春節観兵式事件
1932(昭和4)年2月13日土曜日午後1時15分、皇居・表御座所にある内大臣室。
「それでは、上皇陛下は、お風邪からご回復なさって……」
私は今、かつての仕事場の1つである内大臣室の来客用の椅子に座って、自宅から持参したお弁当を食べている。私の前に座っているのは現在の内大臣・牧野伸顕さんだ。梨花会がある毎月第2土曜日は、私は午前中のお上の政務に同席した後、牧野さんと一緒に内大臣室に入り、梨花会が始まるまでお昼ご飯を食べながら、彼とお喋りをすることにしていた。
「はい。昨日、臨時の往診をして診察したら、風邪はきれいさっぱり治っていました」
牧野さんの言葉に応じた私は微笑した。
「まぁ、兄上についている侍医さんたちが、しっかり治療していますからね。治るのは当然です。だから、私が臨時往診をしなくてもいいんですけれど、兄上が倒れてから初めての病気らしい病気だったので、私、動揺してしまって……。水曜日の帰り際、つい、“金曜日にまた診にくるからね”と兄上に言ってしまいました。後で大山さんに“過保護すぎる”と言われてしまいましたけれど」
「それは当然のご発言であり、ご行動であったと思いますよ」
苦笑した私に、牧野さんはこう言った。
「“史実”のご寿命を超えて過ごされているだけに、上皇陛下は、ちょっとしたきっかけで亡くなってしまうのではないかと考えてしまうことが、正直、私にもあるのです。まして、顧問殿下は、上皇陛下の御妹君であらせられますから、他人よりご心配が増すのは当たり前のことでしょう」
「牧野さん……」
私は牧野さんに笑顔を向けた。
「そう言ってもらえると、少しホッとします。……やっぱり、梨花会が始まる前、梨花会の古参の面々じゃなくて、牧野さんとお昼ご飯を食べることにしてよかったです。だって、これが大山さんや伊藤さん相手だったら、“修業が足りない”って言われてお説教されるところですよ」
「それはないと思いますが……ただ、あの方々が、顧問殿下を可愛がるあまり、顧問殿下への当たりが厳しくなりがちなのは確かですね」
私の愚痴に答えた牧野さんはクスっと笑うと、
「ところで……“史実”と違い、この時の流れは平和に過ぎていますね」
やや真面目な表情になって私に話しかけた。
「そうですね。“史実”で満州事変が起こったのが、去年の9月でしたっけ。その後も、軍によるクーデターが発覚して……お上が襲撃される事件も起こったんでしたっけ」
私がお茶を一口飲むと、
「観兵式からの還幸の途上で、手りゅう弾が車列に投げつけられたという、“桜田門事件”ですね。斎藤閣下と山本大佐によると」
牧野さんは少し顔をしかめて補足する。
「幸い、クーデターや陛下の暗殺未遂も、警察や院による取り締まりのおかげで、発生することはありませんでしたが……。しかし、“史実”ではこれから、血盟団による要人暗殺テロや、五・一五事件もあります。心しなければなりません」
「牧野さんの言う通りですね。今のところ、国軍の中にも民間にも、過激な思想を持っている人はいないですけれど、国民の不満が何かの拍子で爆発する可能性はゼロじゃないですし、国家の要人に殺意を抱く人が出てくる可能性もゼロではないです。暴力事件の発生は、更なる暴力事件につながってしまいます。なるべく発生させないようにしないと」
私がそう言った時、牧野さんが使っている事務机の上にある電話のベルが鳴った。思わず立ち上がり、電話を取ろうとした私を、「顧問殿下、私がいたしますから」と押しとどめると、牧野さんは事務机のそばに動き、受話器を取った。
「はい、牧野です。ああ、幣原閣下……は、何ですと?!」
電話に応対していた牧野さんの声が、突然、緊迫したものに変わる。
「総理には……あ、伝わっていますか。すると、今日の梨花会の議題には、この件が追加になりますね。……分かりました。梨花会が始まる前に、陛下には私から奏上します」
受話器を置いた牧野さんの顔は、明らかに強張っている。何かよくないことが起こったのは間違いないだろう。私は身構えながら、「牧野さん、何が起こったのか聞いてもいいですか?」と尋ねた。
「先ほど、清の北京で、光緒帝の馬車の車列が襲撃されたとのことです」
私に答えた牧野さんの額には、脂汗が光っていた。
「?!」
「恐らく、詳しいことは、この後の梨花会でも幣原閣下から報告があるでしょうが……私は陛下に、事件発生のことを奏上して参ります。顧問殿下、後で牡丹の間でお会いしましょう」
「分かりました」
返事をした私に一礼すると、牧野さんは内大臣室を後にする。彼の背筋が緊張しているのが、後ろから見るとよく分かった。
1932(昭和4)年2月13日土曜日午後2時、皇居・表御殿にある牡丹の間。
「それでは、梨花会を始めます。まずは予定の議題を……と申し上げたいところなのですが、先ほど、重大なる事件の報が入りましたので、先にそちらの報告をさせていただきます」
司会を務める内閣総理大臣の桂さんが大仰な仕草で頭を下げると、「幣原君」と声を掛ける。それに応じて外務大臣の幣原喜重郎さんが立ち上がり、資料を手に事件の概要の説明を始めた。
「今から1時間ほど前になりますが、清の首都・北京で、北京郊外で行われた観兵式に臨席して紫禁城に戻ってきた光緒帝の馬車列に、手りゅう弾が投げ込まれました。手りゅう弾は光緒帝に付き従っていた宮内大臣が乗る馬車の近くで爆発しましたが、馬車は破損せず、死者・怪我人ともにいませんでした」
(死者・怪我人ともになし……ってことは、光緒帝が暗殺されたり、怪我をしたりという事態は免れたというわけね)
私が胸をなで下ろした瞬間、
「犯人は直ちに捕らえられました。どうやら朝鮮人のようです」
更に報告を続けた幣原さんはこう言って一礼した。
と、
「不勉強で申し訳ないのですが……」
枢密顧問官の1人、高橋是清さんが右手を挙げた。
「この時期になぜ観兵式が行われているのでしょうか?確か、清の建国記念日は5月15日ですし、光緒帝の誕生日とも違う気がするのですが……」
「春節ですね」
高橋さんの質問に、幣原さんがサラっと回答する。「清では日本と同じくグレゴリオ暦が使われていますが、旧暦の正月・春節を盛大に祝う習慣が残っています。このため、日本の国軍始観兵式と同じように、春節の数日後に春節観兵式をすることになっているのです」
「そう言えば、清ではそういう習慣があったね。皇太子だったころに清を訪れた時、皇帝陛下に教えていただいた」
幣原さんの言葉を聞いたお上がこう言うと、「そう言えば」「知らなかった……」などという声が一同から漏れる。けれど、その中で、斎藤さんと山本航空大佐だけは、緊張した顔のまま黙り込んでいる。2人のまとう異様な雰囲気が気になって、
「あの……斎藤さんも山本大佐も、どうしました?」
私は彼らに向かって尋ねた。
「はい。……これは、“史実”の桜田門事件と同じではないかと」
私の問いに、山本航空大佐は緊張した顔のまま答える。彼の隣で斎藤参謀本部長も、「俺もそう思います」と小さな声で言った。
「桜田門事件って、観兵式に臨席した帰りのお上の車列が襲撃されたって事件ですよね。でも、あの事件が起こったのは1月で、今は2月ですよ。どうして今回の襲撃事件が、桜田門事件と同じになるのですか?」
私が反論すると、
「“史実”で桜田門事件が発生したのは、1932年の1月8日……。天皇陛下が陸軍始観兵式に臨席された、そのお帰りの際に発生しました」
斎藤さんは厳しい表情で言う。
「陸軍始観兵式は、この時の流れでは国軍始観兵式に相当します。春節が正月として盛大に祝われる清ならば、春節の数日後に行われる春節観兵式が、我が国における国軍始観兵式……更に、“史実”の我が国における陸軍始観兵式に相当するのではないでしょうか」
続けて発せられた斎藤さんの言葉に、一同に緊張が走る。お上も僅かに顔をしかめた。
すると、
「そう決めつけるのにはまだ早いと思いますよ、斎藤さん」
野党・立憲自由党の総裁である原さんが、牡丹の間の雰囲気に呑まれることなく発言した。
「今回の事件の犯人は朝鮮人らしいということですが、その動機が見えなければ、今回の事件が“史実”の桜田門事件と同一の事象であるという結論は出せません。確か、“史実”の桜田門事件の犯人は、日本の要人を暗殺して朝鮮独立を達成しようとする秘密結社に入っており、その秘密結社の目的のために恐れ多くも天皇陛下を狙ったと、以前、斎藤さんご自身から聞いています。今回の事件の犯人の動機は何ですか?」
原さんの発言に騒めく牡丹の間に、「先ほど、院の広瀬さんに確認しましたが」という、原さんとは違う人物の声が響く。私の右隣に座っている大山さんだ。注目が集まる中、大山さんは普段と変わらない調子で、
「やはり、犯人の目的は、清から朝鮮を独立させるために、光緒帝を暗殺することだったようです」
と言った。
「犯人は、清の要人を暗殺して朝鮮を独立させようと企む秘密結社の構成員です。以前から清の諜報機関に監視されていたようですが、その監視の目を逃れて北京に入り込みました。清の諜報機関は拘束しようと捜査を続けていたようですが、間一髪でその追跡を逃れ、事件を起こしたようです」
「じゃあ、これはやっぱり、“史実”の桜田門事件に相当する事件……」
私が呟くように言うと、
「確か、“史実”の3月には、在中華民国の日本公使を、朝鮮人が上海で襲撃しようとして失敗した事件があったはずです」
山本航空大佐がこう続ける。
「更に、4月29日の天長節の日、上海で天長節の祝賀のために集まった日本の要人たちが、朝鮮人による爆弾テロで多数死傷した事件もありました。この時の流れでは、我が国軍は中国大陸には全く進出していません。ですから、“史実”と同じような事件が、同じように発生するとは一概には申し上げられませんが……」
「それでも、注意を払う方がよいのだろうね。もっとも、この時の流れの朝鮮人たちの狙いは、清から朝鮮を独立させることでしょうから、被害を受けるのは清ということになりそうですが」
枢密顧問官の陸奥宗光さんが、山本航空大佐の言葉を奪うように言う。牡丹の間は、今度は静まり返ってしまった。
と、
「“史実”通りの事件が起こってしまったことに、皆様方が恐れを抱く気持ちもわかりますが、事件が起こってしまった今、大事なのは、この事件の影響を検討することでありましょう。そのあたりについて、何か情報はないのですか?」
末席の方にいた山下奉文歩兵大佐が、右手を挙げて言った。
「確かにその通りだ。山下は冷静だね」
お上は山下さんを褒めると、幣原さんの方を向き、
「朝鮮絡みの事件となると、清では報道管制が敷かれるだろうが、影響はどうなるかな?」
と尋ねた。
「仰せの通り、朝鮮独立絡みの事件となりますので、清の国内ではほとんど報道されないでしょう。現に、8年前の正月、天安門前で朝鮮人が起こした爆弾騒ぎも、発生したのが夜だったこともあり、公にされませんでした。しかし、今回の事件は白昼に、しかも観兵式からの還幸の途上で発生しました。当然、多くの一般市民が事件を目撃したはずです。そして、外国の新聞記者たちも。清の国内での報道は規制できるでしょうが、外国での報道は止められないでしょう」
「清による朝鮮統治が上手く行っていない……それを外国に知らしめてしまうことになりますな」
幣原さんの答えを聞いた伊藤さんが眉をひそめる。牡丹の間は重苦しい雰囲気に包まれた。
「我が国は梨花会が発足した当初から、朝鮮とは関わらぬことを国是としてきた。極東戦争の結果、ロシアが極東方面から手を引いたこと、そして、朝鮮が清に併合されたことにより、朝鮮を狙う国はいなくなり、我が国は安全を保っている」
その重苦しい雰囲気の中でお上が言う。その言葉は、1つ1つ、今までの軌跡を確かめるかのように厳かだ。
「しかし、清による支配が上手く行っていないことを口実に、朝鮮に手を出す他国が出現したら、我が国はどうすればよいのだ?」
お上が口を閉ざすと、牡丹の間に沈黙が訪れる。お上の問いに答えられる者は誰もいなかった。




