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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第86章 1931(昭和3)年処暑~1932(昭和4)年立夏
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スパゲッティと八丁味噌

 1931(昭和3)年8月30日日曜日午前11時40分、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮(ありすがわのみや)家盛岡町邸。

禎仁(さだひと)、このスパゲッティはどのくらい茹でたらいいの?」

 本館1階にある台所では、和服の上に白い割烹着をまとった私の長女・万智子(まちこ)がコンロの前に立っている。栄養学校をこの夏に卒業した彼女は、9月以降も研究生として栄養学校に残り、栄養学の研究をする予定だ。

「この麺なら9分だって聞いた。ちょっと芯が残ってるぐらいがちょうどいいんだってさ」

 万智子の後ろに立った次男の禎仁が姉に答える。我が家は“男子厨房に入らず”などという言葉を実践しているわけではないけれど、禎仁が台所にいるのはかなり珍しい。ただ、万智子が今茹でているスパゲッティは、禎仁が持ち込んだものだから、彼がここにいるのは当然と言えば当然だ。

(私の時代のスパゲッティそのものだぁ……)

 コンロのそばに立った私は、鍋の中のスパゲッティを見つめていた。実は、今生でスパゲッティを見るのは初めてだ。ヨーロッパに行った時にイタリアを回れていれば食べる機会があったのだろうけれど、残念ながら、イタリアを訪問する前に日本に呼び戻された。

(前世で馴染んでいたものが食べられるっていいわね。あ、でも、その前に……)

 懸念事項を思い出した私は、コンロのそばを離れると禎仁の隣に立ち、

「禎仁、このスパゲッティとトマトソース、あのバカたちのお手製なのよね?」

と小声で尋ねた。

「うん、そうだよ」

 軽い調子で答えた次男坊に、

「毒なんかは入ってないわよね?」

私は一層声を潜めて確認した。

「うん、大丈夫だよ。ちゃんと確かめてる」

 明るく答えた禎仁は、

「母上、マリオさんとルイージさんを怖がり過ぎだよ。いくら母上につきまとおうとしてたって言っても、今は無害な料理人なんだし」

とのんきに言う。

「あなたも剣道の試合の後に、突然あのバカに抱きつかれた恐怖を味わえばいいのよ……」

 私が禎仁に言い返した時、

「9分経ったわ!」

時計と鍋を交互に見ていた万智子がコンロの火を止める。万智子の作業を邪魔しないように、私と禎仁は慌てて後ろに下がった。

 万智子は湯切りしたスパゲッティを手早く皿に盛りつけ、あらかじめ作っておいたソースを上からかける。このソースは、炒めた玉ねぎとベーコン、そして少量の唐辛子と塩に、トリノ伯とアブルッツィ公お手製のトマトソースを絡めたものである。私と禎仁も手伝って、万智子と3人でサラダとスパゲッティを食堂に運ぶと、

「うわぁ、すごくいい匂いだ」

食堂で待っていた栽仁(たねひと)殿下が嬉しそうな声を上げる。江田島にある海兵士官学校から帰省している長男の謙仁(かねひと)も、スパゲッティを見て目を輝かせた。昼食の支度を整えた私たちは、食堂の所定の席に座ると昼食を食べ始めた。

(流石だわ、万智子。このスパゲッティ、前世の味と変わらない……)

 私が舌鼓を打ちながらスパゲッティを平らげていると、

「そう言えば、ちゃんと話ができていなかったけど、禎仁は工兵士官学校に進学するんだな」

早くもスパゲッティを食べ終わった謙仁が言った。

「禎仁、なんで工兵士官学校に進学することにしたんだ?楽をしたいのか?」

「違うよ、兄上。楽をしたいからじゃない。それに、今の工兵士官学校には上原閣下がいるから、だらけてなんていられないよ」

 謙仁の問いに反論した禎仁は、

「僕、林学をやりたいんだ」

と謙仁に言った。

「りん……がく?」

 キョトンとした表情で呟いた謙仁に、

「林学だよ、林学。植林について研究したり、水源地としての森林を整えたり……東京帝国大学農科大学に、専門の学科があるんだ」

と禎仁は答える。彼の顔は少し得意げだった。

「僕、臣籍に降下して、士官学校を卒業したら、東京帝国大学で林学を研究したいんだ。だから、林学に関係ある勉強が少しでもできる士官学校に進学したいと思ったんだけど、そうしたら金子の爺が、工兵士官学校がいいって教えてくれた。工兵士官学校では、実地演習でいろんな山に行くし、地形の勉強もするからね。それで、工兵士官学校に進学することにしたんだ」

「そ、そうなのか……」

 弟の弁舌に圧倒されている謙仁に、

「驚いたでしょう?私もよ。でも、まぁ、学びたいことが見つかったからよかったと思っているの」

万智子が苦笑しながら言う。

「そ、そりゃそうだけど……」

 何とか頷いた謙仁は、パッと顔を上げると、

「だけど禎仁、何でその、林学というものに興味を持ったんだ?」

至極当然の質問を弟に投げた。

(?!)

 一瞬慌ててしまった私とは対照的に、

「何か月か前、母上が、森林が治水に果たす役割についての話をしてくれたんだ」

禎仁は普段と全く変わらない様子で答えた。

「その話が面白くて、林学に興味を持ったんだ」

「へぇ……。母上は医学だけではなく、本当に色々なことをご存知ですね」

 弟の言葉を疑いもしない謙仁に、

「確かその話は、昔、ドイツ語の本に書いてあったのを読んだのよね。謙仁の食いつきが余りにもよかったから、もっとちゃんと読んでおくべきだったなと思ったけど、本をどこかにやってしまってね」

私は禎仁と話を合わせてこう言った。

 ……もちろん、禎仁は、心の底から林学をやりたいわけではない。金子さんと、中央情報院総裁の広瀬武夫さんから、“諜報の仕事をやる上での隠れ蓑”としていくつか示された進路のうち、一番興味がある学問をやれるものを選んだだけなのだ。帝国大学に進学すれば、教授の人脈を使って海外に留学することができるので、数年間、禎仁自身が留学先の国で諜報活動に従事したり、他の諜報員たちが潜伏できるアジトを留学先の国に設けたりすることが可能になる。また、宮内省には、“帝室林野局”という、御料林の管理経営を行う部署があるので、帝国大学を卒業した後で宮内省の帝室林野局に就職し、宮内省職員としての表の顔を持ちながら諜報活動に従事できる。私と栽仁殿下、そして禎仁の祖父である有栖川宮威仁(たけひと)親王殿下は、禎仁が選んだ進路の裏事情を知っているけれど、万智子と謙仁はもちろん知らないので、家族の会話の中で、禎仁の進路のことに話が及んだ時は、こうやって、禎仁の真の目的を隠すのに協力することになる。

倫宮(とものみや)殿下も去年おっしゃっていたけれど、顧問に上原閣下がいらっしゃるから、工兵士官学校に進学するのは、決して楽な道ではないね」

 今まで黙って私たちの話を聞いていた栽仁殿下が穏やかな声で言う。すると、謙仁も禎仁も背筋を伸ばした。

「禎仁、工兵士官学校に進んでも、手を抜かずに励むんだよ」

 栽仁殿下の言葉に、禎仁は素直に「はい、父上」と返した。


 1931(昭和3)年9月4日金曜日午後5時30分、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸。

「ほ、本日は、我々をお招きいただき、誠にありがとうございます」

 応接間の長椅子に腰かけた私の前には、軍医大尉の白い正装に身を包んだ青年と、家紋が入った水色の和服を着た小柄な女性とが、緊張した表情で並んで座っている。青年の方は、国軍軍医学校の教職員である半井(なからい)久之(ひさゆき)軍医大尉。そして、女性の方は、2日前に彼と結婚した半井(さだ)さんだ。硬い声で私にお礼を言ったのは、夫の半井軍医大尉だった。

「2人とも、楽にしていいよ。……って言っても、無理かしら」

 苦笑いを顔に浮かべた私は、

「初めまして、貞さん。章子といいます。あなたのご主人には、いつもお世話になっています」

と貞さんにあいさつする。

「そ、そんな、もったいない……」

 顔を更に強張らせた貞さんはサッと下を向き、

「ご……ご高名な宮さまにお目にかかることができ、恐縮しております……」

と小さな声で答えた。

「あー、貞さん、頭を上げてもらっていいかしら」

 これでは、彼女の顔がよく見えない。私が頼むと貞さんは「は、はい」と返事をして、ゆっくりと頭を上げる。彼女の卵型の顔を私はじっと観察した。

(うーん……?)

 私は貞さんの顔と、記憶の彼方から何とか引っ張り出した前世の曾祖母の顔を比較する。前世の曾祖母は、私が生まれる前に亡くなってしまったので、実際に会ったことはない。しかも、前世の曾祖母の写真は全て、彼女が初老の域に達してからのものだったので、20歳そこそこの貞さんの顔と、前世の曾祖母の顔が同じものなのかどうか、全く判断がつかない。

(あとは、前世のひいばーちゃんの血縁者、つまり、前世のじーちゃんやパパと、貞さんに似通ったところがあるかだけど……)

 私が更に記憶を引っ張り出そうとした瞬間、

「あ、あの、殿下。妻の顔に、何か……?」

半井大尉が恐る恐る私に尋ねた。

「ああ……ごめんなさい。貞さんの顔がきれいだから、つい見とれちゃってね」

 人の顔をジロジロ見るのは失礼だ。私が慌てて取り繕うと、

「まぁ……お美しいことで知られる宮さまに、そんなことを言われるなんて……」

貞さんはサッと頬を赤らめて、再び下を向いた。

「……繰り返しになるけれど、2人とも、私に気を遣わなくていいよ。半井君は昔からの知り合いだし、お母様が亡くなった今は、私がお母様の代わりに半井君を見守っているつもりでいるの。だから、あなたたち2人とは家族みたいなものよ」

 私の言葉に、2人は同時に頭を下げる。そして、

「わ……私が子供時代から憧れていた宮さまに、そんな風におっしゃっていただけるなんて……」

貞さんは身体を震えさせながら私に言った。

「子供時代からの憧れ、か……。そう言ってもらえるのは、少し嬉しいわね」

 私が微笑んで答えると、

「はい。私が小学校に上がってすぐ、明治天皇が崩御され、宮さまが内大臣にご就任なさいました。もっと大きくなってから、宮さまのご経歴を知る機会がありまして、内親王でありながら医師となり、国家を守るために軍人となり、貴族院議長や内大臣などの要職を歴任なさった素晴らしい方だということを改めて知りました。残念ながら、宮さまのような女性を悪し様に言う方もいらっしゃいますし、私の女学校時代の教師の中にもそういう方がいらっしゃいましたけれど、でも私は、宮さまのような社会に通用する女性になりたいと思って、看護師になりました」

貞さんは一気にこう言った。うつむいたままだったけれど、彼女の言葉の端々からは、熱い想いが感じられた。

「確かにいるわね、私みたいな人を攻撃する人たち」

 私はそう言うと苦笑いする。女性は家庭に入り、夫に仕えて一生を終えるべきだと主張する人は、やはり私の時代より多い。彼らが“働く女性”の先駆け的な存在である私のことを苦々しく思っていることは、その言説から推測できるのだけれど、彼らは私を直接攻撃することは避け、一般の働く女性をターゲットにして批判を繰り返しているのだ。彼らの主張の中には、単なる誹謗中傷になっているものも多いと聞いている。

「……だけど、私、こういう生き方をしてきたこと、後悔はしてないわ。批判したい奴には、批判させておけばいいのよ。そんな奴に、他人の人生を動かす権限なんてあるはずがないから」

 私が微笑んで言った時、

「あ、あの、殿下、よろしいでしょうか」

半井君がおずおずと右手を挙げた。

「話が変わってしまうようで申し訳ないのですが……僕は14日まで、結婚休暇を取ってしまって本当によいのでしょうか?」

「あ、ああ……そうね」

 考えてみれば、今の話題は、結婚のあいさつの場にはふさわしくない。私は軽い咳ばらいをすると、

「もちろん、取っていいのよ。勤務規定にも、ちゃんと明記されているもの」

半井君に向かって頷いた。

「奥さまと長い時間2人きりになる機会なんて、長い人生の中で、少ししかないかもしれないからね。この機会に、ちゃんと思い出を作るべきよ」

 私が断言すると、半井君と貞さんは顔を見合わせる。2人とも、明らかに困惑していた。

「あ……ごめんなさい。変なこと、言っちゃったかしら……」

 頭を下げた私に、「あ、いえ、そうではなく……」と半井君は返し、更に、

「実は、休暇中に、名古屋にある僕の両親の墓にはお参りしようと思っていたのですが、それ以外には、何も考えてなくて……」

バツが悪そうな顔をして続けた。

「いや、それも大事だと思うわ」

 私は胸をなで下ろしながら応じると、

「でも、お墓参りだけじゃなくて、名古屋の名所を見て回るのもいいかもね」

と付け加えた。

「熱田神宮にお参りしてもいいだろうし、足を伸ばして京都や伊勢に行くのもいいかもしれない。もちろん、遠くに行かなくても、自分の家でゆっくり過ごすのだって、いい思い出になるかもしれないしね」

 私の言葉に、

「そうですね……。分かりました。少し、考えてみます」

半井君は首を縦に振った。その隣では、貞さんが少し頬を赤らめてうつむいている。そんな2人に、

「あ、そうだ。名古屋に行くなら、八丁味噌を買ってきてほしいな。代金はちゃんと支払うからさ」

前世の名古屋の味を愛する私は、こう頼むのを忘れなかった。

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最後の一言で全て台無しに(笑)。
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