逝く者、生まれる者
1933(昭和5)年1月14日土曜日午後2時、皇居・表御殿にある牡丹の間。
「それでは、本日の梨花会を始めます」
司会役を務める内閣総理大臣の桂太郎さんの声で、牡丹の間に集まった梨花会の面々が一斉に頭を下げる。今日の梨花会では、来年の1月から開始される第4回軍縮会議に向け、各国の情勢や軍事力を確認する予定だったのだけれど、1週間前に事情が変わった。節子さまの兄で、貴族院の無所属議員たちのまとめ役を務めていた九条道実公爵が亡くなったのだ。死因は脳梗塞……キニジンを用いても心房細動が止まらず、心臓の中にできた血の塊が、昨年12月と同じように脳の血管を……しかも今回は、命にかかわるような血管を塞いでしまった。
「まずは、伯父上がこれまで務めていた貴族院の無所属議員たちのまとめ役をどうするかだね」
お上が桂さんに視線を向けると、桂さんは「はっ」と大仰に頭を下げ、
「皆様ご存知の通り、去る1月7日、九条道実公が亡くなりました。それを受け、貴族院の無所属議員たちの新しいまとめ役をどなたにお願いするか、決めなければなりません。これについて、ご意見をお持ちの方はいらっしゃいますかな?」
今度は一同の方に身体を向けて問いかけた。
「今までの経緯から考えると、一条公に頼むのが自然でしょう」
すると、山本権兵衛さんの後を承けて国軍大臣に就任した斎藤実さんが挙手して言った。
「わたしもそう思います。議員経験は数年しかないですが、他の五摂家の鷹司公と二条公はもっと議員経験が浅い。それに近衛公は、恐れ多くも前内府殿下のことを怖がっておられますから論外です。となると、消去法的に、一条公にまとめ役をお願いするしかないでしょう」
野党・立憲自由党の総裁で前内閣総理大臣である原敬さんが斎藤さんに同調すると、参加者の半分ほどが激しく頷く。特に、上座に近い人々が、首を大きく縦に振っているように思われた。
「近衛公が少しかわいそうな気もしますが……」
枢密顧問官の高橋是清さんが苦笑しながら言うと、
「お言葉ですが高橋閣下、貴族院での議論の様子を見ておりますと、近衛公は口だけの御仁だと感じます」
立憲自由党の幹事長・横田千之助さんが高橋さんに反論した。
「横田さんのおっしゃる通りですな。近衛公と一緒に飯を食いに行きたいとは余り思えません」
横田さんの向かいの席に座っている、立憲改進党所属の衆議院議員で農商務大臣の町田忠治さんも、独特な言い回しで横田さんに賛成する。
「ふむ、町田君が一緒に飯を食いに行きたくないとは、余程だな」
真剣な表情で言った桂さんに、
(それって基準にできるの?)
私は心の中でツッコミを入れた。でも、外務大臣の幣原喜重郎さんが、「町田さんがそうおっしゃるのなら、やはり、余り良い人物ではないのでしょうな」と呟いているのをみると、町田さんの“一緒に飯を食いたくない”という言葉には、“その相手は一緒に飯を食うに値しない、劣った人物である”という、確かな評価が含まれているのかもしれない。
(ちょっと近衛さんがかわいそうな気もするけどね。一応、親戚ではあるし……)
その事実を思い出し、私は苦笑する。私の義母の慰子妃殿下の妹は、前田家から近衛家に嫁ぎ、近衛文麿さんを出産して間もなく死去している。だから、近衛文麿さんは、栽仁殿下の母方の従弟なのだ。しかし、義父から見ると、親族としては血のつながりが薄いので、義父の国葬には、近衛文麿さんは親族としてではなく、一般の参列者として参列していた。
と、
「桂閣下、よろしいでしょうか」
横田さんが右手を挙げた。「何かね?」と首を動かしながら応じた桂さんに、
「貴族院の無所属議員のまとめ役は五摂家の当主のいずれかでなければならないという原則を、変えることはできないでしょうか?その原則さえなければ、まとめ役は徳川慶久公にお願いするのが妥当ではないかと思うのですが……」
横田さんは堂々とした態度で進言した。
「それは確かに。一条公や近衛公より、よほど有用な人材かと思います」
町田さんが発言すると、
「その通りだね。議論して、あそこまで面白いと思う人物は、滅多にお目にかかれない」
意外にも、陸奥さんがこんなことを言った。私の義理の妹・實枝子さまの夫である徳川慶久公爵……その頭脳は、梨花会の古参の面々も認めるところであるようだ。
「うむ。五摂家がまとめ役でなければ、他の無所属議員どもはまとめ役に従わないだろう。だが、五摂家が慶久公の指示に従うと誓うなら、あるいは……」
枢密院議長の伊藤さんが陸奥さんに応じた時、
「慶久は、次の貴族院議長にと思っている」
お上がこう言って微笑した。
「実は、家達が、余り身体の調子がよくないようでね」
“家達”というのは、徳川宗家16代当主で、現在の貴族院議長である徳川家達公爵のことだ。私が貴族院議長を退いた後に貴族院議長に復帰してから、もう20年近く経つだろうか。確か、今年で70歳になるはずだ。
「家達は、今期の帝国議会では議長を務めているが、来期は議長から退きたいと言っている。だから、来期の帝国議会の貴族院議長は慶久にしようと僕は考えている」
「なるほど。家柄・能力ともに申し分なしですな。慶久公ならば、貴族院の舵取りもそつなくこなすでしょう」
元内閣総理大臣の西園寺公望さんの言葉に、「さよう」「適任ですな」と賛同の声が上がる。私も黙って頷いたのを見ると、
「陛下の仰せ通り、来期の貴族院議長は慶久公にするとして……本題の貴族院の無所属議員のまとめ役は、一条公に依頼するということでよろしいですな?」
桂さんが一同に問いかける。
「仕方があるまい。他に人がいないのだから」
枢密顧問官の山本権兵衛さんの言葉に一同が頷く。これで一条家の当主・一条実孝公爵が、無所属議員たちのまとめ役になることが決まった。
「……しかし、梨花会も、少々寂しくなりましたな」
その後、本来の議題を終え、そろそろ今日の梨花会も解散となるかという時、児玉自動車学校校長の児玉源太郎さんがポツリと呟いた。
「確かに……。昨年は、6月に西郷閣下が亡くなられ、そして11月に先代の有栖川宮殿下が薨去されましたからね」
牧野内大臣が上座の方を見ながら寂しげに応える。義父が座っていた私の向かいの席、そして、陸奥さんと高橋さんの間にある西郷さんの席……。その2つの椅子が、主を喪って所在無げに佇んでいた。
「新しく、梨花会に入れる者を見繕ってもよいのかもしれません。もちろん、審査を経てからですが、その準備を始めても……」
内務大臣の後藤新平さんがこう発言した瞬間、
「梨花叔母さまの向かいの席は、宮の一年祭が終わるまで空けておこうと思っているんだ」
お上が上座から言った。
「すると、先代の有栖川宮殿下の一年祭が終わりましたら、有望そうな人物を選抜して、梨花会の人員を補充するということになりますかな?」
私の隣に座る大山さんが尋ねると、
「そうなるのかもしれないね。その時期が来たら、僕から指示するよ」
お上はそう答え、玉座を立って牡丹の間を後にした。
(欠員の補充ねぇ……)
私は両腕を胸の前で組んだ。今の梨花会に誰かを加えるとしたら、新進気鋭の若手でも、経験を積んだベテランでも、どちらでもいいだろう。皇族から選ぶなら、義父の死により男性皇族最年長者になった閑院宮載仁親王殿下か、お上の弟で評判の高い秩父宮雍仁親王殿下か……。それ以外から選ぶなら、今、ジュネーブの国際連盟にいる吉田茂さんと同じように、“史実”の第2次世界大戦の後で日本の内閣総理大臣になった人でもいいのかもしれない。
主のいない2脚の椅子をジッと見つめると、私も椅子から立ち上がり、牡丹の間から退出した。
1933(昭和5)年1月23日月曜日午前8時30分、東京市京橋区築地4丁目にある国軍軍医学校の校長室。
「半井久之、本日より復帰いたします!」
私の事務机の前には、軍医学校の教員の1人で、私とは昔馴染みの半井久之軍医大尉が立っていた。1月12日の昼頃に、奥さまが産気づいたという連絡を受け取った彼は、翌日の13日から介護休暇を取っていたのだ。
「おめでとう、半井君」
“無事子供が生まれた”ということだけは、主任の先生から聞いている。まずお祝いを言った私は、
「ところで、生まれたのは男の子?女の子?それから、12日に産気づいたということは、13日に生まれたということでいいのかしら?」
と半井君に質問した。
「はい、13日の明け方に生まれました。男の子でしたので、名前は校長殿下にいただいた名前の通り、“隆之”と付けました」
半井君は嫌な顔をせず、実に嬉しそうに私に報告してくれる。
「そうだったのね」
半井君に応じて頷きながら、
(まさか、前世のじーちゃんと同じ誕生日に、半井君に男の子が生まれるなんてねぇ……)
私は発生してしまった事実に慄然とした。とりあえず、生まれた男の子にあらかじめ前世の祖父の名前を授けておいたことで、私の存在が消滅することは避けられたけれど……。
(って、考え過ぎか。前世の私が生きた“史実”の世界と、この時の流れとは、もう全然違ってるんだし、それに、半井君は私の前世のひいじーちゃんじゃないんだし……)
「殿下、いかがなさいましたか?」
色々考えていると、私の隣に立っている大山さんが私に声を掛けた。「あ、ああ、何でもない」と答えてから、私は咳払いをして、
「ところで半井君、本当に今日から復帰して大丈夫なの?貞さんの体調が悪いなら、休暇を延長してもいいのよ?」
半井君にこう尋ねた。
「はい、大丈夫です。妻は、本郷区にある妻の実家で出産したので、妻と隆之は、妻の両親と女中が面倒を見てくれていますし、妻も隆之も元気です。……実は、もう少し休暇を取って、僕も妻と隆之の面倒を見ようと思ったのですが、僕は妻の両親や女中の足手まといになってしまいまして、妻の母に、“貞と隆之の面倒は私たちで見るから、あなたは出勤しなさい”と叱られたのです。ですから、今日から出勤することにしました」
(あー……)
少し恥ずかしそうに答える半井君を見ながら、私は自分の考えが浅かったことを悟った。妻が実家に里帰りして、両親や親族が万全にサポートする中で出産するのであれば、出産前後で夫が手助けできることは少なくなるのだ。
(……で、でも、両親からサポートを受けられない場合だってあるだろうから、男性が育児休暇を取って育児をするケースも、今後絶対出てくるはず!未来のためにも、男性も育児休暇を取れるようにしないと!)
改めて決意した私の耳に、
「ですが、妻が実家にいる間は、妻の実家から軍医学校に通うことにしました。その方が安心だと妻が申しまして……」
という、半井君の声が入ってきた。
「できれば今月中にでも、隆之を校長殿下にお目に掛けたいのですが……」
「い、いや、それはまだいいよ。こっちにも準備があるから、せめて、お宮参りが終わってから……」
私が両手を肩のあたりで横に振りながら半井君に答えた時、
「半井君、そろそろここを出ないと、1時限目の授業に間に合わないのでは?俺は、今日は2時限目からの授業ですが……」
大山さんが半井君に注意をする。
「っ!そうでした!では校長殿下、失礼いたします!」
半井君は慌てて背筋を伸ばすと、私に深々と頭を下げ、クルリと踵を返すと急ぎ足で校長室から出て行った。
「いやー、よかったわ、半井君の子供が無事に生まれて。母子ともに健康だしね」
校長室のドアが閉じた後、私が大きく伸びをしながら言うと、
「ですな」
微笑した大山さんは、
「次は、梨花さまの番ですぞ」
そう言って、その微笑を私に向けた。ちなみに、私のお付き武官の奥梅尾看護大尉は事務室に行っていて、今は校長室にいない。だから大山さんは、私を“殿下”ではなく“梨花さま”と呼んだのだろうけれど……。
「あ、あのさ、大山さん……」
顔を少し赤くした私はうつむいた。
「私、あと1週間もしないうちに、50歳になるんだよね……。流石にここから4人目の子供を産める確率は低いし、もし身籠ったとしても、私の身体に負担がかかり過ぎて、私が死ぬ危険性が高いわよ。まして、この時代じゃ余計に……」
すると、
「梨花さま、何をおっしゃっておいでですか?」
大山さんがキョトンとした表情をした。
「へ?だ、だって、あなた、私に、子供を産め、って……」
私がうつむいたまま答えると、
「俺が申し上げたかったのは、梨花さまの御孫君のことでございます。万智子さまは無事に華燭の典を挙げられましたが、謙仁王殿下と禎仁王殿下のご結婚がまだ決まっておりません」
大山さんは真面目な口調でこう言った。
「あ……ま、孫……そうだよね、孫、だよね……」
私は胸をなで下ろした。50歳……そうなれば、孫の話は出てきてもおかしくないけれど、何だか実感がわかない。
「謙仁王殿下は、来年の夏には海兵士官学校をご卒業なさいますし、禎仁王殿下は、来年の8月にご成人なさって臣籍降下なさいます。お2人とも、そろそろご結婚の相手を探さねばなりませんぞ」
戸惑う私に向かって、大山さんは更に続ける。
「そ、そうだねぇ……」
私は我が臣下に何とか応じた。大山さんの言う通りではあるのだけれど、義父の闘病のことや万智子の結婚のことで手一杯で、息子たちの結婚について考える余裕などなかった。
と、
「仕方がありません」
私の顔をジッと見つめた大山さんは、
「謙仁王殿下と禎仁王殿下のご結婚相手は、俺が探しておきましょう」
重々しい声で私に告げた。
「ま、まぁ……大山さんが探せば、院の情報網も使うだろうから、申し分ないお嫁さんが見つかると思うけれど……」
私が必死に言葉をかき集めながら返答すると、
「梨花さま」
大山さんは私に顔をずいっと近づけた。
「古来より、子の誕生は、何を置いても寿がなければならないものであると……俺はそう思っております。そして、梨花さまの御孫君のご誕生は、梨花さまにとって喜ぶべきこと……」
「い、いや、確かに、孫がいたら幸せだとは思うけれど……」
なぜ大山さんは、私の孫のことにこんなに熱心なのだろう。その情熱は、一体どこから湧いてくるのだろうか。戸惑い続ける私に向かって、
「梨花さま」
と再び呼びかけた大山さんは、
「昔、申し上げたことがございますが……俺の大切な淑女が、俺の大切なご主君が、幸せを味わってはいけないという法はどこにもございません」
私に真面目な表情で告げる。
「ですから、梨花さまには、ありとあらゆる幸せを味わっていただきます。謙仁王殿下と禎仁王殿下のご結婚、それから、御孫君を腕に抱かれる喜びも……よろしいですな?」
非常に有能な我が臣下の念押しに、私は「あっ、はい……」と頷くことしかできなかった。それを見届けた大山さんは、「では、失礼いたします」と私に頭を下げて校長室から退出したのだけれど、
(孫……孫、かぁ……)
校長室に1人残された私は、今まで全く考えもしなかったことに呆然としていた。




