戦に(1932)しないで!五・一五(4)
1932(昭和4)年5月15日日曜日午後3時5分、赤坂御用地内にある仙洞御所。
「状況が動かないな」
仙洞御所の食堂。兄や梨花会の面々、そして栽仁殿下と一緒に3時のお茶をいただいていると、ティーカップを手にした兄が顔を僅かにしかめて言った。
「そうねぇ」
私は兄に応じると、紅茶を一口飲んだ。
「西園寺さんが心配したように、長期戦になっちゃうのかしら。それはちょっと困るなぁ。明日は普通に仕事があるのに」
「それは仕事を休むしかないよ」
私の愚痴にサラっと応じた栽仁殿下は、お皿の上に盛られたクッキーに手を伸ばした。
「……軍医学校への移動中に梨花さんが襲われたら、大変なことになるよ」
クッキーを咀嚼して飲み込んだ栽仁殿下に続いて、
「若宮殿下のおっしゃる通りですぞ」
3枚目のクッキーを食べ終えた伊藤さんが言った。
「軍医学校は国軍の施設ですから警備が行き届いておりますが、ご移動となりますと、どうしても警備は手薄になります。ご移動中に前内府殿下に万が一のことが起これば一大事。わしらは前内府殿下を襲撃した国に対して宣戦布告をしなければなりません」
「だからそれはやめてって言ったでしょ……」
私が大きなため息をついた瞬間、
「今、何か聞こえなかったか?」
突然、兄が一同に尋ねた。
「へ?」
首を傾げた私に、
「いや、確かにしたぞ。小さいが、何か、破裂するというか……爆発するような音が……」
兄は食い下がるように話しかける。
「そう言えば、何か聞こえたような気もいたしますな」
大山さんはこんなことを言ったけれど、
「私は聞こえなかったわよ。気のせいじゃない?」
と私は大山さんに応じた。
「僕も、聞こえませんでした」
栽仁殿下の回答に続き、「わしも聞こえませんでした」「僕もですね」などと、梨花会の面々が兄に答える。
「そうか。……では、俺の勘違いかもしれないな」
兄がそう言うと、食堂の中で交わされる会話は他愛ないものに変わっていったのだけれど、15分ぐらい経ったころ、上皇武官長の南部利祥さんが、緊張した表情で食堂に現れた。
「おう、南部、どうした」
ティーカップをテーブルの上に置いて問いかけた兄に、
「申し上げます。15分ほど前、赤坂御用地の南、赤坂区表町3丁目で爆発が発生しました。ガス爆発ではなく、火薬が使用された可能性があり、現在、消防組と警察、近衛師団の一部が現場に向かっています」
と南部さんは報告する。
(お……表町3丁目?!)
「表町3丁目ということは、花松さまの家があるところですが……」
栽仁殿下が呟くように言うと、
「すると、先ほど上皇陛下がおっしゃっておられた音というのは、これですかのう」
「しかし、大丈夫でしょう。もし前内府殿下のご生母の君のご自宅に何かあれば、このような騒ぎでは済まないはずです」
西郷さんや陸奥さんなど、梨花会の面々が冷静に反応する。その一方、私は血の気が引くような思いに襲われていた。
「章子さん?」
私の様子がおかしいのに気が付いたのだろう。私の顔を覗き込んだ栽仁殿下に、
「行かなきゃ……」
と私は震える声で言った。
「え?」
「だから、表町3丁目に、だよ。は……母上が、無事かどうか、確認しないと……」
必死に訴える私に、
「それはダメだよ!」
栽仁殿下は叫ぶように返した。
「章子さんを暗殺しようとしている連中が、まだ捕まっていないんだよ?!花松さまの安否を確認したいという気持ちは分かるけれど、下手に仙洞御所から出たら、章子さんが殺されるかもしれない!」
「でも、その間に母上が死んじゃったら、私、どうしたらいいの?!」
怒鳴る栽仁殿下に、私も怒鳴り返した。
「お父様もお母様も亡くなって、私が親と呼べるのは、この世にはもう母上しかいないのよ!だからお願い、無事を確かめに行かせて!」
そう言いながら椅子から立ち上がろうとしたけれど、両肩の上から急に力が加えられて、私は全く身動きが取れなくなってしまった。いつの間にか私のそばに移動していた大山さんが、私の両肩を上から押さえつけたのだ。
「いけません」
大山さんは私の耳元で重い声を出した。
「なんで……よっ!」
大山さんの力に抗って、必死に立ち上がろうとする私に、
「この爆発が、梨花さまを誘い出す罠の可能性もあります」
大山さんは囁いた。
「爆発の混乱に乗じ、花松どのの身柄を押さえ、梨花さまをおびき寄せる……もしそのような手はずを敵が整えていれば、梨花さまがお1人で現場に赴かれても勝ち目はございません。ここは俺たちに任せて、仙洞御所でお待ちください」
「……」
私は身体の力を抜いた。確かに、我が臣下の言う通りだ。
すると、
「栽仁、章子を抱き締めろ」
突然、兄の命令が降ってきた。
「はい?」
戸惑う私の身体は、あっと言う間に夫に前から抱き締められる。
「え……ちょ……」
「いいか、そのまま抱き締めていろ。絶対に離すなよ」
更に告げられる兄の命令に、「かしこまりました」と応じると、栽仁殿下は私を抱き締める腕に力をこめた。
「いや……あの、ちょっと……そ、そんなことしなくても、私、飛び出さないし……。それに、皆の前で、こんなことをされるなんて、私、その、恥ずかしい……」
私は顔を真っ赤にしながら抗議したけれど、
「うん、いいですねぇ」
「その通りですね、西園寺さん。ああ、前内府殿下の美しさがより増している……」
西園寺さんと原さんは私の横に回り込み、私の顔を見つめながらニヤニヤ笑っている。
「皇居ではなく、仙洞御所に参上して正解だったのう」
「ええ。後藤君がこのことを知ったら、涙を流して悔しがりますねぇ」
「児玉もじゃろう。いずれにしても、わしらは良いものを拝見できた」
更には、西郷さん、陸奥さん、伊藤さんも私の方を見ながら頷き合っていた。
「だ、だから、やめてってば、栽さん……」
私はもう一度、抱き締めるのを止めようとしない夫に訴えたけれど、
「ならん」
上座からは兄の声が即座に飛んできて、
「ダメだよ。上皇陛下のご命令だもの」
耳元では、栽仁殿下が囁いてもう一度腕に力をこめる。……結局、私は、表町3丁目の安全が確認され、母のところに行っていいという許可が下りるまで2時間余り、梨花会の面々と兄が見守る中、栽仁殿下に抱き締められ続けた。
1932(昭和4)年5月15日日曜日午後5時40分、東京市赤坂区表町3丁目。
ようやく、表町3丁目の安全が確認され、私は栽仁殿下と大山さんと一緒に、表町3丁目にある母の家に向かった。私たちの乗った自動車の前後には、警官が乗った自動車が2台ずつ付き従う。また、車の左右には、側車付き自動二輪が走っている。もちろん、側車には拳銃を構えた警官が乗り込み、周囲に目を光らせていた。普段の何倍も物々しさを増した警備に、私は移動の間、ずっと当惑していた。
到着した母の家の前には、普段はいない兵士がたくさん立っている。恐らく、近衛師団の兵だろう。彼らは私たちの車列を迎えると、一斉に敬礼した。
私たちに付いてきた警官が先を歩き、母の家の玄関の戸に向かって「ごめんください」と呼びかける。応答する声はない。私は居ても立っても居られなくなり、前にいる警官たちの間をすり抜けると、玄関の戸を引き開け、
「母上!」
屋内に向かって叫んだ。
「まぁ、章子さん……若宮殿下も」
慌てた様子で玄関先に出てきた母は、正座をすると私に向かって深々と頭を下げた。
「母上、そんなことしなくていいってば」
私は母を助け起こすと、
「この家と同じ町内で爆発が起こったって聞いたから、心配で……それで来たの。無事でよかった……」
そう言って、母に抱きついた。
「あら、どうなさったのですか。子供のころのように……」
母は苦笑すると、
「大きな音がしたのでびっくりしましたけれど、すぐに警察や消防組や軍隊の方が来てくださいましたから大丈夫でしたよ」
と、私に朗らかな声で言った。
「そう……。家が壊れたり、侍女さんたちが怪我したりしなかった?」
「ええ、それも大丈夫です。爆発の音がしてからすぐ、突然軍隊の方々がこの家の警備を始めたから、それにもびっくりしてしまいましたけれどね。20分ぐらいしたら兵隊さんの数が増えましたから、また驚きましたけれど」
(よかった……)
母が無事だったことに胸をなで下ろした私に、
「それより、章子さんの方こそ大丈夫ですか?」
今度は母が心配そうに尋ねた。
「こうして、元気なお姿を見せてくださったから安心しましたけれど、章子さんを暗殺する計画が発覚したから、戒厳令が出たのでしょう?ラジオで聞きましたよ」
「えっと……」
母に、状況をどこまで伝えていいものだろうか。言葉に詰まってしまった私の横から、
「ご安心を。きちんと警備しております」
大山さんが母に答える。そして、私の耳元に口を寄せ、
「広瀬君が、爆発の現場にお成りを願っています」
と彼は囁いた。私はそれに軽く頷いてから、
「母上、また来るから。母上も、万智子のお嫁入りの前には盛岡町に来てね」
と母の目を見つめてお願いした。
「そうねぇ、どうしましょう……」
ところが、母はこの状況でも、素直に頷いてはくれない。年に2、3度、私から母の家には行くけれど、母は遠慮してしまうのか、私の家に来てくれるのは年に1度がいいところだ。
すると、
「花松さま、お願いします」
私の右手側から、夫が一歩前に進み出て母に言った。
「万智子も花松さまと話したいと言っています。9月に嫁入りしてしまえば、なかなか会えなくなるだろうから、と……。お願いします。盛岡町に来てください」
戸惑う母に、栽仁殿下は頭を下げる。万智子は9月上旬に、上皇武官長の南部利祥さんの長男・利光君と結婚する。結婚まで、あと4か月もない。だから早く万智子に会ってほしい。栽仁殿下は私の母にそうお願いしているのだ。
「……若宮殿下にそこまでおっしゃられてしまって、盛岡町に行かない、と申し上げてしまうと、わたくしは無礼者になってしまいますね」
母は再び顔に苦笑いを浮かべると、
「かしこまりました。女王殿下のお嫁入りの前までには、一度そちらに伺いますわ」
私と栽仁殿下にそう答えてくれた。
「ありがとう、母上!」
「お待ちしております」
私と栽仁殿下は母に一礼してから、大勢の警官を従え、母の家を後にした。
そして、1932(昭和4)年5月15日日曜日午後5時58分。
「……こちらが、爆発があった現場でございます」
母の家に行った時と同じように厳重な警備に守られながら移動した爆発現場は、母の家から100mほど離れた場所にあった。私たちが現場に到着すると、先着していた中央情報院総裁の広瀬武夫さんが先頭に立ち、私たちを案内してくれた。
「ひどい状況ですね……」
現場を一目見た瞬間、こんな感想が口をついて出た。目の前にある日本家屋の一部は屋根が潰れ、柱が折れていて、そこだけが大地震に見舞われたかのような様相を呈していた。
「僕たちをここに呼んだということは、この爆発、章子さんの暗殺計画に関わっているのでしょうか?」
広瀬さんは私の前世のことを知らない。栽仁殿下からの質問に、広瀬さんは「その通りでございます」と返答し、深々と頭を下げた。
「すると、犯人の一部を捕らえることができましたかな?」
「少なくとも、実行犯は全て捕らえることができました。……後方支援を担当する人間がまだ潜伏している可能性はありますが」
中央情報院初代総裁である大山さんの問いに、広瀬さんは慎重に答える。
(そ、そうか、実行犯は全員逮捕……)
私が安堵の吐息を漏らすと、
「この家は、剛毅塾の支援者が所有している家のようです」
広瀬さんが私たちに向かって説明を始めた。
「昨夜、品川町の本部から逃げ出した後、実行犯たちはこの家に身を潜めました。元々、活動写真上映会での襲撃が失敗した場合はこの家に一度集合し、夕方にここを出発して盛岡町を襲撃する予定だったようです。夜明け前にチャップリン氏が宿泊していたホテルから逃げたフランス人たちもこの家に入り、盛岡町邸襲撃の準備をしていたようですが……」
広瀬さんはそこで一度言葉を切り、
「午後3時ごろ、剛毅塾の構成員たちが、外国人たちを襲いました」
と私たちに告げた。
「え?」
「捕らえた剛毅塾の構成員たちによると、この家にあるラジオのスイッチを入れたところ、戒厳令が出ていること、そして、その理由が前内府殿下の暗殺計画に関与する者を捕らえるためであることを報じるニュースが流れたのだそうです。そのニュースを聞いた彼らは、自分たちを脅して従わせている外国人たちを無力化し、自首することを決めました。皇族を害することは絶対に避けなければならない、と」
「……」
「午後3時ごろに、外国人たちが盛岡町に向かおうと剛毅塾の構成員たちを促したところで、彼らは外国人たちを襲いました。その際、盛岡町の襲撃のために用意されていた手りゅう弾が爆発しました。爆発音により駆け付けた警察と近衛師団の兵により、その場にいた全員が拘束されました」
「そうでしたか……」
栽仁殿下が広瀬さんに相槌を打つと、
「恐らく、ここにいたのは小物でしょうな」
と大山さんが言う。
「はい。この事件、背後に指示している者がいるはずです。今後明らかにしていかなければなりません」
そう応じた広瀬さんに、
「あの……この爆発で、死傷者は出ていませんか?」
私は一歩前に踏み出して尋ねた。
「はい。近隣の住人に爆発に巻き込まれた者はおりませんでしたが、外国人に1人、剛毅塾側に2人の死者が出ています。重軽傷者も数名おりまして……」
そこまで聞くと、私は家屋の倒壊した箇所へと歩き出す。手を伸ばせば地面に倒れた柱に触れそうなところで立ち止まると、私は潰れた家屋に向かって、深々と一礼した。
「前内府殿下……」
「章子さん……」
驚く広瀬さんと夫に向かって、
「ここで亡くなった方は、私のせいで命を落としたのです」
私は振り返らずに言った。
「もちろん、彼らが私を殺そうとしたことは知っています。しかし、彼らもまた、後ろにいる黒幕に操られ、私を暗殺する計画に巻き込まれただけでしょう。死んでしまえば、人は皆同じ……私はただ、死者のご冥福を祈るのみです。甘い考えなのは、百も承知ですけれど」
「大山閣下、よろしいのですか、こんな……」
戸惑いと怒りとをない交ぜにしたような口調で言う広瀬さんに、
「広瀬君、俺も言いたいことはありますが、これが殿下の美徳なのです。殿下もそのことは、よく分かっておいでですよ」
と大山さんは答える。広瀬さんが言葉を飲み込んだのが、振り返らなくても分かった。
「……けれど、彼らとその黒幕が、我が国を騒がせたのは事実です。今回の事件の黒幕には、その責任を、きっちり取ってもらいましょう」
私は倒壊した家屋を見つめたままこう言うと、踵を返し、爆発現場を後にする。
辺りには、次第に夕闇が迫っていた。




