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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第87章 1932(昭和4)年小満~1932(昭和4)年霜降
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万智子の嫁入り

 1932(昭和4)年9月8日木曜日午前8時、東京市麹町(こうじまち)区霞ヶ関1丁目にある有栖川宮(ありすがわのみや)家霞ケ関本邸。

 朝食の皿が下げられた食堂では、テーブルが動かされ、入り口側に広いスペースが作られた。急ごしらえのスペースには、紅の絨毯が敷かれている。その空間と、左手首にはめた腕時計の盤面とを交互に見ながら、私は長女の万智子(まちこ)が食堂に姿を現すのを待ち構えていた。

 万智子は南部家の当主で兄のご学友の1人である南部利祥(としなが)さんの長男・利光(としみつ)君と婚約している。けれど、婚約が成立した1928(大正13)年、利光くんは幼年学校在学中の15歳で、すぐに結婚することはできなかった。

 そして、婚約成立から4年経った今年7月、騎兵士官学校を卒業した利光くんは晴れて騎兵少尉に任官し、結婚が可能になった。そこで、9月10日に利光くんと万智子の結婚式が行われることとなり、万智子は今日これから、五衣(いつつぎぬ)唐衣裳(からぎぬも)……いわゆる十二単を着て宮中三殿に参拝し、お(かみ)と皇后陛下に結婚のあいさつをしに行くのだ。

「殿下、どうなさったのですか」

 上座に座って難しい顔をしている私の義父・有栖川宮威仁(たけひと)親王殿下に、義母の慰子(やすこ)妃殿下が優しく話しかける。すると義父は、

「いや、迷っていてね」

と義母に答えた。

「このまま、万智子の装束姿を見ていいのかどうか……。見てしまえば、万智子が嫁に行ってしまうということを実感して、泣いてしまうかもしれない。かと言って、見なければ、せっかくの万智子の晴れ姿を拝めないことになる。それでどうしたものかと迷っているのだ」

「見てあげてくださいよ……」

 両腕を胸の前で組み、真剣に考え込む義父に、私は半ば呆れながらお願いした。

「万智子は、朝の3時半に起きて仕度をしているんですよ。せっかくの努力をおじい様が見てあげないなんてことになったら、万智子がかわいそうです」

「それはそうなのですがねぇ」

 義父が私に応じた時、閉ざされていた食堂のドアが開かれる。

「お待たせいたしました」

 我が家の別当・金子堅太郎さんが一礼したと同時に、職員さんに先導されて、装束をまとった万智子が食堂に足を踏み入れた。

(ああ……!)

 食堂に入ってきた万智子は、髪を“おすべらかし”という独特の形に結っている。その身にまとっているのは五衣唐衣裳だ。濃色(こきいろ)の長袴をつけ、“萌黄(もえぎ)(におい)”の五衣(いつつぎぬ)を1枚ずつ重ね着し、その上に表着(うわぎ)、そして梨の花の上文(うわもん)が入った萌黄色の唐衣と裳……。万智子が着ている装束は、22年前、私が栽仁(たねひと)殿下との婚儀で使ったものだった。

「あら、章子さん、どうなさったの?」

 私の様子がおかしいのに気が付いたのか、義母は私に声を掛ける。

「だ、だって、お義母(かあ)さま……」

 私は一気に溢れた涙をハンカチーフで拭いながら、義母の方を振り向いた。

「万智子が……万智子が、私の婚儀の時の装束を着てくれたんですよ。装束を作ろうという時に、“新しく作るのはもったいないから、母上の使ったものが着たい”と万智子が言い出してから、夢じゃないか、やっぱり、“新しい装束を作ってくれ”と言うんじゃないか、……そう思って、ずっとドキドキしていましたけれど、こうして、万智子が、私の装束を、本当に着てくれて、私、私……」

「母上、そんなに泣かないでください」

 檜扇(ひおうぎ)を両手で持った万智子が苦笑したけれど、

「止まらないのよ、涙が……。だって、私はあなたに、軽んじられているから……。それなのに、私の装束を着てくれて……」

と私は娘に言い返した。

「軽んじてなんかいませんよ。母上は家では頼りないから、私、気が付いたことを申し上げているだけです」

「万智子……」

 長女の言葉を聞いた私の目から、再び涙が流れ出す。その涙をハンカチーフで押さえつつ、

「あなた、とても綺麗よ、私より、その装束が似合っているわ……」

とだけ言うと、私はうつむいた。

「あらあら、章子さまは泣き虫ねぇ」

 そう言った義母に、

「昔からじゃないか。万智子を産んだ時も、嫁御寮どのは栽仁と一緒に泣いていた」

義父が苦笑しながら答えるのが聞こえた。

「そうなのですか?」

「だって、あなたが生まれて、嬉しかったんだもの……」

 驚く万智子に、私は涙を拭いながら答えた。

 すると、

「そうだろうねぇ」

義父がニヤニヤ笑いながら言う。

「でなければ、生まれたばかりの万智子を、貴族院に連れて行くことはしないだろう」

 続けての義父の言葉に、五衣唐衣裳を着ている万智子は「は……?!」と目を丸くした。

「そんな……私が生まれた直後に、母上が貴族院の議長をなさったのは存じていましたけれど……まさか私、母上に抱かれて議長席に座っていたのですか?」

「あー、それはないよ。貴族院の休憩室までは連れて行って、乳母さんと交代で、あなたにお乳はあげていたけれど……」

 万智子の勢いに押されながらも私が答えると、突然万智子が涙ぐみ、

「そんな……乳母任せにしてもいいのに、母上が、私にお乳をあげていたなんて……」

檜扇を持った手を器用に持ち上げ、こぼれた涙をそっと押さえた。

「万智子さんに伝えていなかったの?」

 義母の問いに、私は「はぁ……」と曖昧に頷いた。10年くらい前から、乳児用の粉ミルクが市販されるようになったけれど、子供たちが生まれたばかりのころにはそんなものはなく、乳児は母乳か牛乳で育てるしかなかった。上流階級では乳母を雇うのが当たり前だったので、私も乳母を雇っていたのだけれど、自分だって母乳が出るのだから、使わなければもったいないし、私の時代では、乳児は母親自身の母乳と乳児用に調整したミルクで育てるのが普通だった。だから、私もできる限り、子供たちに自分の母乳を吸わせていたのだけれど……。

「母上……お忙しい中でも、私たちのことを気にかけてくださっていたのね……」

 そう言って感激している娘を、私はやや困惑しながら見つめた。

 と、

「確かに、万智子の母上は仕事に一生懸命だし、他のことは抜けてしまいがちだけれど、子供への愛情はしっかりあるよ」

義父が顔に穏やかな笑みを浮かべて万智子に言った。

「良き妻、良き母……それは嫁いだ相手や家、生まれる子供たちにも左右されるから、一概にこんな女性だと言えるものはないだろう。ただ、その様々な“良き妻”“良き母”たちの根底に、愛情があるのは共通していると私は思うよ。……さぁ、もう出立の時刻だ。宮中三殿にも参拝するし、天皇陛下と皇后陛下にもごあいさつするのだから、笑顔で行ってきなさい」

 義父の言葉に「はい!」と元気よく返事した万智子は、私たちに一礼すると踵を返す。その後ろ姿を、私も義母も義父も、感慨を抱きながら見送った。


 1932(昭和4)年9月10日土曜日午前9時、東京市麹町区霞ヶ関1丁目にある有栖川宮家霞ケ関本邸。

「待ち遠しいなぁ」

 おとといと同じように、食堂で万智子の着替えが終わるのを待っていると、私の隣にいる栽仁殿下が言った。普段なら東京にいる時間帯ではないのだけれど、今日は万智子の輿入れの日なので、栽仁殿下は休暇を取って東京に戻っていた。

「何が?」

 私が栽仁殿下に尋ねると、

「万智子の装束姿を見るのが、だよ。すごく綺麗だったんでしょ?」

そう答えた彼は、ふと寂しそうな表情になり、

「でも、21年育ててきた娘が嫁ぐというのは、寂しいね」

と呟くように言った。

「そうね。……私も、こんな日が来るなんて、思ってもみなかったなぁ」

 私が栽仁殿下に応じた時、

「ほら、父上、母上。姉上が来たよ」

これも今日、士官学校を欠席した次男の禎仁(さだひと)が私たちに呼びかける。その声で首を巡らすと、五衣唐衣裳の装束を着た万智子が、ちょうど食堂のドアを潜ったところだった。

「ああ……本当に綺麗だ」

 自分に近づいてくる万智子を見た途端、栽仁殿下が涙を流し始めた。

「これは、章子さんが、婚礼の時に着た装束だね。とても……とても、似合っているよ、万智子……」

「でしょう?本当に、美しくて……」

 おとといと同じく、私が婚儀で使った五衣唐衣裳を着ている万智子は、やはりとても美しい。その姿を見て、彼女が生まれた時のことや、幼かったころのこと、将来の道に迷っていたころのこと……生まれてから今日に至るまでの万智子に関する思い出が、頭の中に一気に蘇り、私はまた涙をこぼしてしまった。

「父上も母上も、ちょっと泣き過ぎじゃない?」

 呆れたように言う禎仁に、

「でしょう?おととい、参内する前も、母上、ずっとこんな感じだったのよ」

やはり呆れたように万智子が答える。

「仕方ございませんよ。若宮殿下も章子さんも、それだけ女王殿下のことを大切に思っていらっしゃるということです」

 食堂の隅に控えていた私の実母・花松(はなまつ)権典侍(ごんてんじ)がなだめるように言った時、

「南部家のお迎えの方がいらっしゃいました」

別当の金子堅太郎さんが現れ、義父に報告する。我が家の職員と南部家の職員に先導されて食堂に入ってきたのは、騎兵少尉の正装をまとう南部利光くんだった。

 婚礼の作法は、同じ日本でも、地域や身分、そして時代によって様々だ。ただ、私の義妹・徳川實枝子(みえこ)さまが徳川慶久(よしひさ)さんと結婚した時、慶久さんが有栖川宮家まで實枝子さまを迎えにくることはなかった。それなのに今回、花婿本人が花嫁を迎えに来ることになったのは、義父の病状を聞いた南部家から、そうしたいという申し出があったからだ。

――もしかしたら、利光と女王殿下の婚礼のころには、有栖川宮殿下は霞ヶ関の本邸から動くことが叶わず、新郎新婦の披露の宴へのご出席が難しいかもしれない。ならば、女王殿下の嫁入りの時に、利光を霞ヶ関の本邸に迎えに行かせて、新郎新婦の晴れ姿を有栖川宮殿下にご覧いただきたい。

 南部家の当主・南部利祥上皇武官長は私にこう言った。もちろん私も大賛成で、別当の金子さんや義父本人とも協議した結果、前例とは違う花嫁の出迎えが実現した。

「おお、似合いの2人だね」

 義父が顔を綻ばせると、利光くんは緊張した表情で、「お迎えに参上いたしました」とあいさつし、深く一礼する。カーキ色の上衣に、騎兵の兵科色である深紅の腕章を左腕に巻いた利光くんは、とても凛々しかった。

 食堂に運び入れられた金屏風の前で、万智子と利光くんが並んで写真を撮ると、利光くんは食堂からいったん退出した。続いて始まったのは、私たちと万智子の別れの盃事だ。万智子と義父と義母、私の母、そして私と栽仁殿下と禎仁が椅子に座り、作法通りに盃を交わした。

「……おじい様、おばあ様、赤坂のおばあ様、そして父上、母上……。今日まで育てていただいて、ありがとうございました。南部家に嫁ぎましたら、利光さまはもちろん、ご両親さまにもよく仕えるようにいたします」

 やがて、盃の移動が終わると、万智子は椅子から立ち上がり、私たち1人1人の顔を順々に見つめながら別れの言葉を述べる。私の両目に、また涙が湧き上がってきた。

「万智子は、万智子の母上とは違う意味で、立派な女性に成長した。そのことに自信を持って、これからの人生を生きていきなさい」

 義父からのはなむけの言葉に、万智子は深く頭を下げ、「かしこまりました」と返答する。

「先方のご家風に、よく従うようになさいね」

「陰ながら、お幸せをお祈りいたしております」

 義母と私の母からの言葉を受けると、万智子は再びお辞儀をした。

「万智子……」

 娘の名を呼んだ栽仁殿下は、言葉を詰まらせると、溢れる涙をハンカチーフで拭う。そして、必死に呼吸を整えると、

「身体に気をつけて……利光くんと、仲良くやるんだよ」

声を絞り出すようにしてこう言った。次は私が万智子に言葉を掛ける番なのだけれど……。

「あのね、万智子……」

 ここまで言った時、私の視界は涙で完全にぼやけてしまった。これではいけない。私は急いで涙をハンカチーフで拭き、

「母親としては、頼りにならないかもしれない、けど、医者としては、頼りになるつもりでいる、から……だから、身体に何かあったら、相談してちょうだいね……」

しゃくり上げながら、万智子にこう言った。

「母上……私は母上のこと、女性として尊敬していますよ」

 泣き続ける私に、微笑を含んだ万智子の声が届く。

「それに、南部の家に嫁いでも、身体のことを相談できる一番身近にいる人は母上です。何かあれば相談させていただきますから、よろしくお願いします」

「万智子……」

 今すぐ娘のそばに行って、娘の身体を抱き締めたい。その思いに駆られた私は席を立ち、万智子のそばに行くと、装束の着付けを崩さないように、そっと彼女の身体を抱き締めた。更に、いつの間にか私について来ていた栽仁殿下が、私の横から万智子を抱き締める。「母上……父上……」と呟いた万智子の声は、幾分か湿り気を帯びていた。

「父上、母上、そろそろ姉上から離れないと、利光が待ちくたびれちゃうよ」

 学習院で利光くんと同学年だった禎仁が、呆れたように私と夫に呼びかける。私たちが慌てて万智子から離れると、

「姉上、父上と母上は、僕がちゃんと手綱を取るよ。だから、家のことは心配しないで、姉上は利光のところに安心して嫁ぎなよ」

禎仁は少しおどけたように万智子に言う。

「こら、禎仁!僕はともかく、お前の母上のことを悪く言うのは許さないぞ!」

「違うわ、逆よ、逆!私の手綱を取るのはまだ分かるけれど、禎仁の父上を悪く言うのはどういうことよ!」

 栽仁殿下と私が禎仁に雷を落とすと、義父がぷっと吹き出す。その笑いは義母と私の母にも伝染し、ついには、食堂に控えている職員さんたち全員が大きな声で笑いだした。その笑いの渦の中で、私と栽仁殿下は顔を見合わせると照れ笑いをした。

 やがて、万智子が本邸を出立する時刻となった。車寄せに停められた自動車の前に万智子と並んで立った利光くんは、玄関先に立つ私たち家族をしっかり見つめると、

「有栖川宮殿下、妃殿下、若宮殿下、そして(さきの)内府殿下……素晴らしい女王殿下を娶らせていただき、誠にありがとうございます」

そう言って最敬礼する。そして、上体を起こすと、

「女王殿下を一生お守りし、必ず幸せにいたします!」

力強い声で私たちに宣言した。

「!」

 その言葉に、私の目からまた涙がこぼれた。昔、栽仁殿下が、お父様(おもうさま)に私との結婚を直談判した時に言った、“一生涯章子さんを守って必ず幸せにする”……夫のその言葉と、今の利光くんの言葉が重なったのだ。

「……万智子は、いい若者と結ばれたね」

 義父が呟いた瞬間、新郎新婦が乗り込んだ自動車のエンジンがかかる。お上から差し遣わされた近衛師団の騎馬兵たちに守られながら、自動車はゆっくりと走り出した。

 次第に遠くなっていく自動車と騎馬の列を、私たちはいつまでも見送っていた。

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母によく似た万智子さん、ついに花嫁に。涙しかありません。 そして思うのは…「自分の娘、ちゃんと嫁に行けるのか?」という不安。
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