昭和三陸地震
1933(昭和5)年1月28日土曜日午後9時30分、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸。
「ふーん、大山閣下がそんなことをおっしゃったのか」
盛岡町邸の本館1階にある居間。横須賀を母港とする第1艦隊から戻ってきた夫の栽仁殿下に、私が月曜日にあった出来事を報告すると、彼はこう言って腕組みをした。
「確かに、謙仁と禎仁の結婚のことを考える余裕、全然なかったね。誰か好きな女ができた、なんて聞かされていたら考えただろうけど。でも、謙仁も禎仁も結婚の適齢期に近いんだし、そろそろ、ちゃんと考えないとね」
「だよね……」
私が夫の言葉に頷くと、
「あの2人は、どんな女が好みなんだろう。梨花さん、聞いたことはある?」
彼は私に真面目な表情で尋ねた。
「……それ、私に聞く?」
よろけそうになった私が、慌てて体勢を立て直しながらツッコミを入れると、
「だって、梨花さんは、僕の初恋の女だし」
栽仁殿下は真面目な表情を崩さないまま私に答える。「あのさぁ……」と呟いた私は、顔を真っ赤にして、長椅子の背もたれに身体を預けた。
「……ねぇ、栽さん、話を戻していい?」
私が何とか口を開いたのは、長椅子にもたれかかってから5分ほどが経過した時だった。
「もちろん」
首を縦に振った栽仁殿下に、
「禎仁は大丈夫だと思うけど、謙仁には、結婚のことはまだ話さない方がいいと思うの。あの子、超真面目だから、お義父さまの一年祭が終わる前に結婚の話をしたら怒るわよ」
と私は言い、ため息をついた。
「確かにそうだね。だけど、謙仁は、相手が有栖川宮家にふさわしい女だと感じたら、見合い相手とすんなり結婚しそうな気がする」
「そうね。その意味では安心だけれど……心配なのは禎仁ね。結婚の話にどんな反応をするか、正直予測できないのよ。独身生活を謳歌しそうな気もするし、結婚しても、“任務のため”と言いながら、女遊びしまくるかもしれないし……」
「うん、禎仁は顔立ちがいいからね。それに、来年には臣籍降下する。女性からしたら、相手が皇族より華族の方が狙いやすいだろうから、禎仁に言い寄ろうとする女性は、これからますます増えるだろうね」
「もしそうなったら、どうすればいいのかしら。禎仁も、自分に寄って来る女性をもてあそびそうだし……」
私がまたため息をつくと、
「そこは、金子閣下や大山閣下の指導に従って、女性たちと適度な距離を保つんじゃないかな」
栽仁殿下は私に言い、
「だけど、謙仁と禎仁が結婚すると、それに伴って考えないといけないことが増えるね。母上がどこにお住まいになるかも、まだ決まっていないし」
と続けた。私の義母・威仁親王妃慰子妃殿下は、義父の五十日祭が終わった後、有栖川宮家の土地がある麹町区の三年町に隠居所を建てて住みたいと言い出した。もし、それが実現すると、霞ヶ関の本邸が空き家になってしまうので、私と栽仁殿下が霞ヶ関に引っ越し、この盛岡町の家を謙仁に譲るのが妥当だろう。けれど、謙仁の家になった盛岡町邸に中央情報院の分室を置き続けることはできない。それに、臣籍降下する禎仁の邸宅地も探さなければならない。それらの作業をどのタイミングで、どの順番で行うか……それを検討しなければいけないのだ。
「私たちや子供たちのことも考えると、転居のことはそう簡単には決まらないわね。どんな順番でライフイベントがやって来るかもわからないから、色々な想定をしないといけないわ。うう、頭が痛くなる……」
私が少しだけ顔をしかめると、
「そうだね。……でも、まず僕が考えないといけないのは、再来月の昭和三陸地震のことだ」
夫はそう言って、急に顔から微笑を消した。
「確か、3月3日に起こるんだよね。斎藤さんが言ってたけど、津波の被害がすごく大きかった、って……。私が前世で生きてた時に起こった2011年の東日本大震災も、三陸海岸の一帯は津波で大きな被害を受けて、結局、全国で2万人以上の死者・行方不明者が出た。それと同じような大惨事にならないように……少なくとも、“史実”の昭和三陸地震より被害を少なくしたいわね」
私が両腕を胸の前で組みながら言うと、
「そのために、国軍がいるんじゃないか」
栽仁殿下は力強く応じた。
「……そうね」
私は頷いて微笑むと、
「今度の地震では、三陸海岸一帯に被害が出るから、宮城県の女川や、青森県の大湊にある水雷隊が機能を失う可能性があるわ」
夫にこう言った。梨花会で話し合われていることは、栽仁殿下にも話していいことになっているのだ。
「女川も大湊も太平洋側だ。女川は三陸海岸の中にあるから、大きな被害を受ける可能性が高いね。横須賀にも津波は来るだろうから、油断はできないけれど」
「でも、三陸海岸よりは被害は少ないと思うわ。だから、梨花会では、横須賀と函館の軍港が被災地救援の基地になると考えているの」
「……となると、僕も頑張らないとね」
私の言葉を聞いた栽仁殿下は、真面目な顔で頷いた。海兵中佐である彼は、現在、横須賀の第1艦隊に所属する淡路型一等巡洋艦“八丈”の副長を務めている。昭和三陸地震が起こった後、“八丈”が被災地救援に出動する可能性は十分にある。
「2月の梨花会で最終的な話し合いをして細部を詰めたら、国軍で地震後の行動計画が策定されるはずよ。そこで、第1艦隊が当日どうするか、というのが決まると思うけれど……」
「“八丈”が出動を命じられても命じられなくても、どっちでもいいよ」
栽仁殿下は私の予測を聞くとこう返し、
「被災地にいることになっても、横須賀にいることになっても、どっちでも構わない。僕はできることをやるよ。国と国民のためにね」
と続けて、私をジッと見つめた。
「うん。……私も軍医学校の校長として、できることをやるわ」
もし、昭和三陸地震での被害が余りにひどかったら、軍医学校の学生たちにも被災地への出動命令が下るかもしれない。一応、それなりの準備はしておこう。私は夫の目を見つめ返すと頷いた。
1933(昭和5)年3月11日土曜日午後2時25分、皇居・表御殿にある牡丹の間。
「……以上が、現在までに政府で把握している被害状況、及び、政府で行っております救援であります」
内務大臣の後藤新平さんが長い報告を締めくくると、牡丹の間は、緊張と安堵が入り混じった奇妙な空気に包まれた。
8日前の3月3日、午前2時30分に、岩手県釜石町の東方約200kmの太平洋上を震源とする大きな地震が発生した。三陸海岸では強い揺れを感じたけれど、地震そのものによる建物の被害はほとんどなかった。今回の地震による被害の大半は、地震の後に発生した津波によるものである。しかし、気象台からすぐに津波警報が出されたことや、“地震の後には津波が来る”という、37年前の明治三陸地震での教訓に住民たちが従い、各地で迅速な避難行動がなされた結果、地震発生から30分後に津波の第1波が三陸海岸に到達していたのにもかかわらず、死者・行方不明者は252名と、“史実”の昭和三陸地震の死者・行方不明者3064名の10分の1以下に抑えることができたのである。
それでも、死者・行方不明者をゼロにできなかったのは、今回の地震で被害を大きく受けた三陸海岸で漁業が盛んだったからかもしれない。
1890(明治23)年、岩手県・宮城県・青森県の三陸海岸一帯に、海岸沿いの低地に新規の住宅や危険物を扱う工場を建設することを禁じる命令が、まだ幼かった私の進言により出された。けれど、漁業をしている人の主な仕事場は、当然海や川である。いくら禁止されていても、仕事場に近い海岸沿いの低地に住みたくなるのが人の情というものだろう。このため、近年、三陸海岸の漁業関係者たちは、海沿いの低地に住居を作り、それを県には“水産物加工場”と届け出るようになっていた。もちろん、彼らも学校で津波と地震に関する教育は受けていたので、揺れを感じた瞬間にすぐ避難を始めた人が大半だったけれど、避難場所までの距離が遠いために、移動中に津波に巻き込まれるという惨事が少なからず発生してしまったのだ。
「……斎藤、“史実”と比べてどうかね?」
内閣総理大臣の桂太郎さんが、国軍大臣の斎藤実さんに問いかける。ちなみに、斎藤さんは“史実”で昭和三陸地震が発生した時、内閣総理大臣を務めている。だから斎藤さんには、昭和三陸地震に内閣総理大臣として対応した記憶があるのだ。
「“史実”より、人死には減りました」
斎藤さんは重々しく言うと、
「しかし、それ以外の被害は“史実”と変わりありません。いえ、“史実”にはこの時期なかった女川の水雷隊の庁舎が、津波で使い物にならなくなったことを考えると、国軍への被害は“史実”より大きいでしょう。俺が国軍の配置などに口を出せるようになったころには、既に女川の水雷隊が出来上がって定着し、地元の反対運動にも遭い、安全な場所への移転が叶わなかったのですが……」
と続ける。彼の眉間には皺が寄っていた。
「それでも、全体的な状況を考えれば、“史実”よりはマシですよ、斎藤さん」
すると、野党・立憲自由党の総裁である原敬さんが冷静な口調で言った。
「国軍の被害は水雷隊の庁舎のみで、水雷隊自体は全くの無事でした。それに、水雷隊の庁舎の損失補填は、国費でなされるではないですか。大事なのは、東北地方に余力があることです。おととしの冷害は、明治の御代から積極的に米や麦の品種改良を進めた結果、“史実”よりは少ない被害で済んでいます。この状況ならば、来年訪れるであろう凶作に対しても、何とか東北地方のみで対応ができるはず……」
「油断してはなりませんぞ、原閣下」
内務大臣の後藤新平さんが、掛けている眼鏡の位置を直しながら、原さんに向かって大きな声を上げた。
「確かにここ数年の推移をみれば、東北地方の疲弊度合いは“史実”よりは軽い。しかし、より寒さに強い米や麦の種子を農家に配布することや、東北・北海道地方で温水池や迂回水路など、農業用水の水温を上げる施設の建設を更に推進していくこと、そして、日本海側の重工業地帯を発展させ、農業ができない冬でも農民たちが収入を得られるようにすること……これが肝要でございます」
「……うむ。後藤さんの言う通りだ。今、温水池や迂回水路の建設のことをご指摘いただきましたが、その建設事業や、今回の津波で被害を受けた港湾復興に被災住民を雇用することも、今後考えていかねばなりませんな」
後藤さんの言葉を聞いた原さんが頻りに頷きながら言うと、
「ええ、被災住民の雇用は、被災地の民情の安定にもつながります。来年の凶作に備え、民情を少しでも安定させることは何よりも大事です」
斎藤さんも2人にこう応じる。斎藤さんも原さんも後藤さんも、岩手県の出身だ。この時の流れにおける故郷を、“史実”より良い状態にしたいという思いは一緒なのだろう。
(農作物の品種改良、早い段階から始めておいてよかったなぁ……)
斎藤さんと原さんと後藤さんの話を聞きながら、私は胸をなで下ろした。
と、
「そう言えば、今回の災害救援を行っている国軍の実働部隊は、非常に評判がいいですね」
内大臣の牧野伸顕さんが、斎藤さんに話しかけた。
「そうですか。それはとてもありがたいことです」
斎藤さんが頭を下げると、
「ええ、大蔵省も大変助かっております」
大蔵大臣の浜口雄幸さんが口を開いた。
「今、我が大蔵省では、今回の昭和三陸地震の被災地救援のために、追加予算を作成しています。そのためには、各省庁の事務官が被災地に行って被害状況を視察し、被災地の要求を把握することが必要です。現在、東京から被災地に行くには、東京から飛行器を使うのが一番早く到着できるのですが、国軍の方々が嫌がらずに事務官たちを飛行器で被災地まで往復させてくれると、被災地に派遣された事務官たちが大変感謝しておりました。おかげで、追加予算も帝国議会の会期末までに成立しそうです。彼らに代わって、お礼申し上げます」
普段、梨花会で黙って話を聞いていることが多い浜口さんは、珍しく長い言葉を述べ、斎藤さんに向かって深々と一礼する。
「いやいや、それは山本航空本部長の手柄でしょう」
斎藤さんが謙遜すると、
「とんでもありません。俺は斎藤閣下と鈴木閣下が策定なさった行動計画に従って動いただけです」
山本五十六航空本部長も頭を下げる。ちなみに、侍従長だった鈴木貫太郎さんは、西郷さんの死去に伴う人事異動で斎藤さんの後任の参謀本部長となり、参謀本部内に睨みをきかせていた。
「航空部隊だけではありません。陸上部隊も海上部隊も、目覚ましい働きをしています」
牧野さんは更に一同に向かって言った。
「女川の水雷隊の庁舎は被害を受けてしまいましたが、彼らを支援しつつ被災地の救護活動を行っている第1艦隊の働きが特に素晴らしいと、被災地の視察に行った侍従たちが言っていました」
「ほう、第1艦隊と言えば、“八丈”と“三宅”がいる……」
元内閣総理大臣の西園寺公望さんが反応すると、
「“八丈”と“三宅”は、現地で救護活動をしている横須賀の第1駆逐隊と、女川の第6駆逐隊の後方支援をしておりますな」
鈴木参謀本部長がこう応じた。
「“八丈”には有栖川宮殿下が、“三宅”には東小松宮殿下が副長として乗り組んでおられますが、お二方とも、全体を把握し、艦長を適切に補佐なさっておいでです。支援が順調に進んでいるのはこのお二方のおかげと言っても過言ではありません。また、“八丈”に分隊長心得として乗り組んでいらっしゃる秩父宮殿下も献身的に働かれ、艦隊の士気向上に一役買っておられるとか。流石は英邁の誉れ高い三殿下と、我々も改めて認識しているところでございます」
「そうか。……雍仁本人は、“それは自分を支えてくれる部下たちのおかげだ”と言うだろうが」
鈴木さんの言葉を聞いたお上が微笑する。
(そっか……栽さん、頑張ってるんだね)
私も周りに見られないよう注意しながら微笑んだ。“東小松宮殿下”とは、夫と同期で親友の、東小松宮輝久王殿下のことだ。“被災地にいようと横須賀にいようと、自分のできることをやる”……先々月私に言ったことを、栽仁殿下は輝久殿下と一緒に実行しているのだ。
地震が起こった先週末、栽仁殿下は帰京しなかった。恐らく今週末も……それどころか、次の週末も、その次の週末も、東京に戻って来られないかもしれない。けれど、盛岡町の家に帰ってきたら、夫をきちんと労ってあげよう……私はそう思った。




