戦に(1932)しないで!五・一五(3)
1932(昭和4)年5月15日日曜日午前8時10分、赤坂御用地内にある仙洞御所。
「梨花さん、体調はどう?」
仙洞御所内の客室。小さな丸テーブルを挟んで向かいに座っている栽仁殿下が、私に優しく問う。
「……コーヒーのおかげで何とか起きてるって感じ」
私は夫に回答すると、コーヒーカップを手に取り、ブラックコーヒーを少しだけ口にする。ドアの外で夜明け前に繰り広げられていたバカ騒ぎを鎮めた後、1、2時間は眠れたけれど、朝7時前には起こされて、兄と節子さま、そして仙洞御所に押しかけた梨花会の面々と一緒に朝食を取った。たいそう賑やかな食卓でも、眠気は絶えず襲ってきていたけれど、静かな客室に退いたら、眠気が更に強くなり、カフェインの助けなしでは目を開けていられなくなっている。
「……それより、栽さんは眠くないの?ここに来てから、ずっと寝ずの番でしょ?」
私が逆に夫に尋ねると、
「全然眠くないよ。緊張し過ぎているからかな」
そう応じて、夫は私に微笑してみせた。
「少しは休まないとダメよ。身体がもたないわ。私が無事でも、栽さんが無事じゃなかったなんて結末になったら、私、イヤだからね」
「分かっているよ。“金剛”の艦長からは、“事態が事態ゆえ、戻るに及ばず”と連絡をもらったから、何か動きがあるまで、この部屋で休んでいるよ」
口を尖らせた私に、栽仁殿下がなだめるように答えた時、ドアをノックする音と共に、「失礼いたします」という声がする。「どうぞ」と栽仁殿下が言うと、大山さん、そして、私と栽仁殿下の次男である禎仁が客室の中に入ってきた。
「禎仁……あなた、どうして仙洞御所に来たの?」
禎仁は盛岡町の家か、義父の住まいである霞ヶ関の本邸にいるだろうと思い込んでいた私が驚きの声を上げると、
「金子の爺に言われて、父上と母上に、昨日起こったことを説明しに来たんだ。あ、姉上は、父上と母上が盛岡町の家を出た後に、おじい様のお屋敷に避難したよ」
なぜか工兵士官学校の制服ではなく、黒いフロックコートを着ている禎仁は、私たちに明るく答えた。
「昨日起こったこと……と言うと、禎仁の母上を暗殺する計画が露見した事情ということかな」
栽仁殿下の確認に「そうだよ」と頷いた禎仁は、私たちに、昨夜の出来事を詳しく説明してくれた。
昨夜8時ごろ、東京市の南にある品川町の警察署に、右腕から血を流している20歳代の男が現れ、助けを求めた。彼は、自分は品川町に本部がある女権縮小を主張する政治団体・剛毅塾の構成員だと話し、剛毅塾の内部で、私に対する暗殺計画が進行していると訴えたのである。
「……そいつが言うには、剛毅塾の塾長が、今月の4日から姿を消したんだって。“思想を宣伝する”と言って地方に1人で行くのが珍しくない人だから、塾の構成員たちも特に探しはしなかったんだけど、塾長は10日になって、ヨーロッパ人らしい外国人の男3人を連れて戻ってきたらしい。そして塾長は、構成員たちを集めるとこう言った。“前の内大臣である章子は、上皇陛下に取り入って国政を滅茶苦茶にした誅すべき女である。女権の拡大を防ぐためにも、我々の手で天誅を下さなければならない”って」
「ひどい言いがかりだね」
栽仁殿下は憤慨したようにこう言ったけれど、私は黙っていた。大正の年号が始まってから終わるまで、私はずっと内大臣として兄のそばにいた。自分としては兄のため、国のために誠心誠意勤務に励んでいたつもりだったけれど、“上皇に取り入って国政を滅茶苦茶にした”と、私のことを解釈する人が出てもおかしくはない。
「剛毅塾は、いわゆる“進歩的な女性”を敵視する主張を盛んに発表していたけれど、進歩的な女性の代表格である母上を攻撃する主張は今までしてなかった。母上は皇族だから、下手に批判すると不敬罪で捕まっちゃうからね。だから、塾長が母上を殺そうと言い始めたのを、塾の古参の幹部の1人が“それはダメでしょう”と止めたんだ。そうしたら……その幹部は、塾長が連れてきた外国人の1人に、すぐさま刃物で刺されて殺された。幹部が殺されたのを見て怯える構成員たちに、外国人は流暢な日本語で、“逆らったり逃げたりしたら、今の男と同じように殺すぞ”……そう脅したらしい」
「……その外国人たち、残酷な連中ね」
更に続いた禎仁の話に、私は吐き捨てるようにして応じた。人を脅すために、別の人間の命を取るとは……。そんなことをするくらいなら、さっさと私を暗殺しにやって来いと外国人たちに言いたい。もっとも、簡単に殺されてやる義理はないし、襲われたら全力で抵抗するけれど。
「それからと言うもの、剛毅塾の連中は、母上を殺す訓練として、外国人たちの監視下で手りゅう弾を的に命中させる練習を繰り返していたらしい。保護された男は、隙を見て逃げ出したけれど、外国人たちに拳銃で撃たれて右腕を負傷した。だけど、何とか追っ手を振り切って警察署にたどり着いた。……話を聞いた警察は、すぐに剛毅塾の本部に突入したけれど、そこにはもう誰もいなかった。ただ、最初に外国人に殺された幹部の死体が見つかったから、保護された男の話は本当だというのが分かったんだ。ちなみに、訓練で使っていた訓練用の手りゅう弾もいくつか見つかったけど、その形状は国軍が使ってるものじゃなかった。……これが、僕が現時点で把握している昨夜の事件のいきさつだよ」
禎仁が長い話をようやく終えると、「分かった。ありがとう」と栽仁殿下がお礼を言う。そして、夫は私の方を向くと、
「塾長が連れてきた外国人の男たちに、剛毅塾の構成員は脅されているようだけれど、もしかしたら塾長も、その外国人の男たちに脅迫されているのかもしれないね」
と言った。
「そうかもしれないわね……」
私がこれだけ答えると、
「恐らく、塾長は、“逆らえば剛毅塾の構成員全員を殺す”などと、その外国人どもに言われているのでしょう。そうでなければ、皇族を殺そうなどという大それた発想はできないはず」
我が臣下は詳しい推測を披露した。
「禎仁、夕べ、剛毅塾の本部から逃げた連中は、まだ捕まっていないのかな?」
栽仁殿下の問いに、
「うん。だから、僕も、父上と母上に昨日の夜のことを報告したら、その捕り物を手伝いたかったんだけど……」
禎仁は気になる返答をする。
「手伝いたかったんだけど……どうしたのよ?」
私がそこを突っ込んで聞くと、
「大山の爺に捕まっちゃったからできなくなった。爺たちに捕まったら、そんなことできなくなるだろうから、爺たちに捕まらないように、フロックコートを着て仙洞御所の職員のフリをしてたのにさ」
禎仁はこう答えてペロリと舌を出した。
「当たり前でございます」
大山さんは隣にいる禎仁を軽く睨みつけた。
「この俺に気取られずに若宮殿下と妃殿下のところにたどり着けなかったということは、実技が未熟であるということでございます。とても、実戦には出せませんな」
「この間、石原さんに、潜入については一人前だって言われたんだよ?」
反論する禎仁に、
「あの悪童ですか」
大山さんは吐き捨てるように言うと、
「石原君より、俺の方がはるかに強いですが?」
と続ける。大山さんの身体からは殺気が出ている。それに恐れをなしたのか、禎仁が大山さんから一歩離れた。
「この程度で怯えるようでは、修業が足りませんなぁ」
大山さんはニヤリと笑うと、
「さて、赤城宮殿下と一緒に、敵の狙撃手が潜みそうな場所に罠を仕掛けに参りましょう。これもまた、修業でございますよ」
そう言いながら禎仁の首根っこを掴み、禎仁を引きずるようにしながら一緒に客室を出て行った。“赤城宮殿下”というのは、兄と節子さまの末っ子、倫宮興仁さまのことだ。1912(明治45)年に生まれた彼は、今年4月に成年となり、“赤城宮”という宮号を賜った。平日は禎仁と同じく、工兵士官学校の寄宿舎にいるけれど、週末で仙洞御所に戻ったために、この騒動に巻き込まれてしまっているようだ。
「……ま、禎仁が、危ないことに巻き込まれなさそうなのはよかったかな」
閉じられたドアを見つめながら、栽仁殿下は言う。私はそれに「そうね」と応じると、
「それより、さっさと横になりましょう」
夫に呼びかけ、あくびをした。
1932(昭和4)年5月15日日曜日午後0時45分、赤坂御用地内にある仙洞御所。
「本日午前4時ごろ、警察と我々とで、チャーリー・チャップリン氏が宿泊しているホテルを急襲いたしました」
正午前まで眠っていた私と栽仁殿下が、兄夫妻と一緒に昼食を取ってから客室に戻ると、先ほど、大山さんに“俺より弱い”と評されてしまった中央情報院の石原莞爾さんが、ドアの前で私たちを待っていた。私と夫は客室に彼を招き入れ、戒厳令が出されてからの捜査の進捗について報告を聞いた。
「チャップリン氏や彼の雇員の大部分は、捜査に素直に協力していますが、雇員のうち2人が、我々の来襲の直前にホテルから脱出し、行方をくらましました。目下、剛毅塾の連中と同様、彼ら2人の行方も追っております」
「それは穏やかではない話だね」
栽仁殿下は石原さんにこう言うと、「他に分かったことはあるのかい?」と石原さんに問うた。
「逃亡した2人は、チャップリン氏がスイスに滞在していた今年1月、“日本の活動写真や演劇の事情に詳しく、日本の演劇界や政財界に知り合いも多い”という触れ込みでチャップリン氏と知り合い、雇われたフランス人だそうです。チャップリン氏は我が国に非常に心を寄せておりまして、今回の世界旅行では必ず日本に立ち寄るつもりだった、というのが、彼らを雇った大きな動機になったようです」
「へぇ、そうなんですね……」
私は相槌を打った。チャップリンが日本びいきだったという話は、前世でも今生でも聞いたことがない。いや、前世の私は、チャーリー・チャップリンの名前は知っていたけれど、詳しい事績についてはほとんど知らなかったし、今生でも名前を知っている程度だったから、ひょっとしたらチャップリンは“史実”でもこの時の流れでも、日本びいきなのかもしれない。
「チャップリン氏一行の荷物からは、手りゅう弾約100個が見つかりました」
石原さんの次の言葉で、私も栽仁殿下も目を見開いた。
「その荷物は、本日正午から行われる予定だった活動写真上映会の際に使う小道具の中に紛れ込んでいました。チャップリン氏や残っている雇員たちは、その荷物がどういう経緯で紛れ込んだか知らないと証言しています」
「手りゅう弾100個って……それ、全部使ったら、私だけじゃなくて、他の人も死んじゃうでしょう。暗殺者の人たち、私を殺すためなら他の人も巻き込んでも構わないと思っているの?!」
顔をしかめた私に、「恐らく、そうでしょう」と石原さんが冷静に答える。
「きっと、今も逃げている剛毅塾の構成員たちに、上映会の時、章子さんに手りゅう弾を投げつけさせようと考えてたんだね。一斉に大量の手りゅう弾を投げて、章子さんの逃げ場を無くして確実に殺すつもりだったのかな」
そう呟いた栽仁殿下は、
「絶対に、許せるものではない」
と、激しい怒りのこもった声で言った。
「今回の件の首謀者は、ホテルから逃げたフランス人と、剛毅塾に入り込んだ外国人なのかしらね?」
私が質問すると、
「その可能性は高いと思いますが、チャップリン氏や残っている雇員たちも関わっている可能性も考えられます。そちらは目下、調べている最中ですが……」
石原さんは慎重に回答した。
「考えなければいけない点は多いね。チャップリンさんの荷物にあった手りゅう弾や、剛毅塾の本部で発見された訓練用の手りゅう弾の出所はどこか、それを手に入れられる資金をどこで調達したか……」
「そうね。それから、この件に、どこの国が関わっているのか……」
栽仁殿下に続いて、両腕を組んだ私はこう言ったけれど、
「ただ、これは慎重に調べないといけないわ。調査の結果次第では、間違いなく国際問題になる。情報公開がどこまでされるかによっては、世界中を巻き込む騒ぎになるわ……」
と付け加えた。今までに起こった数々の騒動の結果、私は、“極東の平和の女神”などと言われている。そんな私を狙った暗殺計画が公表されれば、大きな騒ぎになるのは間違いないけれど、必要以上に大きな騒ぎにはしたくない。
けれど、
「恐れながら、既に手遅れかと存じます」
石原さんは沈鬱な声で私に言った。
「え?」
首を傾げた私に、石原さんは「ドアの外に……」と指摘する。私が慌ててドアの外に意識を向けると、兄と大山さんの気配が引っ掛かる。私は椅子から立ち上がると黙ってドアを開けた。
「おい、り……ではない、章子。なぜ俺たちを睨むのだ」
ドアの外には、兄と大山さんだけではなく、伊藤さん、陸奥さん、西園寺さん、西郷さん、原さん……呼びもしないのに仙洞御所にやってきた梨花会の面々が顔を揃えていた。その全員が、ドアを開けて姿を現した私を訝しげに見つめている。
「あのねぇ。私は栽仁殿下と一緒に、石原さんと話してたの。人の話を盗み聞きするなんてよくないでしょ」
私がため息をつきながら彼らに注意すると、
「何を言う。俺たちは事態を解決するために必要な情報を収集していただけだ」
兄は私に嘯き、他の面々もそれに激しく頷いている。
「事態を解決するってねぇ……それはお上に任せておけばいいでしょ」
言い返した私に、
「お言葉ではございますが、わしは枢密院議長として、天皇陛下を助け奉る責務がございます。ですから、常に考えていなければならないのです。今回の事件を受けて、我が国がどの国に宣戦布告すればよいかということを」
伊藤さんがとんでもないことを言い始めた。
「は?!せ……宣戦、布告?!」
余りにも物騒な単語に私が目を剥くと、
「驚くことはないでしょうに」
陸奥さんが悠然とした態度で言った。
「国際連盟の真の生みの親であり、極東の平和の女神とも呼ばれるお方が、外国に暗殺されそうになったのですよ。きっちり落とし前を付けなければならないでしょう。場合によっては、国際連盟として軍を編成し、前内府殿下の暗殺を計画した国を滅ぼす必要があります」
「く、国を滅ぼすって、そんな……」
陸奥さんの言葉に絶句した私に、
「当たり前だ。愛しいお前を殺そうとしたのだからな」
憤怒の形相となった兄は言い放ち、後ろを振り返って梨花会の面々を見ると、
「それで、俺はどの国に攻め込めばいいのだ?」
と問いかける。
「差し当たってはアメリカですかのう」
すると、西郷さんがのんびりした口調で応じた。
「今の日本なら、アメリカ相手の海戦に勝てる見込みがあります。奴らは航空母艦も保有しておりませんしなぁ」
「いや、ちょ、ちょっと待って!なんで、日本がアメリカ相手に戦わなきゃいけないのよ!」
普段と変わらない口調でとても恐ろしいことを言う西郷さんに私がツッコむと、
「チャップリンがアメリカに住んでいるからに決まっているではないですか」
西園寺さんが冷静な声で言った。
「は?!」
「チャップリンが密命を受けるとすれば、今、自身が居住している国の密命で動くのが自然でしょう。ですから、西郷閣下はアメリカとおっしゃったのではないかと……」
「だからちょっと待ちなさい!第一、チャップリンさんが今回の一件に関わっているかどうかもまだ分からないし……」
私が慌てて西園寺さんに反論しようとすると、
「前内府殿下を害し奉ろうとする者が出演する活動写真など、全て上映禁止にするべきです」
原さんが目を怒らせながら力強く言った。
「日本国内だけではない、アメリカ、イギリス、ドイツ……世界のあらゆる国で奴の活動写真の上映を禁止し、奴に関する雑誌や新聞の記事も全て抹消しなければなりません!」
「なるほど、古代ローマで行われたダムナティオ・メモリアエ……記録の破壊ですな。今までの人生の記録を全て破壊し、チャップリンがこの世に生きた痕跡を無くす、と……。人気商売の俳優にとっては、屈辱的な仕打ちでしょう」
原さんの暴論に、なぜか大山さんが乗っかってしまい、不気味な笑みをこぼしている。
「ヤメレーーーーーーーっ!!!」
私は声を叩きつけると、両腕で頭を抱えた。




