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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第85章 1930(昭和2)年処暑~1931(昭和3)年夏至
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乗馬

 1930(昭和2)年9月2日火曜日午前10時23分、東京市京橋区築地4丁目にある国軍軍医学校の校長室。

「そんな……」

 提出された書類の決裁をしていた私は、手にした書類のタイトルに目を通すと、こう呟いてしまった。

「殿下、どうなさいましたか?」

 私の声に反応して椅子から立ち上がったお付き武官の奥梅尾(むめお)さんに、「ああ、大丈夫、何でもないから」と返すと、私は心を落ち着けてから、再び書類を読み始めた。その書類は、軍医学校の教職員・半井(なからい)久之(ひさゆき)軍医大尉から提出されたものだ。“名古屋に住んでいる母が亡くなったため、休暇を取る”……書類にはそのような意味のことが記載されていた。

(半井君のお母様……)

 書類を机の上に置くと、私は半井君と初めて会った時のことを記憶から呼び起こした。私が半井君の家にお邪魔した時、半井君のお母様が家にいた。確か、大家さんの奥さんに“お京さん”と呼ばれていたはずだ。半井君が3、4歳の頃に夫を亡くしてから、彼女は幼い半井君と、母1人子1人で慎ましい生活を送っていた。

(他に親戚がいるという話は聞いたことがないから、お母様が亡くなったということは、半井君は天涯孤独の身に……)

 今月の終わり、半井君は婚約者の高田(さだ)さんと結婚することになっていた。しかし、お母様が亡くなったなら、その結婚は延期せざるを得ないだろう。それに、お母様の葬儀のことなどで、半井君が何か困った事態に直面しているかもしれない。心配になった私は、半井君が勤務に復帰してから数日経った夜、彼を盛岡町の家に招いて話を聞くことにした。

「……母が亡くなったのは、突然でした」

 盛岡町邸の応接間の椅子に腰かけた半井君は、私の問いに、うつむいたまま話し出した。

「9月1日のお昼前に、“頭が痛い”と言って倒れたそうです。通いで母の家事を手伝ってくれていた女性が、急いで母を病院に運んでくれたのですが、病院に着いた時には、母は息絶えていたそうです。死因は脳溢血ではないかと、病院の医師に言われたとのことで……」

「そうだったのね……」

 相槌を打った私に、

「母は、今月の末に予定していた僕の結婚式に出るのを、とても楽しみにしていたようです。礼服も、仕立てていたようで……。ですが、僕の妻になった貞さんを母に見せることは、叶わなくなりました。縁談が調ったばかりの頃、母は上京して、貞さんと会ってはいたのですが……」

半井君は話を続ける。彼の台詞の最後の方には、すすり泣きが混じっていた。

「僕が軍医になったので、母には楽をさせてあげられた……とは思います。ですが、名古屋に赴任する機会に恵まれませんでしたから、母に寂しい思いをさせてしまっていました。それが……それが、悔やまれて……」

「きっと、お母様にとって、半井君は自慢の息子だったに違いないよ」

 涙を流す半井君に、私は優しく言った。

「奨学金を取って中学に進んで、軍医委託生になって高校に進学して、軍医になったんだ。それだけで、お母様は半井君のこと、誇らしく思ってたんじゃないかしら」

「そうでしょうか……そうだったら、嬉しいですが」

 半井君は涙をハンカチーフで拭いながら言うと、

「僕は、殿下のお導きに従って、努力をしてきただけですのに……もったいないことです」

と続け、また涙を拭った。

「私が整えた道もあったかもしれないけれど、最終的に、その道を強い意志で選び取ったのは君自身だよ。……医師になる道は、生半可な決意では進めない。その険しい道を選び取って、きちんと前に向かって進めたことは、十分に誇っていいと思うわ」

 私の言葉に、半井君は黙って頷くと、顔を上げて私を見つめ、

「ありがとうございます、殿下。泉下の母に、胸を張って誇れるよう、これからも精進いたします」

と、強い口調で誓った。

「そう。……身体に気をつけて、頑張ってね。何か困ったことが起きたら、力になるから遠慮なく言ってちょうだい」

 母の死という大きな悲しみを乗り越えて前へ進んで行こうとする後輩を全力で応援することを、私は心の中で誓った。


 1930(昭和2)年9月25日木曜日午後2時32分、赤坂御用地内の馬場。

「……本当に大丈夫ですかね?」

 馬場の敷地の端で、心配そうに呟いた黒いフロックコートの男性は、兄のご学友の1人である甘露寺(かんろじ)受長(おさなが)さんだ。宮内省に入った後、侍従として兄に仕え続けていた彼は、昨年の奥保鞏(やすかた)さんの急逝後から、上皇侍従長の職にあった。

「大丈夫ですよ」

 甘露寺さんに明るく答えたのは、水色のデイドレスを着た節子(さだこ)さまだった。彼女の隣には灰色の背広服をまとった兄がいる。右手に杖を持った兄の表情は、心なしか緊張していた。

「そうですかね……」

 節子さまに不安げに応じた甘露寺さんは、兄の後ろを振り返り、

「なぁ、南部はどう思う?」

自分と同じく兄のご学友の1人である、上皇武官長の南部利祥(としなが)さんに聞いた。

「今回使うのはひき馬だ。それに、特別おとなしい馬だから、突然暴れ出して馬上の陛下を振り落とすなどということはないさ」

 専門兵科が騎兵である南部さんは、落ち着いた口調で甘露寺さんに答えると、今度は兄の方を向き、

「唯一懸念いたしますのは、陛下が、馬に走るよう指示なさってしまうことです。この馬は、普通に走れるようにも調教してありますから、万が一、陛下が走るように指示なさってしまいますと、突然暴走し始める恐れがあります。恐れながら、今の陛下では、走っている馬を止めることはできません」

とズバリ進言した。兄が怒り出してもおかしくない言葉だけど、兄と南部さんは、君臣の間柄ではありながら、心を許し合った親友でもある。

「南部の言う通りだ。心しよう」

 兄は素直に南部さんの忠告を受け入れ、頷いた。

 ……兄が病に倒れ、左足が不自由になってから、2年の月日が流れた。倒れてからの2年間、兄は馬に近づくどころか、馬場に行くこともなかったのだけれど、葉山で避暑をしていたこの夏、

――馬に乗ってみたいとは思うが、この身体では、もう乗ることはできないな……。

節子さまと一緒にリハビリ代わりの散歩をしていた時、遠くで一般の避暑客が馬に乗っているのを見て、兄はポツリと呟いた。

――そんなの、やってみなければ分からないではないですか!

 兄の呟きを拾った節子さまは、すぐさま兄に強く言い返したけれど、

――馬にお乗りになれたとしても、今の上皇陛下では、走る馬を止めることはできません。万が一、上皇陛下が落馬なさったら……!

甘露寺侍従長は節子さまに猛反対した。しかし、

――ひき馬に……人が手綱を持って歩かせている馬に乗るだけだったら大丈夫じゃない?

数日後、事情を聞いた私がこう言ったことや、

――(さきの)内府殿下がおっしゃる通りです。もちろん、馬に乗る時に工夫は必要ですが、おとなしいひき馬にお乗りになるのは問題ないでしょう。

南部武官長がこう進言したのもあり、兄の2年ぶりの乗馬計画は着々と進められ、今日、ついに実行されるに至ったのだ。

 馬場に設置された朝礼台のような台の階段を、兄は手すりにつかまりながら慎重に上がる。台のすぐそばに馬が付けられ、兄はその馬の鞍に、甘露寺さんと南部さんの助けを借りながらゆっくりと跨る。馬丁(ばてい)に引かれて動き出した馬を、甘露寺さんと南部さん、そして私は歩いて追った。

「どう、兄上?」

 私が馬上の兄に話しかけると、

「ああ、いいな……とてもいい」

兄は前方を見据えたまま、感慨深げに言った。

「この視線の高さ……馬に乗った時にしか味わえない。また馬に乗れるとは、思ってもいなかった。嬉しい……本当に嬉しいぞ」

「それはようございました」

 兄の言葉を聞いた南部武官長が嬉しそうに応じる。「今日の試みが上手く行けば、上皇陛下の普段のリハビリの一環として、乗馬を取り入れてもよいかもしれないと侍医が申しておりました。前内府殿下にもご相談しながらにはなりますが、今後、ご乗馬の機会を増やしていければと考えています」

「ああ、これはいいリハビリだ」

 南部さんに兄は答えた。「元気だったころと比べると、疲れ方がまるで違うのだ。乗馬から2年以上離れていて、乗馬で使う筋肉が衰えたのも原因だろうが、思う通りに姿勢が保てないのだ。左足が上手く動かないからだな。……だから、甘露寺が、俺が落馬してしまうかもしれないと恐れるのは無理もないよ」

「偉そうなことを申し上げてしまい、申し訳ありませんでした」

 兄の乗った馬の後ろをついて歩きながら頭を下げた甘露寺さんに、

「別に気にしていないよ。甘露寺の心配はもっともだ。今、俺が調子に乗って馬を走らせようとしたら、馬から落ちる可能性が高いからな」

兄は穏やかな口調で言う。そして、馬上からの風景を、目を細めて眺めていた。

 馬場を一周して台のそばまで戻って来ると、兄は再び甘露寺さんと南部さんの助けを借り、馬の鞍から離れた。

「いかがでしたか、嘉仁(よしひと)さま?」

 台に備え付けられた階段をゆっくり下りていく兄に、節子さまが待ちきれずに問いを浴びせる。

「ああ、とてもよかったよ」

 階段を下りきると、兄は節子さまに笑顔を向けた。「馬に乗る楽しさを、久しぶりに味わうことができた。この馬も、不慣れな俺を気遣って、おとなしくしてくれていた。本当に……本当にありがたいよ」

 節子さまから杖を受け取ると、兄は先ほどまで自分を乗せていた馬に近づく。左手で愛おしそうに馬を撫でる兄の顔からは、強張りが完全に消えていた。

「ただ……自分で馬を操るのは無理だな。左足が上手く動かないから、適切な指示を出せない」

 馬から左手を引き、ふっと顔を暗くした兄に、

「横乗りで馬に乗るのはダメなの?」

と私は提案してみた。

「横乗りなら、鞭も使って馬に指示を出すから、跨って馬に乗るより指示が出しやすいかもしれないわ。それに、馬具を工夫したら、跨って馬に乗っても、指示を出しやすくなるかもしれないし」

私の言葉を聞いた兄は目を瞠ったけれど、やがて、表情を緩めると、

「そうか……その通りだな。俺が馬に乗るために工夫できることは、探せばまだまだあるだろう。天皇の位を退いたのだから、時間はたっぷりあるのだ。少しずつ、試行錯誤を重ねていこう」

そう言って、私の頭を撫でた。

「よし、そう来なくっちゃ。面白くなってきたぞ」

 嬉しそうに言った甘露寺侍従長に、

「お前……先ほどまで、上皇陛下のご乗馬をあれだけ心配していたではないか」

南部武官長が呆れた顔でツッコミを入れる。

「今でもご乗馬が安全にできるって分かったから、ホッとしたんだよ」

甘露寺さんはツッコミをものともせず、南部さんに言い返す。

「私は上皇陛下がご乗馬なさっているのを見るのが、本当に大好きだからな」

「それは私だってそうだ。昔から上皇陛下はご乗馬がお得意で……上皇陛下のご乗馬姿を拝見すると、本職であるはずの私の馬術のまずいところを自覚させられてしまって、頑張って上皇陛下に追いつこうと練習したものだ」

「ああ、南部は御学問所時代からそうやって馬術を猛特訓していたな。とても私にはできないと思ったよ」

「甘露寺の根性がないだけだ。どうだ、今からでも、私と一緒に馬術の特訓をするか?」

「遠慮しとくよ。南部の教え方は容赦がないから、身体がもたない」

 甘露寺さんと南部さんは、御学問所で兄と共に学んでいた時と同じように軽口を叩き合う。そんな2人のやり取りを聞いていた兄は微笑すると、私と節子さまに視線を向け、

「ありがとう、節子、章子」

感謝の言葉を口にすると頭を下げた。

「2年前、病気で左足が動かなくなった時は、できなくなったことが多すぎて、これからどうすればいいのかと不安だった。しかし、節子と章子のおかげで、再びできるようになったことがだんだん増えている。……俺は今、幸せだよ」

「ありがとうございます、嘉仁さま」

 節子さまは兄に頭を下げ返したけれど、

「でも、これで終わりではありませんよ」

頭を上げると、兄に笑顔を向けた。

「嘉仁さまのできることをもっと増やして、もっと幸せになっていただかなければ。……ね?」

 節子さまはこう言うと、悪戯っぽい視線を私に送る。私はそれに「だね」と応じると、節子さまの眼を見つめて頷いた。

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