仮面の下
1932(昭和4)年4月2日土曜日午前10時、皇居・表御座所にある天皇の執務室・御学問所。
「じゃあ、休憩にしようか」
政務が一通り終わったところで、お上が内大臣の牧野伸顕さんに声を掛ける。一礼して席を立った牧野さんが、廊下に控える侍従さんに依頼すると、御学問所の中に侍従さんたちが入り、お茶の支度をテキパキと整えていく。数分もすると、お上と牧野さん、そして私の机の上には、紅茶の入ったティーカップとクッキーが乗った小皿がそれぞれ置かれていた。
「そう言えば梨花叔母さま、シャムの憲法が、昨日、無事に施行されたようですよ」
私がクッキーを1枚食べたところで、お上が私に話しかけてきた。
「へぇ、そうなのね。それは良かったわ。去年の地獄のような日々が無駄にならずに済んで」
憲法草案作成作業の進捗確認と、作業に携わるメンバーの健康チェックのため、葉山と東京を往復した日々を思い出しながら私がお上に応じると、
「顧問殿下には、シャムの憲法草案作成の折、色々とご苦労なさいましたからね。あれは、顧問殿下にしかできないお働きでございました」
牧野さんがクスっと笑った。
(フォローが上手いなぁ……)
そう感じながら紅茶を一口飲むと、
「憲法の施行に伴って、シャムで大掃除がされたようだね」
お上が牧野さんに視線を向けて尋ねる。
「急進的すぎる官僚や、権勢に固執する王族が、失脚したり消息不明になっていたりするようですね」
牧野さんはお上の問いに、普段と変わらない口調で答えた。
「シャム王国の先々代の国王・ラーマ5世には、150人以上の妻妾と100人近くの子供がいたそうですから、王族の数は自然と多くなります。宮廷費も、王族の多さによりひっ迫していたでしょうから、財政再建には良い薬になったのではないでしょうか」
「そ、そうですね……」
私は顔に愛想笑いを貼り付け、牧野さんに相槌を打った。中央情報院が関与したと思われるシャムの大掃除では、官僚・王族合わせて100人ほどが命を落としていると推測される。かつて、オスマン帝国の建て直しを日本が支援した時には、オスマン帝国の役人の半分以上が何らかの原因で仕事を続けられなくなったので、その時よりは、院の活躍する機会は少なかったと思うけれど……。これ以上、シャムで血の雨が降らないことを、私は心の底から祈った。
「あとは、国王陛下に頑張っていただくしかないね。僕たちにできるのはここまでだけれど、お父様や爺たちに直々に活を入れられたのだから、きっと何とかなるだろう」
「それもそうね。……まぁ、普通の人なら音を上げるところ、国王陛下は頑張ってついてきていたから、多分大丈夫でしょ」
お上の言葉に私が答えた時、廊下から「陛下、よろしいでしょうか」と声がかかる。お上が「いいよ」と答えると、廊下に面した障子が開き、侍従長の鈴木貫太郎さんが御学問所に入ってきた。
「ご休憩中、誠に申し訳ございませんが……」
恐縮しながら一礼する鈴木さんに、
「構わないよ。侍従長が来たということは、重大な報告なのだろう?」
とお上は応じる。鈴木さんは「はい」と答えると、
「赤坂から連絡が参りまして、ルーマニアのジュリアン・ベルナールですが……」
お上に緊張した表情で報告する。
「はい?!」
「何?!」
「何ですと?!」
その報告の内容に、私も、そしてお上も牧野さんも、驚きの声を上げざるを得なかった。
1932(昭和4)年4月2日土曜日午前11時15分、赤坂御用地内にある鞍馬宮邸。
「まともなお出迎えができず、申し訳ございません」
鞍馬宮邸の別館は、日本の非公式な諜報機関・中央情報院の本部として機能している。その別館の玄関前で私を1人で出迎えたのは、鞍馬宮家の別当で中央情報院の4代目総裁でもある広瀬武夫さんだった。
「いえ、それは気にしないでください」
我が盛岡町邸の職員――中央情報院の新人職員でもある――を1人従えただけで鞍馬宮邸に現れた私は、広瀬さんに頭を下げた。
「まさか私も、あの報告が宮中に届けられた直後、“今すぐ赤坂に行かれて、詳しい話をお聞きになったらどうですか”なんて、お上に言われるとは思ってもいなかったので……」
お上にそう言われて、宮中を出て急遽鞍馬宮邸別館を訪れた私は、再び広瀬さんに頭を下げる。ちなみに、私が皇居から直接鞍馬宮邸に行ってしまうと、他国の諜報機関の目を引いてしまうので、皇居を出た私はいったん仙洞御所に入り、そこから庭伝いに鞍馬宮邸を訪れた。仙洞御所に向かった表向きのいきさつは、兄が私に仙洞御所の桜を見せたいと言ったので、お上の許可をもらい、政務の立ち合いを早めに切り上げて仙洞御所に参上した……ということにしている。
「ともかく、ここで話せることではございませんので、中にお入りください」
広瀬さんはそう言うと、玄関脇にある一室に私を導く。そこには、中央情報院の職員・石原莞爾さんがいて、私が入ってくるのを見ると立ち上がって最敬礼した。
「実は、今回の作戦を立案して実行したのは、この石原君なのです」
広瀬さんは少し嬉しそうに私に言うと、石原さんに話を促す。そして、石原さんが私に教えてくれた“作戦”の概要は、次のようなものだった。
今までの中央情報院とイギリスのMI6の活動により、ジュリアン・ベルナール――ルーマニアの現国王・カロル2世を操る王室顧問――が、カロル2世の妻・エレナ王妃と不自然に距離を取っていることが判明した。それは、エレナ王妃がジュリアン・ベルナールの弱みを何らかの形で握っているからだと考えた院とMI6は、エレナ王妃の身辺を探ることにした。しかし、離宮に軟禁されているエレナ王妃、そしてミハイ皇太子の身辺は、ルーマニアに派遣されている黒鷲機関の職員たちが厳重に監視し、人や物の動きに目を光らせている。もちろん、手紙や電報、電話で王妃に接触を図るのも難しい状況だった。
「ならば、エレナ王妃の近辺にいる黒鷲機関の連中を、一時的にどこかに行かせてしまおうと考えたのです。そうすれば、エレナ王妃との接触も可能になるのではないかと考えて……」
私にそう語った石原さんは、MI6と協力し、ルーマニア国内の黒鷲機関の職員をルーマニアの外に動かすため、大規模な陽動作戦を行うことにした。まず、バルカン半島内にあるセルビア王国が、今まで行ってきた親オーストリア・親ドイツ的な政策を捨て、イギリス寄りの政策を取ろうとしているという偽の情報を流した。更に、オーストリアで、イギリスを支持する反体制派がクーデターを計画しているという偽情報も広めたのである。
セルビア・オーストリア両国には、それらしい多数の偽証拠をバラまいたので、両国にいる黒鷲機関の職員たちは、偽情報が真実であると思い込み、ドイツにある黒鷲機関の本部に応援を求めるだろう。彼らを助けるために、ドイツ本国だけではなく、両国に比較的近く、黒鷲機関の職員が多数いるルーマニアからも、応援の職員が派遣されると考えられた。
「その目論見は成功し、エレナ王妃が軟禁されている離宮を監視していた黒鷲機関の連中の大多数が、セルビアとオーストリアに移動したことが確認されました。そこで我々は、エレナ王妃のいる離宮に侵入したのですが……」
淡々と作戦経過を語る石原さんの顔が少し曇る。私が彼の表情に違和感を覚えた時、
「それから、どうなったんだね?」
と、広瀬さんが石原さんに話の続きを促す。石原さんは無表情に戻ると、作戦経過の続きを話し出した。
……黒鷲機関の職員の目が少なくなった離宮に、石原さんたちはやすやすと侵入できた。しかし、調査により、エレナ王妃に接触できる離宮の職員は数人のみということが判明した。彼らのうちの1人に変装して王妃に近づくのは困難と思われた。もちろん、出入りの商人の従者などに化けて王妃に近づくのも難しい。
「そこで、王妃の書斎机の上に、ジュリアン・ベルナールの写真を置いてみました。王妃は奴と顔を合わせたことはないということだったので、奴の写真を見せれば、何らかの形で情報が得られるかもしれないと考えたのです」
そう語る石原さんに、
(大胆なことをするなぁ)
と私は感じた。もし、王妃が写真に反応を示さなかったらそれまでだし、彼女が職員たちに“こんなものがあった”と写真を示してしまえば、いずれは黒鷲機関の職員の耳に入り、院とMI6が離宮に侵入したのがバレてしまう。そんな作戦で大丈夫か、と私がハラハラしていると、
「写真を机の上に置き、天井裏に潜んで王妃の反応を確認したところ、写真を見た王妃は、“なぜヴェニゼロスが仮面をつけているのか”と呟きました。エレナ王妃はギリシャの現国王・コンスタンティノスの長女……当然、ギリシャにいたころ、首相だったヴェニゼロスと面識があります。これで、ジュリアン・ベルナールは、消息不明だったギリシャの元首相、エレフテリオス・ヴェニゼロスであることが判明いたしました」
一気に言った石原さんは、私に向かって恭しく頭を下げた。
「そうでしたか……」
私は大きなため息をついた。
エレフテリオス・ヴェニゼロス。長年、ギリシャ王国の首相を務めていた彼は、“ギリシャ人の居住する近東地域は、全てギリシャ人の領土になるべきだ”と常日頃から公言していた。その野望は、世界の実情を把握していたギリシャのゲオルギオス前国王によって抑えられていたけれど、1924(大正9)年の9月に、ゲオルギオス前国王は急逝した。その翌月、ヴェニゼロスは、コンスタンティノス新国王を操って、ギリシャ軍をオスマン帝国に攻め込ませたのだ。……経過から考えて、ゲオルギオス前国王は、ヴェニゼロスに何らかの形で暗殺された可能性が高いと私は見ている。
ドイツやイギリスが介入したことにより、ギリシャはオスマン帝国への攻撃を中止せざるを得なくなり、国際連盟での和平交渉の結果、ギリシャはオスマン帝国に賠償金を支払った。けれど、ヴェニゼロスはオスマン帝国への侵攻を諦めず、今度は近隣の国とともにオスマン帝国を攻撃することを考えた。
その仲間候補となってしまったのがブルガリアだ。ヴェニゼロスはブルガリア国王・ボリス3世の弟であるプレスラフ公と手を組み、ブルガリア国内で内乱を発生させ、ボリス3世を廃位してプレスラフ公を王位に就けようと企んだのだ。ヴェニゼロスは、プレスラフ公がブルガリア国王になった暁には、ブルガリアをオスマン帝国に侵攻させようと考えていたようだけれど、イギリスとドイツ……正確には、イギリスと、私の要請を受けたドイツの方針転換により、ブルガリアの内乱は鎮圧され、プレスラフ公は処刑された。そして、院とMI6によってでっち上げられた下半身スキャンダルにより政界引退を余儀なくされたヴェニゼロスは、隠遁先のクレタ自治州で、大量の血痕を残して消息不明となった。これが1926(大正11)年の10月のことだ。
「6年前の10月に姿を消したヴェニゼロス。そして、カロル2世がクーデターによってルーマニア国王となったのが5年前の7月……。ヴェニゼロスは黒鷲機関に協力することにして、自分の死亡を偽装してルーマニアに入ったんでしょうね」
私が低い声で確認するように言うと、「仰せの通りかと考えます」と広瀬さんが応えて一礼した。
「ルーマニアは、“バルカン半島を浄化して新秩序を建設する”と言って、ブルガリアに侵攻したことがありました。その侵攻理由は、かつてヴェニゼロスが唱えていた“ギリシャ人の居住する近東地域は全てギリシャ人のもの”という主張とどこか重なります。そして、ギリシャのオスマン帝国への侵攻はイギリスとドイツと国際連盟に止められました。国際連盟の発案者は私です。そして、ブルガリアで内乱を起こし、ブルガリアをギリシャの手駒にする計画は日本とイギリスに潰された。ドイツを操って、ブルガリアの内乱を鎮圧させる方向に導いたのは私……。そう考えれば、ヴェニゼロスが私を恨む理由もありますね」
私がそう答えて再びため息をつくと、
「ただ、ジュリアン・ベルナールの正体が判明したからと言って、どうということはありますまい」
広瀬さんが慰めるように私に言う。
「MI6と協力し、奴をルーマニアから引きはがす策を立て、それを粛々と実行するのみです」
「甘い、甘いですよ、広瀬さん」
私はそう応じると、頭を2、3度横に振った。
「暴走しちゃう人たちが日本にいるから、それを何とかして止めないといけません。伊藤さんや西郷さんは、ギリシャとルーマニアの大使に抗議しに行きかねないし、桂さんと後藤さんと山本国軍大臣は、原さんや西園寺さんと組んで、ギリシャとルーマニアに対する非難決議を帝国議会で成立させて……いや、もっと突っ走ったら、両国に対する経済制裁をやりかねません。ああ、でも、陸奥さんが一番問題だわ。あの人、国際連盟の吉田さんを巻き込んで、世界的規模で経済制裁を仕掛けかねない。そうなったら、私、どうしたら……」
私がうつむいてブツブツ呟いていると、
「恐れながら、前内府殿下」
今回の任務成功の立役者である石原さんが私を呼んだ。
「一連の任務を遂行して、1つだけ気にかかることがあるのです」
「気にかかること……ですか?」
顔を上げて問うた私に石原さんは、
「はい、どうも、ルーマニアにいた黒鷲機関の連中の数が、少なすぎるように思うのです」
と、首を傾げながら言った。
「それは、あなたの策略がうまく行ったからではないのですか?」
私が反問すると、石原さんは「それにしても、です」と応じる。
「奴らがルーマニア国内で、離宮の警備以外の任務に従事しているのかとも考えましたが、その様子はありませんでした。では、セルビアとオーストリアではなく、他の国に出国したのかと思いましたが、ルーマニアを出た黒鷲機関の連中は、全員、セルビアとオーストリアに入国していました。MI6側ともこの点について協議しましたが、向こうは“問題ない”という見解でした。しかし、俺はどうも、ルーマニアに残っていた黒鷲機関の連中の数が少なすぎるように思ってしまって……」
顔を少ししかめながら話す石原さんに、
「もしかすると、我々が策略を仕掛けたのとちょうど同じころに、ルーマニアの黒鷲機関も外国での作戦を考えていて、その作戦を遂行するための人員が、我々の策略に踊らされた人員がルーマニアを出国するのと同じころにルーマニアを出国し、セルビアかオーストリアに入ったと……?」
広瀬さんがこう問いかける。
「その可能性もありますし、セルビア・オーストリアを通り抜けて別の国に行った可能性もあるかもしれません」
石原さんは広瀬さんに応じると一礼した。「いずれにしろ、ルーマニアを出国した黒鷲機関の連中の行方は、最後まできちんと追うべきかと思います。これは、俺の勘でしかないのですが……」
「石原君の勘は当たるからなぁ」
広瀬さんは両腕を胸の前で組んで苦笑する。「だが、確かに君の言う通りだ。ルーマニアを出国した黒鷲機関の連中の足取りを追うよう、あの辺にいる職員たちに命じておこう」
「ありがとうございます」
広瀬さんにお礼を言った石原さんは、クルリと私の方を向くと、
「前内府殿下、そろそろ、仙洞御所に向かわれる方がよろしいかと」
と私に進言した。
「そろそろこちらを出発なさらないと、痺れを切らした上皇陛下が、こちらに電話を掛けていらっしゃるかもしれません。その前に前内府殿下から仙洞御所に一報をお入れになって、仙洞御所に向かわれる方がよろしいかと」
「その通りね。急がないと、兄上、鬼のように電話を掛けてくるわ。いや、……もしかしたら、庭伝いにこっちに来ちゃうかも。そうなる前に止めなきゃ」
私は慌てて椅子から立ち上がると部屋を出て、私に付き添っている盛岡町邸の職員さんに、仙洞御所に連絡を入れるよう頼んだ。こうして、石原さんと私の読み通り、私のことを待ちくたびれた兄が庭伝いに鞍馬宮邸に向かうという事態は回避された。




