだまだ時間がかかる。だから……日本一の海兵大将になるまで、待っていて欲しいんだ」
「……分かったわ」
私は頷くと、夫の手を握った。
「待ってるわ。栽さんが日本一の海兵大将になるまで、ずっと待ってる。栽さんの隣で……」
視線を上げると、栽仁殿下の澄んだ瞳とぶつかる。2人きりになった応接間で、私と夫はいつまでも見つめ合っていた。
けれど、私も栽仁殿下も忘れていた。梨花会の面々は、一度やると決めたことは、どんな手段を使ってでも、必ずやり遂げてしまうことを……。




