戦に(1932)しないで!五・一五(2)
1932(昭和4)年5月15日午前0時10分、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸。
「えっと……金子さん?」
私は有栖川宮家の別当兼中央情報院麻布分室長である金子堅太郎さんに呼びかけると、眠気を追い払うために頭を2、3度横に振った。眠気が粗方去ると、頭の中では大量の疑問符が飛び交い始める。
なぜ私が、暗殺のターゲットになってしまったのだろう?“史実”の五・一五事件では、現在の私の立場――前の内大臣であるとか、軍医学校校長であるとか、内親王であるとか、皇族の妃であるとか――に該当する標的はなかったはずなのに、なぜ私に対する暗殺計画が持ち上がったのだろうか?
(寝る前に栽さんが言ってたみたいに、どこかで事象がねじ曲がって、私が暗殺のターゲットにされたってことなの?でも、もし本当にそうだったら、お上や兄上もターゲットになってるかもしれないけれど……)
疑問符とともに、私の心が急速に不安で満たされた刹那、
「暗殺犯どもは、本日正午から始まるチャーリー・チャップリンの活動写真上映会で妃殿下を襲撃する予定だそうです。そして、妃殿下が体調不良などで上映会にお成りにならなかった場合は、本日夕方に、この盛岡町の屋敷を急襲する計画を立てているとのこと。つい先ほど、赤坂の本部から連絡が入りました」
金子さんは私と栽仁殿下に向かって一気に言って頭を下げる。「そうですか……」と呟くように答えた栽仁殿下は、
「梨花さんを、どこかに避難させないといけないですね」
と言った。
「避難って……どこへ?」
「とりあえずは父上のところ……霞ヶ関の本邸じゃないかな。軍の関係の施設に行ければ一番いいけれど……」
まだ思考が現実に追いついていない私に、栽仁殿下は冷静に言う。事態の急変に素早く対処できるのは、やはり、夫が第一線で働き続けている軍人だからだろう。
「う、うん。じゃあこれから、お義父さまのところに……」
私が何とか栽仁殿下に応じた時、
「話は聞かせてもらったよ」
金子さんが開け放していたドアの方から声がする。見ると、週末で工兵士官学校の寄宿舎から戻っていた次男の禎仁が、寝間着姿で立っていた。驚く私たちに、
「つまり、今日の昼にある活動写真上映会に、僕が母上に変装して参加して、暗殺者たちを返り討ちにすればいいんでしょ?」
と、禎仁は不敵な笑みを顔に浮かべて言い放つ。
「馬鹿なことを言うんじゃない!」
「何考えてんのよ、禎仁は!」
「それはいけません!」
栽仁殿下と私、そして金子さんは、禎仁に向かって同時に怒鳴る。
「それは自分の命を粗末にする行為だよ、禎仁。父親として、到底許せるものではない!」
「そうよ!それに、20歳にもなってないあなたが、50歳近い私に変装するなんて、無理があり過ぎるわよ!」
栽仁殿下と私は、必死に禎仁を思い止まらせようとしたけれど、禎仁に私たちの言葉が響いた様子は全く見られず、
「別に命を粗末にする行動じゃないよ。十分な勝算があっての作戦だ。それに、母上、見た目は20歳代にしか見えないから、僕が化けるのは全然問題ないよ」
逆に私たちにこう言い返した。
「あのね、見た目を褒めたら許してあげるなんていう問題じゃなくて……!」
私が次男に更に怒鳴ろうとした瞬間、
「禎仁王殿下!」
金子さんが厳しい声を投げた。
「万が一、ご自身が命を落とされた時の、中央情報院への影響をお考え下さい!」
微笑んでいた禎仁の顔が、途端に引き締まる。諜報の道を志す禎仁にとって、一番近くにいる院の職員である金子さんは、師匠の1人と言ってもいい。そんな彼からの言葉は、禎仁によほどこたえたと見える。
「……ごめん、僕が悪かった」
禎仁がうつむいて謝罪の言葉を口にしたのと同時に、遠くから電話のベルの音が響く。ベルが数回鳴って静かになった後、
「ひええええええええっ?!」
当直の職員さんの叫び声が聞こえた。
「……これさぁ、兄上かお上からの電話だよね」
職員さんの叫び声で冷静になってしまった私が夫に推測をぶつけると、「だね」と彼が短く応じる。「電話のところに行く方がいいかしら」と私が呟いた時、ドタドタと足音がして、
「ひ、ひ、妃殿下っ、じょ、上皇陛下から、お電話がっ!」
叫び声とともに、顔を真っ青にした当直の職員さんが姿を現す。私はため息をつくと、1階にある電話が置かれた小部屋に向かった。
「もしもし、兄上?」
私が受話器を取り上げて電話の向こうに呼びかけると、「梨花か!」という兄の声が返って来る。やはり、兄は自らこの盛岡町邸に電話を掛けてきたようだ。後で、当直の職員さんを労っておこうと私は思った。
「どうしたのよ、こんな夜中に。今、取り込み中なんだけど」
不機嫌な私の声に、
「取り込み中なのは、お前に対する暗殺計画が発覚したからだろう?」
兄はズバリと、私が不機嫌になっている原因を言い当てる。
「……どうして知ってるのよ?」
「裕仁から電話が来た。お前を暗殺する計画が発覚したので、戒厳令を出し、犯人を検挙すると」
驚く私に兄はこう告げると、
「それから、仙洞御所と赤坂御用地に近衛師団の一部を派遣して守りを固めるから、梨花を仙洞御所で守って欲しいと裕仁に頼まれた。今からこちらに来い」
と私に命じた。
「ちょっ……ま、待って、戒厳令?私の暗殺計画で?確かに、今日は“史実”の五・一五事件の日だから、展開によっては戒厳令が出るとは聞いていたけれど……」
状況が全く飲み込めない私に、
「だから、今がその展開ということだ!」
電話の向こうの兄は苛立ったように怒鳴る。
「いいから、さっさと仙洞御所に来い!確かに、盛岡町には院の分室もあるが、敵の全貌がつかめない以上、大勢に襲われて殲滅させられる危険も……」
「妃殿下、よろしいですか」
受話器から容赦なく流れてくる兄の大声を我慢して聞いていると、別館に待機していた職員さんが私の横から声を掛ける。私は耳から受話器を離し、職員さんの方に身体を向けた。
「たった今、赤坂より連絡が入りました。妃殿下に対する暗殺計画が発覚したため、捜査に万全を期すため戒厳令が出されるとのこと。妃殿下にはこの屋敷を出て、仙洞御所に移られますように……という天皇陛下からのご命令が出ました」
報告してくれた職員さんに「分かったわ、ありがとう」とお礼を言うと、私は受話器を持ち直し、
「分かった、兄上、仙洞御所にお世話になるわ」
と兄に言った。
「そうか!」
兄は喜びの声を上げると、
「安心しろ、梨花。お前のことは、俺が必ず守り抜くからな」
と私に力強く言った。
「ありがとう……」
いまだに、事態の全貌がつかめない。それに、私をターゲットにした暗殺計画など、何かの間違いではないかと思ってしまう。けれど、ここは素直に兄に甘える方がよさそうだ。私はひとまず兄にお礼を伝えた。
1932(昭和4)年5月15日日曜日午前4時5分、赤坂御用地内にある仙洞御所。
「ん……」
仙洞御所の中にある客室のベッドの上で、私は目を覚ました。午前1時ごろに栽仁殿下と一緒に仙洞御所に入り、そのままこの部屋で眠っていたのだ。本当はもっと眠りたかったのだけれど、廊下の方から聞こえる足音で眼が覚めてしまった。私がもう一度眠るため、毛布を頭からかぶろうとした時、
「これは若宮殿下」
ドアの外から、なぜか、この場にいないはずの伊藤さんの声が聞こえてきて、私は聞き耳を立てざるを得なくなってしまった。
「廊下に椅子を置かれて見張りとは……前内府殿下の警護をなさっているのですか?」
「はい。窓の外では、院の方々が警戒してくれていますが、万が一、屋内から敵が来てしまったら、彼らでは対処できなくなるので」
伊藤さんは、どうやら客室の外にいる栽仁殿下と話しているようだ。そう言えば、この部屋で眠りに落ちる直前、夫が「部屋の外で見張りをする」と言っていた気がする。
「ところで、戒厳令の必要な規定を適用する緊急勅令は出たのですか?」
「はい、1時間ほど前に」
栽仁殿下の問いに、伊藤さんが答えているのが聞こえる。
「そうですか……そうなると、“金剛”に戻るべきか、艦長に問い合わせなければなりませんね」
そう言った栽仁殿下に、
「若宮殿下、わしが見張りを交代します。ですから若宮殿下は、その間に“金剛”の方に問い合わせをなさってください」
伊藤さんがよく分からないことを言い出した。
(はい?)
「お言葉はありがたいのですが、閣下。……閣下は枢密院議長という要職を務めていらっしゃいます。これから、天皇陛下からのお召しもあるかもしれません。そのような方に、梨花さんの警護を交代していただくなど……」
私と同じく、夫も戸惑っているようだ。丁重に申し出を断っているけれど、
「何、天皇陛下は、“必要があれば自分が陣頭指揮をして事態の解決を図る”というようなことをおっしゃっておいででしたから、わしが呼ばれることはないでしょう。この通り、ほれ、仕込み杖も持ってきております。賊に対して、時間稼ぎぐらいはできるでしょう。ですから若宮殿下、“金剛”と連絡をお取りください」
伊藤さんはこんなことを言って、栽仁殿下に食い下がっている。
(何で仕込み杖なんて持って来てるのよ……)
ベッドに寝たまま、私がドアの向こうの伊藤さんに無言でツッコミを入れた時、
「僕もおりますよ」
ドアの外から別の人物の声がした。枢密顧問官の陸奥さんだ。
「僕も、仕込み杖を持ってきました。……若宮殿下、僕もかつては武士でした。前内府殿下をお守りすることはできますよ」
(いや、“かつては武士”って、何年前の話よ……今、昭和だよ……?)
陸奥さんに私が心の中でツッコむと、
「ああ、栽仁、ここにいたのか」
ドアの外から、兄の声も響いた。
「まさか、梨花がこの部屋に入ってから、ずっとここで見張りをしていたのか?栽仁、少し休め。事態にケリがつくまでは、もう少し時間が掛かるだろうから、俺が見張りを代わってやる」
なぜかこう勧める兄に、
「滅相もありません!上皇陛下は大病を患われた身、そんな方に見張りをさせたと梨花さんに知られたら、後で僕が怒られてしまいます!」
栽仁殿下は必死に辞退の旨を伝えている。
(……そりゃ、栽さんの判断が正しいわよ。脳卒中が再発するかもしれない兄上に、見張りなんてさせられないってば!)
「まぁ、そう言うな。この通り、拳銃も持っているし」
私が心の中でツッコんでいるにもかかわらず、兄は栽仁殿下に執拗に迫っている。ベッドから起き上がり、部屋の外に出て、“やめろ”と兄に言う方がいいのだろうかと私が考えた瞬間、
「皆様、こちらにおいででしたか」
「申し訳ありません、遅くなりました!」
「梨花さまはこちらですかな?」
「すまんのう、荷物を持ってくるので手間取ってしもうた」
ドアの外から、西園寺さん、原さん、大山さん、西郷さんの声が次々と聞こえた。
(え……何でみんなが仙洞御所にいるの?)
私がドアに背を向けるようにして寝返りを打つと、
「西郷顧問官……“荷物”とは、いったい何を持ってきたのだ?」
兄が西郷さんに質問する声がした。
すると、
「いえ、ちょっとしたオモチャでございます。古いガトリング砲が、家の蔵にあったのを思い出しましてなぁ。弾薬と一緒に持参したのですよ」
西郷さんはいつもと変わらない調子で、こんなことを言い放った。
(そ……それは絶対、オモチャなんかじゃないってば!)
私はドアに背を向けたまま、心の中で渾身のツッコミを入れた。ガトリング砲……戊辰の役で長岡藩が実戦投入し、西南戦争でも使われた。今は出番を機関銃に奪われているけれど……とにかく、個人が持っていていい代物ではない。少なくとも、何らかの法令には違反しているだろう。
「それは面白いな。後で興仁に、据え付ける場所を検討させるか」
兄は西郷さんにツッコむことなくそう言うと、
「しかし、これでは俺の拳銃が見劣りしてしまうなぁ。蔵から猟銃を引っ張り出すか……?」
などと呟いている。
(いや、そんなことしなくていいから……)
私の心の中のツッコミが、ドアの外に聞こえるはずもなく、
「上皇陛下、ご安心を」
ドアの外の騒ぎは続いている。今発言したのは、大山さんのようだ。
「多数の銃弾が一度に発射できない時は、1発の銃弾を敵に確実に命中させればよいのです」
そんな大山さんの言葉とともに、ドアからどよめきと殺気が客室の中に染み出してくる。大山さんが、普段持ち歩いている拳銃を取り出してみせたのだろうか。
「弥助どんは、今でも射撃が上手いからのう」
(それは確かに……)
私は布団の中で、西郷さんの言葉に頷いた。大山さんの射撃の腕の確かさは、軍医学校で射撃の実習がある度に見せつけられている。
「ううむ……やはり僕も、何か武器を持ってくるべきだったのでしょうか。長丁場になると思いましたので、こちらに食材を運び入れて、料理人も連れてきたのですが……」
大山さんの殺気を浴びたはずの西園寺さんは、怯える様子もなく、こんなことを言っている。……仙洞御所の料理人も一流のはずなのだけれど、わざわざ西園寺さんが料理人を連れてきたということは、自分の舌に合わないものが出されてしまう可能性を恐れてのことなのだろうか。
(というか、西園寺さんは仙洞御所で何をするつもりなのよ。籠城?美食三昧?籠城している側が美食三昧するなんていう話、聞いたことがないわ……)
私がベッドの上で呆れていると、
「くっ、わたしは何と愚かな……!せめて武器や、何か戦いの役に立つものを持参していれば……」
原さんの悔しそうな声がドアの外から響く。
(いや、兄上が、仙洞御所と赤坂御用地は近衛師団が守るって言ってたし、防衛に関しては、私たちは手を出さないのが正解なんじゃ……)
私が心の中で原さんに言った時、
「そうだ!何も持たないこのわたしでも、前内府殿下の前に立ち、銃弾や刃物から前内府殿下をお守りすることはできる!不肖、この原敬、わが身を肉の盾として、前内府殿下をお守り申し上げる!」
原さんはドアの外で力強く宣言した。
(はあああああああ?!)
呆然とする私をよそに、
「よく言った、原!よし、いざとなれば俺も!」
兄は嬉しそうに原さんに同調して叫ぶ。
更には、
「ぬぬ、わしも心は一緒じゃ、原君!」
「その手がありましたか……」
「ふ……前内府殿下のために命を散らすのもまた一興……。お供させてもらいますよ、原君」
伊藤さん、西園寺さん、陸奥さんが口々に言う。
「……うるさいっ!寝かせろっ!」
我慢の限界に達した私はドアの外に向かって怒鳴ると、毛布を頭からかぶった。




