ミッション:松山城炎上を阻止せよ
1933(昭和5)年5月13日土曜日午前9時3分、皇居・表御座所にある天皇の執務室・御学問所。
「お上!どうか、松山城を守るために、お力をお貸しください!」
私は御学問所の床に正座し、お上に向かって頭を下げていた。
「あの、顧問殿下……何も、土下座までなさらなくても……」
「さようでございますぞ、前内府殿下。陛下も困惑なさっておいででございますし……」
内大臣の牧野伸顕さんと、内閣総理大臣の桂太郎さんが私に口々に言ったけれど、
「この頭、絶対に上げませんよ。だって、貴重な文化財の危機なんですから!」
私は額を御学問所の床につけたまま彼らに言い返した。
……“史実”の1933年7月9日の未明、愛媛県松山市にある松山城が突如炎上した。全市の消防組や警察、青年団、そして、松山市に駐屯している軍隊が必死の消火活動を行った結果、天守閣は炎上を免れた。しかし、南北の隅櫓や小天守、多聞櫓など、数々の貴重な建築物が灰燼に帰してしまった。そして後日、この火災は放火であることが判明したのだ。
「私の時代まで、天守閣は残っていたし、天守閣の他にも、江戸時代からの建物が残っていたわ。でも、1933年の放火事件がなければ、他にも貴重な建造物がたくさん残っていたはずよ。だから、今回の放火事件は、絶対に阻止したいの。……本当は、当日に私が松山に行こうと思っていたの。皇族が地方に行けば、その訪問場所の警備は厳しくなる。だから、私が松山城を訪問するということにしておけば、松山城の警備が厳しくなって、放火犯が松山城を燃やす隙はなくなると思っていたのだけれど……万智子が妊娠したから、東京を離れられなくなってしまったの」
私が土下座したまま事情を説明すると、
「何と、万智子さまがご懐妊ですか!前内府殿下にとっては初孫になりますな!いつごろお生まれになるのですか?」
桂さんが目を丸くして叫ぶ。
「昨日、東京女医学校の吉岡弥生先生に万智子を診察してもらったら、12月の下旬ごろ、と言われましたけれど……って、本題はそれじゃなくて!」
桂さんに答えた後、ツッコミを入れた私は、再び額を床にこすり付け、
「私は医者としても母親としても、初めての出産に臨む万智子を支えなければいけない。それもできる限り、万智子のそばで……だから、松山城の件に関して、頼れるのはもう、お上しか……」
とお上に懇願した。
「そんな……顧問殿下、大げさな……」
呆れた口調で呟く牧野さんに、
「牧野閣下、前内府殿下の城郭に対するご情熱を甘く見てはなりませんぞ」
と、桂さんが大げさな身振りと共に言う。
「前内府殿下はご幼少のみぎり、大津事件の発生を阻止した褒美として、明治天皇陛下に名古屋城の見学と大山閣下を臣下にすることをご所望なさったほど、城郭がお好きなお方でございます。それに、関東大震災が発生した折には、和田倉門の渡櫓が傾いているのをご覧になって、気を失われたではありませんか」
「あの、桂さん、私、あの時、名古屋城の見学も大山さんのことも、お父様におねだりしてないんですけど……」
私が桂さんのセリフを訂正した時、
「梨花叔母さま、どうか椅子にお座りください」
今まで黙っていたお上が口を開いた。
「え……」
まだお上からは、了承するとも拒否するとも返事がない。そんな状態で頭を上げるわけにはいかないので、土下座の姿勢を崩さずにいると、急に私の身体が持ち上がった。慌てて左右を見ると、右側から桂さんが、左から牧野さんが私の脇に腕を差し入れ、私を抱きかかえていた。
「ちょっ……何するんですか、2人とも!」
抗議の声を上げた私に、
「陛下の思し召しでございます」
「前内府殿下、“まにあ”としてのご心情は、この桂もよく分かるつもりでございますが、いくら何でも、これはやり過ぎでは……」
牧野さんと桂さんが同時に言葉を浴びせる。黙り込んだ私の身体を、2人は椅子のそばまで引っ張って来ると、そのまま椅子に座らせた。
「つまり、梨花叔母さまは、7月9日未明に発生するかもしれない松山城の炎上を防ぎたいのですよね?」
口をへの字に曲げている私に、お上は穏やかな声で話しかける。
「……そうね」
私は首を縦に振るとため息をついた。
「単に警備の増強を求めるだけでは、地元の警察に黙殺される可能性もある。でも、皇族が松山城を訪れるとなれば、警察は訪問の前日には松山城を閉鎖して、当日まで虫1匹も入れないような警備をするわ。だからその警備のきっかけを、私の松山城訪問という形で作ろうと思ったんだけど、私が万智子のことで東京を離れられなくなったし、かと言って、他の皇族に松山城に行ってもらうわけにもいかないし……はぁ、どうしたらいいのかしら」
両肩を落とした私に、
「なるほど。それならいい方法がありますよ、梨花叔母さま」
お上は微笑して言った。
「いい方法って……まさか、お上が松山城に行くの?でも、7月9日の近辺で、西日本方面でお上が出席しないといけない行事ってあったかしら?」
「僕が行くのではありませんよ」
私の問いに答えると、お上はニコニコしながら、松山城を守る方法を御学問所にいる一同に説明した。
1933(昭和5)年6月24日土曜日午前9時、皇居・表御座所にある天皇の執務室・御学問所。
「あの、お上……」
お上が御学問所に入るやいなや、私はお上に話しかけた。
「何ですか、梨花叔母さま?」
穏やかに微笑するお上に、
「昨日の昼食会は、その……上手く行きましたか?」
私は恐る恐る尋ねた。
すると、
「はい、大丈夫でしたよ」
お上は私にこう言った。
「カール殿下は、7月8日から7月9日に松山近辺に滞在して、7月9日に松山城を見学すると明言しました」
「よっしゃーーーーっ!」
お上の言葉を聞いた瞬間、私はガッツポーズを作った。
「ああ、もう、気が気じゃなかったわ!昨日、昼食会の様子を覗きに行こうかと何度思ったことか!そのたびに大山さんに阻止されて、盛岡町に帰ってからもほぼ軟禁状態になっちゃったから、宮中の様子を確かめられなくて……おかげで夕べは一睡もできなかったわ。でもこれで……これで松山城は、放火犯の魔の手から守られる!ありがとうございます、お上!ありがとうございます、カール殿下!」
立ったまままくし立てる私を、「あの、顧問殿下、どうか落ち着いて……」と牧野さんが横から困惑気味に止める。
「これでもう、松山城は未来永劫にわたって守られたも同然!ああ、やっと万智子のことに集中できる……」
けれど私は牧野さんを無視して、興奮状態で喋り続けた。
なぜ私が、こんな状態になってしまったのか……それは、“カール殿下”が誰なのか、ということから説明する必要がある。
カール殿下は北欧の王国・スウェーデンの王族だ。1926(大正11)年に来日したスウェーデン皇太子、グスタフ・アドルフ殿下の末息子にあたる。そんな彼が、世界一周旅行の途中、日本に立ち寄ることになったのだ。6月22日に横浜港に上陸し、東京のホテルに宿泊したカール殿下は、昨日参内し、お上との昼食会に臨んだ。
カール殿下は8月の半ばまで日本に滞在する。スウェーデン側が日本側に事前に示したカール殿下の旅行日程には、奈良や京都、富士山周辺や厳島神社など、この時代の外国人にとっては定番の観光地の地名が並んでいた。
――そのカール殿下の旅行の行程に、松山滞在を組み込めばいいのです。それも、7月9日に松山城を訪れる、ということにして……。
お上が私にそう提案したのは、先月の13日、私が松山城を放火犯の魔の手から守って欲しいと直訴した直後だった。
――外国の王族の来訪となれば、松山の警察や軍隊も、気合を入れて松山城を警備するでしょう。叔母さまが松山城を訪れる場合と同じように、厳重に……。
「無事に計画が成ったのは何よりだけれど、カール殿下、7月の8日は松山の近辺に泊まる、ということね。……あれ?松山に、外国人が泊まれそうなホテルや旅館ってあったっけ?」
不意に思いついた疑問を私がお上に投げると、
「あの、顧問殿下……」
牧野さんが大きなため息をついた。
「松山市のすぐ隣の道後湯之町には、道後温泉があるではないですか。風土記にも、時の天皇や聖徳太子などが訪れたと記されている、歴史ある温泉地ですよ。スウェーデンでは、温泉はかなり珍しいものでしょうから、日本式の温泉は喜ばれるのではないでしょうか」
「あ……そ、そうですね……あはは……。そう言えば、そうでしたね……。前世でも、お城以外の観光地のことは全く眼中になかったから、つい……あははは……」
私は笑って誤魔化そうとしたけれど、牧野さんは両肩を落としたままだし、お上に呼ばれて表御座所にやって来ていた外務大臣の幣原喜重郎さんも、呆れたように私を見ていた。
「陛下より、“7月8日にカール殿下を松山市近辺に宿泊させ、7月9日午前に松山城を見学させるよう、スウェーデン側と調整するように”と命じられ、どうも妙なご命令だなと訝しく思っていたのですが、陛下をそそのかしたのは前内府殿下でしたか……」
「そ、そそのかすって、その言い方はなんですか!」
ため息をついた幣原さんに私が注意すると、
「外務省と宮内省は、この命令を遂行するのに大変苦心したのですよ!おまけに、スウェーデン側は、“もっと気ままに旅行させろ”と、滅茶苦茶な旅程を示してきて……こちらの苦労も考えてください!」
幣原さんはものすごい勢いで私に食って掛かる。
「前内府殿下、以後、このようなことはお慎みくださいよ!」
目を怒らせて怒鳴る幣原さんに、私は「はい……」とうな垂れて返事するしかなかった。
そして、1933(昭和5)年7月9日日曜日午前6時、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸。
「あのさ、梨花さん……」
寝室のベッドに横になったものの、一睡もせず夜を明かした私に、隣で眠っていた栽仁殿下が声を掛けた。週末なので、栽仁殿下は横須賀にいる一等巡洋艦“八丈”から帰京してくれているのだ。
「もしかして、夕べは眠れてないの?」
夫の質問に、
「当たり前じゃない……」
私は身体を起こしながら答えた。
「“史実”の通りに放火事件が起こったら、松山城の櫓や小天守が今ごろ焼け落ちているのよ。それなのに、まだこっちに何の連絡もない。松山城が無事なら無事で、一報をくれてもよさそうなのに……。ああ、どうしよう、松山城が燃えていたら……」
寝間着のまま、ベッドの上で頭を抱えた私の肩を抱き寄せながら、
「大丈夫だよ、梨花さん」
優しい声で栽仁殿下は言った。
「もし、松山城が炎上したら、この家に真っ先に連絡が入ると思うんだ。それに、松山側が、朝までお城が無事だったというのを確認してから、こちらに連絡を入れるつもりなのかもしれないし……」
「だったら、もう夜は明けてるわよ。そろそろ、連絡があっていいと思うけれど……」
私が栽仁殿下に反論したその時、寝室のドアが外からノックされた。「妃殿下、お目覚めでしょうか?」という、我が家の別当・金子堅太郎さんの声もする。
「ええ、起きてますよ!」
応答しながらベッドから飛び降りようとした私の身体を、栽仁殿下ががっちりと抱き締める。「な、何するのよ!」と横を振り向いて叫んだ時、ドアは無情にも開かれた。
「……一度、外に出ておりましょうか」
栽仁殿下に横から抱かれた私の姿を見た金子さんは、目をそらしながらこう言うと咳払いをした。
「梨花さんが、ベッドから飛び降りそうになっていたからね」
栽仁殿下は全く動じずに金子さんに答えると、私の寝間着の襟を横から直そうとする。流石にそれは恥ずかしいので、夫から身体を少し離して自分で寝間着の襟を直してから、
「金子さん、何があったのかしら?」
私はすまし顔を金子さんに向けた。
「松山から連絡がありまして」
一瞬クスっと笑った金子さんは、真面目な表情に戻ると、
「昨夜遅く、松山城のある山への登り口付近を警戒していた警察官が、酒瓶に入った揮発性の油とマッチを持った怪しい男を捕まえました。尋問したところ、男は松山城に放火をするつもりで山を登ろうとしたと認めました」
私と栽仁殿下にこう報告した。
「「!」」
「しかも、その男は、昨年から、道後湯之町にある道後ホテルの大宴会場をはじめとして、愛媛・福岡・熊本・佐賀・長崎・大分の6県で、寺社仏閣などの宗教施設や小学校、商店などに放火して回っていた凶悪犯でございまして……。警察で緊急逮捕して取り調べておりますが、余罪は30件以上になりそうだとのことです」
「余罪30件以上の放火魔……」
栽仁殿下が呆然として呟いている横から、
「それで、肝心の松山城は?!」
私は身を乗り出さんばかりの勢いで金子さんに尋ねた。
「ご安心ください。松山城は無事でございます。……事前に妃殿下から伺った話と合わせて考えると、恐らく、今回捕まった男が、“史実”の7月9日に松山城に放火したのでしょう」
金子さんの答えを聞いた私は、両手を挙げると、
「やった!松山城は守られた!」
と大きな声で叫んだ。
「ああ、やっぱり、備えておいて正解だったわ!いくらこの時の流れと“史実”が違うと言っても、やっぱり、“史実”と一致して発生する事件もあるのよ!」
「それは分かったけれど」
はしゃぐ私を見た栽仁殿下は顔に苦笑いを浮かべると、
「梨花さん、今回の火災は免れたけれど、この先、梨花さんの時代まで、松山城を脅かすような事件や事故は起こらないの?」
私にこう尋ねた。
「確か、太平洋戦争末期の空襲で、櫓が焼けてたわね……。でも、これは戦争を起こさなければ回避できるわ」
私は手を下ろすと、松山城に関する“史実”の記憶を必死に探し始める。
「あとは……あ゛」
急におかしな声を出した私に、「いかがなさいましたか?」と金子さんが問う。
「燃えてるわ、太平洋戦争の後でも……。ええと、確か、1949年の2月27日に、たき火の火が燃え移って、門と櫓が……」
金子さんに答えた私は、
「……ということは、それも阻止しないといけないわね。今回は外国の王族の手間を取らせてしまったけれど、次こそは私が松山城に泊まり込んで、怪しい奴を松山城に近づけないようにしないといけないわ」
右の拳を握りしめ、決意を新たにした。
「あのさ、梨花さん。それ、15年以上先のことだから、まずは近い未来に起こることを考える方がいいんじゃないかな。例えば、万智子のこととかさ」
そんな私に、栽仁殿下は優しく話しかける。
「そうだけどさ……万智子には、千夏さんがついてくれているじゃない」
万智子の妊娠が分かってから、私は彼女の嫁ぎ先の南部家に、私の乳母子である東條千夏さんを派遣して、万智子のそばについてもらうことにした。千夏さんの報告によると、万智子はやはり姑の萬子さんに遠慮してしまい、自分の要望をなかなか言い出せずにいるようだけれど、千夏さんが万智子と萬子さんの間に入ることで、体調不良に対する適切な処置を取れるようになり、つわりのひどい時期を何とか乗り切ったということだった。
「確かに、千夏さんがいれば安心だけれど」
微笑んだ栽仁殿下に、「でしょ?」と応じた私は、
「そうだ、1949年に松山に行く時には、万智子が生んだ子を連れて行って、日本の城郭がいかに素晴らしいかを教えよう!」
と思い付きを口にした。
「はぁ……」
呆気に取られる金子さんに対して、
「梨花さんらしいなぁ」
そう呟いた栽仁殿下は、
「じゃあ、そのためにも、万智子の出産のことに気を配らないとね」
と言って、私の頭を優しく撫でた。




