ふかし芋を食べながら
1932(昭和4)年12月7日水曜日午後2時、赤坂御用地内にある仙洞御所。
「ああ、やっと来たな!待ちわびたぞ!」
私の義父・有栖川宮威仁親王殿下が他界してから1か月余り。私が仙洞御所に久しぶりに足を踏み入れると、玄関先で待ち構えていた兄が嬉しそうに叫んだ。
「“待ちわびた”、って……兄上、先週の木曜日にもお義父さまの三十日祭に来てくれたじゃない。大袈裟だよ」
私が苦笑しながら兄をたしなめると、
「それでも、お前が仙洞御所に来てくれなかったからな。霞ケ関で会うのと、仙洞御所で会うのとでは、気分もやはり変わる」
兄はなぜか胸を張って私に答えた。
「いや、まぁ、そうだけどさ……」
“自分の実の兄が死んだ時と同じように喪に服したい”……義父の死に際してそう言ってくれた兄は、義父の国葬の時だけではなく、二十日祭や三十日祭と言った義父を弔う折々の儀式にも代理の人間をよこすことなく、自ら参列して拝礼してくれている。もちろん、これは異例のことである。……異例が続き過ぎて、感覚が麻痺してしまった気がするけれど。
気を取り直し、節子さまにあいさつしようとした私は、その節子さまがいないことに気が付き、キョロキョロと左右を見回した。仙洞御所にお邪魔する時、玄関先で出迎えてくれる兄の隣には、いつも節子さまがいるのに……。
「兄上、節子さまはどうしたの?」
私の質問に、「ああ、今日は出掛けていてな」と軽い調子で答えた兄は、
「とにかく、早く上がれ。さっさと俺の診察をしろ」
と、手招きしながら続ける。私はお付き武官の奥梅尾看護大尉に控室で待っているように命じると、杖をついて奥へと向かう兄の後ろをついて歩いた。
義父を弔う一連の儀式で顔を合わせてはいたけれど、兄の身体を診察するのは約1か月ぶりだ。兄の書斎に入り、兄の侍医さんたちが記録している拝診録に目を通した後、私は診察カバンを開け、兄の身体を念入りに診察した。最後に兄の診察をしたのは10月の下旬だったけれど、その時と同じように、兄の身体に新しく生じた異常な所見はなかった。一番心配していた心房細動が出ている徴候もなく、兄の脈は規則正しく打っていた。
「……よかったぁ、心房細動が出てなくて。私、それが不安だったのよ。兄上、お義父さまが吐血してから、ずっと霞ヶ関の本邸に来てくれてたからさ」
私が聴診器の耳管を耳から外しながら言うと、
「義兄上が亡くなった日に、三浦先生が俺を諫めてくれて本当によかったよ」
兄はそう応じて、寂しそうに微笑んだ。
「三浦先生に会うまで、俺は義兄上の屋敷にずっと泊まり込むつもりでいたのだ。斂葬の日まで、弟として義兄上のそばにいたいと思い詰めてな。……しかし、三浦先生の言葉で目が覚めた。あの言葉を聞いて、俺は自分の身体を労わらなければならないと思い直したのだ」
「それは……三浦先生には本当に感謝しなきゃ」
私は大きなため息をついた。
「兄上が霞ヶ関の本邸に泊まり込んでたら、前代未聞って言葉じゃ足りないぐらい前代未聞の騒動になってたよ。私、倒れたかもしれない」
私の台詞に「何だ、その表現は」と兄は不機嫌そうに言ったけれど、すぐに「まぁ、いい」と呟き、
「梨花、ふかしたサツマイモを食べないか?この前、畑で収穫したやつだが、診察が終わるころに仕上がるように頼んでいてな」
ニヤッと笑いながら私に提案する。兄と節子さまは、仙洞御所に移り住んで以来、侍従さんたちや女官さんたちに手伝ってもらいながら、仙洞御所に設けた畑で作物を育てている。今年はサツマイモを栽培していた。
「それは是非食べないとね。兄上、すぐ持って来てもらっていい?」
私が少し身を乗り出して答えると、
「梨花は昔から、美味しいものに目がないなぁ。だが、一仕事した後だし、当然か」
兄は顔に苦笑いを浮かべ、机の上のベルを鳴らして侍従さんを呼ぶ。数分後、私と兄はおいしいふかし芋にかじりついていた。
「……そう言えば、梨花、義兄上が亡くなった後、裕仁のところには行ったのか?」
ふかし芋を食べ終わり、お茶を飲んで一息ついた時、兄が私に尋ねた。
「先週の土曜日からね」
私はお茶を一口飲んでから兄に応じた。
「政治の現状が、いろいろ分からなくなっててね。お上と牧野さんに教えてもらいながら、ようやく政務の内容を理解した感じになっちゃった。内大臣府顧問の肩書が台無しね」
私がこう述べて、自嘲的な笑い声を漏らすと、
「1か月政治から離れれば、当然そうなるな。このままだと、今週末の梨花会で伊藤議長や陸奥顧問官にたっぷり絞られるぞ」
兄は私にからかうような調子で言った。
「やめてよ。考えないようにしてたのに」
両肩を落とした私の耳に、兄のクスクス笑いが届いた。
「……しかし、この1か月で、そんなに大きく情勢が変わったわけではないから、把握も簡単だっただろう?大きく変わったところでは、アメリカの大統領選の結果が出たぐらいだし」
「は……?」
更に投げられた兄の言葉に、私は首を傾げた。アメリカの大統領選挙……それは今の時期に行われるものだっただろうか。
「おい、しっかりしろ、梨花。先月の中旬には、大統領選挙の結果が出ていたではないか」
「先月の中旬って……お義父さまの葬儀の残務処理と、軍医学校を休んでいた間にたまった仕事を片付けるので、滅茶苦茶忙しかったころよ。海外情勢に気を配る余裕なんてなかったわ」
兄のツッコミに唇を尖らせて答えてから、
「……で、民主党と共和党、どっちが勝ったの?」
と私は兄に聞いた。今のアメリカ大統領は、民主党のアルフレッド・エマニュエル・スミス・ジュニア……通称“アル・スミス”さんだ。彼は今回の大統領選には出馬しないという情報を数か月前に聞いた記憶があるから、大統領選は新人同士の争いになるけれど……。
すると、
「民主党のジョン・ナンス・ガーナ―が勝った。日本にとってはありがたい結果になったな」
兄がニヤッと笑いながら教えてくれた。
「よかったぁ……」
私は胸をなで下ろした。
「対外進出を主張している共和党が勝っちゃったら、フィリピンなんかを植民地にしかねないもんね。それを考えると、民主党が勝つのはとても安心できる。日本が操りやすいし、今の民主党は、対外進出に全く興味がないからね。だから、軍縮会議にも余計な口出しをしてこなくて本当に助かるわ」
「斎藤大臣と五十六に聞いたが、“史実”ではこの時期、フランクリン・ルーズベルトが大統領に当選したということだからな。その意味でもジョン・ナンス・ガーナ―が勝ったのは安心できる」
「本当ね。ルーズベルトはこのまま、一介の弁護士として生涯を終えて欲しいわね」
私が感想を述べて、お茶を再び飲んだ時、
「……大統領選の結果を知らないということは、この話も知らないだろう。最近、アメリカにいる朝鮮人たちが悪さをしているらしい」
兄が思いがけないことを私に告げた。
「何それ、初めて聞いたけど……悪さって何?テロとか?」
「いや、テロではない。主に、強盗とかひったくりとか……要するに盗みだな」
「やぁねぇ。それ、清の国内に残っている朝鮮独立を目指す組織に資金を送るためとか……そういう動機で起きてるの?」
続けて質問した私に、
「そんな動機なら、まだ分かるのだが」
兄は少し顔をしかめながら応じる。
「単に、生活が成り立たないので犯罪に手を染めているらしい。アメリカでの朝鮮人の賃金は、白人や黒人より低いからな。それでも、朝鮮や清で働くより、アメリカで働く方がよほどマシらしいのだが」
「なるほど、生活苦から、ということね。だからと言って、よその国で騒ぎを起こさないで欲しいなぁ」
「梨花の言う通りだ。我が国には朝鮮人の移民がほとんどいないからか、そうした騒ぎは起こっていないが」
日本は朝鮮と海で隔たっているものの距離が近く、その気になれば漁船などで往来できるような場所もある。朝鮮が清に併合された直後、朝鮮人たちの中には日本や新イスラエルに逃亡しようとする動きが出たけれど、日本も新イスラエルも、国境や日本海の警備を厳重に行って対応した。朝鮮から脱出しようとする朝鮮人たちは、ほぼ全員が旅券を持っていなかったため、朝鮮に強制送還されたのだ。今でも新イスラエルと日本による厳重な国境警備は続いているため、朝鮮人たちは比較的入国しやすいアメリカで出稼ぎをしたいと考えるようになったらしい。
「それより心配なのはルーマニアだ。ヴェニゼロスは本当に死んだのだろうな?」
やや身を乗り出して尋ねた兄に、
「少なくともルーマニア国内からは消えてる。あと、カロル2世もおとなしくしているわね、対外政策的には」
と私は答えた。
「対外政策的には?他の面でおとなしくしていないということか?」
「ヴェニゼロスがルーマニアからいなくなった途端に、カロル2世が女漁りを始めたらしいわ」
眉をひそめた兄に、私はため息をつきながら言う。
「しかもね、エレナ王妃は離宮に軟禁されたままなんですって。本当にかわいそうだわ」
「ほう……。では、カロル2世は昔の愛人を呼び戻したのか?」
「いや、その女は行方不明らしいわ。カロル2世がルーマニアに戻ってからずっとそうだったらしいから、多分、ヴェニゼロスに消されたんじゃないかしら。まぁ、そのヴェニゼロスも、死んだか死んでいないのか分からないけれど……」
私が再び肩を落とした時、兄が急にドアの方に首を動かし、
「ああ、節子が帰ったな」
と呟いた。
「そうなの?」
「そうだぞ。分からないのか?ほら、足音も聞こえる。こちらに来るようだ」
「いや、確かに、足音が聞こえてきたような気もするけれど、本当に節子さまなの?」
兄と言い合っているうちに、微かにしか聞こえなかった足音が段々と大きくなり、
「ただいま戻りましたわ、嘉仁さま」
書斎のドアをノックする音とともに、節子さまの声が響いた。
(流石だなぁ、兄上。勘が鋭いのは、昔と全然変わらないや)
私がこんな感想を抱いたのと同時に、
「ああ、節子、おかえり。道実の具合はどうだった?」
ドアを開けて書斎に入ってきた節子さまに兄が声を掛ける。
「……今は小康状態のようですわ」
私が自分の隣に空いている椅子を寄せると、節子さまはそれに座って兄に報告した。
「右手が動かなくなったのが辛い……本人はそう申しておりました」
「そうだろうな。俺も左足が動かなくなった時は、どうすればよいかと思ってしまった。節子と梨花が一生懸命やってくれたから、今はこうして何とか歩けているが……」
「あ、あの……ちょっといい?」
会話の内容から推測すると、節子さまは誰かのお見舞いに行っていたようだ。けれど、それ以上の内容は正確には把握できなかったので、
「節子さまは、誰のお見舞いに行ったの?聞いた感じ、その人、脳梗塞を起こしたみたいだけど……」
私は右手を軽く挙げて節子さまに尋ねた。
「ああ、兄ですわ」
節子さまは短く答えると、私に微笑を向けた。どうやら節子さまは、兄で九条家の当主である九条道実さんのお見舞いに行ったようだ。
「そうなんだ……。右手が動かなくなった、って言うのは、やっぱり、脳梗塞のせいで?」
「ええ、大元の原因は、嘉仁さまと同じ心房細動だと聞きました」
意外にも、私の質問に、節子さまは医学用語を交えて教えてくれる。
「ただ、嘉仁さまと違って、心房細動が止まらないようなのです。確か、今、薬を使って止めようとしていると聞きましたが、ええと、何だったかしら……」
「キニジン、じゃないかな」
私が節子さまに助け舟を出すと、「そうそう、そんな名前でしたわ」と節子さまは何度も頷いた。
「でも、その薬の効果はまだ出ていないそうです。もう少し薬を試すつもりだということでしたが……」
「そうか、ご苦労だったな、節子」
兄の声に応じて節子さまは一礼し、「着替えてまいりますわ」と言って兄の書斎を後にした。彼女の足音が遠ざかると、
「……梨花、心房細動が止まらないということは、道実はまた脳梗塞になる可能性があるということか?」
兄は私に問いを発した。
「その通りよ」
私は首を縦に振った。
「血を固まりにくくするワルファリンという物質が見つかれば、それを使うことで、心房細動が起こっていても脳梗塞になる危険性を下げることができるわ。ただ、それを製品化するのに、あと1、2年はかかりそうなの。東京帝国大学に研究をお願いしているんだけど……。だから、ワルファリンが製品化される前に、また道実さんに脳梗塞が起こるかもしれなくて……」
「そうなった場合、貴族院の無所属議員たちの、新しいまとめ役を選ばなければならないな。道実に再び脳梗塞が起これば、更に重度の症状が出る可能性も、死ぬ可能性もある……」
低い声でこう言った兄は、両腕を組んで難しい顔になった。
「近衛はダメ、二条と鷹司、それに九条は、家を継いで日が浅い。となると、次のまとめ役は一条実孝にするのが妥当だが……これは、俺が口出しをすることではない。裕仁が決めることだ」
「そうね」
兄に頷き返しながら、
(道実さんの病状、今度の土曜日にお上に伝える方がいいわね。九条家か院の人から、お上のところに情報は入っているかもしれないけれど……)
私は早くも、土曜日の参内のことを考えていた。




