義父の国葬(1)
1932(昭和4)年11月2日水曜日午後4時5分、東京市麹町区霞ヶ関1丁目にある有栖川宮家霞ケ関本邸。
「「国葬?!」」
本館にある応接間。弔問に訪れた内大臣の牧野伸顕さんの言葉を聞いた私と栽仁殿下は、同時に声を上げてしまった。
「そこまで驚かれることではないと思いますが……」
穏やかな口調で私たちを落ち着かせようとする牧野さんは、
「亡くなられた威仁親王殿下は海兵大将をなさっていました。国軍の大将である親王の葬儀は、国葬とするのが慣例でございます」
と、続けて理由を述べた。
「確かにそうでしたけど……」
私が戸惑いながらも呟くと、
「そうだっただろうが」
私の後ろから声が飛ぶ。振り向くと、応接間で節子さまと一緒に休息を取っていた兄が、呆れたような目で私を見ていた。
「依仁が亡くなった時も、貞愛が亡くなった時も国葬をした。2人とも親王で、依仁は海兵大将、貞愛は歩兵大将だったからな。だから、義兄上が国葬をもって葬られるのは、慣例から考えても自然なことだ」
「そうだけどさ……それを現在進行形で慣例を破っている人が言わないでよ」
私はため息をつきながら兄にツッコミを入れた。
「皇族が亡くなって、上皇が弔問に来るのは何とか分かるよ。兄上は、奥閣下や黒田さんや渋沢さんや西郷さんの弔問にも行ってたから。だけどさぁ……お昼過ぎに霞ケ関に来てからずっといるって、ありがたいけど慣例からは外れてるわよ」
「別によいではないか」
開き直ったように私に応える兄に、
「恐れながら上皇陛下……ご体調に問題はございませんか?」
牧野さんが真面目な顔をして尋ねた。
「何ともないぞ」
「しかし、昨日も朝から夜まで、威仁親王殿下の病室に詰めておられたと聞いております。疲れがたまっていらっしゃらないか、私としては非常に心配でして……」
少し顔をしかめた兄に、牧野さんは更に言う。
「言ってやってください、牧野どの!」
「そうよ、もっと言ってやって、牧野さん!兄上ったら、私と節子さまの言うことを、全然聞いてくれないんです!」
節子さまと私は牧野さんを応援する。兄は義父が吐血したおとといも霞ヶ関の本邸に駆け付けてくれたし、昨日も、かなりの時間をこの建物で過ごした。疲労で心房細動がまた起こってしまわないか……私も節子さまもそれが心配なのだ。
「義兄上のことは、実の兄と同じと思っている」
兄は自分を見つめる私と節子さまにこう言った。
「だから、自分の実の兄が死んだ時と同じように、喪に服したいと考えている。それが俺なりの、義兄上への供養だと思っているのだ」
「気持ちはありがたいけど、これで兄上の疲労がたまって、そのせいで心房細動が再発してまた脳梗塞が起きたら、私はどうすればいいのよ」
私は兄が来てから何度も口にしている台詞をもう一度繰り返した。
「もし、兄上がまた脳梗塞になっちゃったら、お義父さまが悲しむわよ」
更に私がダメ押しの言葉を口にした時、
「前内府殿下、お話中のところ申し訳ありません。三浦先生がいらっしゃいまして……」
有栖川宮家の別当・金子堅太郎さんが応接間のドアを開けて現れる。私は無言で頷くと廊下に出た。
「お久しぶりです、前内府殿下」
強張った顔をした三浦先生は、手に診察カバンとは別に、大きなカバンを持っていた。もしかしたら、どこかに旅行か出張に行った帰りに、こちらに寄ってくれたのかもしれない。
「有栖川宮殿下のご容態が悪くなったという報道に接した時、出張で東北におりまして……予定を繰り上げて東京に戻って参りました。塩田先生と、彼の教室の医師たちが治療にあたっていると聞きましたが、何か私にお手伝いできることはありませんか?」
縋るように尋ねる三浦先生に、
「あの、先生……。まだ宮内省から発表にはなっていないのですが、義父は、お昼前に亡くなりまして……」
私は申し訳なさでいっぱいになりながら、事情を丁重に説明した。
「おとといの午後3時過ぎに吐血したんです。全身状態が悪くて、開腹手術で病変を取り除くことはできなくて……輸血もしたのですけれど、じりじりと血圧が下がって、そのまま……」
「そうでしたか……」
三浦先生は悔しさをにじませながら返答すると、私に向かって最敬礼をした。
「残念です。有栖川宮殿下には、19年前、大日本医師会が設立された時に総裁になっていただき、それ以来、長期にわたって総裁を務めていただきました。大正の御世の大日本医師会は、有栖川宮殿下とともにあったと言っても過言ではありません。……前内府殿下、可能であれば、お悔やみの記帳をさせていただきたいのですが」
「あの、先生なら、義父に拝礼していただいても構わないですよ」
そう言った私が、三浦先生を奥へ連れて行こうとしたその時、三浦先生の足が止まる。どうしたのかと私が問おうとした瞬間、
「じょ、上皇陛下……」
杖をつきながら、応接間から廊下に出てきた兄に、三浦先生が深く頭を下げた。
「ああ、三浦先生、久しぶりだな」
気軽に声を掛けた兄に、
「はい、暑中見舞のお礼言上に、仙洞御所に参上した時以来ですが……」
と返答した三浦先生は、
「ところで、上皇陛下はどうしてこちらに?」
と尋ねた。
「うん、義兄上が亡くなったと聞いて、昼ごろにこちらに駆け付けたのだ。それから、ずっとここにいるのだが……」
兄の返答を聞くやいなや、
「それは、上皇陛下のご体調によろしくありません」
三浦先生は兄に言上した。
「ただいまの上皇陛下によろしくないものは、ご疲労でございます。それは、肉体的なもの、精神的なもの、両方でございます。たまったお疲れは心房細動を誘発し、脳梗塞を起こす原因となります。せっかくリハビリが進み、杖をついて歩くことや、ひき馬にお乗りになることができるようになりましたのに、ほんの少しの不注意で脳梗塞が再発してそれらのことができなくなってしまえば、亡くなられた有栖川宮殿下も悲しまれましょう。恐れながら、この先まだまだ、有栖川宮殿下の葬儀に関する行事は続くものと拝察します。どうか本日のところは、仙洞御所にお戻りになって、ご休養に務めていただきますよう、お願い申し上げます」
三浦先生は、今も御用掛の肩書で宮内省に勤務し、お上や兄の侍医の先生方の相談に乗っている。また、兄が4年前に脳梗塞を患った時にも治療にあたってくれた。そんな人からの懇切丁寧な注意を兄はうなだれて聞くと、
「……分かった、三浦先生の言う通りだ。今日のところは帰るとしよう」
三浦先生にそう返答して、玄関に向かって歩き出した。
(ああ……三浦先生、ありがとうございます!)
「上皇陛下のお帰りよ!準備をして!」
私は叫びながら、傍らに佇むノーベル賞受賞者に、心の中で深く感謝した。
1932(昭和4)年11月2日水曜日、午後7時。
(うわー、ヤバいわ。これはヤバいわ……)
霞ケ関本邸の食堂で夕食を済ませた私は、テーブルの上に突っ伏したいのを必死に我慢していた。
義父の葬儀が国葬として営まれることが決まったので、午後5時過ぎ、西郷さんの死去を受けて枢密顧問官となった山本権兵衛さんを筆頭とする10名余りの国葬委員が本邸にやってきた。家族全員との顔合わせの後、私と栽仁殿下、そして私の次男の禎仁が残って国葬委員との打ち合わせをしたのだけれど、出てくる数字の現実感の無さに私は困惑してしまい、なかなか話が頭に入ってこなかったのだ。
(ていうか、葬列の長さが2kmを超えそうって、どういうことなのよ……。確かに、先代の北白川宮さまの国葬の時に、葬列の長さが2km前後になるかも……って話を聞いたけどさ。でも、葬列の前後に儀仗兵がつくから仕方がないのかなぁ……)
私が緑茶を一口飲んで大きなため息をついた時、
「前内府殿下、ご弔問の方がいらっしゃいました」
盛岡町邸から応援に来てくれている新人の職員さんが私を呼びに来た。禎仁が作ったシフト表によると、この時間に弔問客が来た場合は、私が応対することになっている。職員さんの後ろに従って玄関に向かうと、そこには思いがけない人が立っていた。
「この度は、お悔やみ申し上げます」
私の前にいる海兵大将の制服を着た人物は、華頂宮博恭王殿下だった。彼とはこの10年以上、一対一で話した経験はない。
(な、なんでこの人が……。というか、職員さんも相手が華頂宮さまだって教えてくれないと!……って、新人だからしょうがないか。けど……)
「舞鶴での進水式に出席しておりましたので、お見舞いに伺えず申し訳ありませんでした」
私は溢れ出そうな感情を必死に押し殺すと、更に言葉を続けた博恭王殿下に無言で一礼した。流石に、23年前の新年拝賀の時、栽仁殿下を侮辱した報復を肉体言語で行うのは今ではない。あの長い顔に飛び蹴りをお見舞いするのはまた後日だ。
と、
「ずいぶんと、章子どのに警戒されていますね、私は」
博恭王殿下の顔に、自嘲めいた笑いが閃いた。
「どうか、落ち着いていただきたい。私は章子どのに対して、敵意は一切ないのです」
“章子どの”という言葉の響きに、背筋が寒くなるのを覚えた。私に対する呼びかけとして、決しておかしくはないと思うけれど、この人にだけは、“前内府殿下”や“妃殿下”、それか“校長殿下”と呼ばれたい。今生の名前で呼ばれたくないし、前世の名前は以ての外だ。
「章子どのはとても素晴らしい女性だ。女性でありながら軍医の道を目指され、立派な軍医になられた。実習生でいらっしゃったころには、東朝鮮湾海戦にも参戦された。貴族院議長も何度か務められ、議事を立派に統理なさった。そして、上皇陛下が天皇の御位に就かれていた時には内大臣としてその治世を支えられ、今も軍医学校校長として、後進を指導なさっている。歴代の女性皇族の中でも……いや、歴史上の全ての女性の中でも、群を抜いて素晴らしい方だと私は思っているのです」
貴族院議長、と聞いて、思い出したくなかった記憶が頭の中に蘇る。いつかの貴族院の閉会式の時、お父様から勅語書を受け取る私の一挙手一投足を、粘り気とわずかな冷たさを孕んだ視線でじっと見つめていた博恭王殿下のこと……。あれはいったい、何だったのだろう。私がヘマをするのを見張っていたのだろうか。そう、まるで毒蛇のような目で……。
(毒蛇……)
背中がぞくりとしたその瞬間、
「どうぞお楽になさってください、章子どの」
博恭王殿下は再び口を開いた。続いて彼の口から吐き出されたのは、
「昔、あのような話があった仲ではないですか」
という、私にとっては理解不能な言葉だった。
(は……?)
あのような話、とは何だ。何かの噂話なのか、それとも、相手がハッタリをかますために言っているだけなのか……。私が思考の迷路に陥った刹那、
「章子さま?」
横から声が掛かった。私の義母・慰子妃殿下だ。私は「お義母さま」と応じると、すかさず義母の後ろへと動いた。
「まぁ、華頂宮さま、お久しぶりですね」
義母があいさつすると、
「これは妃殿下……ご無沙汰しております。この度はお悔やみ申し上げます」
博恭王殿下も普通にあいさつを返す。
「わざわざいらしてくださってありがとうございます。どうか、殿下の顔を見てあげてくださいな」
義母はそう言って、博恭王殿下を奥へ誘う。彼も「はい」と返事して、素直に義母に従って奥へと歩いていく。私は足音を忍ばせて階段を上がると、2階の一室のドアをノックした。
「母上、どうしたの?」
その部屋では、私の次男・禎仁が、紙の束と鉛筆を持って事務作業をしていた。邸内の職員たちのシフトの作成、家族や親族たちのスケジュールの設定、各所との連絡、そして国葬にあたっての準備……。禎仁は信じられない速さでやるべき仕事の全体像を把握し、私たち家族と本邸にいる職員を適切に動かしていた。
「んー……ちょっとね、華頂宮さまが来ちゃって」
私が次男坊に素直に答えると、「うわー、そうだったのか」と禎仁は呟き、
「ごめんね、母上。華頂宮さまと会わせちゃって」
と、なぜか私に謝った。
「私に謝る必要はないわよ。華頂宮さまが弔問に来るなんて、誰も思ってなかったでしょう。それに、あなたのおばあ様が出てきてくれたから、あとの対応はお任せしたわ」
禎仁にこう言った私は、
「ただ、疲れちゃってね……。休みたいんだけど、何とかなるかしら?」
と彼に尋ねた。
「うん、大丈夫だよ。實枝子叔母さまと慶久叔父さまは手が空いているはずだから、その2人に弔問客の応接をやってもらう。だから母上はゆっくり休みなよ」
禎仁はすぐに私に応えてくれた。栽仁殿下の妹、つまり亡くなった義父の娘である徳川實枝子さまと、その夫の徳川慶久公爵……昨日からこの2人は本邸にいて、お客様の接待や看病を手伝ってくれていた。
「ありがとう。それじゃ、寝室で横になるわ」
私は次男にお礼を言うと、栽仁殿下と私に割り当てられた客室に向かう。ドアを開けると、着ていた和服の帯も解かず、私はベッドに倒れ込むように横になった。
(だから、あのような話って、何なのよ……)
残された意識のかけらで、先ほど博恭王殿下に言われたことを考えようとしたけれど、疲労が一気に襲い掛かり、私はあっと言う間に眠りに落ちた。