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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第87章 1932(昭和4)年小満~1932(昭和4)年霜降
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急変

※章タイトルを変更しました。(2025年9月23日)

 1932(昭和4)年10月31日月曜日午後4時40分、東京市麹町(こうじまち)区霞ヶ関1丁目にある有栖川宮(ありすがわのみや)家霞ケ関本邸。

(さきの)内府殿下のご到着だぞ!」

「物をどかせ!ご通行の邪魔だ!」

 大山さんと一緒に到着した義父の住居・霞が関の本邸は、怒号と混乱で満ちていた。新人職員が多い盛岡町邸とは違い、この本邸にはベテランの職員さんたちが配置されているのだけれど、屋敷の主人の突然の病状悪化に、彼らも驚き慌てているのが見て取れた。

 1階にある義父の病室の前に着き、ドアをノックしようとした時、そのドアが向こう側から開いた。

「前内府殿下……!」

塩田(しおた)先生……!」

 ドアの向こう側にいたのは、義父の胃の手術を執刀してくれた東京帝国大学医科大学第二外科の教授・塩田広重(ひろしげ)先生だった。

「先生、何かお手伝いすることはありますか?!」

 問いかけた私に、「大丈夫です、処置は終わりました」と塩田先生は答える。招き入れられて病室に入り、義父のベッドのそばに行くと、左腕に点滴の針を入れられた義父は眠っていた。元気だったころと比べると、両頬の肉は少し落ちている。

「……どうも、いけません」

 塩田先生と一緒にいったん病室を出て、義母の慰子(やすこ)妃殿下、別当の金子堅太郎さん、そして大山さんと共に塩田先生を改めて応接間に招くと、彼は少し顔をしかめながら私たちに言った。

「今回の吐血の原因は、5月の手術の時に残した胃、もしくは、胃から続く十二指腸に生じた病変であろうと考えますが……」

 塩田先生はここで一度言葉を置くと、

「その病変が潰瘍なのか、それともがんなのか……そこまでは分かりません」

と言った。

「残った胃に発生した潰瘍である可能性も十分にあります。しかし、がんの転移による所見……前内府殿下がご指摘になったウィルヒョウリンパ節の腫脹が手術後に発生したことを考えると、残った胃にがんが生じ、そこから血が出て吐血に至った可能性もあります」

 私はうつむいて、塩田先生の話を黙って聞いていた。これが私の時代なら、胃カメラをやって出血している病変を目で確認し、場合によっては止血の処置もそのまま行ってしまう。けれど、今は胃カメラなどというものはないから、こんなことはもちろんできない。

「元々の状態がお元気でしたら、開腹して病変を確認し、場合によっては、病変のある部位を手術で切除することができます。しかし、有栖川宮殿下は5月に開腹手術を受けられておりますし、先月から体力も徐々に落ちておられます。がんが転移をしている所見も認められることも考えると、5月の時とは違い、有栖川宮殿下には手術を乗り越える体力は残されていないと判断します。つまり、手術をすれば、かえって余命を縮められ、そのまま亡くなってしまう可能性が高いということです」

「ですよね……」

 塩田先生の言葉は、私の判断とも一致している。私は相槌を打つとため息をついた。

「このまま数日は絶食として、新たな出血の徴候がなければ食事を再開する……そのように対応するしかないでしょう。しかし、再び吐血される可能性もありますし、吐血がなくても、じわじわと出血が続く可能性もあります。数日以内に亡くなられる可能性も十分にあります」

 静かな応接間に、すすり泣く声が響く。私の隣で塩田先生の話を聞いていた義母が泣き始めたのだ。私は横から義母の手をそっと握った。

「……では、ご親族の方々に、連絡を入れる方がよろしいですね?」

 金子さんが確認すると、塩田先生は「はい」と頷き、頭を下げた。

「分かりました。……そうなると、先生方にいろいろ助けていただかなければなりません」

 頭の中で、ここ数日の流れをざっとシミュレーションすると、私は塩田先生に言った。

「今までは、見舞いに来る人は少数だったので、義父(ちち)の日々の診療や点滴の投与は、私が勤務を休めば十分に対応できました。しかし、ここまで病状が悪化したとなると、この本邸には見舞客が殺到します。栽仁(たねひと)殿下が戻ればなんとかなりますけれど、今、栽仁殿下は近海で訓練中なので、本邸に入れるのは、どう頑張っても明日の夜になります。多数の見舞客に応対しながら、義父の治療を続けるのは難しそうなので……」

 ここまで私が言った時、

「もちろんです」

塩田先生が力強い声で応じた。

「私だけではありません。私の教室に所属している医師全員で、交代で治療させていただきます。この状態で、お身内を診療するなどという酷なことを、前内府殿下にさせるわけにはいきません。ただ、点滴の針が入らないとか……どうしてもの時は、前内府殿下にご助力いただかなければなりませんが……」

「はい、それはもちろん」

 義父の腕の静脈はよく発達していて、点滴の針を入れるのには苦労しない。ただ、義父の身体にメスを入れた塩田先生はともかく、経験の浅い医師だと、皇族の身体に針を入れるということに萎縮してしまって、点滴の針を入れることができないかもしれない。そういう時は、私に点滴の針を入れて欲しい……塩田先生はそう言いたいのだろう。

「塩田先生、お気遣いいただきありがとうございます。遠慮なく、甘えさせていただきます。義父のこと、よろしくお願いします」

 私が深く頭を下げると、「謹んで承りました」と応えながら、塩田先生も一礼した。


 1932(昭和4)年10月31日月曜日、午後7時5分。

 有栖川宮家霞ケ関本邸は、押し寄せた見舞客たちで大混雑していた。

 もちろん、こちらから“見舞いに来てくれ”とは、一言も言っていない。一応、宮内省と梨花会の面々には義父の病状を伝えて、近海で訓練中の栽仁殿下、広島県の江田島にある海兵士官学校に在学中の謙仁(かねひと)、工兵士官学校の寄宿舎にいる禎仁(さだひと)、そして、南部家に嫁いだ万智子(まちこ)や有栖川宮家の親戚筋にも、義父が重態であることを伝えた。けれど、私たちが連絡した範囲から明らかに外れている人々が、「有栖川宮殿下が吐血あそばされたと伺って」と言いながら、霞ヶ関本邸に多数やって来た。彼らに応対しながら聞くと、複数の新聞社が、義父が吐血したという内容で号外を出したことが分かった。

「宮内省と梨花会の関係者は、このような情報、めったなことでは漏らさないでしょう。恐らくは、ご親戚筋に情報が伝わる過程で外部に漏れたと考えられます」

 霞が関本邸に残ってくれている大山さんは私に囁くと、見舞客の対応へと早足で戻っていく。金子さんもお客様たちの応対に忙殺されていて、義父の枕頭に侍っているのは塩田先生と彼の教室に所属する医師2人の他は、義母、そして南部家から駆けつけた万智子だけになっていた。

(まずいわね。お義母(かあ)さまや塩田先生……それから職員さんたちにも休憩を取ってもらわないといけないけど、これじゃ、全然采配ができない……)

 見舞客が途切れた隙に、私が腕時計の盤面を見た瞬間、

「宮さま!」

盛岡町邸から応援に来てくれた私の乳母子(めのとご)の千夏さんが、大きな声で私を呼ぶ。「どうしたの?!」と叫びながら振り向いた私の目に、千夏さんと、工兵士官学校の制服を着た禎仁の姿が映った。

「禎仁……!」

 私はつかつかと次男坊のそばに歩み寄った。実は、義父は士官学校の夏休みが終わる直前、謙仁と禎仁に、“私の身に何があっても、勉学を優先させるように。公休日でない限りは、霞ヶ関の本邸に来るな”と言い渡していたのだ。今日は月曜日で、祝日でもないから、平日の夜は寄宿舎にいる禎仁が本邸にいるのは、義父の言いつけに逆らっていることになる。

「どうして本邸(ここ)に来たのよ!」

「校長先生には事情を説明して、休む許可をもらったよ」

 強い口調で問うた私に対し、禎仁は事も無げに答えた。

「そうじゃなくて!おじい様に、何があっても、公休日でない限りは霞ヶ関に来るなって言われたでしょ?!」

 私の指摘に、

「僕も、おじい様の言いつけを守ろうと思ってたんだけどさ」

と禎仁は冷静に返す。

「だけど、おじい様の病状が、余りにも急に悪くなったから、僕、驚いたんだ。その後で、母上が医者をしている僕だってこんなに驚くんだから、身内に医者がいない人たちは、もっと驚くんじゃないか、って考えたんだ。きっと、本邸には見舞客もたくさん押し寄せるし、伯父上も見舞いにいらっしゃるだろうから、母上と金子の爺だけじゃ、お客を捌ききれないだろうと思って……だからこっちに来たんだ」

「……気持ちはありがたいけどね」

 私は怒りを解くと、軽くため息をついてから次男に言った。

「でも、私と金子さんだけじゃなくて、大山さんも手伝ってくれているのよ。流石にあなたの伯父上も事前の連絡なしには来ないだろうから、この場は何とかなると思うけど」

「そう?ここに来るまでにちょっと様子を見たけど、大山の爺も忙しそうにしてたよ」

 禎仁が私に反論した瞬間、「えっ?!」という金子さんの叫び声が玄関の方から聞こえた。まさか、忙しさの余り、金子さんがどこかに頭をぶつけたのだろうか。禎仁と2人で慌てて玄関へと走ると、

「そ、そんな、上皇陛下、皇太后陛下……」

そこには、両目を丸くして立ち尽くしている金子さんと、右手に杖を持つ兄、そして節子(さだこ)さまがいた。

「章子、禎仁、義兄上(あにうえ)の具合はどうなのだ?!」

 私たち親子に向かって叫ぶ兄の後ろから、

「も、申し訳ありません、前内府殿下。せめて、連絡をそちらに入れてから……と申し上げたのですが、上皇陛下も皇太后陛下も、止める間もなくお車に向かってしまわれて……」

上皇侍従長の甘露寺(かんろじ)受長(おさなが)さんが出てきて、弱り切った表情で事情を説明する。

(こんな時にアポなしで来るなぁ!)

 私は心の中で兄と節子さまを罵った。けれど、こんなことをしていても仕方がない。

「……禎仁、この本邸の采配、あなたに任せるわ」

 私は傍らに立つ禎仁を見ると、低い声で言った。

「母上は、あなたの伯父上と伯母上に付き添わないといけないから、しばらく身動きが取れない。あなたがこのお屋敷の中にいる人たちを、全部把握して動かすの。おじい様の病室に入ってもらうのは、おじい様と親しい人、それから皇族だけにして。それから、職員さんたちと私たち家族に適宜休憩と食事をとってもらうの。……できる?」

 後から考えると、成人前の人間に、重すぎる仕事をさせてしまったのかもしれない。けれど、兄と節子さまのアポなしのお見舞いで激しく動揺していた私は、この任務が禎仁の力量でできるものなのかを検討する余裕を失っていた。

「任せて、母上。やってみるよ」

 禎仁が力強い口調で答えたのを確認すると、私は「ありがとう、頼らせてもらうわよ」と禎仁に声を掛けてから、兄と節子さまを義父の病室へと案内した。

 病室に入った時、義父は目を覚ましていた。眼だけを動かして私たちの姿を捉えた義父は、

「嫁御寮どのはともかく、万智子に、上皇陛下と皇太后陛下……私もいよいよ、ですかね」

と、小さな声で言った。

「おじい様!」

 万智子の悲鳴のような声に、

「しっかりしてください、義兄上(あにうえ)!」

兄の叱咤の声が重なる。

「手当てが間に合ったのだから、奥侍従長のようなことにはなりません!ここで持ちこたえて回復した人間など、いくらでもいるではないですか!」

 叫びながら右手を握った兄の声には応えずに、義父は僅かに頭を動かして兄を見ると、

「上皇陛下……もし、国軍が2つに割れようとすれば、恐れながら、天皇陛下のお力だけでは、止められぬかもしれません……」

小さいながらも、はっきりした声で兄に言った。

(え?)

 私は目を見開いた。“国軍が2つに割れる”……それは、先日の山階宮(やましなみや)菊麿(きくまろ)王殿下と、華頂宮(かちょうのみや)博恭(ひろやす)王殿下の対立を指しているのだろうか。でも、それはお上が既に解決しているはずで……。

(まさか……お義父(とう)さま、せん妄に……)

「どういうことですか?菊麿と博恭のことなら、裕仁(ひろひと)が解決したと聞きましたが」

 私の前で、兄は訝しげに義父に尋ねる。すると、

「あの2人が矛を収めても、周りに火種はくすぶっております……」

義父は兄の目を見つめながらこう続けた。

「上皇陛下……もし、国軍が二分されてしまった時には、天皇陛下にお力をお貸しいただき、事態を収められますよう……威仁の、最後の願いでございます……」

「……分かりました。だが、最後の願いにはさせません」

 縋るように言った義父に、兄は義父の右手を強く握りしめながら言った。

「俺は義兄上(あにうえ)義弟(おとうと)なのです。それなのに、俺は義兄上(あにうえ)にわがままを言われたことが一度もありません。だから、もっと俺にわがままを言ってください、義兄上(あにうえ)。それで義兄上(あにうえ)の命が延びるなら、俺は喜んで義兄上(あにうえ)のわがままを叶えます」

 兄の声には、次第に涙の色が混じっていく。兄の顔を、義父は寂しげに微笑んで見つめていたけれど、やがて、

「少し、休みます……」

と言って目を閉じた。義父の胸は規則正しく上下していた。

 翌日、11月1日も、霞ヶ関の本邸には見舞客が押し寄せ続けた。前日に引き続いて、兄と節子さまは午前中にやってきて、義父の病室にずっといたし、伊藤さん、陸奥さん、桂さんなど、梨花会の面々もやってきたので、霞ヶ関の本邸は、政府と議会が丸ごと移転して来たかのような状況になっていた。ただ、禎仁が上手く見舞客を捌いてくれたので、家族や職員さんたちが過労で倒れるということはなかった。

 その一方、義父には点滴だけではなく、輸血など様々な処置が施されていたけれど、血圧は少しずつ下がっていた。恐らく、体内でじわじわと出血が続いているのだろう。それは、義父の最期の時が近づいていることを意味していた。

「明日午前8時、天皇陛下は皇居をお発ちになり、この本邸に有栖川宮殿下のお見舞いにいらっしゃるとのこと。……今、宮内省から通達がございました」

 1932(昭和4)年11月1日月曜日、午後7時30分。夕食をとった後、食堂で休憩していた私に、金子さんがこう告げた。義父の日中の容態は、午後6時ごろに宮内省に報告している。それを踏まえて、お(かみ)の侍医の先生方や宮内省の役人が協議し、なるべく早く義父の見舞いをするように、とお上に進言したのだろう。

「つまり……おじい様は長くはもたない、ってことだよね?」

 私の隣で箸を動かしていた禎仁が、私に確認する。

「そうね。私が侍医だとしても、一刻も早くお見舞いを……ってお上に申し上げるわ」

 私は次男に答えると肩を落とした。“一刻も早くお見舞いを”という言葉に続くのは、“そうでなければ、病人はすぐに死んでしまうでしょう”というフレーズだ。義父の病状は、それだけ切迫している。

「陛下がいらっしゃること、おばあ様と姉上にも、それとなく伝える方がいいよね」

 禎仁の提案に私が頷いた時、

「章子さん、若宮殿下が」

赤坂の家から手伝いに来てくれた私の実母・花松(はなまつ)権典侍(ごんてんじ)が食堂のドアを開け、私に声を掛ける。母の後ろには、軍装の栽仁殿下が、強張った顔をして立っていた。

「章子さん、父上の様子は?」

「栽仁殿下!」

 私は急いで椅子から立つと、夫のそばに早足で近寄り、

「相当悪い。明日、朝一でお上がお見舞いにいらっしゃるって……」

と小さな声で告げた。

「そうか……」

「とにかく、お義父(とう)さまに会ってあげて」

 私はうつむいた栽仁殿下の右手を掴むと、そのまま引っ張って義父の病室へと連れて行った。

「父上、栽仁です」

 ベッドに寝かせられ、点滴を受けている義父は目を閉じていたけれど、夫が呼びかけると目を開けた。

「栽仁……」

「父上!」

 自分の右手を握った栽仁殿下に、

「我が宮家のこれからのこと……頼むぞ」

と言った義父は更に、

「それから……国軍を二分させぬよう、努力を怠るな」

と続けた。

「父上……?その件は解決したと聞きましたが?」

 首を傾げた栽仁殿下に、

「いや、必ず起こる……」

義父は昨日より小さな声で言う。

「栽仁……我が家は博恭どのと対立はしているが、だからと言って、国軍を二分させることに手を貸しては、ならぬ……。博恭どのに、思うところはあるだろうが、必ず、国軍の対立を鎮めるように動け……」

「昨日も、俺に同じようなことを言ったのだ」

 朝から病室に詰めきりの兄が、低い声で栽仁殿下に言った。

「俺だけではない、伊藤議長や桂総理、斎藤大臣や鈴木参謀本部長にも……。章子は、“具合が悪すぎて、正常な思考ができなくなっているのかもしれない”と言うが、どうも、そうとは思えなくてな……」

「そうでしたか……」

 栽仁殿下は兄に答えると、義父の手を更に強く握った。

「父上、ご安心ください。華頂宮さまは許せぬ人ではありますが、それと国家のこととは別。軍を二分させないためには、必要とあれば華頂宮さまとも協力します」

 栽仁殿下の言葉を聞くと、

「そうか……安心した」

義父はそう言って微笑み、両目を閉じた。

 それからは、夜通しの看護が続いた。もちろん、交代で仮眠を取りながらではあるけれど、私たち家族は交代で義父の病室に詰め、義父の様子を見守った。時折義父に呼びかけてみるけれど、義父は目を開かない。深く眠っているのか、それとも、もう呼びかけに応える体力がないのか……。どちらなのかは分からない。けれど、後者の可能性は高いだろう。お上のお見舞いが間に合うことを、私は切に祈った。

 1932(昭和4)年11月2日水曜日、午前8時10分。

 お上が霞ケ関本邸の玄関を潜った時、私は義父の病室にいた。義父の収縮期血圧は、午前3時ごろから70mmHgを下回っている。枕元にお上が来ても、目を覚まさないだろう。

「お義父(とう)さま、お上がいらっしゃいましたよ」

 栽仁殿下がお上を案内して病室に入った時、私は祈りながら、義父に大きな声で呼び掛けた。

 すると、義父の両目がゆっくり開いた。網膜の上に結ばれたお上の姿を追って、義父の瞳が動く。

「天皇……陛下……」

 義父の口から思ったよりもしっかりした声が流れ出ると、

「宮」

お上はベッドの傍らに片膝をつき、義父の手を握った。

「陛下……くれぐれも、国軍を二分させぬよう、お願い、いたします……」

 義父がお上に言ったのは、やはり国軍のことだった。せん妄なのかそうでないのかは分からないけれど、義父の頭には、国軍への不安が強く残っているのだろう。

「分かっているよ、宮」

 事前に兄から話を聞いていたのだろうか。お上は動じることなく義父に答える。義父からの返答はない。見ると、義父は既に目を閉じていた。お上の答えは義父に届いたのか、届かなかったのか……。そんなことを考えながら、私は栽仁殿下と一緒に、お上を玄関まで送った。

「血圧が測定できません」

 病室に戻ると、塩田先生が私に報告した。私も血圧計を借り、義父の血圧を測ろうとしたけれど、やはり彼の言う通り、義父の血圧は低すぎて測定することができなかった。そして、呼吸の回数が減り、脈も触れなくなり……。

「薨去、されました」

 1932(昭和4)年11月2日水曜日午前11時25分、最後の診察をした塩田先生はこう告げると、私たち家族と義父の亡骸に向かって最敬礼した。

 塩田先生に応えて一礼し、頭を上げると、病室の窓が目に入った。この窓からは、霞ヶ関本邸の庭園を眺めることができる。

 1時間ほど前から降り始めた雨は、庭園の草木を優しく濡らしていた。

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