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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第87章 1932(昭和4)年小満~1932(昭和4)年霜降
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名づけ

 1932(昭和4)年10月31日月曜日午後3時20分、東京市京橋区築地4丁目にある国軍軍医学校の校長室。

 この時間になると毎日校長室にお茶をしに来る大山さんは、試験の採点が長引いているということで今日は校長室には来ていない。私が机に向かって書類仕事をしていると、ドアをノックする音とともに、「校長殿下、いらっしゃいますか?」と声が掛かった。私のお付き武官・奥梅尾(むめお)看護大尉が「いかがいたしますか」とお伺いを立てたのに、「通してあげて」と私は応じた。

「突然申し訳ありません、校長殿下」

 ドアが開くと、2人の男性が現れる。1人は、主任として教員のまとめ役をしている軍医少佐で、もう1人は、私と顔なじみの半井(なからい)久之(ひさゆき)軍医大尉だ。

「構わないですよ。仕事もキリのいいところでしたし」

 こう言いながら、私は処理しようとしていた書類を脇に除けた。ちなみに、8月までは、“校長ではなく、校長事務取扱です”と毎回のように言っていたのだけれど、9月1日付で私が軍医大佐に昇級し、“校長事務取扱”の肩書から“事務取扱”の文字が外れたので、その台詞は口にしなくなった。

「……で、どうしたのですか?」

 私が主任の先生と半井君に問いかけると、

「はい、ご相談がありまして……」

こう前置きした主任の先生は、

「実は、半井大尉の奥方が、妊娠しまして」

と続けた。

「それはおめでたいじゃない!」

 私はパッと顔を明るくした。出産予定日がいつなのかとか、奥様の出産に当たって何か欲しいものがあるかとか、半井君に確認したいことがいくつも頭の中に湧き上がる。……でも、それを聞くのは、主任の先生の相談が終わってからだ。私は半井君に質問をぶつけたい気持ちを必死に抑え、咳ばらいをすると澄ました顔を作った。

「出産は来年の1月予定とのことですが、それに合わせて、半井大尉が介護休暇を取りたいと希望しておりまして……。今まで、そのような理由で介護休暇を取った例がございませんから、教頭とも話し合った結果、校長殿下のご意見を伺ってみようということになりまして……」

「奥様の看病を理由にして介護休暇を申請して、それで許可するということで問題ないと思いますよ」

 恐る恐る私に尋ねる主任の先生に、私は即答した。

「出産の後の女性って、大変なんですよ。分娩で体力を使い果たして、全然動けなくて……。幸い私は、乳母さんや家の職員さんたちがいましたから、色々手伝ってもらえて、産休が終わると同時に貴族院の議長をすることができるまでに回復しましたけれど、そういう手厚い体制が取れない家だと、分娩後の女性が回復するまでには時間がかかります」

「し、しかし校長殿下、それならば、奥方が里に帰って出産をしたり、女中を雇ったりすればいいだけの話であって、夫が勤務を休んで妻の介護をするほどでは……」

「私は3回出産しましたけれど、3回とも、夫が出産に駆け付けてくれました」

 反論する主任の先生にこう言うと、彼は私に向かって慌てて頭を下げた。

「夫が私の世話をすることはなかったですけれど、それでも、夫がそばにいてくれるだけでとても安心できました。……まぁ、半井大尉の奥様が、分娩の時に半井大尉がそばにいることで安心できるかどうかは、半井大尉と奥様の関係性にもよりますけれど、ただ、半井大尉と奥様の仲が良いのであれば、介護休暇を取って、奥様のそばにいるべきです」

 更に私が論を展開すると、半井君は少し恥ずかしそうにしながら私に最敬礼する。……本当は、半井君には育児休暇を取ってもらうべきなのかもしれない。ただ、現在の国軍の育児休暇の制度は、女性だけが取ることを前提として設計されている。これは、育児休暇の制度の原案を私が作った時に、男性が取得することを考えていなかった私の落ち度だ。ならばなおさら、半井君にはなんらかの形で休暇を取ってもらわなければならない。

「かしこまりました。それでは、“妻の看病のため”という理由で、半井大尉には休暇を取ってもらいます。後日、校長殿下のところに書類が回されると思いますので、ご許可をお願いします」

 主任の先生の言葉に、私は「わかりました」と頷いた。すると、主任の先生は、「さ、半井大尉、行こうか」と、半井君と一緒に校長室から出て行こうとしたので、

「待って!半井大尉は残ってください。聴取したいことがありますから」

私は慌ててこう言って、半井君を引きとめた。

「そっか……。貞さん、身籠ったのね。おめでとう」

 主任の先生がいなくなり、校長室のドアが閉じられると、私は半井君に改めてお祝いを述べた。

「あ……ありがとうございます」

 緊張した表情で頭を下げた半井君に、

「でもさ……来年の1月が出産予定日ということは、今、妊娠7か月か8か月ぐらいよね。夏に入るまでには、妊娠したって分かってたんじゃない?どうして私に教えてくれなかったの?」

と私は尋ねた。

「も、申し訳ございません」

 半井君は再び私に頭を下げると、

有栖川宮(ありすがわのみや)殿下が、胃の疾患で手術をなさってご療養中と伺いましたし、それに、先月の下旬からは、校長殿下が介護休暇を使われて、有栖川宮殿下の看病に行かれることもしばしばありますので、そんな時に、(さだ)の妊娠のことを校長殿下のお耳に入れるわけにはいかないと考えまして……」

と、一気に理由を述べた。

「そう……気を遣ってくれてありがとう」

 私は半井君に微笑を向けた。

「でも、遠慮は無用よ。半井君は昔からの知り合いだし、前にも言ったことがあるけれど、お母様が亡くなってからは、私がお母様の代わりに半井君を見守っているつもりでいるの。それに、めでたいことはちゃんとお祝いしないといけないしね」

「はっ……」

 恐縮したように下を向く半井君に、

「私の方だって、悲しいことばかりが起こっているわけじゃないの。7月には長男の成年式があったし、9月には長女の結婚式があった。だから、遠慮する必要は全然ないのよ」

と私は笑いかける。

「ですが校長殿下、今は違うではないですか」

 半井君の反論に、私は「まぁ、そうだけど」とだけ答える。9月10日にあった万智子(まちこ)の結婚式以降、私の義父・威仁(たけひと)親王殿下の体力は次第に落ちてきていた。一度に歩ける距離はだんだん短くなり、皇居の長い廊下は途中で立ち止まらないと歩き通すことができなくなってしまったので、今月の梨花会は欠席を余儀なくされた。出された食事を“戻してしまいそうだ”と言って残すことも多くなっている。経口補水液も飲めない時には、私が介護休暇を取って勤務を休み、義父に点滴をしていた。

「……でもさ、めでたいことは、ちゃんとお祝いしないといけないわ。じゃないと、永久にお祝いできなくなっちゃうもの」

 暗い雰囲気を振り払うように、わざと明るい声で言った私は、

「ねぇ、半井君、何か欲しいものはある?産着とか、おしめとか、そういう絶対に使うものでもいいし、あとは粉ミルクとか、おもちゃとか、乳母車とか、オルゴールとか……」

半井君に向かって、お祝いで贈る品物を列挙した。

 すると、

「いえ、そういうものは……!」

両目を丸くした半井君は、首を左右に大きく振った。

「僕と貞の結婚の時、校長殿下に重箱をいただきましたが、あまりにも高級な品物でしたので、もったいなくて使えずにしまい込んでしまっているのです!ですから、校長殿下に物をいただくのは、恐れ多きことではありますが、お断り申し上げたいと……」

(あー……)

 私は過去の自分をどやしつけたくなった。昔からご縁のある後輩の結婚なので、私は大山さんにも相談し、一流の蒔絵師にお願いして重箱を作ってもらい、それを半井君にお祝いとして贈ったのだけれど……どうやらそれが良くなかったらしい。

「じゃ、じゃあ、何か他に欲しいものとか、私にやってもらいたいこととか、あるかしら?必要なら、私が半井君の家の手伝いに行ってもいいし……」

「こ、校長殿下にそんなことはさせられません!」

 驚いて叫んだ半井君は、次の瞬間、「あ、でも……」と呟いた。

「どうしたの?」

 期待を込めて尋ねた私に、

「実は、生まれてくる子供の名前を、まだ決めていないのです」

と半井君は言った。

「本当なら、両親に相談するのでしょうが、校長殿下もご存知の通り、僕は父も母も亡くしています。貞の両親にも聞いてみたのですが、僕の好きに決めていいと言われてしまい、助言をもらえなかったのです。ですから、大変おこがましいのですが、子供の名前を、校長殿下に決めていただきたいと……」

「そんなの、お安い御用よ」

 次第に声が小さくなっていく半井君に、私は力強く請け負った。

「性別は分からないから、男の子の名前と女の子の名前、両方考えるわ。それでいいでしょ?」

「は、はいっ!ありがとうございます!」

 半井君が深くお辞儀すると、私は奥看護大尉に墨を磨るようにお願いした。大事な子供の名前なのだから、ペンで洋紙に書くのではなく、筆で半紙に書く方がいいと思ったのだ。

「えーと、貞さんの出産予定は来年の1月と聞いたけれど、1月のいつごろなのか、具体的にはわからないのよね?」

 机の上に半紙と文鎮を準備しながら、私は半井君に確認した。

「ええと……1月の中旬だろう、とは言われています」

(え……)

 半井君の回答を聞き、私は動きを止めてしまった。前世の私の父方の祖父・隆之(たかゆき)は、前世の私が死んだ2018(平成30)年の時点で、85歳で存命だったけれど、確か彼の誕生日は、1月13日だった。

(ちょっと待って……もし、半井君が前世の私のひいじーちゃんだったら、これから生まれるのはじーちゃんってことになって……。それに、2018年に85歳ってことは、じーちゃんが生まれたのは1933年だから……じゃあ、これ、もし半井君の子供が男の子だったら、じーちゃんの名前をつけないと、私の存在が消滅する?)

「校長殿下?」

 半井君が私を呼ぶ声で、私はパッと顔を上げた。

「いかがなさいましたか?」

「あ、ああ、ごめんなさい。どんな名前がいいかなーって、ちょっと考えてて……」

 慌てて答えた私は、

「ところで、半井君のお父様の名前は何て言うのかしら?」

誤魔化すように、半井君に質問をぶつけた。

「僕の父ですか?吉之(よしゆき)と言います。吉兆の“吉”に、僕の名前にも使われている“之”と書きます」

「なるほど……」

 つまり、“之”という字が、半井家では代々使われているようだ。

(……ってことは、生まれてくる子に、前世のじーちゃんの名前を付けても、そんなに変じゃないわね)

 そこまで考えた時、奥看護大尉が硯を私の机の上に置いた。私は筆を持ち、筆の穂先に墨を含ませると、半紙の右半分に“隆之”と前世の祖父の名を書いた。

「生まれる子が男の子だったら、この名前がいいと思うわ。半井家が隆盛するように、という意味で、隆盛の“隆”の字を使って、あなたがお父様から受け継いだ“之”の字をつけたの。これで“たかゆき”と読ませる。……どうかしら?」

「ありがとうございます!」

 半井君は顔を輝かせた。「隆之……とてもよい名前だと思います。響きもよくて……」

「そう?それならよかった」

 微笑んだ私は、

「あとは、女の子の名前よねぇ……」

と呟いた。残念ながら、女の子の名前で思いつくものがない。末尾に“子”が付く名前なら、この時代としては無難な名前になるけれど、それではちょっと平凡過ぎる気がする。

(んー、何かいい名前がないかしら……あ)

 思いついた私は、再び筆に墨をつけると、“隆之”と書いた半紙の左半分に“梨花”と記した。

「あのー、殿下、それは?」

 首を傾げた半井君に、

「梨の花と書いて、“梨花”。実はね、これ、私の雅号なのよ」

私は半紙を胸の前で掲げながら言った。

「梨の花は春に咲くから、子供が生まれる時期には合わないけれど、今、パッと思いついたのがこれでね。……他に思いつく名前もないし、受け取ってくれるかしら?」

「もちろんでございます!」

 私のお願いに、半井君は即答した。

「校長殿下の雅号を貰い受けることができるなんて……何という光栄でしょう!生まれる娘には、校長殿下の素晴らしさをずっと説いて聞かせます!」

「いや、落ち着いてよ……。男の子か女の子か、生まれてみないと分からないでしょう」

 興奮気味の半井君をとりあえず落ち着かせると、

「まぁ、“隆之”と“梨花”、どっちを使うことになるか分からないけど、もし使わなかったら次の子に使えばいいから、取っておいて。もし、貞さんが次の子を身籠ったら、使った方の性別の名前を新しく考えるから」

と私は半井君に言った。

「本当にありがとうございます。……ああ、僕は何て幸せ者なんでしょう!」

 半井君が私に向かって最敬礼した瞬間、

「殿下、よろしいですか」

ドアをノックする音と一緒に、我が臣下の声が聞こえた。「開けてちょうだい」と私が命じると、すぐに奥看護大尉が動く。現れた大山さんの顔は少し強張っていた。

「大山さん、どうしたの?」

 何かただならぬことが起こったのは間違いないだろう。私が大山さんに尋ねると、

「たった今、霞ヶ関のご本邸から連絡がありまして……有栖川宮殿下が、吐血あそばされたとのことです」

大山さんはやや硬い声で私に告げた。

「……分かった。すぐ本邸に行くわ」

 私は傍らにある診察カバンの取っ手を掴んだ。軍医学校にはしばらく出勤できないだろうという予感とともに。

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